書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ダブルスタンダード

2020年12月07日 23時00分11秒 | 意識論関連

いくら言ってもマスコミは官邸でのぶら下がり取材とか 都知事への密集囲み取材をやめようとしないわ

都知事や大臣達を危険にさらして良い特権でもあると思ってんのかしら

文科系の奴らって何かとやっていることや言っていることが頓珍漢で一貫性のないダブルスタンダードを平気でやらかす

「漢文勉強しとけばデマに騙されない」だとか 根拠がないだろ

デマかどうかのファクトチェックを漢文に精通した奴だけが特異に優れている証拠がどこにある

そもそも生態系のピラミッドというものが遺伝的進化の「結果」に過ぎず 合理的目的に基づいたものではないのに 「知識のエコシステム」などという意味不明な実証不能の観念ぶちまけといて何偉そうにご託宣並べてんだか

読書猿がマイケル:サンデルの洗脳手法を論じたことあんのかよ

マルクス:ガブリエルの観念には根拠がないことを論じたことあんのかよ

そもそもイマヌエル:カントの純粋理性批判やフリードリヒ:ニーチェの批判したことあんのかよ

マスコミも含めて文科系の奴らってのは基本的に論理思考検証のできないデクノボウの集団だってことを 何で認識しないんだろうな

 

 

Ende;

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非対応

2020年12月07日 21時34分51秒 | 日記

比留間幹さんのホームページを開いたらフラッシュプレイヤーを要求された

Android8.1はフラッシュプレイヤーに対応してないので見れない人多いと思う

なのでTwitterみつけたのでリンクつけとく

比留間 幹 -on Twitter





Ende;

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同罪

2020年12月07日 21時02分24秒 | 意識論関連

「相互信頼関係のない社会はコストが高くつく」という話をしている奴に限って嘘が酷いのでビックリする

結局 「他人を信用しないと社会コストが高くつくから 俺の言うことは疑うな」という論法らしい

安物の占い師が「他人の言うことを信用しないというのは心の狭い人間だ」などと称して何でもかんでも鵜呑みにさせようとする手口と似たようなものである

泥棒や詐欺が一人でも社会に存在していると 他の大多数が詐欺や泥棒ではないとしてもセキュリティに余計なコストがかかるのは確かだが ちょっと考えれば嘘かどうかを見分けられるのに考え(検証し)ないというのは なんでしょう そんなに「考える」のが嫌なんですかね?

頭で「考え」たからといって 物理的にはさしたるコストなんかかからんのに 主観的に「嫌」というだけで論理客観的検証を放棄する必要性があるほどの「コスト」なんすかね

嘘を見抜けず宣伝された書籍を買って読むコストの方がよっぽど高くつくんじゃないかと思いますけどね

 ◇

社会というものは完全ではない

決して完全無欠の天才が社会安全性に基づいた「目的」に則って作り出したものではなく あくまで凡人達の多数が その場しのぎに構築した「結果」に過ぎないからだ

だから アチコチに間違いとか綻(ほころ)びがある

教えられたことを漫然と鵜呑みにしているだけでは 教えられた内容に間違いがあっても気づくことは出来ず 間違ったまんま間違った行動を受け継ぐことになってしまう

形式マナーや法手続きというものは 気分的な安心感を得ることはできるものの 論理客観的な安全性の根拠はない

法手続きに過ぎない「法の下の平等」も 香港政府を見てれば「権力側に都合の良い平等」に過ぎないことは明らかである

 

学力ビジネスに関わる者たちにとっては 「学力=知能」という大衆観念が 科学的には根拠がないことを周知されてしまうことは 既得権を失いかねない「不都合な真実」であり 従来通りに金儲けを続けるためには従来の学力成績基準を正当化するための屁理屈を大量に陳列してくるのも ある意味必然である

学習塾の講師の類いにとって 社会安全性なんぞどうでも良いのであって 「学力偏差値が高い=頭が良い=金が儲かる」という根拠のない方程式に則って従来の学力偏差値競争にバカな大衆が乗っかってくれている方が得なのである

