スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
玉野競輪場 で行われた昨日の広島記念の決勝 。並びは新山‐菅田‐渡部の北日本,太田‐松浦‐池田の山陽で鈴木と佐々木と山田は単騎。
菅田がスタートを取って新山の前受け。4番手に鈴木,5番手に佐々木,6番手に太田,最後尾に山田で周回。残り3周のバックから太田が上昇を開始。山田が続きました。誘導との車間を開けてバンクの中腹まで上って新山が待ち構えると,バンクの上段まで上がった太田がホームから山おろしを掛けるように発進。新山は突っ張ろうとしましたが太田が叩き,山田まで出きると,鈴木が山田の後ろにスイッチし,そこに佐々木も続いて新山が7番手に。バックで鈴木が内を掬うと山田が弾かれ,鈴木が4番手,佐々木が5番手,山田が6番手となって打鐘。松浦は太田との車間を開けて後ろを牽制。バックから佐々木が発進していくと松浦も番手捲りを敢行。松浦マークの池田が佐々木を牽制。番手から出た松浦が後ろを引き離して優勝。佐々木マークのようなレースから直線で池田と佐々木の間を突いた山田が3車身差で2着。池田が半車輪差で3着。
優勝した広島の松浦悠士選手は9月の岐阜記念 以来の優勝で記念競輪22勝目。広島記念は2018年 ,2021年 ,2022年 と優勝していて2年ぶりの4勝目。玉野では2022年のサマーナイトフェスティバル と今年 の記念競輪も優勝しています。このレースは太田と新山の先行争いがあるかどうかがひとつの焦点。太田がすんなりと先行することができましたので,番手の松浦にとってとても有利になりました。近年に比べると苦労した1年でしたが,脚力は戻ってきているようですので,来年は期待できるのではないでしょうか。
吉田は何も触れていないのですが,ここの部分には重要な点が含まれていると僕は考えています。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』は,匿名で出版されたのですが,著者がスピノザであるということは公然の事実でした。だから書簡四十二 はフェルトホイゼン Lambert van Velthuysenの論考を求めたオーステンスJacob Ostensがスピノザに送ったのですし,スピノザは自身が著者であることを隠そうとせずオーステンスに宛てて書簡四十三 という返信を書いています。またライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに宛てた書簡四十六 ではスピノザは私の『神学・政治論』といういい方をしていますし,書簡七十 によればスピノザは自著として『神学・政治論』をホイヘンス Christiaan Huygensに献本しています。もちろんこうしたことは書簡の中のことであって,書簡を交わし合うような仲の人物に対しては『神学・政治論』が自著であるということを隠す必要はないとスピノザが考えていたがゆえであったかもしれません。しかしそこでそのことを否定する必要がないほど,『神学・政治論』の著者がスピノザであるということは公然の秘密であったからだという見方もできると思います。
ステノ Nicola Steno自身も書簡六十七の二 の中で,『神学・政治論』という名前こそ出していませんが,それと理解できるような文章において,その本がスピノザの手によるものだと多くの人がいっているし,自分もそう思っているといっています。もしもスピノザがステノに対して『神学・政治論』を献本していれば,はっきりとそういいきれた筈ですから,スピノザはおそらくステノには『神学・政治論』を献本しなかったのでしょう。書簡七十六 の内容によって,スピノザはステノがカトリックに改宗したことは間違いなく知っていました。研究活動よりも宗教活動に中心を移行したということももしかしたら知っていたのかもしれません。それはおそらく,書簡六十七の二の中でステノがいっているように,ステノがイタリアに移ってからもスピノザとステノは疎遠ではなかったため,ステノがスピノザにそれを知らせたからでしょう。すでに指摘しておいたように,遅くとも『神学・政治論』が出版された時点では,ステノはカトリックに改宗していましたから,そのことが影響したと思われます。
第76回朝日杯フューチュリティステークス 。岩田康誠騎手が移動中にスマートホンでコメント機能付きのYouTubeを視聴したため騎乗停止処分を受け,ダイシンラーは横山典弘騎手に変更。
エルムラントは控えるような発馬で2馬身の不利。発馬後はダイシンラー,アドマイヤズーム,クラスペディアの3頭が横並び。2馬身差でコスモストームとトータルクラリティ。その後ろがミュージアムマイル,ランスオブカオス,アルテヴェローチェ,パンジャタワー,テイクイットオールの集団。その後ろがエイシンワンドとタイセイカレント。さらにアルレッキーノとドラゴンブースト。3馬身差の最後尾にエルムラント。道中でダイシンラーが単独の先頭に立ち2馬身ほどのリード。単独の2番手にアドマイヤズームとなりました。前半の800mは48秒0の超スローペース。この影響で折り合いに苦労する馬が多く見受けられました。
3コーナーでもダイシンラーのリードは2馬身。アドマイヤズームの後ろがミュージアムマイルとトータルクラリティとなり,さらにその外からテイクイットオールとドラゴンブースト。直線の入口ではアドマイヤズームがダイシンラーに並び掛け,2馬身差でミュージアムマイル。アドマイヤズームがほどなく先頭に立つとそのまま抜け出して楽勝。追いかけたミュージアムマイルが2馬身半差の2着。外から脚を伸ばしたランスオブカオスが2馬身半差で3着。
優勝したアドマイヤズーム は重賞初挑戦での大レース制覇。10月の新馬を4着に負けた後,前走で未勝利を勝ったばかりでした。このレースは前走を1番人気か2番人気で勝ち,距離が1600mならなおよいというはっきりとした傾向があり,その傾向には合致していました。大きな差をつけて勝ったのは能力の証とみていいでしょう。レース内容からすると,このくらいの距離がベストで,距離延長はマイナスに働きそうに感じられます。父はモーリス 。母の父はハーツクライ 。5代母がクルーピアレディー の祖母にあたる同一牝系。
騎乗した川田将雅騎手 はJBCクラシック 以来の大レース46勝目。第69回 ,72回 ,75回 に続く連覇で朝日杯フューチュリティステークス4勝目。管理している友道康夫調教師はジャパンカップ 以来の大レース24勝目。第70回 ,73回 に続き3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス3勝目。
一説ではステノ Nicola Stenoがカトリックへの改宗を決意したのは1667年だとされています。これは僕が知る限り,最も遅い年代です。ステノは1663年までライデン大学に在籍していましたが,この年に父親,というのは継父であったようですが,死んだのでデンマークに戻っています。その後にパリにいた時期があったようですが,1665年にはフィレンツェにいました。ですから1667年に改宗を決意したとなれば,これはイタリアに移ってからです。イタリアはカトリックの総本山ですから,カトリックに改宗したからイタリアに移ったとみることも可能ですが,イタリアに移ってから周囲の影響で改宗したとする方が自然かもしれません。いずれにしても『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』が発刊される以前にステノがカトリックに改宗していたのは間違いないと考えていいでしょう。書簡六十七の二 が書かれたのが1671年であったにせよ1675年であったにせよ,その時点で間違いなくステノはカトリックの信者であったのであり,『神学・政治論』を読んでいましたし,スピノザとも依然として疎遠ではないと思っていたことになります。
