書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

放射線検出。

2011年11月22日 21時19分19秒 | 日記
 放射線測定器について軽くググってみた。

 ガイガー計数管とかいうのを用いるものと、半導体を用いるものがあるそうで、α線とかβ線とかγ線とか、それぞれ計れるものと計れない放射線に違いがあるそうだ。

 ガイガー計数管も、放射線が飛び込む側の「窓」に雲母という脆い材料を用いることでα線も計測できるんだそうで、そうなると衝撃で簡単に壊れたりするので取り扱いがとても神経質なんだそうだ。

 エステーが大量生産しているのは半導体式だそうで、多分γ線しか計測できないのかも知れない。それでも放射線の大まかな「数」だけは計れるそうだ。

 「数」だけを計っても、一つの放射線が持つエネルギーまでは計測できないそうで、専門的にはかなりややこしそうである。

 科学実験で有名なでんじろうさんが作っていたブタンガスを用いて静電気で放射線を計測する装置は、管の中に空気が混入するとスパークして爆発するかも知れない。フィルムケース程度の大きさなら、そんなに危険ではないのかも知れないが。
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弱い。

2011年11月22日 20時53分10秒 | 日記
 意識に関する話ばかりしていると、アクセスIPが激減する。

 まあ、書いている本人が面倒臭いので、文章が読み難くて読むのはもっと面倒臭いのかも知れない。




 そういえばNHKのクローズアップ現代で、若者の心が弱いだとか言っていた。

 鬱などの気分的悪さというのは、実際には「強い。」とか「弱い。」で測るようなものであはない。

 認知行動療法のように、論理的に考えれば悩み事だと「思い込んで。」いただけの心理的拘束が原因であることがほとんどで、それは考えが初めから成立していなかっただけのことに過ぎない。

 それは何ら「強い。」とか「弱い。」といった問題ではなく。意識が余計な悩み事に囚われているだけのことに過ぎない。

 前にも一度書いたことがあるが、気分的な憂鬱感というものは、副腎皮質ホルモンであるカテコールアミンだとかコルチゾールが脳に働いているだけのことであり。客観的に見れば大脳辺縁系が勝手に反応しているだけのことに過ぎないのである。

 要するに暇なのか。クソゲーとか流行らしているしな。痴漢は増えているしな。交通死亡事故は減ったらしいけど。ブレーキ無し自転車が自慢になると思っているらしい。

 折角不安物質が脳に働いているのであれば、むしろ興奮物質を分泌するように、何かに没頭すれば良いのである。

 不安物質というのは興奮物質によって補えるように出来ている。そもそも空腹がイライラするのは、大脳辺縁系が行動を促すように出来ているからである。

 自分の脳の取り扱い方くらい、自分でなんとかしとけ。何のために学んだんだ。何にも応用できない知識が自分の人生に何の価値があるんだ。

 ちょっとノルアドレナリンが過剰気味か。イライラしてきたので今日は終わる。風呂でも入ろ。
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問題意識。

2011年11月22日 20時52分29秒 | 意識論関連
 ヒトという種の生物に普遍的に見られる習性として。多数他人から気に入られたい、嫌われたくないという感情によって現状に簡単に迎合してしまう傾向がある。

 ミルグラムらのアイヒマン実験においても、権威の機嫌を損ねぬように服従してしまうのも、こうした「他人からの目。」に強迫観念的に怯えるヒトの性質が関わっている。

 こうした周囲の多数他人や権威の機嫌を窺うヒトの性質というのは、自律的思考判断を阻害することはあっても、自律判断を促すことはない。


 生物学的社会形成習性というものは、気に入られたい服従対象の喪失によって結果的に服従させていないといられない強迫観念によって暴力性を発揮することになるのである。

 シツケの良いイヌがむやみに吠えないのは、服従対象として飼い主への信頼によって不安を持たないだけであり。イヌ自身が自律的に自己の行動を選択しているわけでも何でもない。

