スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

施設整備協賛小田原城下町音頭杯&ホッブズの自然権

2023-10-16 18:59:56 | 競輪
 小田原競輪場で開催された昨日の小田原城下町音頭杯の決勝。並びは宿口‐河野‐磯田の関東,北井‐大塚の神奈川に大森で柴崎と山本と久田は単騎。
 大森がスタートを取って北井の前受け。4番手に宿口,7番手に山本,8番手に柴崎,最後尾に久田で周回。残り3周のバックから北井が誘導との車間を開け始め,残り2周のホームの入口では誘導を斬りました。一列棒状のまま打鐘まで進み北井がそのまま先行。バックに戻って宿口が発進。大塚が牽制しましたがそれを乗り越え,直線で北井を差して優勝。後方から外を捲り追い込んだ山本が半車身差の3着。捲った宿口にスイッチした大森が8分の1車輪差で3着。
 優勝した埼玉の宿口陽一選手は昨年の京王閣記念以来となるGⅢ3勝目。このレースは北井が前受けして,後方からの動きがなかったので単調なレースに。単騎の選手が動けなかったのは,北井がかましを警戒して早い段階から後ろの動きを封じたためではあるのですが,そのために北井はオーバーペースとなってしまい,宿口の捲りを許したというレースになりました。一列棒状となっている間はそれほどペースを上げなくてもかましには対応できる筈なので,北井が負けたのは自滅という印象。4番手を確保できていたことが宿口の勝因になるでしょう。

 工藤に対するインタビューに関連する考察はこれで終了とします。
                                        
 このインタビューの後に掲載されているのは,「ホッブズとスピノザにおける「自然権」」という,伊豆蔵好美による論文です。この論文には「イエレス宛書簡を手がかりとして」という副題がついています。ここでいわれているイエレスJarig Jellesに宛てた書簡というのは書簡五十のことです。この書簡の中でスピノザは,ホッブズThomas Hobbesとの間にある国家論の相違について語っています。
 ただしこの論文は,僕がみる限り,スピノザの視点からというよりはホッブズの視点から書かれています。要するに,スピノザが示している国家観は,ホッブズからみるとどのようにみえるのかという観点の方が重視されています。実はホッブズは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んでいて,その読後の感想として,剣の柄までぐっさりとやられてしまったということばを洩らしたとされています。『神学・政治論』に書かれているほど大胆に書く勇気が自分にはないとホッブズは感じたようです。ただこれはその大胆さに驚いたというほどのことであって,必ずしもホッブズがスピノザの国家観に同意したというように解する必要はないでしょう。ただ,ホッブズがスピノザの国家論を全面的に否定するnegareということもまたおそらくないのであって,部分的にスピノザとホッブズの国家観に共通する部分があるのは間違いありません。
 先述した書簡五十の冒頭で,スピノザはホッブズとの相違について,スピノザは自然権jus naturaeをそっくりそのまま残しているという意味のことをいっています。これはつまり,ホッブズは国家Imperiumにおいては自然権というのを残していないという意味です。このこと自体は正しいといえます。つまりスピノザは少なくともこの点に関してはホッブズのことを正しく解していたということです。しかしこの相違に関しては,自然権というもの自体をスピノザとホッブズが異なって解釈していたからだと考えることができます。このことがこの論文の冒頭部分で触れられています。僕はホッブズの国家論そのものについて論じることはできませんが,自然権については考えておきたいことがあります。なのでそのことだけは考察します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋華賞&特有のテーゼ

2023-10-15 19:50:05 | 中央競馬
 第28回秋華賞
 エミューはタイミングが合わずに1馬身の不利。コナコーストが逃げて2番手にミシシッピテソーロ。3番手はフェステスバントとラヴェル。5番手にハーパーとソレイユヴィータで7番手がリバティアイランド。8番手にマラキナイア。9番手にドゥーラとドゥアイズとピピオラ。2馬身差でコンクシェル。その後ろをマスクトディーヴァとモリアーナが併走。2馬身差の最後尾にエミューという隊列。前半の1000mは61秒9の超スローペース。
 向正面で外に出したリバティアイランドは3コーナーを回ると外を捲り上げていき,コナコースト,ミシシッピテソーロ,ラヴェル,リバティアイランドで雁行。直線の入口では捲り切ったリバティアイランドが単独の先頭に。雁行していた馬たちを置き去りにすると後方からの追い込みも凌いで優勝。大外から一気に伸びてきたマスクトディーヴァが詰め寄ったものの1馬身差で2着。リバティアイランドと雁行していた馬たちのすぐ外から脚を伸ばしたハーパーが2馬身半差で3着。マスクトディーヴァの内から追い込んだドゥーラがハナ差で4着。
 優勝したリバティアイランドはこれがオークス以来のレース。これで大レース4連勝となりました。能力は圧倒的だったので,桜花賞のときのような位置取りにならない限りは勝てるだろうとみていました。内回りコースなので安全策を採用して外を回って直線の入口では先頭というレースをしたために,最後は追い込み馬に差を詰められる形になったのですが,こういう競馬で1馬身の差をつけたということは,本来の能力差はもう少しあるとみてよいでしょう。ジャパンカップへの出走を望みます。父はドゥラメンテ
                                        
 騎乗した川田将雅騎手スプリンターズステークスに続いての大レース40勝目。秋華賞は初勝利。管理している中内田充正調教師はオークス以来の大レース8勝目。秋華賞は初勝利。

 働くagereとは能動actioを意味し,働きを受けるpatiとは受動passioを意味します。現実的に存在するある人間の精神mens humanaとその人間の身体humanum corpusは,同じ人間のふたつの側面ですから,ある人間の精神の能動が身体の能動であり,精神の受動が身体の受動であることは当然ですし,身体の受動が精神の受動であり,身体の能動が精神の能動でもあるということも,当然といえば当然です。そしてこの当然のことが,第三部定理二を同一説から証明することの前提条件になります。
 仮に,人間の精神がその人間の身体を何らかの運動motusに決定するdeterminareことができるとしてみましょう。このとき,人間の精神は自分の身体を運動に決定しているのですから能動状態にあることになります。一方で身体の方は,自分の精神によって運動に決定されているのですから受動状態であることになるでしょう。つまり,ある人間の精神が自分の身体を運動に決定するときは,精神の能動に対して身体の受動になってしまうので不条理なのです。よって,ある人間の精神が自分の身体を運動に決定するということは不可能だといわなければなりません。ある人間の身体がその人間の精神を何らかの思惟作用に決定することができないということも,これと同じ論理によって証明することができます。すなわちこちらの場合には,人間の身体の能動がその人間の精神の受動となってしまうからです。このような仕方で第三部定理二は,人間の身体とその人間の精神の区別distinguereが実在的区別であるという平行論の論理に依拠せずに証明することができるのです。
 これは一例ではありますが,この場合のように,人間の精神とその人間の身体は同一物のふたつの側面であるから,一方の能動は他方の能動で,一方の受動は他方の受動でなければならないという類の秩序ordoを設定することで,平行論の論理によって証明されている大概のことは,同一説を用いることでも証明することができます。第三部定理二のような定理Propositioは,人間の精神と身体の間に因果関係が生じないということを,平行論からは直接的に導くことができるので,同一説より優れているのは間違いありませんが,それに特有のテーゼを用いれば,同一説の難点は解消することができます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベストウォーリア&同一説の難点

