書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

権限

2020年12月14日 14時14分26秒 | 意識論関連

文芸などの芸術分野というものは純粋に主観のみを取り扱うものである

従って文芸は主観的な個人の好き嫌いで選んで構わないのだが

主観的に「三島由紀夫が好き」だからといって 三島由紀夫の言っていることの全てが正しいと勘違いするなど 盲目的に信奉して良いわけではない

主観という 個人的な好き嫌いの範疇の話であれば 私が個人的に「上白石萌歌ちゃんかわうい」と述べているのと同列の話であって それ以上に何らかの社会的価値や意味があるわけではない

個人的に「読書猿が好き」だと言うのであれば それは別に構わない話だが だからといって読書猿の人気の多数決によって読書猿の言っている内容に論理的根拠が伴う証明にはならない

知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえる」などという どうにも訳のわからぬ話を鵜呑みにしておいて 「デマに騙されないようになるかもしれません」などという これまた根拠のないデマで多数人気をどんなに集め 大衆の気分を満足安心させても それこそが論理客観的検証の苦手な文科系大衆に対する洗脳に他ならない

もし「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえ」られるのだとしたら 読書猿はピラミッドの頂点にでも君臨しているとでも言うのであろうか?

そうでないというのであれば どうして「デマに騙されないようになるかもしれません」などと根拠もなく言えるのであろうか?

読書猿が大好きな 読書猿の「信者」達にとっては読書猿こそが唯一絶対的に正しいことを言っているものだと錯覚しているから 疑うこと 論理的に検証することを全くしなくなる

これは一種の新興宗教に過ぎない

一般論としても ヒトは好きになった相手の言うことに疑うことをしなくなり 盲目的に信頼して服従してさえいれば 「全てはうまくゆく」かのような錯覚を持ち 主観的に安心満足することで思考停止に陥る

 

哲学とは 「考えること」である

考えることをやめないから哲学なのであって 考えることをやめて主観的に安心満足してしまう習性がヒトには普遍的に存在するからこそ わざわざ哲学が必要になるのである

哲学とは 本来論理客観的な根拠を伴わぬ妖怪悪霊の類いを信じ込んで意味のない行動に陥らないようにするためのものであって 何が本当に真実なのかを見極めるための「考え(論理客観的思考検証)」であって 主観的満足だの安心感を得ることが目的ではない

ところが 大衆の多くは自分の個人的な好き嫌いに過ぎぬ主観だけで物事を判断し 相手の言っていることが本当に正しいことなのかどうかは一切考えることなく 好きな相手の言っていることだけを盲目的に信頼しようとする習性がある

これこそがヒトという種の生物における先天的な「人間性の欠陥」なのである

社会安全性において最も重要なのは 論理客観的証拠である

論理客観的な根拠や証拠のない話は安全ではないからであり だからこそ科学は主観を徹底排除する

では 哲学はどうかと言うと 哲学は主観も取り扱うのだが これはただの文芸芸術とは異なり自己の主観自体も客観的に論理検証することで「哲学」として機能するのである

哲学というのは学問であって 文芸芸術のような大衆の多数人気を得ることではなく あくまで「本当のことは何か」を判別識別することである

個人的に「三島由紀夫が好き」でも「読書猿が好き」でも「リチャード:ドーキンスが好き」でも構わないっちゃぁ構わないが それは単なる個人的な好き嫌いの範疇であって 個人的な好き嫌いが論理客観的な真理の証明になるわけではない

個人的に殺し合いのヴィデオゲームが好きでも ロリコン漫画が好きでも構わないが だからといって殺し合いや幼女強姦が正当化できるわけではない

それなら「三島由紀夫が好き」だからといっても「三島由紀夫の言うことが正しい」ことの論拠には全くならない

主観的な好き嫌いで何かを信じておけば 自動的に常に正しい選択になるとでも思っているからこそ 自分の主観を絶対的なものだと信じ込むのであって それこそが精神の怠慢であり 傲慢の源である

私は自分が「知識のエコシステム」における頂点だとは全く思っていない

むしろ 精神の怠慢による傲慢さを発揮して嘘でもデマでも何でも鵜呑みにしている多数の頭の悪さを指摘しているだけであって それを「傲慢」だと勘違いしている事自体が既に自分の傲慢さを自覚していないのである

バカに対してバカだと言うのは 論理客観的な形容詞に過ぎず バカだと言われて主観的に気分が悪いからバカだと指摘している相手の言っている内容を理解しようともしないのは バカの上塗りにしかならない

他人から言われてみれば誰でもが嘘だと見抜けるようなバカげた嘘を 自分からは何も気づくことが出来ない頭の悪さを「バカだ」と指摘されて気分が悪いかどうかは 言われた方の勝手な主観に過ぎない

頭の悪さの構造を知り 同じような嘘には騙されないようにすればバカにはならずに済むのであって そこには「生態系のピラミッドになぞらえる」ような知識のヒエラルキーは存在しないのである

にも関わらず 知識の「量」だけをひけらかし あたかも「俺様だけが知識のエコシステムにおける頂点であるから盲目的に信用しろ」とばかりに言い張るバカに洗脳されていれば これはバカとしか形容詞がなくなる

自己の主観を客観的に検証することによって 主観が促す錯覚や洗脳に陥らないようにすることも可能となる そのための「哲学」である

大衆の多くは 他人から「バカだ」と指摘され「自分はバカだ」と自覚すると 主観的に落ち込むだけで自分のどこがどのようにバカなのかを客観的に理解しようとはせず むしろ「大多数がバカなら バカでも安心」して自らの頭の悪さの構造原理については一切理解しようともしなくなる

「人間って そういうものでしょ」などと称して あたかも「多数が騙されることに騙されていても仕方ないこと」のように扱い 自分の頭の悪さが多数によって正当化されたような錯覚によって自分の頭の悪さの構造原理を知ろうともしなくなる

主観的に気分の悪くなる話を意識から遠ざけ 無視し なかったことにすることで ヒトはバカから脱却することができなくなる

ヒトとは 先天的にそういう「残念な生き物」なのである

気分的にどんなに落ちこもうが 多数を論拠に正当化できたかのような錯覚に陥ろうが バカは治らない

セーレン:キェルケゴールが論じた「絶望」とは 様々な主観的屁理屈の展開によって真理の追求を免れようとする精神の怠慢を断罪したものである

精神の怠慢によって論理客観的な真理の判別ができなければ 絶滅の危険も回避することはできなくなる

室山哲也の「予言」通りに絶滅したとしても そんなこた私の知ったことではない いくら説明しても理解せず 自分の主観だけで嘘やデマを鵜呑みにし 真実を見落とし続けた結果として 回避可能な危険性が回避できなかったとしても そんなことまで私が責任を負える立場にはない

私を何様だと思っているのであろうか

アタシゃ神様でもお釈迦様でもないので 一切衆生を救済する権限も能力もありゃしませんよ

この世のバカのいちいち全部を面倒看るわけにゃいかんのですよ

生態系のピラミッド」になぞらえることが可能な「知識のエコシステム」なんぞ存在しない

社会安全性にとって必要なのは「個人が自律的な社会的責任判断選択を行う」という人間性や倫理の本質であって これは全てのヒトに平等に責任が存在するんであって 封建主義に則って誰かの言うことを盲目的に信頼して疑わずに従っておけばどうにかなるようなものではない

 

大衆の多くは 哲学というものを主観的な満足感を得るためのものだと勘違いしているが 哲学はあくまで真理を探求することによって 本当の安全性とは何かも見極めることも可能となるのである

何が本当の「哲学」なのかも見極められずに カントだのニーチェだのを哲学だと信じ込んでいるようなら真実は闇の中に葬られることになる

「それでも良い」という選択肢は「ヒト」にはあっても「人間」にはない

 

自分の脳が気持ちいいかどうかは 先天的に決定している選択不可能なものだが 社会安全性を優先する人間性や倫理に基づいた「選択」は可能である

社会安全性にとって最も重要なのは 論理客観的根拠に基づいた「本当のこと」を見極める能力であり これは特定の誰かが担保してくれるのではなく それぞれの個人における責任の範疇において必要なものである

「法律で規制されていないから」といって温室効果ガスを無駄に撒き散らして良いわけではない

大多数のバカが養老孟司だの読書猿に騙され満足して思考停止に陥っていても刑法罰の対象にはならないが それは「人間」としての著しい欠陥である

 

 

Ende;


自動車に網戸

2020年12月14日 10時26分47秒 | 日記

自動車で標高の高いところに行って車中泊すれば真夏でも涼しいので窓開けときゃ寝れるみたいな話があったんだが

何で自動車には網戸がないんだろう

窓枠のトリムの隙間に網戸の網を突っ込めば網戸になりそうだが

 

 


Ende;