 こうした生物学的社会形成習性というものを利用すれば、安心して地下鉄に毒ガスを散布することも可能となるのである。

 現在の生物学、脳科学に対して誰も異議を唱えないのも。要するに生物学的社会形成習性によって、権威の言っていることに気分的に「安心。」しているためである。ヒトは安心していると何も「怖く。」ないのである。

 ヒトという種の生物において、最も純粋に生物学的社会形成習性を発揮しているのが、暴力団やテロリスト達である。生物学的社会形成習性というのは、大脳辺縁系のシーケンスに従って群れのリーダーは暴力性を発揮するようになっている。

 シツケを間違えたイヌが総じて暴力的になるのと同じシーケンスである。

 イヌの場合は社会形成習性が非常に強いため、服従させる以外に暴力性を封じる方法は存在しえない。しかし、ヒトの場合は短絡的に「感情=行動。」という環境依存的結果以外を選択不可能であるわけではない。

 そもそも、ヒトの全てが環境依存的であるならば、そのヒトの行動を導く環境というものを一体誰が構築するというのであろうか。

 これが短絡的に宗教へと暴走するヒトの思考パタンとして「神。」を必要としなければならなくなる一つの原因である。

 「神がいないのであれば、何をしても許される。」というのが、短絡的西洋哲学の根底に存在し、「許す。」という自己以外の何者かの存在だけが自己の行動原理として規定され得るのである。

 そこにサードマン現象である。

 左側頭葉に本能習性的に組み込まれた「他者。」の存在感覚によって、超自我的な服従対象の実存を「欲する。」ことになるのである。

 どんなに「欲して。」も、錯覚は錯覚であり。実存はしない。実存しないことに気分的「不安。」を感じても、ないものはないのである。

 ありもしないものを実証しようとすれば、そこには必ず合理性の綻びが生じざるを得ない。

 だから合理性のない現在の生物学脳科学が放置されているのである。多くの愚かな大衆愚民の多数決によって。


 そもそもが生物の持つ社会形成習性というものには「目的。」があるわけではない。あくまで生物学的正義であるところの「生存。」価という「結果。」論だけが導き出した結果でしかない。

 つまり、生物学的社会形成習性というのは、その習性を発揮するそれぞれの個体には何の目的意識も存在する必然性は必要なく。単に結果的に生存していたという結果さえ導き出せば良いだけで、極端に言えば内部で殺し合いをしてでも「種としての。」優位性さえ成立すれば良いのである。

 むしろ、天敵がいなくなった生物種であれば、その内部で殺し合いをすることで個体数を調整し、環境と調和するよう「進化。」していても一向に構わないのが現在の生物学の文法である。

 こんなオカルトに誰も批判しない時点で、既に生物学脳科学は全体がオカルト化しており。そのオカルト性を誰も指摘しないという異常性を放置しておいて、結果的に先鋭化したオウム真理教だけに問題があると思うのが、そもそもの間違いである。


 生物学的社会形成習性が作り出す暴力性が、具体的にどういう結果を導くのかは予測不可能である。オオカミの群れを秋葉原に放して、誰が最初に食い殺されるかなど予測のしようがないのである。

 必要なのは、こうした習性に流されることのない自律した個人を増やすことである。これを提起すると大抵のヒトは教育機関だけに問題があると思い込むらしいが、重要なのは先ず自分自身が自律を行うことである。他人にとやかく要望する前に、なにより自己自身が自律的に判断しないでおいて、他人にばかり自律を要求しているから、世の中の諸問題が一向に解決しないのである。

 原因がヒトの習性である以上、それはあらゆるヒトによって解決されなければならない問題である。ヒトである以上他人事にはなりようがないのである。

End;
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何だか面倒臭い。

2011年11月22日 00時02分35秒 | 意識論関連
 ThirdMan現象のような錯覚というものは、無意識的に生物学的社会形成習性を発揮させていた「結果。」である。