2023-10-14 19:32:05 | 名馬
 ゴールドジュニアを勝ったクルマトラサンの父は,アメリカで産まれて競走馬として輸入されたベストウォーリアです。
 2歳11月にデビューして新馬を勝利。500万の特別を2戦した後,3歳の2月に2勝目をあげました。兵庫チャンピオンシップに出走して2着になった後,ユニコーンステークスで重賞を勝ちました。ジャパンダートダービーは5着。
 古馬との初対戦となった武蔵野ステークスは3着。4歳になってオープンを勝ち,フェブラリーステークスに出走して13着。5月にまたオープンを勝ち,6月のオープンは2着でしたが7月にプロキオンステークスで重賞2勝目。そして南部杯を制して大レースの勝ち馬となりました。JBCクラシックは5着でチャンピオンズカップホッコータルマエの11着。
 5歳初戦のフェブラリーステークスは3着。かしわ記念は2着。プロキオンステークスを連覇して重賞4勝目。さらに南部杯も連覇して大レース2勝目。この年はJBCスプリントの方に出走して3着でした。
 6歳初戦のフェブラリーステークスは4着。かしわ記念が3着でさきたま杯が2着。三連覇を狙った南部杯は2着でJBCスプリントは2着と,この年は大きく崩れることはなかったものの勝ち星は上げられませんでした。
 7歳も現役を続行。根岸ステークスが2着でフェブラリーステークスも2着。かしわ記念が4着でさきたま杯が3着。秋は南部杯が6着で武蔵野ステークスが7着と,この馬にしては崩れました。
 8歳になって根岸ステークスを出走取消になった後,フェブラリーステークスが10着。かしわ記念が5着でさきたま杯が9着。南部杯も6着と敗れて現役を引退しました。
 7歳の秋以降は能力の衰退がありましたが,それまではきわめて堅実に走りました。1400mから1600mを得意とした馬で,コパノリッキーにはまったく勝てなかったように超一流というほどではないのですが,広くそう思われているよりは高い能力があった馬だったと思っています。

 同一説を採用する場合の難点は,人間が認識するcognoscereことができるのが物体corpusとその観念ideaだけであるとしても,実際にはスピノザの哲学では,それらが実在的にrealiter区別されるということになっているので,このことを利用して証明されているすべての事柄について,それと同様の仕方で証明することが不可能になってしまうということです。この点については心配される方もいらっしゃるでしょうから前もっていっておきますが,これは単にその形而上学を援用して論証することができないというだけであって,別の方法で証明することができます。
 こうしたことをすべての定理Propositioについて説明していくことはできませんから,ここではひとつだけ実例をあげて説明します。
                                   
 僕は平行論を採用することの利点のひとつとして,第三部定理二でいわれていること,すなわち人間の身体humanum corpusはその人間の精神mens humanaを思惟作用に決定するdeterminareことはできないし,逆に人間の精神がその人間の身体を運動motusなり静止quiesなりに決定することができないということを,直接的に帰結させることができるということをあげました。このことは,人間の身体と人間の精神が実在的に区別されるということ,つまり現実的に存在するある人間の身体とその人間の精神の間には因果関係が生じ得ないということから証明されるのです。しかし,同一説を採用すると,人間の身体とその人間の精神は同一物の別の側面ということになっていますから,それらが実在的に区別されるということをいうことはできません。なので同一説を採用して第三部定理二を証明しようとするなら,これとは別の方法が必要になります。そしてそういう方法があるのです。
 現実的に存在するある人間の身体とその人間の精神は,同一物のふたつの側面です。したがって,もしもその人間の身体が働いているのであれば精神も働いているということになりますし,逆にその人間の身体が働きを受けているのであれば,精神も働きを受けていることになります。もちろんこれは逆からもいえます。つまり,現実的に存在する人間の精神が働いているのなら身体も働いていますし,精神が働きを受けているのなら身体も働きを受けているということになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&唯物論と観念論

2023-10-13 18:59:15 | 将棋
 11日に京都で指された第71期王座戦五番勝負第四局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり。桂馬を跳ねて早い段階で戦いになりました。後手の藤井聡太竜王・名人が駒損になった分だけ先手がよくなったようですが,先手は得した駒を自陣に打ち付けたため後手陣を攻略するのは難しく,先手は勝つまでは大変という局面が長引き,その後は一時的に後手が逆転したようなのですが,難解な決め手を1分将棋の中で逃したため,最終的に先手が勝ちという局面に至りました。
                                        
 ここではすでに双方が1分将棋。先手がと金を引いた手に対して後手は☖5二同金と取りました。ここは☖3三金と逃げる方が有力にみえますので,先手はあまり読んでいなかったのではないかと思います。
 読み直しになったかもしれませんがここは☗同成銀と取る一手。これに対して☖5五銀と打ちました。これは後に発生するかもしれない☗4四金の防御にはなっていますが,☖5五金と馬に当てる方が普通でしょうから,これも先手の読みにはあまりなかった手だろうと思います。
 おそらく第1図の時点ではまったく想定してい中なかったあろう局面になった先手は,そこで☗4二金と打つ手を考えました。対して☖2二王なら後で1二に逃げて詰みませんが,これは手順に3七の角を抜けるので先手が勝ちます。これは先手も読み切れたものと思います。取る方も☖同金☗同成銀☖同玉までは一瞬で判断できるでしょう。
                                        
 ここで☗6二飛と打つと☖3三玉と逃げられて詰まないと読んだ先手は☗4二金を断念。☗5三馬と王手をしましたが☖2二玉で後手玉が詰まないので逆転。後手の勝ちになりました。
 第2図は先手の勝ちで,☗5二飛と打てば取ると詰みなので☖3三玉。そこで☗5五馬の王手に☖同角成と取るほかなく,詰みもあるのですが,☗同飛成と取り返して先手玉が盤石になります。つまり詰まさなくても先手の勝ちだったのです。読み切れなくても☗4二金と打ってしまえば第2図には必ず進み,そこまで進めばその過程の中で☗5二飛は発見できた筈です。先手は読み切れない中で悪い方に手が伸びてしまったという将棋でした。
                                        
 藤井竜王・名人が勝って3勝1敗で王座を奪取。王座は初の獲得。これで現存する8つのタイトルのすべてを保持することになりました。現時点ではすべての棋士が参加する4つの棋戦のすべての覇者にもなっていますから,驚異的な記録となります。