学力偏差値や学歴が高ければ 就職には有利かも知れないが その学力偏差値が高い奴らによって大企業の不祥事は繰り返されている厳然たる事実を今更否定することは出来ない

集団組織の統率者にとっては 何も疑うことのない従順で能力の高い者の方が扱いやすいとは言えるだろう

だが 兵隊というものは過酷な訓練によって上官の命令を絶対的なものだと「学習」されることによって 戦争などというバカげた行為にも便利に使うことが可能となるのであって 主体的に何も疑うことのないバカによって あらゆる組織腐敗は進行し 暴走破綻への道を突き進むことになるのである

 

人間性や倫理の本質とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」である

間違いを含んだ社会に何の疑問も持たずに その社会の中での生存競争を生き抜くための利己的な選択をしていれば 意図していなくても暴走破綻に加担することになる

東京電力社内において 上司に従順に「原発の津波に対する脆弱性を放置」しておいた方が 東電社内における「生き残り」にはなるだろう

こうした構図は国家単位や世界全体でも同じことが言える

「生存」にとって有利な行動というものが 人間性にとっても有利に働く力学は極めて稀である

イジメや差別の被害者は常に少数派や弱者であり 生き残れるのは多数派や強者 或いは何もしない傍観者であり こうした淘汰圧力下においてヒトという種の生物に先天的な人間性が組み込まれる力学は存在しない

それは リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」というのは 読んだ者が「自分が生物種として先天的に優秀なものである」という妄想観念に酔いしれ 気分的に満足できることで大衆人気を集めているだけであって 科学的に何かの役に立つような話ではない

にも関わらず 山極寿一や松沢哲郎などの大多数の生物学権威達によって「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという 科学的根拠の乏しい嘘が一向に否定されないのは 生物学界における「生存」にとっては権威に逆らわずに同調迎合するか 或いは傍観放置しておいた方が保身にはなるからである

明確に「遺伝的進化には目的が存在しない」ことを主張しない生物学者達は もはや科学者としては無能なポンコツであることが決定しており 金をとってまで大学で教える価値など全くない集団詐欺とも言える状態なのである

ましてやイマヌエル:カントを鵜呑みにしている「科学哲学者」など論外である

もはや特殊詐欺以上に悪質であろう

こうした学術界の組織腐敗を傍観放置していることもまた 犯罪レベルの話であり 「専門外」を根拠に何の検証もしない益川敏英などの物理学者達も同罪である

「学問の自由」を主張するというのであれば 学術界全体の腐敗を検証し 自浄してから物を言え

それが出来ないなら辞めちまえ

 

 

Ende;

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マウンティングの構造

2020年12月07日 17時21分33秒 | 意識論関連

自分と他人との違いを許容できないヒトというのがいるものだが これは狩猟採集生活に適応進化したヒトの先天的本能が原因である

狩猟採集においては集団組織的協調行動をする上において 自分が思っていることを他人とも共有しておく能力 いわゆる「空気を読む」能力が必要だった

集団の中においてははリーダー以外はリーダーのご機嫌をとって盲目的に服従する忠誠忠実さが必要であり リーダー個人の主観的な好き嫌いを共有することで集団の団結性を保っていたが

こうした習性というものは 異質な個体を排除するバイアスとしても働くことになり 差別やイジメの原因でもある

 

主観的に好きな相手同士で集団を形成するだけならそれほど問題は起きないのだが 主観的に嫌いな相手を集団組織的に差別排除したがる習性も同時に発揮してしまうのが動物的な本能習性というものの性(さが)である

威圧的にマウンティングをかけてくる相手に逆らうと嫌な思いをすることの方が多いので 威圧的な相手のご機嫌取りをする形で 結果的に集団統率的協調行動が形成されることになる

威圧的で怖い嫌な奴だとしても 逆らうことでかえってもっと嫌な思いをするくらいなら むしろ同調的に迎合しておいた方が楽なため ヒトの集団というのはどうしても暴力威圧的な個体への服従迎合性のバイアスが働いてしまうのである