 ヒトの多くは、予め組み込まれた無意識的な情動が促す行動と。本質的意識による合理的思考選択行動の区別がつかない場合が多く、多くの場合、錯覚の方を事実であると認識しがちである。

 錯覚というのは無意識が作り出すものであり。錯覚を錯覚であると認識するのは本質的意識の働きによるものである。

 「感覚。」が作り出す認識判断といったものは、感情や本能と直結した「感覚。」の方が、当人的には「現実感。」を伴うものであり。論理的思考判断といったものは本能的「感覚。」に対して「現実感。」が薄いのである。

 ヒトの脳というものは、そもそも合理性を追求したり論理的判断を行うような構造にはなっておらず。あくまで他のイヌやサルと同様に情動が中心となって行動を促す構造自体は何ら違いがない。

 脳の基本構造自体には違いがないのである。

 ヒトが人間足りうる場合とは。こうした基本構造に関わらず、大脳新皮質の容積余剰を意識的に活用する「意思。」によって、初めて構造原理と異なる行動選択が可能となり。それが他の動物との決定的な行動選択の違いを生み出すのである。

 DNAだけならチンパンジーとヒトとの違いは「ほとんどない。」。すなはち、遺伝学的には狂暴なチンパンジーとヒトとの間に差異を立証することはできない。

 事実、暴動で暴れるヒトの行動というのは檻から逃げ出したイヌやチンパンジーのそれとさしたる違いなど見られない。

 何がヒトと人間を隔てるのか。それが本質的意識の有無である。

 本質的意識とは、論理的思考による自己の価値観の統合である。一人の脳の中には様々な価値観が存在し、仏教的に言えば「十界互具。」と表現するように、利己的感情や本能のような「煩悩。」もあれば、他人を思いやる優しい心としての「菩薩。」の感情まで様々に存在しているものである。

 ところが、これらの様々な価値観といったものの統合的な視点を失い、目先の利己的本能や怒りの感情に意識の全てを奪われるという意識狭窄によって、ヒトは人間性を失うことになるのである。 

 意識を狭くするものとは一体何か。

 意識が狭くなるのは、そこに心理的拘束「ヒステリー。」が存在するからである。これを仏教的に表現すれば「宿業。」になるだろうか。

 わかりやすい例としては虐待の連鎖というのがある。幼少期から虐待を受け続けて育った人の多くは、自分の子供に対しても同様の虐待を連鎖してしまう傾向がある。

 これを「特殊な例である。」として、他人事だと思うのは間違いである。ヒトというのは誰しもなにがしかの無意識的な「連鎖。」というものを、成育環境によって刷り込まれているものであり。程度の違いはあれども無意識な観念によって行動を左右され、程度の違いはあれ社会的問題となるような行動であっても放置したり、或は自ら加担したりすることに「陥る。」のである。

 それをオリンパスは「文化。」と言った。

 過失を除く意図的犯罪者というものは、自分の既に行った行動を合理的に説明することができない。ヤクザがヤクザをやめられないのは「今までずっとヤクザをやって来た。」という精神の怠慢程度の「理由。」しか挙げることはできないのである。無論これは合理性を持たず、単なる当人の恐怖心、強迫観念に負けているだけに過ぎない。

 恐怖や暴力、ドイツ語で表現されるGewaltによる権力によって他人を操作することを、多くのヒトは「自由」と勘違いしがちである。異常なまでに法手続きによる統治に固執する者も同様である。こうした他人を操作することによって自分の行動の束縛を無くすことにしか意識が働かない者というのは。そもそもが自分が自分で制御することができないことを認識できていないことに「気付く。」ことができない故の「結果。」である。

 「自分で自分が制御できないのであれば、他人も自己自身では自己制御はできないものである。」と「感じる。」のは、ごく自然な帰結であろう。それが多数他人に対する異常な強迫観念的恐怖心を作り出し、異常なまでに力への依存に固執する結果を生み出すのである。