 ここでいう哲学的利点というのは,唯物論とか観念論といったものを想定してのことです。僕たちが生きている世界は,物体corpusだけの世界ではありませんし,精神mensだけの世界でもありません。物体と精神は同じもののふたつの側面であるというのが同一説の意味するところだからです。したがって同一説を採用するなら,この哲学が唯物論的なものであるか観念論的なものであるのかという疑問は直ちに解消することができます。スピノザの哲学は唯物論ではありませんし観念論でもありません。あるいは同じことですが,唯物論でありかつ観念論でもあるのです。
 実際の哲学上の唯物論と観念論の対立という観点からみたときは,スピノザの哲学は唯物論との相性の方がよくなっているのは事実だと思います。ですから,唯物論的なものの見方に慣れているのであれば,同一説を採用することにさほどの意義を認めることはできないかもしれません。しかしもし観念論的なものの見方に慣れている場合には,同一説の採用には大いに意義があるといえます。観念論の哲学で観念ideaといわれているものは,観念対象ideatumの別の側面であるというのが同一説が示していることになりますから,観念だけが存在して観念対象は実在しないというような極端な考え方は,スピノザの哲学においてはあり得ないということが理解できるからです。現実的に存在するある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaというのは,ある人間というひとりの人間のふたつの側面です。ですからその人間の身体の中に何かが生じているということは,その人間の精神のうちに何かが生じているということを意味します。もちろん逆に,その人間の精神のうちに何かが生じているということはその人間の身体の中に何かが生じているという意味なのです。ですからその人間について考えるときに,その人間の身体について考えようと精神について考えようと,正しく考えるのであれば結論は一致することになります。そしてこうしたことが,現実的に存在するすべての物体について成立するということになるのです。
 このことは平行論を採用しても成立はします。ただ同一説はこれを直接的に帰結させるのという利点があるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポーツニッポン賞鎌倉記念&同一説の利点

2023-10-12 19:16:50 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた昨晩の第22回鎌倉記念
                                        
 スノーシューは立ち上がるような発馬で1馬身の不利。大外からモンゲースパイがハナへ。外に切り返したサントノーレが2番手で3番手にライゾマティクス。4番手がアジアミッションで5番手にアムクラージュ。6番手はパンセとエドノビートイン。2馬身差でホークマン。9番手はスノーシューとメイプルケンジ。最後尾にカタルシスという隊列。超ハイペースでした。
 途中でペースが緩んだこともあり,向正面のうちにサントノーレがモンゲースパイに並び掛け,3コーナーでは単独の先頭に。モンゲースパイは一杯になってライゾマティクスが2番手に上がり3番手にはアムクラージュ。さらにパンセも追い上げてきました。直線に入ると一旦はライゾマティクスが前に出たようにみえましたが,内からサントノーレが盛り返し,最後は再び差を広げて優勝。ライゾマティクスが2馬身半差で2着。大外から伸びたパンセがアタマ差の3着で,伸びを欠いたアムクラージュは1馬身差の4着。
 優勝した北海道のサントノーレは南関東重賞初制覇。このレースは北海道からの遠征馬が好走する傾向が多く,今年の2頭のうちスノーシューは新馬を勝ったばかりで評価が難しかったのですが,こちらは前走のブリーダーズゴールドジュニアカップで3着でしたから,例年通りなら優勝候補になる1頭。ライゾマティクスが2着だったことを考えると,アムクラージュが意外と走れなかったという感じも受けますが,その他の馬に対してはサントノーレの力が上であったということだと思います。今年の北海道の2歳は例年ほどのレベルにないのではないかとみていましたが,そうでもなかったようです。父は2016年に北海道2歳優駿を勝ったエピカリスで,その父はゴールドアリュール。Saint Honoreは王冠をイメージしたフランスの伝統菓子。
 騎乗した北海道の服部茂史騎手は南関東重賞はこれが初勝利。管理している北海道の田中淳司調教師は南関東重賞は2013年のローレル賞以来となる2勝目。同年には全日本2歳優駿も勝っています。

 第二部公理五にあるように,僕たちが認識するcognoscereのは物体corpusであるか,そうでなければ思惟の様態cogitandi modiですが,この思惟の様態というのは,物体の観念ideaを意味します。つまり,属性attributumでいえば,僕たちが認識するのは延長の属性Extensionis attributumと延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumだけです。実際には僕たちが認識しない無限に多くのinfinita属性があるのであって,それら無限に多くの属性の各々に思惟の属性が対応しています。いい換えれば,延長の属性というのはそうした無限に多くの属性のひとつであって,僕たちはその延長の属性に対応する思惟の属性も認識しているということは理解します。だからといって,延長以外の属性を認識するということはありませんし,延長の属性以外の属性に対応する思惟の属性を認識するということはありません。
 このことから分かるように,僕たちからみれば,神Deusの本性essentiaを構成するのは延長の属性とそれに対応している思惟の属性だけであるとしても,形而上学的な観点を別にすれば何も問題は生じません。そもそも延長以外の何らかの属性を抽出して,その属性について考察するということは,現実的に存在する人間にとっては不可能なことになっているからです。よって,第二部定理七備考にあるように,思惟の実体substantiaと延長の実体は同一の実体であって,それと同じように,ある物体とその物体の観念は同一物であり,その同一物が物体という側面および物体の観念という別の側面から同一の実体によって表現されているという同一説が,ここでは有効になるのです。
 同一説を採用すれば,現実的に存在する物体にはその観念があるということが直ちに帰結します。同様に,ある物体の観念が十全に認識されるなら,その観念対象ideatumとなっている物体も知性intellectusの外に存在するということが直ちに帰結します。あるいは同じことですが,事物の形相的有esse formaleが存在するならその事物の客観的有esse objectivumも存在し,事物の客観的有が存在するのであればその形相的有も存在するということが直ちに帰結します。よって,事物の形相的有だけが存在するとか,事物の客観的有だけが存在するといった見解opinioについては直ちに排除することができます。このことが同一説の哲学的な利点になるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧島酒造杯女流王将戦&同一の実体

2023-10-11 19:08:18 | 将棋
 7日に霧島ファクトリーガーデンで指された第45期女流王将戦七番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女流王将が7勝,香川愛生女流四段が1勝。
 霧島酒造の社長による振駒は歩が3枚で西山女流王将の先手。初手をなかなか指さなかったのですが,☗7六歩☖3四歩に☗8六歩でした。結果的に先手の向飛車に後手の香川女流四段が居飛車。互いに金銀4枚の銀冠穴熊という戦型に進みました。
 この将棋は中盤の戦いに入った直後に先手に一失があり後手がリード。ただ,まだ中盤が終わらないうちに後手が時間切迫となったこともあり,先手が盛り返していくことになりました。
                                        