スピノザとステノ関係はそのようなものでしたから,バチカン写本 を読んだとき,その著者がだれであるかは書かれていなかったものの,それがスピノザによるものであるということはステノには分かったろうと吉田は推測していますし,僕もその通りだと思います。もっともこの点については,ステノが異端審問所に提出した上申書の中に,バチカン写本の持ち主,というのはチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausのことでしょうが,白状したという旨のことが書かれているようです。つまりステノがバチカン写本を異端審問所に提出したとき,それがスピノザの手によるものだということについて,ステノは確信をもっていたということになります。
スピノザが書いたものであるということについてはチルンハウスの告白によって確信していたステノですが,それをすぐに異端審問所に提出したわけではありません。数週間にわたってバチカン写本の内容を精査した後,1677年9月4日に,バチカンの異端審問の担当部局に,先述の上申書を提出したのです。
⑦ の最後のところでいったように,谷津は天龍源一郎 が阿修羅・原 と組み,ジャンボ・鶴田 と戦うようになった時代から,全日本プロレスのスタイルは,ひとつの試合の中でも物語を創作していくようなものになったといっています。そして天龍が全日本プロレスを退団し,三沢光晴 が鶴田と戦うようになるとそれはさらにパワーアップされたといっています。天龍が退団した後,三沢がタイガー・マスクから素顔に戻った時はそのリング上に谷津はいました。谷津の雑感⑤ で示したように,谷津はこれを馬場に進言したといっていて,その責任を果たすという意味もあったのでしょう。ですがこの直後に谷津も全日本プロレスを退団してSWSに移籍していますから,パワーアップした試合というのは谷津が体験したものではありません。逆にいえば退団後も谷津は全日本の試合を気にして見ていたということでしょう。
その後で鶴田が病気で欠場となったため,全日本プロレスは,三沢,川田利明 ,小橋建太 ,田上明 のいわゆる四天王の時代に入ります。谷津はこの時代のプロレスがマックスであったとしています。これ以上のプロレスはないとまで言っていますから,これは最大級の評価といっていいでしょう。このインタビューはおそらく2019年の初頭に行われたものだと推測されますが,その当時の新日本プロレスと比較しても,四天王プロレスの方が上だったと谷津は断言していますので,よほど四天王プロレスというのが谷津の好みに合致したプロレスであったのだと思われます。三沢や川田は身体はそう大きくはありませんでしたがヘビー級の体重はありましたし,小橋や田上は日本人のヘビー級のプロレスラーとしては大型の部類に入ります。そうした身体の大きな選手があのようなプロレスをやったからそれは究極だったというのが谷津の見解です。つまり谷津もまた馬場と同じように,身体が大きなことはプロレスラーとして重要だとみていたのでしょう。これはもしかしたら谷津が,デビューした後の時代にアメリカでプロレスをしていたことと関係しているかもしれません。それは身体の大きさの重要性が,アメリカにもまだ残っていた時代だったと思われるからです。
カトリックが『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』の思想内容を問題視していたことは疑い得ないと思いますが,かつてその著者と親しく交際し,その後も疎遠ではなかった人物が司祭になることは事実として問題視されなかったのです。ですからカトリックの内部では,危険思想の持ち主と,危険思想の持ち主と親しくしている人物は,分けられていたと考えてよいでしょう。その程度の分別はローマトリックの内部に確実にあったのです。
なお,この書簡六十七の二 に関しては,宗教的パンフレットのような形で公開されたのが1675年であって,実際にステノ Nicola Stenoがこれを書いたのは1671年4月のことであるとする説があります。『神学・政治論』が刊行されたのが1670年のことですから,この説によれば,実際に書簡が書かれたのはその直後であったことになります。この場合,書簡の中でいわれている今,すなわちステノがスピノザとは疎遠ではないと思っている今というのが,その時点まで前倒しされることになります。それでも実際に公開されたのが1675年であったのなら,1675年の時点でそれが公開されても内容は問題視されなかったということになりますから,カトリックの内部事情が変遷したというようには解さなくてもいいと思います。つまり書かれた時期がいつであったのかということは問わずに,1675年の時点でこの書簡の内容は問題視されていなかったと理解してよいと僕は思います。
次に,書簡七十六 では,アルベルト Albert Burghとスピノザがステノについて語り合ったとされていますが,そのときにアルベルトはスピノザの数々の論拠について是認してくれたといっています。これは語り合われた内容というのが,ステノがカトリックに改宗したことに関連していて,かつスピノザがそれに反論するような論拠をアルベルトに対して語ったら,アルベルトはそれを肯定したという意味にしか解せません。これは書簡全体の文脈からしてそうでなければならない筈だからです。ということはその時点ではアルベルトはまだ改宗してなかったのは間違いありません。
ステノがカトリックへの改宗を決意したのがいつであったのかということははっきりと分かりません。
一昨日と昨日,指宿温泉で指された第37期竜王戦 七番勝負第六局。
佐々木勇気八段の先手で相掛り 。後手の藤井聡太竜王との研究合戦になったようで,ハイペースで指し手が進み,一昨日のうちに終盤の近くまで進みました。
先手が2三の角を成ったところ。狙いは☗8三香。☖6五銀と打てば受けとしては固いのですが,銀を使ってしまうと☖3八歩という後手からの唯一のといっていい攻め筋の迫力が消えてしまいます。ということで後手は☖7四歩と受けました。
ここは先手にふたつの手段があり,ひとつは☗7五桂。☖同歩でも銀が逃げても☗8三香が打てます。無視して攻め合ってくる手もありますので難解ですが,これはこれで先手にとっても有力な変化であったかもしれません。
実戦は☗5五桂 と反対側に打ちました。後手は☖5四銀 と逃げました。そこで☗9五角と打ったのですがこれが失着。☖8四歩と受けられて攻めが続きませんでした。
☗9四角のところでは☗7四馬とするべきでした。これには☖5五銀と桂馬を取るのが普通ですが☗8三香とわざとくっつけて飛車取りに打ちます。これだと☖7二飛と寄るほかないので☗9五角と王手に打つことができます。手筋は☖8四歩☗同角☖7三銀なのですが,そこで☗8二香成という妙手があって攻めが続くのです。この変化はむしろ先手が有望でした。
藤井竜王が勝って4勝2敗で防衛。第34期 ,35期 ,36期 に続く四連覇で4期目の竜王です。
自身がかつてスピノザと親しく交際し,現時点でも疎遠ではないということを明らかにしても,自身の立場には影響しないとステノ Nicola Stenoが考えることができたのは,そうしたことがカトリックの中で問題になることはないと考えたからです。そしてそのように考えることができたのは,カトリックの内部事情はそのようなものだとステノにはみえていたからでしょう。つまりこの部分からは,カトリックの当時の内部事情がどのようなものであったのかということ,少なくともステノにはそれがどのようにみえていたのかということを窺い知ることができるのです。