 子供から見て、信用ならない親に育てられた場合には。他人を信用することが難しくなる傾向がある。「俺はそういう風に育てられていない。」などと言い出すのは、親の無責任性を感情的に正当化しようとする試みである。むしろこうした言い分の方が、多くの無責任な親達にとって都合が良いため、人気を得ることができるのである。

 具体的に誰が言っていたかといえば、島田紳助とか養老孟司である。

 子供にとって、親は神も同然である。むしろ大人が親を超えた理想の「他者。」として欲するのが神である。神自体の実存を立証することには意味がない。いてもいなくてもどちらでも良いというのが私の帰結である。問題はその神がどれだけ社会全体に公益的であるかという理想の高さだけが重要なのである。

 理想であれば理論的にも説明可能である。写真用レンズの設計における「理想レンズ。」は実存しない。たとえどんなに特殊な材料や加工法を駆使しても、物理的に理想レンズは製作不可能なものなのである。

 「理想。」とは、それに近付けるための「目標。」であり、その「目標。」が遠ければ遠い程近似させることに困難を伴うことになる。

 テロリストの責任者を一方的に殺害しておいて正義だとか言い張る短絡性の方が、多数大衆愚民にはウケが良かろう。「ヒトとは、そういうものである。」からだ。

 島田紳助のようなわかりやすい不祥事を養老はしていない。科学者のふりをして支離滅裂な観念をぶちまけて出版社と金儲けをしたことを不祥事と扱うかどうかは多数の民衆の意識に依る。養老の無責任性を不祥事とするならニーチェやプラトンに無批判だった哲学者共や、何も考えずに生存だけを正義としてきた生物学者の怠慢もまた不祥事として扱わねばならないだろう。

 学生であれば成績単位という「エサ」欲しさに無批判でいることを正当化できると思うであろう。学生であるから「子供」扱いしてもらおうとすることも可能であろう。

 体制に迎合して体制維持に加担していて、社会の問題を解決することなどできるわけがないのである。末端の個人が何をしようとも大勢に影響は「少ない。」ことは確かである。だが「少ない」というのは「無力。」ではなく、むしろ末端の個人であっても多数であれば大きな力に変えることも可能である。

 多数というのは非常に大きな「力。」を持っている、その「力。」を何に使うか、そこにこそ「意思。」選択が必要なのである。大抵の場合、多数の「力。」というのは集団心理的な共鳴によって無意識的に振り回されることがほとんどである。それは気分的な「安心。」がそうさせるからだ。

 体制腐敗が放置されるのはなぜか、それこそ集団心理的な「力。」によって維持されるからである。ヒトの多くは、その行動に論理的思考判断が伴うことは稀で、大抵の場合は気分的な「安心」や「興奮」ばかりが行動原理となる。ヒトという種の生物の習性が促す行動結果がどのようなものであるかは私の知ったことではない。習性という傾向性の枚挙自体が何らかの決定的帰結を導くわけではなく、(ああ、言い回しがややこしいな。)単なる傾向性とは無関係に問題を解決するという思考に基づく対策を積み上げることが重要なのである。

 それは地道でまどろっこしいと思うかも知れない。もっと短絡的に「これさえやっときゃ。」的なインスタントな解決方法を提供しておいた方が大衆人気を得ることは簡単で、金にもなることはわかっている。茂木健一郎や脳トレ類で大衆の人気取りに邁進する脳科学界に対してマスコミは全く批判することはなく、視聴率という金儲けのために便乗するだけである。マスコミは慈善事業ではないので金儲けにならないことはどんなに公益的であろうと絶対にやらない。だからこそ「マス」という巨大化を果たすことが出来るのである。

 太平洋戦争においても、政府を批判すると販売部数を失うことを怖れてマスコミは戦意高揚に加担したのである。MHKなどは、あたかもそれを教訓として再発防止に結び付けるかのように取り上げるが、実際には取り上げることによって反省しているようなフリをしたに過ぎない。単なる偽装工作の一環でしかないのである。