 ここはもう互角に近い形勢。ここで☖6六馬と指したのですが,これが悪手で先手に逆転を許しました。ここは☖6八角成と8六の角を成るべきでした。
 先手は☗4四歩☖同飛としてから☗8七飛。ここで☖5九角成としたのも悪く,せめて☖3一角と引いて粘るべきでした。
 飛車も角もいなくなったので☗5三歩成が実現。後手も☖5六歩☗5四金☖5七歩成でと金を作りました。
                                        
 第2図ですぐに☗4四金と取るのではなく☗5七飛☖同馬とと金を払ってから☗4四金が好手順。これで先手だけと金が残って勝勢となりました。
 西山女流王将が先勝。第二局は17日に指される予定です。

 スピノザは平行論と同一説が相反するものではなく両立するものであるというのではないかと推測したときにいったように,スピノザの哲学では神Deusの形相的本性essentia formalisが無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されているという観点からみたときは同一説となり,それら無限に多くの形相的本性からひとつを抽出したときは平行論になります。第二部定理七備考の当該部分は,延長の属性Extensionis attributumの様態modi,主に物体corpusとその物体の観念ideaについて説明しているので,同一説よりも平行論として解釈する方がよいといえるかもしれません。ところが,この場合はそうともいえないのです。
 この部分は,神の形相的本性が無限に多くの属性によって構成されているということを無視しても成立します。物体と物体の観念が同一物であるということは,延長の属性と延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumだけがあるとしても成立するからです。とくにその直前に,延長する実体substantiaと思惟する実体は同一の実体であるといわれていることからして,ここではこれらふたつの属性だけが念頭に置かれているということは明らかだといっていいでしょう。ですからこれは平行論として解釈することはできますが,同一説としても解釈することができるのです。なぜなら,もしも神の形相的本性が延長の属性で構成されていて,それに対応する思惟の属性があるということであれば,これは延長の属性が無限に多くの属性に対応しているのであって,抽出されているわけではないからです。よって,神の形相的本性が無限に多くの属性によって構成されるという観点からみた場合に同一説として考えられるのと同じ理由によって,延長の属性だけが神の形相的本性を構成しているのであれば,延長の属性とそれに対応する思惟の属性の関係も,同一説として考えられることになるのです。
 同一説を採用するときの利点は,この点に由来すると僕は考えます。というのは,確かに神の本性essentiaは無限に多くの属性によって構成されていて,神は必然的にnecessario存在するのですから,無限に多くの属性というのがあるのであって,そのことを僕たちは十全に理解するのだとしても,僕たちはそれら無限に多くの属性を認識するcognoscereわけではないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「火の国杯争奪戦」in久留米&同一説の根拠

2023-10-10 18:56:27 | 競輪
 久留米競輪場で開催された昨日の熊本記念の決勝。並びは新山‐菅田‐永沢の北日本と松岡‐嘉永‐中本‐塚本の熊本で郡司と山田は単騎。
 中本がスタートを取って松岡の前受け。5番手に郡司,6番手に新山,最後尾に山田で周回。残り2周のホームに入る手前から新山が上昇。松岡が突っ張ったのでバックで新山は引くことになりました。この間に山田が郡司の後ろにスイッチしたので,新山が7番手まで下がった一列棒状になって打鐘。動きがないままバックに入って嘉永が発進。これで新山は不発。直線は嘉永の番手から出た中本が嘉永を差し切って優勝。嘉永が4分の1車輪差の2着に残り熊本のワンツー。塚本の後ろから外を追い込んだ郡司が4分の1車輪差で3着。
 優勝した熊本の中本匠栄選手は2020年の共同通信社杯を勝っていますが記念競輪は初優勝。このレースは久留米での開催とはいえ地元といえる熊本勢が4人ということで,松岡の先行が有力。分断もなさそうなので最有力候補は番手の嘉永。脚力上位は郡司と新山ですが,ラインが4人なのでそのふたりよりも嘉永の番手の中本が優勝候補の2番手ではないかと考えていました。結果的に僕が考えていたような結果となりましたので,4人でラインを組むことができたということが大きかったといえるでしょう。

 同一説を主張するなら,その根拠は『エチカ』そのものの中に見出すことができます。第二部定理七備考で,延長Extensioの様態modiとその様態の観念ideaは同一物であるとスピノザはいっているからです。延長の様態は,無限様態modus infinitusを除けば物体corpusを意味しますので,物体とその物体の観念は同一物であるとスピノザはいっていることになります。
                                   
 これは直接的に同一説を主張していると読解できますから,平行論を主張する場合はこれをどう解釈するかが問題となります。そのことについて先に説明しておきましょう。
 ここでは物体とその物体の観念が同一物であるといわれています。ただし,物体と物体の観念が実在的にrealiter区別されるということはスピノザは認めています。第三部定理二は,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumが実在的に区別されるということを前提として証明されているといえるからです。
 もしもAとBとが何らかの仕方で区別されるのであれば,それは異なるものであって同一物と考えることはできません。第一部定理五は,AとBとを区別することができないのであれば,AとBは同一物であるということを前提として証明されています。これは逆に,AとBが区別できるのであれば別のものであるといっているのに等しいといわなければなりません。つまりスピノザはこのことも認めているのです。
 これらのことから,物体とその物体の観念は区別することができるので,別のものであるという解釈が成り立つでしょう。これが平行論を主張する場合のこの箇所の解釈になります。つまりここではスピノザは物体とその物体の観念は同一物であるといっているのですが,それは文字通りに同一物ということを意味するのではなく,平行論における同一個体であるという意味だと解釈するのです。
 スピノザはこの直前に,思惟する実体substantiaと延長した実体は同一の実体であるといっています。これは,無限に多くのinfinita属性attributumによって構成される神Deusについてそのようにいわれていると解することができます。ただ,ここで思惟する実体といわれているのは,延長の実体を対象として思惟する実体と解さなければなりません。思惟する実体は無限に多くあるといわなければならないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典マイルチャンピオンシップ南部杯&両立の可能性