そして 自分が同調迎合したリーダーに対しては 同調迎合したことを事後正当化する形で他人に対しても同調迎合性を要求することで 統率協調性はさらに強固なものになる

認知的不協和理論に基づいた洗脳というものは ヒトの先天的な本能習性によって引き起こされるバイアスが原因である

狩猟採集生活においては こうした習性は生存にとって有利に働いたため 進化的にヒトという種の生物に組み込まれることになったのである

狩りをする上において合理的で有利な習性が 差別排除という非合理な習性も同時に持ち合わせているのである

こうした動物的な本能習性というものは 「ヒト」にまで進化する以前から組み込まれていたものであって 先天的な統率的協調行動というものはイヌやハダカデバネズミやアリやハチでも見られるものであり 決して目的意識的に選択可能なものではなく あくまで「生存」における環境適応の「結果」でしかない

 

ヒトは差別排除をすることによって戦争や紛争を引き起こし 不毛な殺し合いをする先天的習性がある

ヒトは先天的には人間ではないのである

ヒトという種の生物の欠陥を認識し 人間性や倫理の本質(真実)とは何かを見極ることによって はじめて人間性や倫理を発揮することも可能となるのである

 

学級内においてイジメが発生した場合 一部の生徒はイジメのターゲットを協調的に攻撃することで仲間同士の連帯感が促す快楽によって中毒的にイジメは加速暴走を引き起こすことになる

実際には学級内においては大多数は何もしない「傍観者」ではあるのだが 誰も異議を唱えないことで結果的にイジメは許容されてしまうことにもなる

いわゆる「3秒ルール」的に 瞬発的且つ強力な反論が出てこなければ賛成したこととみなす形で 傍観者は結果的に共犯者にされてしまうことにもなる

これもまたヒトの先天的本能習性の「結果」である

 

「学生のイジメ」と「国家間や民族間における戦争や紛争」とは規模の違いはあれど 構造的には同じものであり 主観的な好き嫌いを統率協調的に暴走させることによってヒトは殺し合いにまで発展するのである

 

遺伝的進化というものは「結果的に死ななければ残るだけ」であって あらゆる形質や習性の全てに合理性が伴う必要性はなく ヒト同士が差別紛争によって一定数が殺し合いで死んだとしても 大多数が生き残れば「生物」種としては残ることになる

イワシの大部分が他の捕食者のエサになったとしても 一部でも生き残れば種としては存続することは可能であり

むしろ自然界においては個体数が一定に制限される仕組みによって生態系のピラミッドが形成されているのであって 生態系の中においては一定数に保たれる力学が働いていなければ生態系全体の持続可能性を損ない 生態系環境丸ごと淘汰対象になってしまうのである

 

ヒトという種の生物は現在地球環境下において淘汰対象に陥りつつある

地球環境における生態系のバランスに適応することができず 自滅の道を突き進んでいると言える

それならヒトもまた生物史の進化過程において幾度と繰り返されてきた大絶滅のシーケンスには逆らうことが出来ないのかと言えば 必ずしもそうではない

なぜならヒトには先天的本能習性に抗う選択可能性というものが存在しており 決して遺伝的進化のシーケンスだけでしか行動が選択出来ないわけではないからだ

それは単なる同調圧力に依らず 個人が自律的に行動を選択することであって 個人が自律的に「本当に正しい行動とは何か」を識別する能力が必要である

「巨人の肩の上」などと称して あたかも古典的な論説の全てが正しいかのような錯覚を促し 盲目性を発揮させることは簡単だが イマヌエル:カントやフリードリヒ:ニーチェが本当は「巨人」でも何でもないことに気付かなければ その「肩の上」から見ているものは真実ではない

 

主観というものには錯覚が伴う可能性が否定出来ない

例えばイスラム過激派によるテロの報道が相次ぐと イスラム教徒に対する観念的恐怖心を抱いてしまいがちだが 社会主義者の大半が連合赤軍ではないのと同様 イスラム教徒の大半は平和主義者である

むしろ 暴力的な者が社会に対する無差別攻撃をする口実(大義)として共産主義思想やイスラム教を利用しているに過ぎないのであって 利用されたイスラム平和主義者も迷惑であることに違いはない

 