ステノはバチカン写本 を異端審問所に提出した後,イタリアを離れドイツに移って司祭としてカトリックの布教に務めました。これは実際にカトリックの内部において,ステノの書簡が問題視されなかったことを意味しています。ステノが司祭になったのがいつであったのかということについてはいくつかの説があり,書簡六十七の二 を書いた時点で司祭であった可能性が否定できません。もしそうであったのなら,ステノの書簡はステノが司祭の地位をはく奪されなければならないようなものではなかったということになるでしょう。逆にその時点ではステノは司祭ではなく,それよりも後に司祭になったのだとしたら,司祭になるにあたって書簡は何も影響しなかったということになります。つまりいずれにしてもステノの書簡がステノの立場に影響を与えたということはないのであって,これはステノの見通しが正しかったという意味でもありますが,それと同時に当時のローマカトリックはステノが見通した通りの状況であったという意味でもあります。つまり,司祭があるいは後に司祭になるであろう人が,スピノザとかつて支度し交際し,その後も疎遠な状況となっていたとしても,それが特に問題とはならないような状況に,このときのカトリックはあったわけです。
バチカン写本が提出されることによって,スピノザの遺稿集Opera Posthuma は禁書の扱いになりました。だからカトリックがスピノザの思想を問題視していたことは疑い得ません。なので『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』に示されている思想も問題視されていたと思われます。
昨晩の第75回全日本2歳優駿 。
コパノヴィンセントが前に出てミリアッドラヴが2番手になったところ,外からホーリーグレイルが追い抜いていき,ホーリーグレイルの逃げに。3馬身差で追い上げていったミリアッドラヴ。深追いしなかったコパノヴィンセントの内にハッピーマンが追い上げてきて2馬身差の3番手を併走。3馬身差でナチュラルライズ。2馬身差でソルジャーフィルド。2馬身差でウィルオレオールとグランジョルノ。6馬身差でジュゲムーン。4馬身差でキングミニスター。8馬身差の最後尾にカムイカルと非常に縦長の隊列。前半の800mは49秒7のハイペース。
3コーナーを回ると逃げたホーリーグレイルは一杯。ミリアッドラヴが自然と先頭に立ち,ハッピーマンが2番手にさらにナチュラルライズとソルジャーフィルドの追い上げ。先頭で直線に入ったミリアッドラヴは一旦は差を広げ,そこからまたハッピーマンが差を詰めてきましたが抜かせず,ミリアッドラヴの優勝。ハッピーマンが4分の3馬身差で2着。ソルジャーフィルドとナチュラルライズが競り合うところに後方からジュゲムーンが一気に追い上げてきて3着争いは大接戦。ソルジャーフィルドが1馬身半差の3着でナチュラルライズがハナ差で4着。ジュゲムーンがアタマ差の5着。
優勝したミリアッドラヴ はここがエーデルワイス賞 以来のレース。重賞連勝,デビューから3連勝での大レース制覇。縦長の展開でしたが超がつくほどのハイペースだったというわけではなく,スムーズに2番手を追走できたのが大きかったです。軽快なスピードを武器とするタイプにみえますので,1600mをこなしたとはいっても,さらに距離が延長することがプラスに働くようには思えず,むしろ距離短縮した方が能力を発揮しやすいように思われます。体重が大きく減っていたのも今後に向けては不安材料で,一息入れて立て直すことが必要かもしれません。母の父はスマートファルコン 。母のふたつ上の半姉に2017年のTCK女王盃 とエンプレス杯 を勝ったワンミリオンス 。Myriadは無数の。
騎乗した西村淳也騎手はスプリンターズステークス 以来の大レース2勝目。管理している新谷功一調教師は開業から4年9ヶ月で大レース初勝利。
ステノ Nicola Stenoが書簡六十七の二 の中に,スピノザの名前を出さず,また『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』という本の題名も出さなかったのは,もしかしたらステノ自身のうちに何らかの配慮があったからかもしれません。しかし,宗教的パンフレットとして公開されるなら,読む人が読めばこれはスピノザに宛てられたものであり,そこでいわれている本が『神学・政治論』であるということは,容易に理解できたと思われます。少なくともステノがそれを分からなかった,宛先がだれで本が何であるかを分かる人はだれもいないであろうと思っていたとは考えにくいです。仮にもしもステノがそう思っていたのなら,ステノはそのことについて楽観しすぎているといわざるを得ません。ですからステノは確かにそのことは理解して,書簡六十七の二を書いたと僕は想定します。
その上でステノはスピノザのことを,かつてきわめて親しかったし,今でも疎遠ではないと思っていると書いているわけです。なのでここからはふたつのことが読み取れるでしょう。ひとつは,自身がスピノザとかつて親密な交際をしていたし,今でもそれほど疎遠な関係というわけではないということが,このパンフレットを読む人物たちに知られても構わないと思っていたということです。これはある意味では驚くべきことです。これはスピノザの死後のことになりますが,フッデ Johann Huddeやライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizは自身がスピノザと関係があったことを秘匿したいと考えていたからです。それは自身の身の安全,より正確にいえば立場上の安全に関係するとかれらが考えていたからだと推察されます。ステノが書いたものが宗教的パンフレットであったすれば,公開されたのはまだスピノザが生きていたときであったと推察されますが,それでもステノは,自身がスピノザとかつて親密であったことはおろか,その時点でも疎遠とはいえないということが周囲の人びとに分かってしまったとしても構わない,つまり自身の身の安全にもカトリック信者としての立場上の安全にも影響を及ぼさないと考えていたことになるでしょう。
そしてもうひとつ,ステノがそのように考えていたのであれば,そう考える土台というものがあった筈なのです。
『なぜ漱石は終わらないのか 』の第九章で,長男の次男化 ということが論じられているのですが,これに関連することが,『こころ』の私と兄との間にもみられるのではないかと僕には思えました。
『こころ』の中の十五の最後のところで,私と兄が会話をする場面があります。これはふたりの父にいよいよ生命の危機が迫っているということが,ふたりにも理解できる状況でのものです。
兄が私に対して,ここへ帰ってきてこの家を管理する気はないかと尋ねます。要するに父の遺産を相続する気はないかという意味です。しかし父の遺産を相続するのは長男である兄ですから,私は兄が帰ってくるのが順だろうと答えます。すると兄はそんなことはできないといいます。それがなぜかは兄の口からは語られませんが,私は,兄は世の中で仕事をしようとする気に満ちているように感じます。
本来なら兄である自身が相続すべき家督を,次男である私に譲って,自分は田舎を出て都会で仕事をしようとすることは,ある意味では長男である兄の次男化であるといえるのではないでしょうか。ただこの文脈では,相続しなければならない家督が田舎にあり,父が死んでも母が残るので,相続する場合には田舎に引きこもらなければならないということになっていて,そのことを兄が拒絶したというようにも読めます。しかし一方で,この当時の長男の次男化の理由のひとつとして,こうした事情も含まれていたかもしれません。
ただし次の点は事実です。家督を相続した長男は,残された家族を養っていく義務がありました。この義務については明らかに兄は放棄しようとしています。これは兄が私に,家督を相続すれば働く必要がないと言っていることから明白です。つまり私の兄は,父が死んだ後に,母のことはともかく私のことを養っていくというつもりはさらさらないのです。これは明らかに次男化といえるのではないでしょうか。