2023-10-09 18:57:39 | 地方競馬
 第36回南部杯
 レモンポップが逃げて2番手にイグナイター。3番手にジオグリフ。4番手はカフェファラオとレディバグとソリストサンダー。7番手にデンコウリジエール。8番手にゴールデンヒーラー。9番手にアルサトワとノットゥルノ。11番手のタガノビューティーまではそれほど差がない追走。4馬身差でハクシンパーソナル。2馬身差でレールガンとボウトロイが最後尾を併走という隊列。前半の800mは47秒4の超スローペース。
 3コーナーからイグナイターがレモンポップに並び掛けていくと2馬身差でカフェファラオとジオグリフ。さらに2馬身差でレディバグとソリストサンダー。直線の入口ではレモンポップが再びイグナイターを突き放し,直線は独走となって圧勝。イグナイターの内からカフェファラオ,外からレディバグ,さらに後方から大外をタガノビューティーが追い込んできましたが,レディバグが2秒差の2着に残り,レディバグが半馬身差で3着。タガノビューティーが4分の3馬身差の4着でカフェファラオがハナ差で5着。
 優勝したレモンポップフェブラリーステークス以来の勝利で大レース2勝目。ここは現状の能力では最も上なので優勝の最有力候補とは思っていましたが,ここまでの圧勝になるのは驚きでした。かなりゆったりしたペースでの逃げになったということもあったでしょうが,わりと早いタイムでの決着になって,その適性がほかの馬たちよりも大きく上回っていたという面があったのでしょう。したがって本質的には速力を生かすスピードタイプの馬なのだろうと思います。
 騎乗した坂井瑠星騎手はフェブラリーステークス以来の大レース5勝目。南部杯は初勝利。管理している田中博康調教師はフェブラリーステークス以来の大レース2勝目。

 もしスピノザに,自身の哲学が同一説であるか平行論であるかと問うたとしたら,そういう分節は無意味であるし,同一説と平行論は相反するわけではなく,両立する,それこそスピノザの哲学を構成する形而上学というひとつの形而上学のふたつの側面であると答える可能性があると僕は思っています。
                                   
 すでにいったように,第一部定義六第一部定理一一から,無限に多くのinfinita属性attributumが現実に存在するとスピノザが考えていることは疑い得ません。そして神Deusの形相的本性essentia formalisを構成する無限に多くの属性のそれぞれに思惟の属性Cogitationis attributumが対応しているとスピノザが考えているということも,第二部定理七系から明白です。よって第二部定理七でいわれていることは,物体corpusとその観念ideaにのみ適用されるわけではありません。いい換えれば延長の属性Extensionis attributumと延長の属性に対応する思惟の属性の間でのみ成立するわけではありません。このことは第二部定理七備考で,このことがすべての属性について当て嵌まるとスピノザがいっていることから明白です。
 これらのことを踏まえれば,スピノザの形而上学というのは,神が無限に多くの属性によって形相的本性を構成されるといわれるとき,無限に多くの形相的本性を構成するある属性と別の属性の間のことに注目するなら,同一説になります。しかし無限に多くの属性のどれかひとつを抽出して,その属性とその属性に対応する思惟の属性との間に注目した場合には,平行論になるのです。つまり,同一説であるか平行論であるかということは,形而上学のどこに注目するかということから生じてくる差異であって,ひとつの形而上学の中で両立し得るということができるでしょう。
 実際にスピノザがそのように答えるのかということは僕の推測にすぎないとしても,このような考え方は明らかにできるので,僕は自説としての平行論を強く主張し,同一説を徹底的に斥けるというものではありません。工藤は明らかに平行論を斥けて同一説を採用していて,それに対抗して僕は平行論を主張していますが,このような論戦自体がそもそも無意味なものであるとかもしれないというようにも僕は考えているのです。なので同一説についても探求します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&謬見の排除

2023-10-08 19:05:51 | 将棋
 一昨日と昨日,セルリアンタワー能楽堂で指された第36期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太竜王が2勝,伊藤匠七段が0勝。
 振駒で伊藤七段の先手となって相掛り。この将棋は先手がそこまで悪い手を指したというわけでもないのですが,後手の藤井竜王がずっと的確な指し回しをして快勝したという内容でした。先手の作戦選択に甘いところあったか,順部が足りていなかったかのどちらかだと思います。
                                        
 ここ後手は☖4六飛と浮き,☗4七銀に☖5六飛☗同歩と飛車角交換に進めました。飛車が逃げていては千日手ですから当然の選択で,これが実質的な決め手となりました。
 一旦は☖2三歩☗3四飛と受けてから☖7八角。
                                        
 これが遠く飛車を睨み,桂馬さらには香車と確実に入手できる一手。後手が攻め合ってはっきりと勝てる局面になっています。
 藤井竜王が先勝。第二局は17日と18日に指される予定です。

 人間の身体humanum corpusが自分の精神mensを思惟作用に,また人間の精神mens humanaが自身の身体を運動motusや静止quiesに,それぞれ決定するdeterminareことができないことの根拠は,人間の身体と,それを観念対象ideatumとしているその人間の精神が,実在的にrealiter区別されるからであるということになっています。このことから僕は,ある人間の身体とその人間の精神を同一の事物とみることはできず,実在的に区別される別個の事物と解するべきだと考えます。このために僕は同一説より平行論を採用するのです。つまり,ある人間の身体とその人間の精神は,同一の事物のふたつの側面であるから,その原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが一致するのではなく,これらは別個のものであるけれど,人間の精神はその人間の身体の観念ideaであるから,原因と結果の連結と秩序は一致するというように解するのです。
 区別の形而上学からすれば,本来は同一説を採用した方が,一貫性が保たれると僕は考えます。それなのにスピノザは第三部定理二では,人間の身体とその人間の精神の区別distinguereも実在的区別であるとしています。この定理Propositioは,たとえば人間が自由な意志voluntas liberaによって自分の身体を何らかの運動に決定することができるという類の謬見を否定するnegareために設置されていると考えるべきであって,区別の形而上学からこのことがどのようにいわれるべきであるかということは念頭に置かれていないというべきでしょう。ただ,そうした謬見を糾すためには,同一説に訴えるより平行論に訴える方が有効であることは確かだと思います。この方が,人間の精神が人間の身体の運動や静止の原因であることはできないということを明確に示すことができるからです。ですから,そうした謬見を避けたいという場合は,同一説を採用するよりも平行論を採用する方が有効であるとは僕は思います。
 同一説とか平行論というのは,スピノザ自身の考えのうちにあったものではありません。これは後年に,スピノザの哲学を解釈するために創作された概念notioです。ですからスピノザ自身は,自分の哲学が同一説であるか平行論であるかなどということはまったく考えていなかったろうと僕は推測します。そしてこの論争は無意味とすら考えたかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新人王戦&区別の形而上学

2023-10-07 19:16:53 | 将棋
 2日に指された第54回新人王戦決勝三番勝負第一局。藤本渚四段と上野裕寿四段は公式戦初対局。
 振駒で上野四段が先手となり,後手の藤本四段の雁木に先手が矢倉で対抗する将棋。後手から仕掛けて金桂交換の駒得に進んだのですが,それで互角だったようです。
                                        
 後手が得した金を角取りに打った局面。結果的にいうとこのように進めたのは後手としてはあまりよくありませんでした。
 先手は☗6八角と逃げました。☖4六金は自然な手にみえますがそこで☗同角☖同角としてしまうのが好手順。一時的に駒損がさらに広がるのですが,4六の歩を取らせたことによって☗4四歩が生じました。
 銀の逃げ場がありませんから☖3三桂と銀を取り返しにいったのですが,☗4三歩成☖同金左に☗5六金と手厚く打つのがまた好手。
                                        