ヒトは主観的に気に入らない相手に暴力を振るうと満足する習性がある

これは別にヒトに限ったことではなく イヌでもネコでもサルでもハダカデバネズミでも見られる動物一般に見られる普遍性習性である

それでは夜中に酔っ払って騒いでいる糞DQNに暴力を振るったら この世の糞DQNがやらかす問題行動のすべてが解決するかと言えば そうではない

家の前で暴れている糞DQNを殴って河川敷にでも棄ててくれば気分的にはスッキリするであろうが それはその場の主観的満足にしかならず 世代が変わる度に次々を出てくる糞DQNを抑制することにはならない

素を絶たないことにはどんな問題も根本的に「解決」することはないからである

社会安全性にとって最も優先されなければならないのは 徹底した原因の究明による再発防止策の構築であって 司法刑罰制度はその邪魔にしかならないからこそ 危険学のメソッドでは「刑法を一時停止する」のである

 

この話も「一時停止」しておこう 今回言いたいのは「マウントをとってくる奴」のことだった

主観的に嫌いな相手を攻撃してくる奴というのは 自分が個人的に嫌いであるということを短絡的に「悪」だと錯覚しているからである

自己客観性がなく 論理的に物事を検証することなく「俺が嫌いなものは悪いものだ」という観念に基づいているからこそ 結果的に身勝手な観念を振り回してマウントしてくることになるのである

生育環境下において 親が主観的な好き嫌いで子供に何かを押し付けていると 子供は「自分の主観的な好き嫌いを相手に押し付けるものなのだな」と行動学習してしまい 結果的に誰に対しても身勝手な観念を押し付けるマウント中毒に陥るのである

「世の中は全てそういうものなんだな」という 一種の諦め(絶望)を「悟り」か何かと勘違いし 動物的な行動学習によって一貫して傲慢な人物ができあがるようになるのである

ところが こういう傲慢な人物というのは 先天的な本能習性には忠実なため 自分よりも傲慢に振る舞う相手に対しては むしろ媚びへつらい服従しようとする習性も兼ね備えているものである

私が学生時代に理不尽なマウントをかけてきた男に対して ブチギレて怒鳴り返した翌日には うれしそうな顔で「おはようございます」などと丁寧な挨拶をしてきやがったことがある

もう なんだろう 自己客観性とか そういうものが全く働かないんだろうな 思い出すだけで虫唾が走るわ

暴力的で威圧的な相手に服従していれば その集団組織は暴力威圧的な封建的組織にしかならず 平等も公平もスッタクレもあったものではない

その場限りに怖い相手に服従しておけば その暴力威圧的集団の内部においては有利な立場が得られるとは言えるが それは集団組織そのもののあり方には何の配慮もなく 他人を蹴落とすことで自分を有利にしようとする卑劣な行動である

 

精神性とか 論理客観的検証性が働かなければ 先天的な本能習性に則った動物的行動しかしなくなるのが「ヒトという種の生物」である

「自意識」というと 一般的には「他人からの見た目」を指す言葉であるが 「他人からの見た目」というのは他人の主観であって一貫性があるわけでもなく 論理的根拠も伴わない

前述のようなマウント糞野郎の主観的な「見た目」においては 暴力威圧的に怒鳴り散らしてくる相手こそが服従対象であって 怖い相手に服従しておけば「安心」なのであり 何ら「自分の意識」を意味するものではない

どのような人物から見て「恥ずかしくない」かは人それぞれであり ヤクザにとってはヤクザ価値観における「恥ずかしい」行為とは むしろカタギの価値観こそが「恥ずかしい」ことになっているからこそ ヤクザはヤクザであり続けようとするのである

倫理的な人物から見て「恥ずかしくない」行動を採りたいと思っている時点で 既に「誰から見て恥ずかしくない行動を採るべきか」を選択しているのであって

むしろ尊敬に価する相手がいなければ自ら自律的に「こうあるべき」理想に基づき行動を選択しなければならないのであって 一般に言う「自意識(他人からの見た目)」というものは「自分の意識の本質」ではないのである

 

 

 