書簡六十七の二 が公開書簡の形式であったから現にあるような内容になったとすれば,その影響によって,書簡六十七の二は書簡六十七 よりも,遺稿集Opera Posthuma に掲載する価値のある書簡になった可能性が残されます。この場合は,これらふたつの書簡によって,ステノ Nicola Stenoとアルベルト Albert Burghの人間性の相違を考察するのは危険が伴うことになります。僕はアルベルトが書簡六十七の二のような内容を有する書簡を書くことができたとは思いませんから,それを書くことができたというだけで,知性的にステノがアルベルトより優れていただろうと思いますが,ステノが書簡六十七のような書簡を書いた可能性の方は否定できないので,この書簡の内容だけで,ステノの人間性を評価することは避けなければならないと思うようになりました。
もうひとつ,この書簡が公開されることが前提とされていたとするなら,それは不特定多数の人が読むことを前提としなければならないわけですが,とくにカトリックの信者が多く読むことになるであろうということは容易に想像され,かつその中で高位にある人物も読むことになるという可能性があります。それが本当に公開書簡であったのなら,たぶんステノはそうしたことも前提としてそれを書いていたと思うのです。そしてその中でステノは,かつて自身がスピノザときわめて親しかったし,今でも疎遠ではないと思っていると書いているのです。
前もっていっておいたように,この書簡はスピノザ宛になっているわけではなく,新哲学の改革者宛となっていますし,本文の中にもスピノザの名前が出ているわけではありませんから,その新哲学の改革者というのがスピノザを指しているということは明示されていません。ここでいわれている新哲学というのは,当時の習いとしてデカルト René Descartesの哲学を指していることがだれにでも明白なのですが,その改革者がスピノザだけであったというようには断定できないからです。同様に,この書簡の中では『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』に対する言及もあるのですが,『神学・政治論』とはっきり書かれているわけではなく,新哲学の改革者が書いたといわれていて,ステノ自身もそう思っている本とだけいわれています。
8日の松山記念の決勝 。並びは山崎‐大槻の北日本,深谷‐松谷‐山賀の南関東,犬伏‐松本‐橋本の四国で浅井は単騎。
松本がスタートを取って犬伏の前受け。このラインの後ろは内の深谷と外の浅井でしばらく併走していましたが,深谷が譲り4番手に浅井,5番手に深谷となって8番手に山崎で周回。残り3周のバックから山崎が上昇を開始。犬伏の外に並んでホームへ。誘導が退避するタイミングで犬伏が突っ張り,コーナーで山崎は一時的に浮いてしまいましたがうまく下りてきて,浅井の内に潜り込んで併走のまま打鐘。深谷が大槻の後ろになった隊列から犬伏が本格的に発進。松本は犬伏との車間を徐々に開けていきました。バックから深谷が発進。待ち構えていた松本が合わせて牽制をしながら番手から発進。外を回らされた深谷もよく食い下がりましたが,松本に追いつくところまではいかず,優勝は松本。深谷が1車身差で2着。松本マークの橋本が8分の1車輪差で3着。
優勝した愛媛の松本貴治選手は防府記念 以来の優勝で記念競輪3勝目。松山記念は2021年 にも優勝していて2勝目。このレースは犬伏の先行が有力で,松本の二段駆けが見込めるところ。それを脚力で上位の深谷が捲れるかが焦点。この焦点通りのレースになりました。松本がただ番手から捲っていくのではなく,深谷を牽制するように発進していったのがうまく,最後まで抜かせないことに成功。純粋な脚力勝負になっていれば少なくとももっと差は詰まっていたでしょうし,あるいは深谷の逆転まであったかもしれません。
吉田がいうように,書簡六十七の二 は,スピノザに宛てられたわけではなく,パンフレットのような公開書簡であったとしてみましょう。この場合は考慮しておかなければならない点があります。
書簡六十七 と書簡六十七の二の大きな差異は,何度もいっているようにその内容にあります。アルベルト Albert Burghはスピノザに対して憎悪のような感情affectusを抱いていて,それを剝き出しにしています。しかしステノ Nicola Stenoの書簡からスピノザに対する憎悪のような感情はみられません。むしろ感情としていえば,憐れみcommiseratioに近いものが感じ取れるのであって,誤った道に進んでいるスピノザを,カトリックという正しい道に誘導しようという,一種の心遣いが感じられます。
憎悪を剥き出しにして罵詈雑言を浴びせるのも,憐れみを抱いて道を正そうとするのも,自身の立場が正しいということでは一致しているのであって,上から目線をスピノザに対して発しているという点ではアルベルトもステノも同じといえます。しかし,罵詈雑言を浴びせるのと,相手を正しい道に導こうとするのでは,読み手の印象は明らかに異なるでしょう。アルベルトの書簡はスピノザという個人に向けられたものですから,スピノザがどういう印象を抱いたとしてもアルベルトには関係ないといえます。ですからアルベルトは躊躇なくスピノザに罵詈雑言を浴びせることができます。しかしステノの書簡は公開されることが前提とされているとしたら,それを読むのはスピノザであるとはいえないのであって,不特定多数の人がその書簡の相手になっているとみることができます。当然ながらステノは書簡を書くにあたって,そのことを意識するでしょう。したがってもしその内容が憎悪に満ち満ちたもので,スピノザに対する罵詈雑言に溢れていたとしたら,それを読んだ人の印象は甚だ悪くなるでしょう。なので,書簡六十七の二の内容が,現にあるもののようになった要因が,これが公開書簡であったという点にあったかもしれないことになります。逆にいえば,本当はステノはスピノザに対して憎悪を抱いていたのであって,もしスピノザ宛に書簡を書けば,アルベルトと同じようなものになっていたかもしれません。
香港のシャティン競馬場で行われた昨日の香港国際競走。
香港ヴァーズGⅠ 芝2400m。
プラダリアが逃げてステレンボッシュは最後尾。3コーナーから外を回って捲り上げたステレンボッシュが一旦は先頭。内から2頭に差されて勝ち馬から3馬身半差の3着。4コーナーを回って一旦は後続を引き離したプラダリアは13馬身半差で11着。
香港スプリントGⅠ 芝1200m。
サトノレーヴが内,ルガルが外の7番手を併走し,その後ろにトウシンマカオ。ずっと内を回って直線だけ逃げ馬の外に出されたサトノレーヴが一旦は2番手。外から差されて4分の3馬身差で3着。残りの2頭は見せ場を作れず,トウシンマカオが5馬身差の9着でルガルは7馬身4分の3差で11着。
香港マイルGⅠ 芝1600m。
ジャンタルマンタルは4頭が横並びの発馬後から単独の3番手に。ソウルラッシュは前半は7番手の外にいましたが道中で13番手まで下がりました。直線で大外から追い込んできたソウルラッシュが1馬身4分の1差で2着。直線で後退したジャンタルマンタルは9馬身差の13着。
香港カップGⅠ 芝2000m。
タスティエーラは外の4番手から向正面で単独の2番手まで進出。発馬後に控えたリバティアイランドは8番手。直線で大外から脚を使ったリバティアイランドが1馬身半差で2着。3コーナーから差を詰めていき,直線で一旦は先頭に立ったタスティエーラは2馬身4分の3差で3着。
遺稿集Opera Posthuma への書簡の掲載規準がここまで検討してきたことであれば,書簡六十七 は遺稿集に掲載され,書簡六十七の二 が掲載されなかったことの説明がつきます。スピノザは書簡六十七に対しても返事を書くつもりがなかったのですが,若干の友人,たぶんアルベルト Albert Burghの家族でかつて自身が世話になったことがあったかもしれないコンラート・ブルフからの依頼があったので,しばしの時間の経過の後に書簡七十六 を返信として出しました。ステノ Nicola Stenoもスピノザの友人であったものの,元々はデンマークからオランダに移ってきたのであり,アルベルトより早くイタリアに移りました。ですからステノに対して返信を書くように依頼するような人はスピノザにはいませんでした。書簡の内容だけでいえば,アルベルトからの書簡に返信をするならば,ステノからの書簡に返信する方が返信の価値は高かったと僕には思えますので,確かにスピノザがアルベルトに返信をしたのは,他者からの依頼があったからだと推測されます。