 大きな組織に属していると、大きな組織に属することの利益の大きさに意識を奪われ、自分が何のために大きな組織に属しているのか。或は大きな組織の社会的存在意義よりも。単に現状の組織体制を維持するだけの保身感情が優先してしまうことに陥りがちである。

 日本に限らず、組織が腐敗している程。その組織に属する者達は体制維持に加担してしまうようである。

 オウム真理教に限らず、政府省庁の天下り役人や、オリンパスや大王製紙といった大企業に属する者達の多くは高い学歴や学力成績であることに変わりはない。どんなに学力学歴があっても、頭がおかしい奴はいるのである。認知科学的には学力と本質的知能との間に論理的相関関係など初めから存在しないのである。

 それなら、なぜ学力だけが知能であると認定されているのか。それは多数の大衆観念が「学力=知能。」という短絡的方程式を絶対であると思い込んでいるという、結果的「体制」がそれを許しているのである。

 多くのヒトは、それを腐敗であるとは認識しないであろう。まさか自分が体制腐敗に加担しているとは夢にも思っていないであろう。その意識の低さこそが腐敗を放置するのである。

 「自分だけは、大丈夫。」

 これは振り込め詐欺に引っ掛かるヒトの典型的な思考パタンである。自分の行動選択の全ては、自律的に制御できているものであると、多くのヒトは錯覚する。故に視覚認知による錯視に対して多くのヒトは驚き、気持ち悪いと感じるのである。

 頭で論理的に考えて、紙に印刷されただけの模様が勝手に動くはずはないと理解できるにも関わらず。視覚認知機能の全ては現実以外を認識することはないと「思い込んで。」いるからである。

 その違和感、気持ち悪さといったものこそが、脳の無意識機能が作り出したものであり。論理的に考えることができなければ錯覚を錯覚であるとは認識できなくなるように大脳辺縁系は導くのである。

 大脳容積の足りないヒト以外の動物の多くは鏡程度であってもそれが何であるかすら認識することができない。それなら大脳容積が同じヒトでありさえすれば全てのヒトは同じ錯覚であれば錯覚であると認識することが絶対に可能かと言えば、そうではない。

 だからカルト宗教をやめることも、ヤクザをやめることも、振り込め詐欺に引っ掛からないことも。やめることができないのである。多くのヒトがアイヒマン実験に引っ掛かるのと同様に、多くのヒトは学術権威やマスコミのプロパガンダに簡単に引っ掛かるのである。

 それで「なぜ犯罪がなくならないのか。」などと言っても無駄である。犯罪や戦争を起こす原因はヒトの習性の中にあり、それは同じヒトである以上自己自身の情動本能の中に予め組み込まれているものであることを認識しようともせずに、他人の「誰か。」だけに原因があるという前提に論じようとしているから、問題の原因が認識できないのである。


 「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという大嘘を、マスコミは垂れ流し。訂正も何もしないことを、愚かな大衆は放置しているのである。

 呆れて論ずる気も失せる。


 §

 オウム真理教家族会の人は、教祖が何か事実を知っていると勘違いしている。

 あの教祖は自ら望んで教祖になったのではない。

 イヌ、特に野犬の群れにおける群れのボスというのは、服従することの安心感を得る他者の不在に対して結果的にボスというポストに陥っているだけである。

 野犬の群れが、その群れの中においてのみ統率と、それに伴う集団の平穏というものは、統一的に服従する特定の個体としてのボスへの信頼によって、精神的安定を得ているだけのことである。

 野犬の群れにおいて、ボスだけは特異に服従対象を見失っているために交尾や暴力性を発揮し。その暴力性こそが群れの他の個体からの羨望や信頼を作り出すのである。

 イヌは暴力的な個体に服従することによって安心するのである。これが生物学的社会形成習性を作り出しているのである。

 生物学的社会形成には大脳容積が必要であるかのように論じるバカがいるが、「真社会性を持つ。」と言われるハダカデバネズミの脳は決して大きくはなく。ましてや昆虫のアリやハチ類の脳など顕微鏡下でしか見えない程度の脳しか持ち合わせておらず。無関係である。