学校では教師が強制的にクラス割りを生徒に強要し 生徒の主体的意見は聞き入れられることはなく 学級内部でマウントかけてイジメてくる奴がいても逃げ場というものがない

そういう学級内での立ち居振る舞い方を動物行動的に「学習」してしまうからこそ 就職してからブラック企業だと気付いても無駄な精神論を発揮してしまい
合理的に逃げることができなくなってしまうのである

私のように怒鳴り散らして逆マウントをかけてしまえば私個人はイジメの対象にはされないものの それではイジメそのものの発生原因の究明や再発防止の具体的対策にはつながらず 別の世代の被害者が出てくることを抑制できない

養老孟司は「嫌な相手とどう付き合うか」という命題に対し「無視する 意識から外す」といったその場しのぎな処世術しか論じていない

読書猿も同様で 「嫌な相手とは付き合うな」としか論じておらず 根本的解決には全くつながらない

学校教育において 教師が強制的に特定の学級に生徒を割り振り 生徒自身の選択を尊重しない現状の制度自体に問題があるのであって そこに言及しないのは権威に対する迎合であって むしろ従来の学力偏差値を基準とした「独習」などと称した「学力成績の事後正当化」ばかりを勧めており これは一種の詐欺である

 

主体的な目的意識に基づいて何かを勉強しようとするのは悪いことではないが 本当に純粋に行為そのものが好きでなければ他人からの評価を基準にしてしまい 最悪のケースではカルト宗教に洗脳されて盲目的に「地下鉄に毒ガス」という行動に邁進しかねない

主観的に「信じたいものだけを信じよう」としているからこそ 簡単にデマや嘘に騙され 洗脳状態に陥って非合理な行動に邁進暴走する羽目にも陥るのである

「主観的には面白いんだけど これって本当に全部信じちゃってもい井の頭公園」という自己客観性が常に必要である

他人の言っている内容と疑うことは「コストがかかる」ことは言えるが ファクトチェックなしに社会安全性を担保することは出来ないのであって 安全性にコストをかけることを面倒臭がってはならない

原発の安全性を担保するのに「コストがかかる」ことを根拠にテキトーに省いて良いわけがないだろ

バカか

 

 

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読書猿2

2020年12月07日 16時52分49秒 | 意識論関連

漢文が読めないと、現実的な弊害があります

[読書猿の解答]
 公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると、学校で何かを教えなくてもいいという主張は、もうそんな伝染病なんてないのだからワクチンを打つ必要はないというのと似ています。

 認知的ワクチンというのは、害あるデマや考えをウイルスになぞらえて、知識や考え方(だから認知的といってます)を教え学ぶことでその流行を防いでいる、という意味です。

 すると問題は古文や漢文を教えることが認知的ワクチンだとしたらどのような認知的ワクチンであるか、つまりそれを学び知ることでどんなデマや害ある考えが防げるのかということです。我々の日本の歴史や文化についての知識は、多くの部分を近代以前に書かれた文献資料に基づいています。さらに、漢文が分からないと明治期の知識人が書いた文章(漢文訓読体)をちゃんと理解できないので、近代の文献も読めません。

 たとえば福沢諭吉『文明論之概略』で「盗賊殺人は人間の一大悪事なれど」というフレーズの「人間」は「にんげん」ではなく、漢文でいう「じんかん」=「俗世間、世の中」という意味です。「にんげん」と解釈しても一見意味が通ってしまうので誤解しやすい。こういう落とし穴が結構あります。

 漢文訓読体は、漢文に戻して理解するとわかりやすい。洋学派の福沢ですらこうなのです。明治期の知識人が書いた文章が漢文訓読体なのは、彼らを育てた私塾や、藩を超えたネットワークをつくった会読(読書会)という集まりが、漢文を読むことを軸にしていたからです。日本近代をつくった彼らの思考のベースが漢文にあった訳です。

 古文や漢文を学ぶことを止めて直接生じるのは、近代以前に書かれた文献資料を読むことができる人が減ることでしょう。この事により、日本の歴史や文化についてのデマや害ある考え(たとえば捏造マナー本や、キモチイイ系の歴史本など)の流行が拡大するかもしれません。

 高校までの古文や漢文の授業だけで、いきなり近代以前の文献が読める訳ではありませんが、これは英語や数学やプログラミングも同じです。実用化するには自分で更に積み上げることが必要ですが、認知的ワクチンのポイントは多くの人が広く接種することにあります。さらに知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。

 


⇨「害のあるデマや考えをウイルスになぞらえて、知識や考え方(だから認知的といってます)を教え学ぶことでその流行を防いでいる、という意味です。」と論じているが デマや風評や洗脳に騙される性質というものはヒトという種の生物の先天的な欠陥に由来するものであって ウイルスのようにワクチンでどうにかなるものではなく むしろ生活習慣病のように日々の生活習慣こそが嘘に騙されないようにするためには重要なのである

害のあるデマや考えをウイルスになぞらえている時点で根拠がなく この時点で既にデマなのである

古文や漢文を教えることが認知的ワクチンだとしたら」という仮定自体に根拠がなく 古文や漢文に精通していたらデマに惑わされない統計的根拠も何もないのである

デマや害ある考え(たとえば捏造マナー本や、キモチイイ系の歴史本など)の流行が拡大するかもしれません。」とも言っているが 多くのヒトが捏造マナーの類いを捏造だと認識出来ないのは 形式やマナーといったものに対する盲目性を強要された結果であって 「漢文を学んだら嘘に騙されない」などというのもデマに過ぎない

野依良治でさえ「主観が大事」などという哲学界のデマを鵜呑みにしてしまうこともあるだけに 「これさえやっときゃ嘘やデマには騙されない」という短絡安易な方法論があるわけではなく むしろ主観的な好き嫌いで判断するのではなく 論理客観的に物事を検証するクセを身につけておかないから 簡単にカモられるのである

論理客観性が働いていれば 自ずから自然と批判精神も発揮され 誰が嘘つきなのかは自分で自律的に判断することができるようにもなる

相手の言っていることを論理的に理解せず 何となく雰囲気だけで鵜呑みにしてしまうからこそ嘘を嘘だと見抜けなくなるのであり

主観が促す気分的な満足による「錯覚」を「錯覚」だと認識するのは自発的な論理客観性であって 重要なのは「漢文か プログラミングか」といったものではなく 主体性とか自主性の方が重要なのである

本当は漢文なんぞに興味はないのに 「漢文さえ勉強すれば嘘が見抜けるようになるんだな」と勝手に勘違いして勉強しても そもそも読書猿のデマが見抜けていない時点でバカが決定している

知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。」と括られているが そもそも「知識のエコシステム」って何だよ 読書猿がでっち上げたデマじゃねぇか

生態系のピラミッド」というものは そもそも遺伝的進化による結果的な淘汰圧力の結果であって 「知識が豊富でさえあれば社会的に優位な地位が得られる」という諭吉の妄想観念に則ったデマに過ぎない

人間社会において重要なのは 特定の知識の「量」だけで社会的な優位性を規定することではなく 個々の多様性をどう活かすかの工夫が重要であって むしろ人間社会に「生態系のピラミッド」を適用している時点で発想が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖と一緒である

 

そもそも「現実的な弊害があります」と言っておきながら 具体的な弊害については何も論証しておらず 結局全て「かもしれません」という根拠の乏しい「ふんわりした予測」しか書かれていない

こうした嘘というのは 池上彰が論じた「なぜ戦争が起きるのか これを見ればわかる」などという嘘と形式は一緒である

実際には何も論理的には述べておらず 論理的には「わからない」ため 具体性のある再発防止策には全く活かすことが出来ないにも関わらず 「現実的な弊害があります」など宣言している時点で既に嘘なのである

気分(主観)的に何かが「わかった」ような錯覚さえ促しておけば バカな大衆は簡単にデマを鵜呑みにして誰も嘘を見抜けなくなる習性がヒトにはあり だからこそマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルの洗脳にも簡単に引っかかるのである

こんな単純な嘘も見抜けないバカなら もはや何を勉強してもバカは治らない

 

 

Ende;

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