しかし一方で,純粋に遺稿集に掲載する価値の高さでいえば,書簡六十七よりも書簡六十七の二の方が高かったのは間違いありません。ですから吉田がいっているように,書簡六十七の二はスピノザに送られたわけではなく,公開書簡のようなものであったという説は,僕にはしっくりとする説なのです。スピノザに宛てられたものでなかったのだとすれば,原書簡というものがスピノザの手許に残りませんから,遺稿集の編集者たちがそれを発見して遺稿集に掲載するということは不可能であるからです。一方で書簡六十七の方は確かにスピノザに宛てられたものですから,原書簡か,スピノザが書き直したものがスピノザの手許にはあったのであり,だからそれは遺稿集に掲載することができたのです。つまり,書簡六十七と書簡六十七の二に対する遺稿集の編集者たちの選別の規準は,それにスピノザが返信を書いたか書かなかったかということであったかもしれませんが,そもそも原書簡がスピノザの遺稿として残されていたか残されていなかったかという相違に還元することができるかもしれないのであって,むしろそちらの方が,僕には説得力があります。
アメリカから1頭が遠征してきた第76回阪神ジュベナイルフィリーズ 。松岡騎手が7日の中京5レースの騎乗中に右足を負傷したためミーントゥビーは古川吉洋騎手に変更。クリノメイが枠の中で激しく暴れたため危険防止のため外枠から発走。
先手を奪ったのはミストレス。リリーフィールドが2番手で追い,3番手にモズナナスターとショウナンザナドゥ。メイデイレディが5番手。その後ろはテリオスララとカワキタマナレアとアルマヴェローチェ。ランフォーヴァウを挟んでダンツエランとブラウンラチェットとミーントゥビー。ビップデイジー,スリールミニョン,ジャルディニエ,ジューンエオスの順で続きコートアリシアンとクリノメイが並んで最後尾を並んで追走。前半の800mは46秒5のミドルペース。
直線に入るところでは内からモズナナスター,ミストレス,リリーフィールド,ショウナンザナドゥの4頭が併走。モズナナスターとミストレスの間にテリオスララが突っ込んできました。ショウナンザナドゥの外から並んで追い上げてきたのがアルマヴェローチェとビップデイジー。この2頭が内の各馬を差して優勝争い。先んじていたアルマヴェローチェが抜け出して優勝。ビップデイジーが1馬身4分の1差で2着。テリオスララが1馬身4分の3差の3着でショウナンザナドゥがアタマ差で5着。
優勝したアルマヴェローチェ は重賞初勝利での大レース制覇。8月に札幌の新馬戦でデビュー戦を勝つとそのまま札幌2歳ステークスに出走して2着。ここはそれ以来のレースでした。このレースは前走で上位の支持を集めて勝った馬が強い傾向で,この傾向には合致していませんでしたが,わりと大きな差をつけて勝ちました。ただ2着馬も3着馬もそれほどの支持を集めていたわけではありませんから,例年ほどのレベルにあったのかがやや疑問視されます。来年以降の活躍も例年の勝ち馬ほどは確実視することができないかもしれません。母の父はダイワメジャー で祖母の父がサクラバクシンオー 。母の2つ下の半弟に2016年の京王杯2歳ステークスを勝ったモンドキャンノ 。Armaはイタリア語で武器。
騎乗した岩田望来騎手は2022年のJBCレディスクラシック 以来の大レース2勝目。管理している上村洋行調教師は大阪杯 以来の大レース2勝目。
ブレイエンベルフ Willem van Blyenburgからの書簡十八を受け取ったスピノザは,相手のブレイエンベルフが有能な人物だと思い,返事を書きました。その後の文通の中でそれはスピノザの錯覚であり,ブレイエンベルフは単に反動的な人物であるということがスピノザにも分かってくるのですが,それでもスピノザはブレイエンベルフからの書簡に返事を書きました。スピノザが最後にブレイエンベルフに宛てたのが書簡二十七で,その内容からは遺稿集Opera Posthuma に掲載されなかったブレイエンベルフからの書簡があったことが確定できます。このことから,ブレイエンベルフがスピノザに宛てた書簡のうち,遺稿集に掲載されたのは,スピノザが返事を書いたものだけであったことが理解できます。スピノザが書いていることにはスピノザの思想を理解するうえで役立つ点が含まれていますから,それを遺稿集に掲載する価値は確かにあったと僕は思います。しかしブレイエンベルフの書簡の方は,冗長といっていいほどのものでそのすべてを,遺稿集に掲載する価値があったようには思えません。ブレイエンベルフの書簡と比較すれば,ステノ の書簡の方がよほどまともなものだと僕には思えます。
フーゴー・ボクセル Hugo Boxelとスピノザの間での書簡のやり取りは,現在の僕たちからみれば大した内容を含んでいません。当時はそうでもなかったのだという識者の見解opinioがあり,スピノザが返事を書いているのですから,確かにそうであったかもしれません。ただこのやり取りも,スピノザのいっていることのうちにスピノザの思想を理解するのに役立つ部分があるから遺稿集に掲載する価値があったということは僕は認めますが,ボクセルが主張していることの主眼となっている部分が哲学的に価値があるといえるのかといえば,僕にはそうでなかったとしか思えません。ただスピノザが返事を書いているので,返信が書かれたボクセルからの手紙の方も掲載されるに至ったというように思えるのです。
これらの事例から分かるように,スピノザに宛てられた書簡が遺稿集に掲載される際の規準のひとつに,スピノザがその書簡に対して返信をしているのか否かということが,確かにあったように僕には思われるのです。
第四部定理六五証明 にあたっては,第四部定理六三系 が大きな役割を果たしています。『エチカ』における系Corollariumの中には,証明Demonstratioが付されていないものもあります。その場合は系はその定理Propositioからの帰結事項であるということになります。しかし第四部定理六三系については,スピノザは証明をしています。そこでスピノザがこの系をどのように証明しているのかということを詳しくみておきましょう。
まず理性ratioから生じる欲望cupiditasがどこから生じるのかといえば,それは能動的な喜びlaetitiaから生じるのです。欲望は大別すれば喜びを希求するか悲しみtristitiaを忌避するかのいずれかですが,理性から生じるといわれる限り,それが受動的な感情affectusから生じるということがあり得ないのはそれ自体で明らかであり,第三部定理五九 によれば,能動的な喜び,いい換えれば理性から生じる喜びはあるので,その喜びから生じる欲望だけが,理性から生じる欲望であるといわれることになるのです。
こうした喜びは過度にはなり得ません。というのは過度な喜びというのが十全な観念 idea adaequataから生じるというのはそれ自体で矛盾ですから,理性から生じる喜びは常に適度な喜びであるということになります。『エチカ』にはこのことを示した定理がありますので,その定理についてはいずれ詳しく紹介します。
いずれにせよ,理性から生じる喜びは,過度にはなり得ない喜びから生じるのであって,悲しみからは生じません。よってこれは第四部定理八 により,善bonumの認識cognitioから生じることはあっても悪malumの認識から生じることはないのです。よって僕たちは,理性の導きに従っている限りでは,直接的に善に赴くことになりますし,直接的に善に赴くという限りで,つまり間接的に,悪を逃れるということになるのです。
コンラート・ブルフがスピノザの知り合いであった可能性はかなり高いです。しかもスピノザはかつてコンラートに世話になった時期があったことも否定できません。したがってコンラートがアルベルト Albert Burghに書簡を書いてほしいとスピノザに依頼したら,スピノザは無碍にそれを断ることはできなかったと想定できます。なので書簡七十六 に書かれている若干の友人の中に,コンラートが含まれているという想定も,突飛なものであるとはいえないことになります。実際に岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』の訳者である畠中尚志は,この書簡は友人や家族からの懇願によって書かれたものであると解説しています。
いずれにしてもスピノザはステノ Nicola Stenoには返信は書きませんでしたが,アルベルトには書きました。そしてこれは遺稿集Opera Posthuma に掲載されています。その関係で,アルベルトからスピノザに宛てられた書簡六十七 は遺稿集に掲載されたのだけれども,ステノからの書簡六十七の二 は遺稿集に掲載されなかったのではないかと僕は考えてきました。これはこれで一定の根拠にはなる解釈だと僕は今でも思っています。
フッデ Johann Huddeからスピノザに送られた書簡は遺稿集には掲載されず,スピノザからフッデへの返信だけが,フッデ宛ということを隠していたとはいえ掲載されました。このようになったのは,遺稿集の編集者たちのフッデに対する配慮によるものです。また,スピノザがマイエル Lodewijk Meyerに宛てた書簡十二 は遺稿集に掲載されましたが,そこに書かれているマイエルからの書簡は掲載されていません。これは編集者であったマイエルの意向によると推定され,実際に書簡十五 は遺稿集にも掲載されませんでした。書簡十二というのは,無限なるものの本性についてという副題のついた有名な書簡であって,すでに友人たちの間では閲覧されていたものですから,さすがにこの書簡の遺稿集への掲載を見送るということはマイエルにもできなかったのだと思われます。
これらは例外であって,基本的にスピノザが返信を出した書簡が遺稿集に掲載されたケースでは,その返信の基となった書簡も遺稿集に掲載されています。逆にいえばそれはスピノザ宛の書簡が掲載される条件なのです。
昨晩の第1回ジェムストーン賞 。
逃げたのはプリムスパールス。内からチートメジャーとヤマノファルコン,外からノブハッピーホースとヨシノダイセンが追っていきました。これらの後ろにラブミーメアリーとユルリとシナノクーパー。ジョイフルロック,フレンドローマ,ミラクルメイキング,オニアシの順で続き3馬身差でスキャロップ。最後尾にプローラーティオーという隊列。前半の600mは35秒0の超ハイペース。
3コーナーでプリムスパールスのリードは2馬身くらい。ヨシノダイセンが単独の2番手となり,内からヤマノファルコンが追い上げてきました。直線に入ると逃げるプリムスパールスと追うヨシノダイセンの間をヤマノファルコンがこじ開けようとして3頭の競り合い。そこからプリムスパールスがまた引き離していき,楽に逃げ切って優勝。ヨシノダイセンの外から追い上げてきたフレンドローマが4馬身差で2着。大外から追い込んだミラクルメイキングがクビ差で3着。ヨシノダイセンが半馬身差の4着でヤマノファルコンがクビ差の5着。
優勝したプリムスパールス は南関東重賞初勝利。デビュー戦で2秒2もの差をつけて勝つとゴールドジュニアに出走して最下位。3戦目の特別戦は2馬身半差で快勝しこのレースに出走しました。大井が2度目だったこと,距離が1200mになったことが勝因としてあげられます。この時期の1200m戦ですから様ざまなキャリアの馬が出走していたレースで,馬券面からは難解でしたが,結果は圧勝になりました。ただレース全体のレベルがどうであったのかは疑問が残るところ。この馬は現状は1400mでも長いというタイプの馬だと思います。父はベストウォーリア 。母の父はダイワメジャー 。
騎乗した船橋の澤田龍哉騎手は昨年のプラチナカップ 以来の南関東重賞5勝目。管理している船橋の米谷康秀調教師は南関東重賞2勝目。
アルベルト Albert Burghがファン・デン・エンデン Franciscus Affinius van den Endenのラテン語学校で学んでいた時代,上演した演劇のいくつかにおいてスピノザと共演したということが,『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』では確定的に記述されています。『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt 』について検討したときにいったように,エンデンのラテン語学校では演劇が授業のひとつとして行われていたのですが,これは演劇を通して生徒がラテン語を学ぶことを意図していただけでなく,観客を入れて上演し,収入を得ることも目的としていました。ここでいわれている上演は,そうした上演と思われます。ナドラーSteven Nadlerは資料も示していますので,このことは史実と確定してよさそうです。
ラテン語学校で学んだ後,アルベルトはライデン大学に入学しています。これが何年のことであったかが正確に書かれていないのですが,少なくともステノ Nicola Stenoとアルベルトが同窓生であったことは間違いありません。なのでステノとアルベルトがその時点で出会っていた可能性は否定できません。そしてステノがライデン大学で学んでいた頃はスピノザはライデンLeiden近郊のレインスブルフ Rijnsburgに住んでいて,おそらくライデン大学に出入りしていました。よって書簡七十六 でいわれているように,アルベルトとスピノザがステノについて語り合ったことがあるというのは,状況として不自然でないことになります。もっともこれは状況についての説明で,書簡七十六の内容について疑わなければならないような理由はありませんから,スピノザ,ステノ,アルベルトの3人が,互いに互いを知っていたということは史実として確定して問題ありません。
いずれにしてもアルベルトとスピノザは,ファン・デン・エンデンのラテン語学校において知り合っていたのは間違いありませんし,おそらくアルベルトがライデン大学に入学した後も会っていたでしょう。したがって,スピノザがコンラート・ブルフの家で世話になっていたという可能性が否定されたとしても,スピノザとアルベルトの父親であるコンラート・ブルフが知り合いであり得たことになります。ですからコンラートがスピノザに対して,アルベルトに書簡を書いてほしいと依頼するケースもあり得ます。
昨晩の第16回勝島王冠 。
キングストンボーイはタイミングが合わず1馬身の不利。ランリョウオーが逃げて2番手にサヨノネイチヤ。巻き返したキングストンボーイが3番手に追い上げ4番手にパワーブローキング。5番手にヒーローコール。6番手にキタノオクトパス。その後ろはリンゾウチャネル,コラルノクターン,ユアヒストリー,アイブランコの4頭。2馬身差でモダスオペランディとゴールドハイアー。3馬身差でマースインディ。4馬身差でクリノドラゴン。最後尾にアポロビビ。最初の800mは49秒5のミドルペース。
3コーナーでランリョウオー,サヨノネイチヤ,キングストンボーイの3頭が併走に。2馬身差でパワーブローキング。さらに2馬身差でキタノオクトパス。コーナーで外からキングストンボーイが前に出ようとしたのでサヨノネイチヤが対抗し,ランリョウオーはここで後退。サヨノネイチヤとキングストンボーイが並んで直線に。直線でも競り合いましたが,外のキングストンボーイが決着をつけ,そのままサヨノネイチヤを引き離して圧勝。サヨノネイチヤが5馬身差で2着。パワーブローキングが2馬身差の3着。後方から大外を追い込んだマースインディが4分の3馬身差で4着。マースインディの内から並んで伸びてきたユアヒストリーがハナ差の5着。
優勝したキングストンボーイ はこのレースがJRAからの転入初戦。5月にオープンで2着になっていましたから,頭打ちでの転入ではなく,南関東重賞ならすぐに通用する力量がありました。サヨノネイチヤは帝王賞も南部杯も競馬にはなっていたので強敵でしたが,3キロの斤量差があれば負かすこともあり得るとみていましたが,想像以上の差がつきました。この開催の大井競馬は早い時計での決着が目立っていたのですが,そういった馬場状態に対する適正の差もあったのかと思います。大レースは厳しそうですが重賞なら通用しそう。南関東重賞に出走するなら常に優勝候補でしょう。父はドゥラメンテ 。3つ上の半兄に2018年の皐月賞 を勝ったエポカドーロ 。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は黒潮盃 以来の南関東重賞72勝目。第13回 以来となる3年ぶりの勝島王冠2勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞11勝目。勝島王冠は初勝利。
スピノザからアルベルト Albert Burghへの返信は書簡七十六 で,1675年12月にハーグDen Haagから出されています。以前にステノ Nicola Stenoについてスピノザとアルベルトが語り合ったことがあったということを史実として確定させる内容を含んだ書簡です。書簡六十七 はこの年の9月に出されたものですから,スピノザはおよそ3ヶ月が経った後に返信を書いたことになります。
期間が開いたことについては,この書簡の冒頭でスピノザが記しています。それによれば,スピノザはアルベルトからの書簡には返事を書くつもりがありませんでした。なぜなら,カトリックの闘士となってしまったアルベルトを家族の元に引き返すために必要なのは,理性 ratioによる説得ではなく,時間tempusの経過であるとスピノザは考えていたからです。しかしアルベルトの才能に期待をしていた友人たちが,スピノザに対して,アルベルトの友人としての義務を果たすように,というのはアルベルトのことを理性的に説得するようにという意味ですが,そのような依頼をしきりにするので,それに心を動かされて書簡を書くことをスピノザは決意したのです。
ここでは若干の説明が必要です。スピノザは友人の意見opinioに心を動かされたといっていますが,実はスピノザはアルベルトだけでなく,アルベルトの家族とも親しかったと思われます。実際にスピノザは,アルベルトをアルベルトの家族の元に引き戻すのに必要なことが何かということを語っているわけですから,友人の依頼というものの中には,アルベルトの家族からの依頼も含まれていたと考えられるのです。
スピノザがユダヤ人共同体から追放された後,レインスブルフ Rijnsburgに住むようになるまでの間のことは,史実として残されている歴史的資料が少なく,よく分かっていません。ただその間に,コンラート・ブルフ,これはアルベルトの父ですが,そのコンラート・ブルフの家に滞在していた可能性が『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』で指摘されています。コンラートはアムステルダムAmsterdamの裕福な裁判官で,コレギアント派collegiantenに同情的であったとされています。アルベルトの方はファン・デン・エンデン Franciscus Affinius van den Endenのラテン語学校に入学したので,そこでスピノザと親しくなったといわれています。
⑲-14 の最後のところでいったふたつの手の思想をミックスする順というのは,次のようなものです。
⑲-10 の第2図では,まず☗7四銀と打ちます。これには☖同飛の一手で☗6三銀の王手飛車取りを掛けます。これにも☖7一王です。
ここで☗7四銀成と飛車を取ってしまうのは⑲-13 の変化に進んで先手の負けです。
⑲-13の第2図の☖6六金を打たせないというのが⑲-14の変化でした。なので上の図で飛車を取らずに金の方を取る☗2二角成というのが,ふたつの思想をミックスした手になります。
銀を渡したのに飛車を取らず金の方を取るというのはとても考えにくい順です。ところがこの図は先手の勝ちなのです。ここから後手が先手玉を攻めてくることになりますが,先手がそれをどう受けていくのかということをこれから検討していくことになります。
これまでに何度か書いてきたことではありますが,僕はかねがね書簡六十七の二 が遺稿集Opera Posthuma に掲載されなかったことを不思議に思っていました。これは次のような事情によります。
この書簡は20世紀になってから発見されたものです。現在の『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』はゲプハルト Carl Gebhardtが編纂したものが元になっているものが多いのですが,この書簡はその編纂よりも後になって発見されたものなので,後に加えられました。その際に書簡六十七の二として,収録されたのは,この書簡が書簡六十七 と関連したものであったからです。
書簡六十七はアルベルト Albert Burghがスピノザに送ったものであって,ステノ Nicola Stenoが書簡六十七の二の中でスピノザにしているように,カトリックの立場からスピノザの思想を批判するものです。なのでここに挟まれることになりました。書簡六十七には1675年9月3日付という記述があります。書かれた時期もそれほど変わらないとみられているのです。
書簡六十七の方は遺稿集に掲載されました。ところがその内容は,確かにカトリックの立場からスピノザの思想を批判することを企てているものの,書簡六十七と書簡六十七の二との間には大きな相違があります。書簡六十七というのは単にアルベルトがスピノザに対して罵詈雑言を浴びせているだけの内容なのですが,書簡六十七の二はそのような罵詈雑言はみられず,むしろそういってよければ知性的にスピノザを説得しようとしているのであり,と同時に,スピノザがその説得に応じることはないだろうということをステノ自身が心得ているような記述になっているのです。したがって,書簡六十七と書簡六十七の二を比較したときに,どちらが遺稿集に掲載するに相応しい内容を有していたのかといえば,これは圧倒的に書簡六十七の二の方なのです。ところが遺稿集の編集者たちは,書簡六十七の方は遺稿集に掲載したのに書簡六十七の二の方は掲載を見送りました。これが僕には不思議に思えてならなかったのです。
書簡六十七と書簡六十七の二に書簡六十七の方を優先的に遺稿集に掲載する理由がなかったというわけではありません。スピノザはアルベルトには返信を送っているからです。
大垣記念の決勝 。並びは中野に瓜生,森田‐坂井‐白岩の関東,山口‐不破の岐阜,松浦‐中本の西国。
坂井と白岩がスタートを取りにいって森田の前受け。4番手に松浦,6番手に山口,8番手に中野で周回。残り3周のバックの出口から中野が上昇していくと,山口が合わせて出ていきました。残り2周のホームで誘導との車間を開けて待っていた森田,山口,中野の3人が併走となり,外から中野が前に出ました。内の森田は番手に飛びつきにいったので,中野の後ろは内の森田と外の瓜生で併走。その後ろが内の山口と森田マークの外の坂井で併走になって打鐘。隊列が短くなって松浦が発進。ホームで中野を叩きましたが,中野が番手に嵌り,松浦マークの中本は中野の後ろに。バックから坂井が自力で発進。すぐに松浦を捲りました。山口が坂井にスイッチしたのですが,松浦の牽制を受けて失速。このために坂井が後ろを離して優勝。立て直した山口が3車身差で2着。松浦が2車身差で3着。
優勝した栃木の坂井洋選手は前回出走の岸和田のFⅠから連続優勝。2021年11月の四日市記念 以来となる記念競輪2勝目。このレースは熊本勢がふたりいたのですが,中本は松浦,瓜生が中野の後ろを選択したので,それぞれにラインのある4分戦になりました。マーク選手よりも自力の選手の方が力量は上だったので,並びが出た時点で自力型の力勝負になると予想。坂井は自力があってかつ森田をマークできるのでチャンスはあるとみていました。森田が飛びつきを狙うレースになったので,マークを外すような形で山口の外を並走になったのですが,かえってそれが幸いしました。マークを守って山口と内と外が逆になっていたら,優勝は山口だったかもしれません。
書簡六十七の二 でステノ Nicola Stenoがスピノザのことを今でも疎遠ではないというとき,この今というのいうのが当然ながらステノがこの書簡を書いている時点の今であるということは明白です。この書簡は1675年にフィレンツェで書かれたものと推定されますから,その時点でもステノはスピノザを疎遠ではないと思っていたことになるでしょう。なお,この書簡にはスピノザの名前は出ておらず,宛先は新哲学の改革者となっていますし,書簡の文中ではあなたといわれていますが,それがスピノザを意味することは間違いありません。また,この書簡の冒頭に,あなたの著作であると他人がいい,ステノ自身もいろいろな理由からそのように思っている本,という表現がありますが,この本が『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』を意味することも間違いないでしょう。
ですから,ステノはオランダを離れてイタリアに移っているのですが,イタリアに移ってからも,ステノはスピノザの,またスピノザはステノの,動向といったものをある程度は知っていたと解するのが自然であると思います。なので1669年にイタリアで著した自身の本を,ステノがスピノザに贈ったということは,たぶん史実なのではないかと思います。吉田はスピノザとステノの交わりがどの程度まで親密なものであったのかは分からないとしていますが,もちろんたとえばマイエル Lodewijk Meyerとかシモン・ド・フリース Simon Josten de Vriesといったような,スピノザの親友たちとの交わりに比較したならそれほど親密ではなかったといえるでしょうが,スピノザと面会したことがある人物のうちブレイエンベルフ Willem van Blyenburgとかライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizと比べたら,少なくとも遜色なく,あるいはそれ以上に親密であったと考えてよいように思います。
それから吉田は書簡六十七の二は,スピノザに宛てられた書簡であったわけではなく,公開書簡の形式で書かれた一種の宗教的パンフレットだったのではないかと推測しています。そしてそのことの根拠として,もしもこれがスピノザに宛てられて書かれたものであったとしたら,スピノザはそれを保管しておいた筈だから,それが遺稿集Opera Posthuma に掲載されなかったのは不自然であるということをあげています。これは説得力があります。
天龍の雑感㉑ の続きです。
天龍とジャンボ・鶴田 は,1990年4月19日に横浜文化体育館でシングルマッチを行いました。この試合が天龍の全日本での最後の試合となり,SWSに移籍しています。この試合の前のことはいろいろな仕方で語られているのですが,僕は概ね以下のようなことがあったのだと推定しています。
鶴田と天龍はこの当時,何度もシングルマッチを行っていました。そこでこの日の試合については,今までにはなかったような試合をしたいと天龍は考え,流血を伴なうような試合にしたいと思ったので,鶴田の了解を得るために,レフェリーであった和田京平を通してその旨を鶴田に伝えました。ところが鶴田はそのような試合にはしたくなかったので,それを断りました。和田にそれを伝えられた天龍は,その試合に対するやる気を失ってしまいました。この試合は鶴田が勝っているのですが,鶴田と天龍のシングルマッチとしては凡戦の部類に入ります。
このことが天龍の全日本プロレスの離脱に直接的に影響したというようには僕は考えていません。たぶんSWSからの話はこの試合よりも前に天龍に届いていたと僕は推測しているからです。ただもしも鶴田が天龍の呼び掛けに応じ,天龍が満足できる試合内容で勝っていたら,全日本を退団することが困難になっていたかもしれません。
鶴田が天龍の呼び掛けに応じなかったのは,天龍自身が推測しているように,すでにこの時点で鶴田は自身が肝炎のキャリアであるということを知っていたからかもしれません。鶴田がそれを知ったのは,長州力 との初めてのシングルマッチが鶴田の負傷により流れ,そのときの詳しい検査によるものだったようですが,それが発見されたということは,たぶん馬場は知っていたのではないかと思いますが,ほかの選手には伏せられていました。なのでこのとき以降,鶴田は流血を伴なうような試合をすることは避けていたようです。これは万が一そうした試合によって相手にキャリアが感染するのを防ぐための鶴田の配慮だったと思われます。
ステノ Nicola Stenoは1661年から1663年にかけて,ライデン大学に滞在していました。オルデンブルク Heinrich Ordenburgがスピノザを訪ねたのは1661年のことで,このときスピノザはレインスブルフ Rijnsburgにいたことになります。レインスブルフはライデンLeidenの郊外ですから,ステノとスピノザが友人になったのは,この時期のことであったと推定されます。
レインスブルフでスピノザが住んでいたのは,コレギアント派collegiantenであったヘルマン・ホーマン Hermann Homanの家です。スピノザはこの家にカセアリウス Johannes Caseariusを寄宿させ,デカルト René Descartesの哲学を講義しました。カセアリウスはライデン大学の学生であったと『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』には書かれています。後にこの講義がまとめられて『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』として出版されるのですが,この出版が1663年です。ですからこの時代にライデン大学に滞在していた人,というのは教授も学生も含めてということですが,その中にはスピノザと知己だった人が少なくないと思われます。ナドラーSteven Nadlerは,スピノザはライデン大学の関係者であったわけではないけれど,講義のいくつかを聴講していたと推定していますから,もしそれが事実であれば,ライデン大学に滞在していたステノとスピノザが友人になることも不自然ではないでしょう。
もっともこれは友人となる契機のことであって,スピノザがステノと友人であったということは歴史的事実として確定させることができます。スピノザがアルベルト Albert Burghに宛てた書簡七十六 の中で,かつてアルベルトとスピノザがステノについて語り合ったとされていて,このふたりがステノについて語り合うことができたのは,ステノがふたりにとっての共通の知人であったからにほかなりません。また,書簡六十七の二 においては,ステノがスピノザのことを,かつて私ときわめて親しかったし,今でも疎遠ではないと思う方,と表現しています。この書簡はスピノザのことを論難することを意図したもので,そうしたものの中でわざわざこのようにステノがいっているのですから,スピノザとステノが親しい友人であったことについては疑う必要がないと思います。
ステノは以前に親しかっただけでなく,今でも疎遠ではないといっています。