 第2図まで進むとむしろ先手の方が手番も握れて攻め筋が多いのでよくなっています。たぶん先手はかなり深く研究していて,それに後手が嵌ってしまったという将棋だったのではないでしょうか。
 上野四段が先勝。第二局は23日に指される予定です。

 ある属性attributumとその属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumは,同一のもののふたつの側面で,それがそれとは別の属性とその属性に対応する思惟の属性に対して実在的にrealiter区別される。そしてある属性の様態modiと,その属性の別の様態は様態的にmodaliter区別され,この様態はその様態の観念ideaと同一事物のふたつの側面を構成する。よって,ある属性の様態の観念と,それと同じ属性の様態の観念は,思惟の様態cogitandi modiとして様態的に区別される。しかしある属性の様態の観念と,それとは別の属性の様態の観念は,ある属性と別の属性が実在的に区別されるように実在的に区別される。
 もしもこのようにいうなら,実在的区別だけでなく,様態的区別も一元化されることになります。そしてそのためには,ある属性とそれに対応する思惟の属性Cogitationis attributum,またある属性の様態とその様態の観念は同一事物のふたつの側面であるといった方が,そのふたつは実在的に区別されるが平行的関係にあるというより優れていることになります。つまり,スピノザの哲学における区別distinguereの形而上学は,実は平行論より同一説に対して有利に働くことになるのです。よって僕のように,区別の形而上学に訴えることによって,同一説を斥け平行論を採用するという場合は,属性Aと属性Aに対応する思惟の属性の区別も実在的区別であるということを明らかにしておく必要があるのです。
 僕はこの点に関しては,第三部定理二を援用します。この定理Propositioは,人間の身体humanum corpusはその人間の精神mens humanaの何らかの思惟作用の原因causaとはなり得ないし,逆に人間の精神はその人間の身体の運動motusあるいは静止quiesの原因とはなり得ないということをいっています。そしてそのことは,形而上学に依拠して説明することができます。すなわち,人間の身体とその人間の精神の間には共通点がないのであって,第一部定理三によって,共通点がないのであれば一方が他方の原因であったり結果effectusであったりすることはできないという方法です。
 このとき,共通点がないということは,それらが実在的に区別されるということを意味しなければなりません。もしも様態的に区別されるのであれば,それらは一方が他方の原因であったり結果であったりすることができるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典レディスプレリュード&区別の一元化

2023-10-06 19:08:15 | 地方競馬
 昨晩の第20回レディスプレリュード
 ノーブルシルエットが逃げました。2番手以下はヴァレーデラルナ,スピーディキック,ジュランビルの順になりその後ろをライオットガールとテリオスベルが併走。その後ろもグランブリッジとアーテルアストレアの併走でここまでは一団。3馬身差でアンティキティラとサルサレイアが併走という隊列で発馬後の正面を通過。テリオスベルはいつものようにここから上昇していき,向正面ではノーブルシルエットの外に。しかしノーブルシルエットが引かなかったので,2頭が競り合って3番手以下に差をつけていくことになりました。最初の800mは49秒5のミドルペース。
 3コーナーを前にノーブルシルエットは一杯になり,テリオスベルが単独の先頭。ライオットガールが外から上がってきましたが,4コーナーの入口でもまだテリオスベルとの差はありました。テリオスベルは直線に入るとさすがに一杯。ライオットガールが先頭に。しかしさらに後ろからアーテルアストレアとグランブリッジがライオットガールの外から追ってきて,この2頭がライオットガールを差して優勝争い。先んじていたアーテルアストレアが優勝。グランブリッジがクビ差で2着。ライオットガールが半馬身差で3着。
 優勝したアーテルアストレアは重賞初制覇。ただエンプレス杯で4着に負けた後,牡馬相手のオープンに出走し続けて3着,5着,1着。牡馬を相手にこれだけ走れれば牝馬の重賞では通用するので,エンプレス杯のときよりも力をつけていたとみていいでしょう。左回りを選んで出走しているようなところがあったので,右回りになることは不安材料だったのですが,それを克服しましたので,牝馬のダート路線ではトップクラスの馬であると判断していいだろうと思います。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンで,その父がスペシャルウィークセレタダイナエイコーンの分枝で母のふたつ上の半兄に2018年のマーチステークスを勝っている現役のセンチュリオン。Aterはラテン語で黒い。
                                        
 騎乗した武豊騎手はレディスプレリュード初勝利。管理している橋口慎介調教師は第18回以来2年ぶりのレディスプレリュード2勝目。

 A属性の様態modiであるaの観念ideaと,B属性の様態であるbの観念は,同じように思惟の様態cogitandi modiであるのだから様態的にmodaliter区別され,したがってaの観念を認識するcognoscereことができる知性intellectusはbの観念も認識することができるというチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの主張は,それ自体では真っ当なものです。しかしスピノザはこれを否定しました。なぜスピノザがこれを否定するnegareことができたのかといえば,この場合のaの観念とbの観念の区別distinguereは,たとえどちらも思惟の様態ではあっても,様態的に区別されるのではなく実在的にrealiter区別されると考えていたからにほかなりません。つまりこの一連の書簡におけるチルンハウスの誤解というのは,対象となっている属性attributumが異なっていても,観念と別の観念はすべからく様態的に区別されると解していた点にあるのであって,スピノザはそのことを否定しているのです。
 aの観念とbの観念が実在的に区別されるのは,属性Aを対象とした思惟の属性Cogitationis attributumと属性Bを対象とした思惟の属性が,同じように思惟の属性ではあるけれど,実在的に区別される異なった属性であるとみなされるからです。つまりこのことからも,神Deusの形相的本性essentia formalisは無限に多くのinfinita属性から組織されていて,かつそれら無限に多くの属性の各々を対象とした無限に多くの思惟の属性によって神の観念idea Deiは構成されていると考えなければならないということが帰結するでしょう。
 このような形而上学は,平行論を採用するよりも同一説を採用するように仄めかしているように見受けられます。というのは,Aの属性を対象とした思惟の属性とBの属性を対象とした思惟の属性が実在的に区別されるのであれば,Aの属性そのものとAの属性を対象とした思惟の属性が,それと同じ意味で実在的に区別されるという必要はまったくないからです。むしろ神の形相的本性を構成するある属性とその属性を対象とした思惟の属性はセットになっていて,そのセットがほかの形相的本性を構成する属性とその形相的本性を構成する属性を対象とした思惟の属性のセットと,実在的に区別されるとした方が,実在的区別という区別のあり方が一元化されるからです。つまりこの観点からは,同一説の採用に至るでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典東京盃&等しい力