 哺乳類における生物学的な社会形成習性というものは、常に暴力性によって統率を作り出されるものであり。暴力性こそが服従への安心や信頼を作り出すのである。

 従って、生物学的社会形成習性によって、無意識的に作り出された厳格な統率というものは、その暴力性の矛先を他の集団に向けることによって維持しなければならなくなるのである。「オバマの正義。」も同様である。法手続き的にすら正当ではないテロリスト首謀者の殺害によって、アメリカという集団は統率されているのである。それはテロリスト達の正義と構造的には全く同じものであることに異論があるだろうか。

 アメリカ人達の多くは特定の「敵。」を集団で攻撃しておけば、自分達の行動の全てが正当化されると思っている人種なのである。

 それに対して日本人の誰かが異議を唱えたであろうか。大国の神経を逆なでしないように沈黙しているだけであり。これは現状への迎合でしかない。

 テロリスト首謀者を問答無用で殺害することが正義であるならば、なぜ女房子供を殺害された遺族に復讐が許されないのであろうか。バカであればこう答えるであろう。「だって、そういう法律だから。」

 反射的に固定観念を羅列することは簡単である。反射的に固定観念を枚挙するのは自発的には何も考えていないからである。何も考えていない者を「バカ。」と形容する以外に私は言葉を知らないし、知るつもりもない。

 法手続きというものは絶対ではなく、あくまで目的に基づいて主旨を満たすためのものである。従って法律自体が間違っている場合には訂正されなくてはならず。本来その訂正や改正に携わるべきは民主主義国家において「民衆。」である。

 現状において、糞の役にも立たない生物学(脳科学を含包する。)に独立行政法人(税金)の無駄遣いを放置しておいてカルト宗教の暴力性の原因が究明されるわけがないのである。

 生物学や脳科学者達は、むしろ生物学的社会形成習性こそが人間としての社会性であるという、明らかに体制維持のための戯言、言い逃れにしか興味はない。それがカルトテロの被害者や遺族への冒涜であるとすら、多くのヒトは認識できないであろう。

 「チンパンジーが仲間に道具を渡した。だから社会性とは助け合うものである。」などという、極めて限定的な立証だけに基づいた論証に何の意味があるであろう。現実にシエラレオネで殺し合う子供達の反証にも何にもならない「取り繕い。」が学術論文として扱われることが。私が提唱する習性としての社会性を否定することだけが目的の隠蔽工作以外の一体なんであろうか。

 生物学、脳科学者達のほとんど全員は、本能としての生物学的社会形成習性と。人間としての社会性との明確な区別を一切してこなかった事実を隠蔽しておかないと、自分達の愚かさを認めなくてはならないという保身のために本論を隠蔽するための小細工にばかり邁進しているのである。

 このような現状において犯罪被害者遺族が「根本原因を社会全体で考えて欲しい。」などと言っても全く無駄である。「考えたくないヒト達。」の隠蔽工作によって、それは「なかったこと。」にされるだけだからである。

 ヒトの暴力性を大脳辺縁系の反射だけで説明するのは簡単である。それは環境依存性だけで説明されるものであって、個人の自律を全く無視した動物的行動「結果」だけを論じるだけだからである。それがたとえ集団であっても同じである。行動の最終的決定をするのは個人であることに変わりはないからだ。

 動物的行動習性をどんなに枚挙しても、そこから自律的に行動判断する人間としての社会性とは無関係なのである。それなら従来の生物学が社会に貢献できるとすれば、自らの愚かさを認め、従来の固定観念を棄てるという判断しかない。それを漫然と継続するというのであれば、繰り返される犯罪を放置することと同義であり。極めて悪質である。

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