2023-10-05 19:19:10 | 地方競馬
 昨晩の第57回東京盃
 好発のギシギシが一旦は先頭。それをドンフランキー,ジャスティン,マックスの3頭が追っていき,追い抜いたジャスティンとドンフランキーが並んで逃げるようなレースとなり,控えたギシギシが3番手。4番手にマックス。5番手はケイアイドリー。6番手にリュウノユキナとアルカウン。その後ろにエアアルマスとヘリオス。さらにマーチリリー,オマツリオトコと続いてここまでは一団。3馬身差でアポロビビ。3馬身差の最後尾にショウナンバルディ。前半の600mは34秒2のミドルペース。
 直線の入口ではドンフランキーが先頭に。リュウノユキナが外から追い上げてきましたが届かず,直線先頭のドンフランキーがレコードタイムで優勝。リュウノユキナが1馬身差で2着。逃げたジャスティンが1馬身半差の3着。リュウノユキナのさらに外から追ってきたギシギシが半馬身差の4着。
 優勝したドンフランキーは前々走のプロキオンステークス以来の勝利で重賞2勝目。1400mがベストかもしれませんが,このメンバーでは速力が上位。それを生かしての優勝。レコードタイムが出るような馬場になったのもプラスだったと思います。この距離だとリメイクには敵わないようなのですが,それ以外の馬たちよりは上位の能力があると判断してよいでしょう。父はダイワメジャー
 騎乗した池添謙一騎手と管理している斉藤崇史調教師は東京盃初勝利。

 無限に多くのinfinita形相的本性essentia formalisがあって,それらの形相的本性に対応する無限に多くの思惟の属性Cogitationis attributumがあるというように解さなければならないのは,第二部定理七系で,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力と等しいipsius actuali agendi potentiaという主旨のことがいわれているからです。もしも単一の思惟の属性が無限に多くの形相的本性のすべてに対応するのであれば,働く力と思惟する力が等しいということにはなりません。あるいは,もしもある特定の形相的本性に対しては対応する思惟の属性がないというのなら,やはり働く力と思惟する力が等しいといえなくなってしまいます。よって,無限に多くの形相的本性があって,その各々に対応する無限に多くの思惟の属性があるというように解さなければならないのです。
                                   
 このとき,Aの属性に対応する思惟の属性と,Bの属性に対応する思惟の属性は,同じように思惟の属性ではあるのですが,その区別distinguereは実在的区別なのです。スピノザは属性についてこのことを何かいっているわけではありません。ただ,書簡六十五チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に答えている書簡六十六は,属性Aの様態modiであるaの観念ideaと,属性Bの様態であるbの観念は,実在的に区別されなければならないという主旨のことをスピノザがいっているのだと僕は解します。これはつまり,属性Aに対応する思惟の属性と,属性Bに対応する思惟の属性が,実在的に区別されるといっているのと同じです。
 もう少し『エチカ』にひきつけていえば,上述の例でもしもaの観念とbの観念が実在的に区別されるのではなく様態的に区別されるのであれば,Aの属性の様態である何らかの知性intellectusは,aの観念を認識するcognoscereことができるのはもちろんのこと,bの観念も認識することができることになります。チルンハウスはそのように解していたのです。だからaの観念とbの観念が様態の差異としてのみ区別されるのなら,aを認識することができるけれどもbを認識することができない知性があるというのは不条理だとチルンハウスはいいました。つまり知性はaの観念を有することもできるしbの観念も有することができると主張したのです。このチルンハウスの論理構成は正しいものといわなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯白玲戦&区別の課題

2023-10-04 19:36:13 | 将棋
 9月30日に奈良で指された第3期白玲戦七番勝負第四局。
 里見香奈白玲の先手で中飛車左玉。西山朋佳女流三冠の向飛車に先手が2筋に飛車を戻す形で,先手が5筋位取りの対抗形になりました。この将棋は後手が思い切った攻めに出て,先手玉は薄いので攻めだけでみれば成立はしていたのですが,駒損だったために先手の反撃に逢い,双方の兼ね合いからは無理攻めだったために苦しくなりました。
                                        
 第1図で先手は☗6九香と受けました。後手は☖2八龍と攻めを続け☗6六馬と引き付けつつ詰めろを掛けられたので☖6八成桂☗同香と清算しました。☖8五銀は先手玉の上部を押さえつけつつ詰めろを受けた手。先手は☗5九歩と受けました。
                                        
 この手順からみると先手は☗6六馬に期待していたようなのですがそれほど効果的ではありませんでした。第1図で受けるのであれば☗5七同金☖同龍☗6八金とした方がよかったですし,攻めるのなら☗8四桂☖同歩☗5七金☖7四銀としてから☗6六馬と攻める方がよかったようです。また,第2図の☗5九歩も受けとしては薄く,これが敗着となったようです。☗7九金としっかり打っておくべきでした。
 西山女流三冠が勝って3勝1敗。第五局は14日に指される予定です。

 ここまでに述べてきた私見から理解してもらえたかと思いますが,僕はある積極的な理由があって,スピノザの哲学は平行論を採用しているといっているのではありません。スピノザの哲学を実在的なものとしてみるのなら,平行論を採用しようと同一説を採用しようと大差がないと考えています。ただ,形而上学的部分からみると,同一説を採用するのには無理があると考えているのです。つまりこうした消極的な理由によって同一説を斥けているのであって,平行論を積極的に採用しているというわけではないのです。だから,平行論であるか同一説であるかの二者択一としては平行論の方を採用しているというだけであって,平行論を積極的に採用するべきだといいたいのではありません。
 ただし,同一説を斥ける根拠が形而上学的な観点となっているとすれば,なおクリアしておかなければならない課題が残っています。これは区別distinguereの問題に関連します。実体substantiaの相違によって区別されるなら実在的区別で,様態modiの相違によって区別されるのであれば様態的区別であるのはその通りなのですが,これは基本的な事項であって,例外といえる場合があるのです。それは,スピノザの哲学では思惟の属性Cogitationis attributumがほかの属性とは異なった位置づけにあるからです。
 第一部定義六により,Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性によって構成されます。そして第一部定理一一により,神は実在します。つまり,無限に多くの属性が実在すると解さなければなりません。そのとき,それら無限に多くの属性のすべてに各々の思惟の属性が対応します。つまり,Aの属性にはAの属性に対応する思惟の属性があり,Bの属性にはBの属性に対応する思惟の属性があり,Cの属性にはCの属性に対応する思惟の属性があるという具合です。したがって,神は無限に多くの属性によって構成されるということのうちには,神は無限に多くの形相的本性essentia formalisによって構成される実体substantiaで,それらの形相的本性に各々の思惟の属性が対応するということが含まれていることになります。いってみれば,形相的本性を構成する無限に多くの属性と,それに対応する無限に多くの思惟の属性によって神の本性は構成されるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちぎり賞争奪戦&形而上学的根拠

2023-10-03 18:59:57 | 競輪
 1日の豊橋記念の決勝。並びは新山に稲川,川口‐岡本の中部,町田‐松本‐香川の瀬戸内で,山田と荒井は単騎。
 松本がスタートを取って町田の前受け。4番手に新山,6番手に荒井,7番手に山田,8番手に川口で周回。残り3周のバックの出口から川口が上昇。ホームに戻って町田が突っ張ったので,川口は4番手の新山の外まで下げました。ここから内が新山‐稲川‐山田,外が川口‐岡本‐荒井で併走となって打鐘。この後のコーナーで新山が単独の4番手を確保しました。ホームを過ぎてから新山が発進。町田との車間を開けて待ち構えていた川口がバックで新山を牽制。新山はスタンド近くまで押圧されてしまい不発。内が開いたのでそこに突っ込んできたのが岡本と香川でしたが,これは戻った松本が封じました。直線で松本はさらに町田を差しにいきましたが,これは届かず,逃げ切った町田の優勝。松本が2着に入線しましたが,新山への走行妨害で失格。松本の外から伸びてきた稲川が1車輪差の2着に繰り上がり,稲川のさらに外から迫った荒井が半車輪差で3着。
 優勝した広島の町田太我騎手は6月に取手のFⅠを優勝して以来の優勝。GⅢは2021年6月に国際自転車競技支援競輪を勝っていますが,記念競輪は初優勝。このレースは新山の脚力が断然上位。対して瀬戸内ラインは二段駆けもあり得るという並びで,作戦で対抗するという図式。松本が町田との車間を大きく開けて,番手から出るのではなく新山を牽制するという形になりました。この牽制が大きすぎたために失格となりましたが,これは松本がどの程度まで牽制をすればよいのかが分かっていなかったということだと思います。町田はそれで恵まれることになりましたが,後味としては悪いレースになってしまったように思います。

 第二部定理七に依拠する限り,平行論を採用しようと同一説を採用しようと,スピノザの哲学の解釈に大きな間違いを生じさせるものではありません。それでも僕が同一説を斥けて平行論を採用するのは,形而上学的な理由によります。その基礎が第一部公理一です。この公理Axiomaでいわれているのは,自然Naturaのうちに存在するのは実体substantiaあるいは実体の属性attributumであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiのどちらかであるということです。
                                   
 この公理から,ある事物とほかの事物が区別されるなら,どのように区別されなければならないかということが分かります。すなわち第一部定理四にあるように,ふたつあるいは複数の事物は実体あるいは同じことですが属性の相違によって区別されるか,様態としての相違によって区別されるかのどちらかでなければなりません。実体ないしは属性と様態だけしか存在しないのですからこれは当然です。このとき,実体あるいは属性の相違によって区別されるのであればその区別distinguereは実在的区別といわれ,様態としての差異によって区別されるのであればその区別は様態的区別といわれるのが基本です。
 このことから,第二部定理七でいわれている観念ideaともの,すなわち観念と観念対象ideatumは,実在的に区別されるということになります。観念は思惟の属性Cogitationis attributumの様態であって,観念対象は思惟以外の何らかの属性,たとえば延長の属性Extensionis attributumの様態であるというようにこの定理Propositioでは想定されているからです。このとき,観念と観念対象が区別されるというのは,それらが別のものであるがゆえに区別されるのです。これは,もしも区別することができないのであれば同じものでなければならないということから明白でしょう。よって,観念と観念対象は別のものでなければなりません。別のものであるのにそれを同一であるというのは不条理だと僕は考えます。
 観念と観念対象は,原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが一致します。この一致によってそれらは同一個体といわれます。しかし同一個体というのは同一物というのとは異なっているのだと僕は考えます。異なったものは同一個体ではあり得るけれども,同一物ではあり得ないというように僕は考えるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凱旋門賞&平行論と同一説

2023-10-02 18:49:53 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にフランスのパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                                        
 スルーセブンシーズは両隣の馬たちと比べると半馬身ほど遅れました。そのまま無理せずに控えて道中は13番手の内という位置。少しばかり行きたがっているようにも見えましたが,折り合いを欠くというほどではありませんでした。馬群が密集してのレースでしたので,先頭からは8馬身くらい。直線は外には出さず,前の馬群の隙間に突っ込んでいってそれを捌きながら伸びる形。フィニッシュまで止まることなく伸びて勝ち馬から約3馬身差の4着でした。
 この馬は前走の宝塚記念でイクイノックスと差がない2着だったとはいえ,重賞は中山牝馬ステークスを勝っているだけ。その実績と,5歳の牝馬が宝塚記念レース以来の久々で初めてフランスで走ったということまで合わせて考えれば,上々の結果であると思います。真直ぐに伸びることができればもっと差を詰めることができたかもしれませんが,そのためには道中の位置取りが実際のレースとは異なっていなければならなかったでしょうから,同じような結果を得られたとも限らないのではないでしょうか。凱旋門賞としてはかなり早いタイムでの決着になりましたが,その点はプラスに作用していたのだろうと思います。

 『スピノザーナ11号』の巻頭言に関する考察はこれで終了とします。
 巻頭言の直後に工藤喜作の訃報があり,その後に工藤へのインタビューがあります。インタビュアーは桜井直文と高木久夫です。このインタビューは2010年1月10日に,横須賀市内にある,そのときの工藤が入院していた病院の食堂で行われました。工藤は前立腺癌で入院していたのですが,1月22日に死んでいますから,本当に死の直前のインタビューであったことになります。工藤本人についていっておきたいことが僕にはひとつありますが,そのことは後にして,ここではこのインタビューの中の工藤の発言について,補足のような形で説明します。
 工藤は,スピノザの哲学は心身の平行論であるといわれるけれど,実際は心身の同一説であるという主旨のことをいっています。これは以前に僕も考察したことがあるのですが,ここで改めて僕の解釈と,工藤のような解釈の利点について述べておきます。
 まず,心身平行論と心身同一説のどちらをスピノザの哲学が採用しているかと問われれば,僕は心身平行論を採用していると考えます。このインタビューの中でもいわれているように,一般的に平行論は第二部定理七によって説明されます。観念ideaと観念対象ideatumの間には一切の因果関係はないのだけれど,観念の原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoは,観念対象の原因と結果の連結と秩序に一致するというのがその根拠になります。ただしこのことは,だから観念と観念対象というのは同一事物のふたつの側面であるということもできるのであって,つまりこの定理Propositioは心身同一説の根拠にもなり得ると僕は考えます。そしてこの定理に依拠する限り,観念と観念対象を別の事物と考えてもよいし,同一事物の別の側面と考えてもよいと僕には思えます。これらのどちらの説を採用したとしても,スピノザの哲学の解釈は成立する,他面からいえば,それで解釈上の大きな誤りerrorが生じることはないからです。ですから,実のところ平行論と同一説は,少なくともこの定理でいわれていることから解釈する限り,必ずしも対立するというわけではなくて,両立させることさえ可能であると僕は考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする