懐中電灯とかの反射鏡というのは、Y=X二乗の放物線の回転体で良いらしい。
Yが0.25の高さの部分に発光部分を置けば、広がる全ての光が一方向に反射できるそうです。
Φ5㎜のLEDの場合、発光部分とは別に、横方向には先端部分が光る。これは多分、先端の丸い部分で全反射という現象が生じて、横方向に光が逃げてしまうためだと思う。
だから、LEDの先端部分が焦点になるように反射鏡を作れば効率良く光を前に集めることができるのではないかと思う。試しに計算してみたら、直径5cmくらいになった。もっと小さくすることも可能だけれど、あまり小さくても光源自体がそんなに小さくはないので、集光効率を考えると5cmくらいが適切なのかなと思う。
Shadeで立体データを作るのであれば、予め0.1㎜ごとくらいで計算しておいて、数値入力で曲面を作れば良いと思う。
ただ、Shadeっていうのは、あまり数値の精度が高くないらしいので、本当ならフリーのCADソフトとかで作るのが適切なのかな。
Yが0.25の高さの部分に発光部分を置けば、広がる全ての光が一方向に反射できるそうです。
Φ5㎜のLEDの場合、発光部分とは別に、横方向には先端部分が光る。これは多分、先端の丸い部分で全反射という現象が生じて、横方向に光が逃げてしまうためだと思う。
だから、LEDの先端部分が焦点になるように反射鏡を作れば効率良く光を前に集めることができるのではないかと思う。試しに計算してみたら、直径5cmくらいになった。もっと小さくすることも可能だけれど、あまり小さくても光源自体がそんなに小さくはないので、集光効率を考えると5cmくらいが適切なのかなと思う。
Shadeで立体データを作るのであれば、予め0.1㎜ごとくらいで計算しておいて、数値入力で曲面を作れば良いと思う。
ただ、Shadeっていうのは、あまり数値の精度が高くないらしいので、本当ならフリーのCADソフトとかで作るのが適切なのかな。
私の論ずる本質的意識についての話というのは、従来の固定観念に基づくアプリオリな定義に基づいていても、全く論理的には理解することが不可能である。
「甘え。」についても同様である。
ヒトの幼少期における「甘え。」というのは、極めて自然なものであり、生物としてなくてはならない行動であり。これ自体に実害があるわけではない。
害を為す「甘え。」とは、子供の観念のまま、精神年齢が全く変わらず、自律的に公益倫理的判断をしようとしなくなってしまう、大人の「甘え。」が問題なのである。
ヒトの子供が本質的自発性を発揮するためには、親に対する絶対的な信頼が不可欠であり。気分的な安心感によって思考の自由を獲得するのである。
親が子供の自発性を重んじないというのは、子供の自律判断を失わせる反社会的行為であり。社会的義務の放棄である。
「俺の子供だから、どのような育て方をしようと、俺の勝手だ。」などというのは。まさに親の方の社会的「甘え。」であり、幼児性そのものである。
「子供は社会の財産。」であり、社会的に公の存在なのである。決して子供というのは親の個人的所有物などではなく。育児放棄などによって心的外傷を負った人を社会に送り出すというのは、社会的義務の放棄であり。社会的な「甘え。」なのである。
こうした、大人による社会的「甘え。」による無責任性こそが、社会の崩壊を招く最大要因なのである。
「一体何が根本原因なのか、わからない。」というヒトがいるが。絶対的根本原因というのは、「ヒトという種の生物に習性として組み込まれた本能的な情動行動というものが、人間としての公益倫理的な自律判断とは相容れない。」という現実なのである。
その具体的な現れとして、様々な問題においての根本原因を挙げているのであり。それが多岐に渡るのは必然というものである。「これさえやっときゃ、全ては解決する。」ような短絡的な原因を挙げているのではない。あらゆる事象における表出した原因を、その具体的な状況に応じて挙げているのであり。全ての具体的問題点について私が論ずることなど原理的に不可能なのである。
本来であるならば、私がいちいち詳細に、噛んで含めるように説明しなくても。本論が提示した根本的構造に基づいて、各自が考えるべきものなのである。
私にできることなど、さしたることではない。問題の一つ一つを解決するのは、当事者であるあなた自身なのである。
ヒトという種の生物の、本能習性に起因するあらゆる無責任性の全ては。意識の表層だけで無意識に行動選択をしてしまうという、意識狭窄性に由来する。困ったことに意識狭窄な者にとっては、狭窄な意識こそが意識の全てであるため、本質的意識とは何かということには全く意識自体が働かないのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、むしろ、感情という無意識に意識を奪われてパニックに陥っているからこそ、無意識状態なのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、自律的な合理的思考判断が伴わなければ、それは本質的には「自分の意思。」ですらないのである。
こうした本質的な「自分の意思。」というものは、漫然と本論を読んでいれば身につくというようなインスタントなものではなく。自己自身に対する常日頃からの検証意識が必要である。
「自分は、何故こういう行動をしているのか。」その一つ一つを丹念に検証してゆかなければ、自己の意識改革は全く成されない。
自己の意識すら変えられない者が、他人の意識に言及することは許されるものではないのである。現実には他人の意識にばかり言及し、自己自身は漫然と無意識行動を繰り返すだけのヒトが非常に多い。他人のことをとやかく言う前に、自己自身の行動の全てを見直すことが先なのである。それは決して簡単なことではない。
それに対して、ニーチェだの養老といったペテンに引っ掛かるのは極めて簡単である。論理的思考検証を伴わず、漫然と相手の話を鵜呑みにし。かつ、自分の都合の良いように勝手な解釈をこじつけて気分的に満足し、話を丸めて思考を停止させているからである。
本論を断片的に引用することによって、曲解することは簡単である。原子力学者の奈良林直のように、「合理的判断。」などと大衆観念的アプリオリな短絡的曲解を促すことは、非常に簡単なのである。
本質的「意識。」「合理性。」「考え。」とは何かを、正確に論理的理解をしていなければ、本論は糞の役にも立つことはないばかりか、害をもたらすだけであり。そこには本質的「人間性。」も「社会性。」も「心。」も存在しないのである。
本来であれば、「難しい。」だの「わからない。」などで済まされるような話ではない。人として社会で生活する以上、本来なら例外など認めることはできない話なのである。
学生時代にどんなに高い学力を発揮していたとしても、たとえ社会的な成功をしていようとも。自律的に公益倫理判断ができなければ、社会にとっては糞の役にも立たないのである。
アイヒマン実験の被験者が精神的な救済を求めても、社会的には何の価値も存在しないばかりか。むしろ思考停止による害しかもたらさない。
自らが冒した過ちというものを、真正面から捕らえ、自戒を持って再発防止の心掛けをすることによって、初めて「教訓。」となり、社会的な財産となるのである。
自分が生産した牛肉に、国の安全基準を上回る放射性物質が含まれていることを公表するという自律判断行動に、精神的な「救済。」など存在しないのである。
むしろ、知らずとはいえ、社会に害を及ぼすような事故に巻き込まれた「悔しさ。」ばかりにさいなまされ、「夜も眠れない。」のである。
ニーチェを読んで喜んでいるというのは、こうした公益倫理的自律判断というものを全く意識することのない、単なる快楽主義者の身勝手な自己満足に過ぎないのである。
ニーチェのような身勝手な自己満足をしているというのは、被災者達の気持ちを無視した傲慢なのである。
それはカルト宗教の信者達の満足と同じものなのである。
現在の哲学が、どれだけ怠慢であるのかを少しは認識できたであろうか。
「甘え。」についても同様である。
ヒトの幼少期における「甘え。」というのは、極めて自然なものであり、生物としてなくてはならない行動であり。これ自体に実害があるわけではない。
害を為す「甘え。」とは、子供の観念のまま、精神年齢が全く変わらず、自律的に公益倫理的判断をしようとしなくなってしまう、大人の「甘え。」が問題なのである。
ヒトの子供が本質的自発性を発揮するためには、親に対する絶対的な信頼が不可欠であり。気分的な安心感によって思考の自由を獲得するのである。
親が子供の自発性を重んじないというのは、子供の自律判断を失わせる反社会的行為であり。社会的義務の放棄である。
「俺の子供だから、どのような育て方をしようと、俺の勝手だ。」などというのは。まさに親の方の社会的「甘え。」であり、幼児性そのものである。
「子供は社会の財産。」であり、社会的に公の存在なのである。決して子供というのは親の個人的所有物などではなく。育児放棄などによって心的外傷を負った人を社会に送り出すというのは、社会的義務の放棄であり。社会的な「甘え。」なのである。
こうした、大人による社会的「甘え。」による無責任性こそが、社会の崩壊を招く最大要因なのである。
「一体何が根本原因なのか、わからない。」というヒトがいるが。絶対的根本原因というのは、「ヒトという種の生物に習性として組み込まれた本能的な情動行動というものが、人間としての公益倫理的な自律判断とは相容れない。」という現実なのである。
その具体的な現れとして、様々な問題においての根本原因を挙げているのであり。それが多岐に渡るのは必然というものである。「これさえやっときゃ、全ては解決する。」ような短絡的な原因を挙げているのではない。あらゆる事象における表出した原因を、その具体的な状況に応じて挙げているのであり。全ての具体的問題点について私が論ずることなど原理的に不可能なのである。
本来であるならば、私がいちいち詳細に、噛んで含めるように説明しなくても。本論が提示した根本的構造に基づいて、各自が考えるべきものなのである。
私にできることなど、さしたることではない。問題の一つ一つを解決するのは、当事者であるあなた自身なのである。
ヒトという種の生物の、本能習性に起因するあらゆる無責任性の全ては。意識の表層だけで無意識に行動選択をしてしまうという、意識狭窄性に由来する。困ったことに意識狭窄な者にとっては、狭窄な意識こそが意識の全てであるため、本質的意識とは何かということには全く意識自体が働かないのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、むしろ、感情という無意識に意識を奪われてパニックに陥っているからこそ、無意識状態なのである。
どんなに強い感情を伴おうとも、自律的な合理的思考判断が伴わなければ、それは本質的には「自分の意思。」ですらないのである。
こうした本質的な「自分の意思。」というものは、漫然と本論を読んでいれば身につくというようなインスタントなものではなく。自己自身に対する常日頃からの検証意識が必要である。
「自分は、何故こういう行動をしているのか。」その一つ一つを丹念に検証してゆかなければ、自己の意識改革は全く成されない。
自己の意識すら変えられない者が、他人の意識に言及することは許されるものではないのである。現実には他人の意識にばかり言及し、自己自身は漫然と無意識行動を繰り返すだけのヒトが非常に多い。他人のことをとやかく言う前に、自己自身の行動の全てを見直すことが先なのである。それは決して簡単なことではない。
それに対して、ニーチェだの養老といったペテンに引っ掛かるのは極めて簡単である。論理的思考検証を伴わず、漫然と相手の話を鵜呑みにし。かつ、自分の都合の良いように勝手な解釈をこじつけて気分的に満足し、話を丸めて思考を停止させているからである。
本論を断片的に引用することによって、曲解することは簡単である。原子力学者の奈良林直のように、「合理的判断。」などと大衆観念的アプリオリな短絡的曲解を促すことは、非常に簡単なのである。
本質的「意識。」「合理性。」「考え。」とは何かを、正確に論理的理解をしていなければ、本論は糞の役にも立つことはないばかりか、害をもたらすだけであり。そこには本質的「人間性。」も「社会性。」も「心。」も存在しないのである。
本来であれば、「難しい。」だの「わからない。」などで済まされるような話ではない。人として社会で生活する以上、本来なら例外など認めることはできない話なのである。
学生時代にどんなに高い学力を発揮していたとしても、たとえ社会的な成功をしていようとも。自律的に公益倫理判断ができなければ、社会にとっては糞の役にも立たないのである。
アイヒマン実験の被験者が精神的な救済を求めても、社会的には何の価値も存在しないばかりか。むしろ思考停止による害しかもたらさない。
自らが冒した過ちというものを、真正面から捕らえ、自戒を持って再発防止の心掛けをすることによって、初めて「教訓。」となり、社会的な財産となるのである。
自分が生産した牛肉に、国の安全基準を上回る放射性物質が含まれていることを公表するという自律判断行動に、精神的な「救済。」など存在しないのである。
むしろ、知らずとはいえ、社会に害を及ぼすような事故に巻き込まれた「悔しさ。」ばかりにさいなまされ、「夜も眠れない。」のである。
ニーチェを読んで喜んでいるというのは、こうした公益倫理的自律判断というものを全く意識することのない、単なる快楽主義者の身勝手な自己満足に過ぎないのである。
ニーチェのような身勝手な自己満足をしているというのは、被災者達の気持ちを無視した傲慢なのである。
それはカルト宗教の信者達の満足と同じものなのである。
現在の哲学が、どれだけ怠慢であるのかを少しは認識できたであろうか。
ニーチェが論ずる「救済。」とは、精神的な救済のことであり。気分的、感情的な救済のことである。
本質的意識を持たない、本質的合理性を追求することが嫌いな者というのは。その思考の短絡性を事後正当化するための取り繕いとして、その場限りの気分的救済を求めて満足するのである。
ナチスのポーランド絶滅収容所のアドルフ:アイヒマンが、数百万のユダヤ人を死体に変換する計画書を書き続けたことを事後正当化して、その場限りの気分的救済と称して自己満足するための屁理屈とは、「私はただ、忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」というものである。
彼は、こうした屁理屈によって本質的意識を「なかったこと。」にすることで、気分のおもむくままにナチス体制への忠誠心だけを満足させたのである。
ニーチェの言う「救済。」というのものは、自己の意識を狭窄化させ、ただひたすら特定の情動のおもむくままに行動することができるようになるための、思考停止の方法論である。
それによって、意識の表層だけを満足させておくことを「救済。」というのである。
何も考えずに、ただ気分を満足させておけば。本質的意識を働かせずに済むため、その場限りに気分だけは満足である。
アイヒマン実験の被験者において、自分の行ってしまった行動を事後正当化するための屁理屈は「被害者となった者が悪い。」というものである。
それがニーチェの言う「救済。」の正体である。
ニーチェを読むと、多くのバカは気分的に満足するらしい。何ら論理的根拠もなく自己を正当化して構わないと勝手に勘違いすることが出来るからであろう。
本質的意識の働かない者にとって、論理的思考を停止させ、ただ意識の表層の気分だけを満足させておくことだけが意識の全てである。
従って、こういうバカに本質的意識とは何かとか、本質的合理性の重要性を説いても大抵は徒労に終わる。最初から論理的には「理解」するつもりが全くないからだ。
バカにとっては論理的根拠というのは気分を害する厄災でしかない。
本質的意識とは何かを知ることには、何ら気分的満足など伴わない。なぜなら、気分的満足という大脳辺縁系の条件反射とは無関係に、論理的かつ純粋に「考える。」ことを意味するからだ。
既に自分が行ってしまったことや、自分が信じ込んでしまっていたことを疑い。場合によっては覆すことというのは、気分的には楽しいことではない。自らの愚かさを認識することというのは、自らの無能を認識することでもあり。気分的には痛みすら伴う。
カルト宗教の信者達が、なぜカルト宗教をやめることができないのか。それはひとえに「気分が悪い。」からである。
「やめることができない。」というのは、脳内物質ドーパミンが持つ「常習性。」の働きそのものである。繰り返し無意識に「学習。」してしまった行動というものへの情動的な安心を、ドーパミンの常習性は作り出す。そしてそれが無意識な情動行動というものを作り出すのである。
アイヒマン実験において、権威に逆らうことは気分の良いことではない。ヒトとしての行動習性として刷り込まれてしまった服従行動に抗うのは、理性である。
権威への決別を行う時には感情的にはなるが。その感情とはあくまでネガティブな感情であり、決して服従し続けることの安心快楽は得られることはない。
アイヒマン実験において、権威に服従し続けることこそが、精神の「救済。」なのである。
それを「時代が悪かった。」だの「社会が悪かった。」などと、自己の環境依存性の結果を言い訳にすることは、論理的には不可能である。
しかし、そうした自己の環境依存性すらも、ニーチェは「運命愛。」と称して事後正当化するのである。
何度も言うが、ニーチェというのは哲学ではなく。ゾロアスター教という新興宗教に過ぎないのである。
それがナチスという思考停止の集団を「精神的。」に支えたのである。
故に600万人ものユダヤ人を平気で死体に変換することが可能になったのである。
学校で発生するイジメであっても、精神的には同根である。意識を失い、酔っ払ったかのように暴力の快楽に任せておくことも平気になれる。「ヒト。」とは、そういうものなのである。
自己自身にそうした習性があることを前提に、それを運命などと無為無策に流されないように自律的に自己の行動選択を行うのが、本質的意識の役割である。
本能に抗うことというのは精神的には平穏ではいられない。そこに精神の「救済。」などというものは、初めから構造的に存在しないのである。
精神的な「救済。」を促すニーチェなどのカルト宗教ほど、多くのヒトの「心。」を掴むものである。しかし、この場合における掴まれた「心。」とは、本質的には人間としての優しさを持った本当の「心。」ではなく。あくまで意識の表層の気分的快楽を促しているだけの錯覚なのである。
本質的合理性を伴う思考なくして、本質的な「心。」というものは生じることはないのである。
単なる気分や感情を「心。」と呼ぶのは、大衆観念に過ぎない。
「何となく、そんな感じ。」というアプリオリな感覚に基づいていたのでは、論理的思考というものは成立しない。
ところが意識のないバカにとっては、刷り込まれた観念の方が気分的に安心であるため。論理的思考に基づく認識など、何が何でもヒステリックに拒絶しないといられないのである。
残念ながら、世の中の大多数の大衆は論理的思考などしたくないのが実状である。
イジメなどの「ヒト。」が引き起こす諸問題が解決しないのは。そこに合理的な解析や対策が全く行われないからである。
その原因とは、精神的「救済。」なんぞを求めているからである。
何も考えず、何も疑わなければ「安心。」であろう。何も考えず、何も知ろうとしなければ「救われる。」のであろう。
だが、その「救い。」とは動物の本能的な快楽を指しているだけである。
通り魔は無差別殺人に「救い。」を求める。
通り魔が「不特定多数を殺害しさえすれば、全ては解決する。」という短絡的最終解決策に「救済。」を求めるのと同様に。無為無策な大衆は「権威にお任せしておきさえすれば、この世の問題の全ては解決する。」と思い込んでいるのである。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的最終解答は、大衆の頭の悪さと親和性が良いのである。
問題を解決するためには、地道な積み重ねや、一人一人の心掛けが必要なものが少なくはない。
「これさえやっときゃ、本質的意識が得られる。」というような短絡的な方法論は存在しない。むしろ、日々の行動判断の一つ一つを自ら検証してゆく地道な意識改革こそが重要なのである。
意識論というのはバカの気分が良くなるような話ではないのである。
目先の気分的「救済。」というものは、社会的価値とは無関係である。カルト宗教の信者がカルト信仰をやめなければ気分的には「救済。」である。こうした気分的、情動的な自己満足こそが、論理的思考判断を失う原因である。
*ちょっと覚書:天野敦之 城南信金CEOが紹介。今WBSの「スミスの本棚。」で紹介していた。
本質的意識を持たない、本質的合理性を追求することが嫌いな者というのは。その思考の短絡性を事後正当化するための取り繕いとして、その場限りの気分的救済を求めて満足するのである。
ナチスのポーランド絶滅収容所のアドルフ:アイヒマンが、数百万のユダヤ人を死体に変換する計画書を書き続けたことを事後正当化して、その場限りの気分的救済と称して自己満足するための屁理屈とは、「私はただ、忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」というものである。
彼は、こうした屁理屈によって本質的意識を「なかったこと。」にすることで、気分のおもむくままにナチス体制への忠誠心だけを満足させたのである。
ニーチェの言う「救済。」というのものは、自己の意識を狭窄化させ、ただひたすら特定の情動のおもむくままに行動することができるようになるための、思考停止の方法論である。
それによって、意識の表層だけを満足させておくことを「救済。」というのである。
何も考えずに、ただ気分を満足させておけば。本質的意識を働かせずに済むため、その場限りに気分だけは満足である。
アイヒマン実験の被験者において、自分の行ってしまった行動を事後正当化するための屁理屈は「被害者となった者が悪い。」というものである。
それがニーチェの言う「救済。」の正体である。
ニーチェを読むと、多くのバカは気分的に満足するらしい。何ら論理的根拠もなく自己を正当化して構わないと勝手に勘違いすることが出来るからであろう。
本質的意識の働かない者にとって、論理的思考を停止させ、ただ意識の表層の気分だけを満足させておくことだけが意識の全てである。
従って、こういうバカに本質的意識とは何かとか、本質的合理性の重要性を説いても大抵は徒労に終わる。最初から論理的には「理解」するつもりが全くないからだ。
バカにとっては論理的根拠というのは気分を害する厄災でしかない。
本質的意識とは何かを知ることには、何ら気分的満足など伴わない。なぜなら、気分的満足という大脳辺縁系の条件反射とは無関係に、論理的かつ純粋に「考える。」ことを意味するからだ。
既に自分が行ってしまったことや、自分が信じ込んでしまっていたことを疑い。場合によっては覆すことというのは、気分的には楽しいことではない。自らの愚かさを認識することというのは、自らの無能を認識することでもあり。気分的には痛みすら伴う。
カルト宗教の信者達が、なぜカルト宗教をやめることができないのか。それはひとえに「気分が悪い。」からである。
「やめることができない。」というのは、脳内物質ドーパミンが持つ「常習性。」の働きそのものである。繰り返し無意識に「学習。」してしまった行動というものへの情動的な安心を、ドーパミンの常習性は作り出す。そしてそれが無意識な情動行動というものを作り出すのである。
アイヒマン実験において、権威に逆らうことは気分の良いことではない。ヒトとしての行動習性として刷り込まれてしまった服従行動に抗うのは、理性である。
権威への決別を行う時には感情的にはなるが。その感情とはあくまでネガティブな感情であり、決して服従し続けることの安心快楽は得られることはない。
アイヒマン実験において、権威に服従し続けることこそが、精神の「救済。」なのである。
それを「時代が悪かった。」だの「社会が悪かった。」などと、自己の環境依存性の結果を言い訳にすることは、論理的には不可能である。
しかし、そうした自己の環境依存性すらも、ニーチェは「運命愛。」と称して事後正当化するのである。
何度も言うが、ニーチェというのは哲学ではなく。ゾロアスター教という新興宗教に過ぎないのである。
それがナチスという思考停止の集団を「精神的。」に支えたのである。
故に600万人ものユダヤ人を平気で死体に変換することが可能になったのである。
学校で発生するイジメであっても、精神的には同根である。意識を失い、酔っ払ったかのように暴力の快楽に任せておくことも平気になれる。「ヒト。」とは、そういうものなのである。
自己自身にそうした習性があることを前提に、それを運命などと無為無策に流されないように自律的に自己の行動選択を行うのが、本質的意識の役割である。
本能に抗うことというのは精神的には平穏ではいられない。そこに精神の「救済。」などというものは、初めから構造的に存在しないのである。
精神的な「救済。」を促すニーチェなどのカルト宗教ほど、多くのヒトの「心。」を掴むものである。しかし、この場合における掴まれた「心。」とは、本質的には人間としての優しさを持った本当の「心。」ではなく。あくまで意識の表層の気分的快楽を促しているだけの錯覚なのである。
本質的合理性を伴う思考なくして、本質的な「心。」というものは生じることはないのである。
単なる気分や感情を「心。」と呼ぶのは、大衆観念に過ぎない。
「何となく、そんな感じ。」というアプリオリな感覚に基づいていたのでは、論理的思考というものは成立しない。
ところが意識のないバカにとっては、刷り込まれた観念の方が気分的に安心であるため。論理的思考に基づく認識など、何が何でもヒステリックに拒絶しないといられないのである。
残念ながら、世の中の大多数の大衆は論理的思考などしたくないのが実状である。
イジメなどの「ヒト。」が引き起こす諸問題が解決しないのは。そこに合理的な解析や対策が全く行われないからである。
その原因とは、精神的「救済。」なんぞを求めているからである。
何も考えず、何も疑わなければ「安心。」であろう。何も考えず、何も知ろうとしなければ「救われる。」のであろう。
だが、その「救い。」とは動物の本能的な快楽を指しているだけである。
通り魔は無差別殺人に「救い。」を求める。
通り魔が「不特定多数を殺害しさえすれば、全ては解決する。」という短絡的最終解決策に「救済。」を求めるのと同様に。無為無策な大衆は「権威にお任せしておきさえすれば、この世の問題の全ては解決する。」と思い込んでいるのである。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的最終解答は、大衆の頭の悪さと親和性が良いのである。
問題を解決するためには、地道な積み重ねや、一人一人の心掛けが必要なものが少なくはない。
「これさえやっときゃ、本質的意識が得られる。」というような短絡的な方法論は存在しない。むしろ、日々の行動判断の一つ一つを自ら検証してゆく地道な意識改革こそが重要なのである。
意識論というのはバカの気分が良くなるような話ではないのである。
目先の気分的「救済。」というものは、社会的価値とは無関係である。カルト宗教の信者がカルト信仰をやめなければ気分的には「救済。」である。こうした気分的、情動的な自己満足こそが、論理的思考判断を失う原因である。
*ちょっと覚書:天野敦之 城南信金CEOが紹介。今WBSの「スミスの本棚。」で紹介していた。
日本国民は全ての人が教育については考えなければいけない。
教育というのは社会的基盤であるから、「俺は知らない。」で済まされる話ではないのである。
もし教育関係者が「部外者。」と称して排除するのであれば、これはとんでもない大嘘なのである。
基本的に日本国民のほとんど全員はかつて学生だったのであり。当事者なのである
教育というのは聖域などではない。
学力が高いだけで公益倫理的な自律判断もできず、教えられたこと以外何もできないバカを大量生産されていては社会的損失にしかならないのである。
そういうバカが原発を暴走させたのである。
根本的に今の学校授業は面白くない。学生が知りたいと思うことを、もっと大量に教えてゆくことが大事。生徒の本質的自発性を引き出すことができれば、必要な知識はほったらかしておいても勝手に勉強するものである。
そうした当人にとっての必要性に基づいた学習をさせないから、テストのためだけの学習になってしまうのである。
ビジネスとしての教育システム任せにしているだけでは学力成績と肩書以外に何も身につかないのである。
今年の設計製造ソリューション展には学生の姿が多かったようである。これはとても良い傾向ではないだろうか。出展者からするとビジネスには直結しないから邪魔なのかも知れないが、展示会のように最新の技術に触れておくのは下手な学校のイベントよりもずっと知識を広めることができるだろうし、何より当人達が楽しいのではないだろうか。
もしかして出展者からすると、採用の前フリにもなるのかも知れないし。展示会というのは会社を紹介するために、わざわざお金を出して出展しているので。相手が誰でも一生懸命説明してくるのではないだろうか。
もし、就職したい会社というのが見つかれば、それが学習の励みになることもあるだろう。
放送大学の副学長も言っていたが、学ぶことは楽しむことが大切なのである。
本当は、新しいことを知るということは楽しいものなのである。それを学校が失わせていることが、社会にとっての最大の損失なのである。
学力だけ向上させておいて、社会貢献だと思われてはたまらない。学力の高い通り魔とか、天下り役人とか、原子炉を暴走させる技術者とか、建築強度偽装をする一級建築士とか。そういう迷惑なヒトは要らないのである。
教育というのは社会的基盤であるから、「俺は知らない。」で済まされる話ではないのである。
もし教育関係者が「部外者。」と称して排除するのであれば、これはとんでもない大嘘なのである。
基本的に日本国民のほとんど全員はかつて学生だったのであり。当事者なのである
教育というのは聖域などではない。
学力が高いだけで公益倫理的な自律判断もできず、教えられたこと以外何もできないバカを大量生産されていては社会的損失にしかならないのである。
そういうバカが原発を暴走させたのである。
根本的に今の学校授業は面白くない。学生が知りたいと思うことを、もっと大量に教えてゆくことが大事。生徒の本質的自発性を引き出すことができれば、必要な知識はほったらかしておいても勝手に勉強するものである。
そうした当人にとっての必要性に基づいた学習をさせないから、テストのためだけの学習になってしまうのである。
ビジネスとしての教育システム任せにしているだけでは学力成績と肩書以外に何も身につかないのである。
今年の設計製造ソリューション展には学生の姿が多かったようである。これはとても良い傾向ではないだろうか。出展者からするとビジネスには直結しないから邪魔なのかも知れないが、展示会のように最新の技術に触れておくのは下手な学校のイベントよりもずっと知識を広めることができるだろうし、何より当人達が楽しいのではないだろうか。
もしかして出展者からすると、採用の前フリにもなるのかも知れないし。展示会というのは会社を紹介するために、わざわざお金を出して出展しているので。相手が誰でも一生懸命説明してくるのではないだろうか。
もし、就職したい会社というのが見つかれば、それが学習の励みになることもあるだろう。
放送大学の副学長も言っていたが、学ぶことは楽しむことが大切なのである。
本当は、新しいことを知るということは楽しいものなのである。それを学校が失わせていることが、社会にとっての最大の損失なのである。
学力だけ向上させておいて、社会貢献だと思われてはたまらない。学力の高い通り魔とか、天下り役人とか、原子炉を暴走させる技術者とか、建築強度偽装をする一級建築士とか。そういう迷惑なヒトは要らないのである。
時折、記事によっては改行コードが認識されなくなってしまうことがある。
TEXTエディタとHTMLエディタの切替がおかしいらしいのだが、直すことが出来ず面倒。
読みにくいのはご勘弁。
TEXTエディタとHTMLエディタの切替がおかしいらしいのだが、直すことが出来ず面倒。
読みにくいのはご勘弁。
ここのところアクセスIPが増える傾向があるのだけど、その原因がどの記事に由来するのかはgooブログでは無料ではわからない。単にデジカメの懸賞を紹介したのが原因かもしれないけど、学校でのイジメに関する話にアクセスしているかも知れないので、もう少し書いておこうと思う。
実際に学校でのイジメを無くすためには、子供達が勝手に作り出す習性的な「社会性。」、生物学的な社会形成習性任せにしないことである。
具体的には子供達だけで放置しないことである。「協調性を養うため」だとか言う屁理屈は単なる教師や親の手抜きの言い訳でしかない。イジメという「協調行動。」を養っても、人間性は全く養われないばかりか、むしろ心に大きな傷を与えて社会に出た後に重大な悪影響を及ぼすことの方が多い。それは本質的には協調性などではない。
その意味において、学校内部に監視カメラを設置するのは悪いことではない。学校内というのは生徒にとっては公共空間であって、イジメを「プライバシー」などとは言うことができないのである。
生物学的な社会形成習性というものは、服従する対象の存在が非常に大きく。大人の目があればイジメというのはエスカレートすることはない。ましてや動画で「証拠」が残る状態であればなをのことであろう。
だが、こうした物理的対策だけでは根本的解決にはならない。根本的には通り魔になるようなヒトを育てないことであり、そのための教育でなければ社会的存在価値はない。
ただ漫然と教師の言うなりに服従するだけの従順な生徒を育てた方が、教師にとっては簡単である。徹底して服従を強要しておけば良いからだ。だが、それは本質的には手抜きでしかない。そうした手抜き教育によって育った教師しかいないから、結局は人手不足、人材不足に陥るのである。
そのためにも、従来の生物学における「社会性。」という根本的な誤りを正さなければならない。脳科学というのは生物学の一部に分類されており、生物学的社会形成習性を人間性と混同している限り、本質的な人間性を伴った「社会性。」とは何かについての研究は一切成されないからである。
これは私に言わせれば、もはや犯罪である。
大衆やマスコミが「脳トレ。」の類に満足してうかれているから根本的な問題が蔑ろにされるのである。「脳トレ。」類など、いうなれば「クソゲー。」「ヒマゲー。」でしかないことを認識すべきである。
生物学者達にとって、学校でのイジメなどというのは他人事に過ぎない。ヒト以外の研究も大切ではあるが、ヒトについての研究が全くされないというのは異常である。
イヌに見られるような協調行動というのは、そこに異常なまでの服従習性が根本にある。それこそがイジメという異常なまでの協調行動を作り出していることに、今更疑うことの方が頭がおかしい。
悪いことであると「知って」いながらイジメを行ってしまうこと自体は、どんなに学力成績が高くても人間として出来損ないであることを、誰も認識していない現状を維持していることこそが異常なのである。
多くの大衆凡民は、自分が育った環境というものを事後正当化したがる性質がある。自分の世代でイジメがあったことを、あたかも「社会勉強のひとつ」であると言い張るのは、単なる虐待の連鎖の一種に過ぎない。こうした愚かさを民主主義の手続きに基づいて存続させておいて、社会が悪くなることはあっても良くなる訳がないのである。
民衆がバカしかいないのであれば、民衆主義の制度をどんなに徹底しても、それは単なる「バカ主義。」にしかならないからである。
「難しいことはわからない。」というのであれば、教育についても関わるべきではないのである。権利ばかり主張して義務を果たさないヒトがあまりに多すぎる。だから「モンスター○○」というのが蔓延する。どんなに学生時代に学力が高くても、点数にならない新しい知識に全く興味がないのであれば、それこそが学力という抽象化されたエサに対する機械的条件反射行動の結果としての学力でしかなく、それこそがバカの大量生産の弊害なのである。
過去に何が出来たかが重要なのではない。今現在何ができるのかが重要なのである。
本質的な「人間とは、何か。」というのは、たとえ現在の義務教育において教わっていなくても、社会人として全ての人が知っていなければならないはずのことである。たとえ教員免許を持っていても、本質的意識とは何なのかが理解できないようなバカが教師を続けられる現状自体が根本的に間違いなのである。一級建築士の免許を持っていても、根本的にバカなら社会的には損失しか生まないのと同じことである。
そもそも、義務教育というのは、子供達にしてみれば国家権力による強制的集団軟禁状態であり。それ自体が子供達にはストレスの原因なのである。そのストレスがイジメの一因ともなっているのである。外からの不審者にばかりに警戒して、学校内での犯罪者を放置して良いわけではない。
学ぶことは権利であって、本来義務ではない。どのようなことを具体的に学ぶのかの選択肢の狭い現在の教育ビジネスにおいては、義務ばかりが強調されており、学ぶことの権利は規制されている状態なのである。
教師が教え込みたいことだけを教え込み、それ以外の知識を隠蔽統制されている現状というのは。本質的には学ぶことの権利が奪われている状態なのである。何も知識を広めることができなかった時代と現代を同列に扱うのは間違いである。
学校に通り魔が侵入するとマスコミは大騒ぎするが。陰惨なイジメがあってもマスコミというのは「多数」の事件については「日常的」であるとして報道はしない。マスコミというのは稀な事件、センセーショナルなことしか大きく取り上げることはないのである。
溺死の大半は海や川で起こるのではなく、実際には風呂場が95%以上である。だが、マスコミにとって風呂場での溺死は「日常茶飯事」なので報道しないのである。
通り魔に関しては、物理的対策というのは事実上不可能である。根本的対策としては、通り魔を行うようなヒトを育てないことが最優先されるべきなのであり。学校に対する漫然とした怨念を持った人物を大量生産しておいて、学校だけ安全性を確保されても、社会的には迷惑でしかない。
秋葉原の歩行者天国中止であっても、それは通り魔に対する論理的対策にはならない。通り魔と歩行者天国の相関関係など初めからないからだ。それは学校内においても同じである。
素性の知れた大人が学校内に多くいる方が、少数であるはずの異常者に対する抑止にはなるはずである。その異常者というのが、通り魔であってもイジメを行う生徒であってもである。
台所の流しっていうのは、基本的には熱湯を流してはいけないらしい。
でも熱湯は流すよね。
インスタントの焼き(ふやかし)そばの湯切りをすると「ベコン。」とか音がしたりするけど。あれを繰り返して大丈夫なのかな。
冷や麦を茹でた後とかも、ザルに熱湯ごと大量に流したりもする。
でも、流しの下の配水管って塩化ビニールだったりする。
いいのかな。壊れたら大変だよね。
基本的には台所の流しは耐熱構造にしておくべきなんだけどな。
でも熱湯は流すよね。
インスタントの焼き(ふやかし)そばの湯切りをすると「ベコン。」とか音がしたりするけど。あれを繰り返して大丈夫なのかな。
冷や麦を茹でた後とかも、ザルに熱湯ごと大量に流したりもする。
でも、流しの下の配水管って塩化ビニールだったりする。
いいのかな。壊れたら大変だよね。
基本的には台所の流しは耐熱構造にしておくべきなんだけどな。
昼間から点き放しの街灯がある。
夏になると増えるような気がする。
熱でセンサーが壊れるのかな。
家で節電を頑張っても、街灯が全部台なしにしている気がして気分悪い。
夏になると増えるような気がする。
熱でセンサーが壊れるのかな。
家で節電を頑張っても、街灯が全部台なしにしている気がして気分悪い。
オリンパスの写真SNSサイトに鉄道コニュニティがあるんだけど。
http://comm.fotopus.com/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=177
物凄い古い路面電車とかを、パンタグラフ(ビューゲル?。)を交換して街の中を走っている写真とか載ってて面白い。
他にも見たことないような作業車両とかも載ってたりする。
大井町(大手町じゃないよ。)にあるJR車両センターの無料公開のPDFファイルのURLとかも載ってたりして、下手にググるより情報満載。
ただ物凄い混むらしいです。炎天下に並ぶことを準備した方がいいでしょうね。
特にログイン登録とかしなくても見ることはできます。
個人的には登録しないで欲しいんだけど、まあ、自由です。
http://comm.fotopus.com/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=177
物凄い古い路面電車とかを、パンタグラフ(ビューゲル?。)を交換して街の中を走っている写真とか載ってて面白い。
他にも見たことないような作業車両とかも載ってたりする。
大井町(大手町じゃないよ。)にあるJR車両センターの無料公開のPDFファイルのURLとかも載ってたりして、下手にググるより情報満載。
ただ物凄い混むらしいです。炎天下に並ぶことを準備した方がいいでしょうね。
特にログイン登録とかしなくても見ることはできます。
個人的には登録しないで欲しいんだけど、まあ、自由です。
子供達、生徒が自発的に考えるようにするためには。現状の社会においての問題点についても教える必要がある。
しかし、社会の問題点というのは解答がまだないために、教えたとしても学力試験においての点数に結びつかず、学力ビジネスにたずさわる者にとって「うまみ」がないので教えたがらない。
今の大人達がわからないことを教えると、大人の威厳が保てないと勘違いしているバカな大人も少なくない。
解答がない問題を教えてこそ、教育は「開かれた。」ものになるのだが。予め解答が用意可能な問題しか与えなければ、それは既に解答の存在すること以外を一切教えないという閉鎖性を意味する。これは生徒に対する情報統制に他ならない。
「子供に教えるのが難しい。」などというのは単なる言い逃れでしかない。実際大人の多くが解答できないような難問を子供の試験に用いているからだ。
現在の学力試験で高い成績を取る生徒であっても、基本的な常識を知らない場合も、また、倫理観も持たずに、酒も呑んでいないのに酔っ払っているような奴も少なくはない。
なにゆえ酔っ払ったような行動を取るのかといえば、本質的意識自体が全く育っていないからである。無意識なヒトがイジメを行うのは当然のことである。
倫理というものは、そもそも「教える。」ようなものではなく。個人の本質的自発性によって自律的に公益倫理判断をすることによって、文字通り「自ずと。」培われるものなのである。
養老孟司は高校時代、校長先生に「善い行いは、他人が見ていないところで行いなさい。」と言われて、以下のような解釈を付けている、
「悪いことと同じだな。」
これをキチガイという。
どんなに教師が口頭で倫理を説いても、そんなものは全く意味を成さないのである。逆に本質的自発性によって、自律判断が可能な人であれば、倫理など強制的に教え込まなくても良いのである。
しかし、現状の教育システム体制において、こうした考えというものは入り込む余地が全くといってない。
となれば、もはや親や教師などの、子供の教育に関わる大人達など信用ならない。となれば、これは子供達自身が理解し、生徒自身が現状の社会における問題点を知ろうとすることが大切である。
自律的公益倫理判断などといっても、本当は難しいことではない。
「集団で弱い者イジメをしない。」などというのも、こんなことは相手の立場を理解しようとする「意思。」があれば、最初から「知って。」いることなのである。
「知って。」いながらやめることができないのは、そこに本質的意識による論理的思考に基づく自己の情動行動の抑制ができないからに他ならない。
大衆観念的には、こうしたことも全てバランス問題だと「思う。」のであろうが。これはバランスの問題ではなく、あくまで本質的理性こそが倫理観を作り出すのであって、これは気分の問題ではなく、あくまで論理的な「考え。」に基づくものなのである。
現在の哲学というのは、ニーチェだのプラトンの言うことであっても、全く批判せずに有り難がって引用するだけであり。そこには全く「考え。」というものが存在しないのである。
むしろ、ニーチェを引用して気分的に満足し、思考を停止させているのである。
思考が停止していれば、600万人のユダヤ人を死体に変換することも恐れないであろう。動物の情動行動と同じように、機械手続き的な条件反射によって、体制に迎合する気分的「安心」という感情が優先することによって、教室内でのイジメも簡単に出来るようになるのである。
それは気分的には「恐くない。」であろうが、人間としては出来損ないに過ぎない。
別に個人的な好き嫌いを言うのは構わない。嫌いなら関わらなければ良いのである。それはイジメとは言わない。
関わるべきではないのは、イジメを行うような集団であり。イジメられている少数ではない。それが本質的合理性というものである。
それを実行することによって、学校に通うことが困難になったとしても、それは仕方のないことである。何の問題意識も持たずに漫然と通うよりかは、ずっと「考え。」ているからだ。
親は強迫観念的に学校に通わせようとするであろう。だが、その動機のほとんどは世間体を気にしているだけであって、何の縁もない多数他人という「世間。」の顔色をうかがっていないと気分的に「恐い。」から通わせようとするだけである。
今の時代、Web上にはCADソフトでも3Dグラフィックソフトでも、プログラムコンパイラでもフリーで見つけることは可能である。簡単ではないかも知れないが。学力ビジネスに牛耳られた学校に通わなくても、本当に知りたいことは探せば見つかる。村上龍のふんわりした就職案内を読まなくても、そこに載っていないビジネスやライフワークは自分で開拓することも不可能ではない。
子供が登校拒否をするのであれば、むしろ子供が本当にやりたいことを応援するだけの度量が親には欲しいものである。大人自身、実際には学校で教わったことが何の役にも立っていないことを再認識すべきなのである。
ところが、バカというのは過去に行った行動を事後正当化するための屁理屈ばかりに意識が奪われ、むやみやたらと努力辛抱根性的な精神論ばかりをヒステリックに振り回す。これこそが認知症の初期症状「取り繕い。」に他ならない。
あなたの親や教師、同級生が単なるバカであっても私は一切責任持てない。私は神ではないからである。この世のバカのいちいちを面倒看ることは原理的に不可能であるからだ。
どうしたらバカがバカでなくなるのか、それはむしろ私が知りたいくらいである。バカがバカなのは、自らの愚かさを認識「したくない。」という「気分。」「感情。」が原因なのはわかっている。
「ヒトの意識の9割以上は無意識である。」これも個人差があって、中には10割以上が無意識であろうと思われるキチガイも少なくはない。イジメなどというのは、こういうヒトの集団が生物学的な社会形成習性に則って引き起こす普遍的な「習性」なのである。
本来であれば、こうした習性が引き起こす問題というのは子供達自身がどうこうするようなものではなく。教育にたずさわる大人が面倒みるべき問題なのである。それができない、或は「やりたくない。」というのであれば、そんな体制には迎合するべきではないのである。
無為無策な体制に迎合していれば、人間としての本質的意識を失うのは当然のことである。
生物種としての「ヒト。」として生存するだけの存在で構わないのか。それとも本質的社会性を持った「人間。」になりたいのか。それが「選択。」というものであり、また「意思。」というものである。
何か難し過ぎるかな。調子に乗ってしまうとやたらと文字数が増えちゃって。
今日はこの辺でおしまいとしましょう。
しかし、社会の問題点というのは解答がまだないために、教えたとしても学力試験においての点数に結びつかず、学力ビジネスにたずさわる者にとって「うまみ」がないので教えたがらない。
今の大人達がわからないことを教えると、大人の威厳が保てないと勘違いしているバカな大人も少なくない。
解答がない問題を教えてこそ、教育は「開かれた。」ものになるのだが。予め解答が用意可能な問題しか与えなければ、それは既に解答の存在すること以外を一切教えないという閉鎖性を意味する。これは生徒に対する情報統制に他ならない。
「子供に教えるのが難しい。」などというのは単なる言い逃れでしかない。実際大人の多くが解答できないような難問を子供の試験に用いているからだ。
現在の学力試験で高い成績を取る生徒であっても、基本的な常識を知らない場合も、また、倫理観も持たずに、酒も呑んでいないのに酔っ払っているような奴も少なくはない。
なにゆえ酔っ払ったような行動を取るのかといえば、本質的意識自体が全く育っていないからである。無意識なヒトがイジメを行うのは当然のことである。
倫理というものは、そもそも「教える。」ようなものではなく。個人の本質的自発性によって自律的に公益倫理判断をすることによって、文字通り「自ずと。」培われるものなのである。
養老孟司は高校時代、校長先生に「善い行いは、他人が見ていないところで行いなさい。」と言われて、以下のような解釈を付けている、
「悪いことと同じだな。」
これをキチガイという。
どんなに教師が口頭で倫理を説いても、そんなものは全く意味を成さないのである。逆に本質的自発性によって、自律判断が可能な人であれば、倫理など強制的に教え込まなくても良いのである。
しかし、現状の教育システム体制において、こうした考えというものは入り込む余地が全くといってない。
となれば、もはや親や教師などの、子供の教育に関わる大人達など信用ならない。となれば、これは子供達自身が理解し、生徒自身が現状の社会における問題点を知ろうとすることが大切である。
自律的公益倫理判断などといっても、本当は難しいことではない。
「集団で弱い者イジメをしない。」などというのも、こんなことは相手の立場を理解しようとする「意思。」があれば、最初から「知って。」いることなのである。
「知って。」いながらやめることができないのは、そこに本質的意識による論理的思考に基づく自己の情動行動の抑制ができないからに他ならない。
大衆観念的には、こうしたことも全てバランス問題だと「思う。」のであろうが。これはバランスの問題ではなく、あくまで本質的理性こそが倫理観を作り出すのであって、これは気分の問題ではなく、あくまで論理的な「考え。」に基づくものなのである。
現在の哲学というのは、ニーチェだのプラトンの言うことであっても、全く批判せずに有り難がって引用するだけであり。そこには全く「考え。」というものが存在しないのである。
むしろ、ニーチェを引用して気分的に満足し、思考を停止させているのである。
思考が停止していれば、600万人のユダヤ人を死体に変換することも恐れないであろう。動物の情動行動と同じように、機械手続き的な条件反射によって、体制に迎合する気分的「安心」という感情が優先することによって、教室内でのイジメも簡単に出来るようになるのである。
それは気分的には「恐くない。」であろうが、人間としては出来損ないに過ぎない。
別に個人的な好き嫌いを言うのは構わない。嫌いなら関わらなければ良いのである。それはイジメとは言わない。
関わるべきではないのは、イジメを行うような集団であり。イジメられている少数ではない。それが本質的合理性というものである。
それを実行することによって、学校に通うことが困難になったとしても、それは仕方のないことである。何の問題意識も持たずに漫然と通うよりかは、ずっと「考え。」ているからだ。
親は強迫観念的に学校に通わせようとするであろう。だが、その動機のほとんどは世間体を気にしているだけであって、何の縁もない多数他人という「世間。」の顔色をうかがっていないと気分的に「恐い。」から通わせようとするだけである。
今の時代、Web上にはCADソフトでも3Dグラフィックソフトでも、プログラムコンパイラでもフリーで見つけることは可能である。簡単ではないかも知れないが。学力ビジネスに牛耳られた学校に通わなくても、本当に知りたいことは探せば見つかる。村上龍のふんわりした就職案内を読まなくても、そこに載っていないビジネスやライフワークは自分で開拓することも不可能ではない。
子供が登校拒否をするのであれば、むしろ子供が本当にやりたいことを応援するだけの度量が親には欲しいものである。大人自身、実際には学校で教わったことが何の役にも立っていないことを再認識すべきなのである。
ところが、バカというのは過去に行った行動を事後正当化するための屁理屈ばかりに意識が奪われ、むやみやたらと努力辛抱根性的な精神論ばかりをヒステリックに振り回す。これこそが認知症の初期症状「取り繕い。」に他ならない。
あなたの親や教師、同級生が単なるバカであっても私は一切責任持てない。私は神ではないからである。この世のバカのいちいちを面倒看ることは原理的に不可能であるからだ。
どうしたらバカがバカでなくなるのか、それはむしろ私が知りたいくらいである。バカがバカなのは、自らの愚かさを認識「したくない。」という「気分。」「感情。」が原因なのはわかっている。
「ヒトの意識の9割以上は無意識である。」これも個人差があって、中には10割以上が無意識であろうと思われるキチガイも少なくはない。イジメなどというのは、こういうヒトの集団が生物学的な社会形成習性に則って引き起こす普遍的な「習性」なのである。
本来であれば、こうした習性が引き起こす問題というのは子供達自身がどうこうするようなものではなく。教育にたずさわる大人が面倒みるべき問題なのである。それができない、或は「やりたくない。」というのであれば、そんな体制には迎合するべきではないのである。
無為無策な体制に迎合していれば、人間としての本質的意識を失うのは当然のことである。
生物種としての「ヒト。」として生存するだけの存在で構わないのか。それとも本質的社会性を持った「人間。」になりたいのか。それが「選択。」というものであり、また「意思。」というものである。
何か難し過ぎるかな。調子に乗ってしまうとやたらと文字数が増えちゃって。
今日はこの辺でおしまいとしましょう。
画像検索というもの自体を検索したら、原寸画像検索というサイトがヒットしました。
http://gensun-images.com/
Googleの画像検索がおいらのAndroidPCでは使えなくなってしまったので、ややこしいなと思っていたら、もっと便利な画像検索サイトがありました。
検索サイト自体も検索で探せばいいんですね。まだWebに慣れていないです。
http://gensun-images.com/
Googleの画像検索がおいらのAndroidPCでは使えなくなってしまったので、ややこしいなと思っていたら、もっと便利な画像検索サイトがありました。
検索サイト自体も検索で探せばいいんですね。まだWebに慣れていないです。
一眼レフカメラのレンズの先端には、フィルターを取り付けるためのネジが切ってあるんだけど。屋外のフィールドでフィルターを付け外しするのは結構ややこしい。
最近はカメラ内部でデジタル加工のフィルター機能が充実してきているから、実際に使うのはPL偏光フィルターくらいしか使わなくなっている。
レンズ保護のためのプロテクターに関しては、基本つけっぱなしなので、PLフィルターだけでもワンタッチで装着できるといいかもね。
最近流行り出したミラーレス一眼とかって、多分サーキュラータイプである必要はないんじゃないかな。おいらが使っているコンパクトデジカメの場合はサーキュラータイプでなくてもちゃんと写る。
暗いのは-0.7の露出補正をしているからで、カメラ自体は正常に動作しています。
そういえばレンズキャップとかフードってワンタッチで付けられるよね。あんな感じでいいんじゃないかな。
カメラとかレンズの内部にPLフィルターが内蔵されていて、空の明るさとか水面の反射も液晶パネルで操作できたら面白いかもね。
イメージセンサーの直前なら光学的にピントがずれるだけで済むんじゃないのかな。イメージセンサーの小さいカメラならできそうだけど、フォーサーズ以上の一眼だとダメかな。
偏光板自体は東急ハンズとかでも売っているので、これをレンズの前にかざしても同じ効果が得られたりする。ただ、ガラスじゃないので、傷になりやすいんだけどね。
最近はカメラ内部でデジタル加工のフィルター機能が充実してきているから、実際に使うのはPL偏光フィルターくらいしか使わなくなっている。
レンズ保護のためのプロテクターに関しては、基本つけっぱなしなので、PLフィルターだけでもワンタッチで装着できるといいかもね。
最近流行り出したミラーレス一眼とかって、多分サーキュラータイプである必要はないんじゃないかな。おいらが使っているコンパクトデジカメの場合はサーキュラータイプでなくてもちゃんと写る。
暗いのは-0.7の露出補正をしているからで、カメラ自体は正常に動作しています。
そういえばレンズキャップとかフードってワンタッチで付けられるよね。あんな感じでいいんじゃないかな。
カメラとかレンズの内部にPLフィルターが内蔵されていて、空の明るさとか水面の反射も液晶パネルで操作できたら面白いかもね。
イメージセンサーの直前なら光学的にピントがずれるだけで済むんじゃないのかな。イメージセンサーの小さいカメラならできそうだけど、フォーサーズ以上の一眼だとダメかな。
偏光板自体は東急ハンズとかでも売っているので、これをレンズの前にかざしても同じ効果が得られたりする。ただ、ガラスじゃないので、傷になりやすいんだけどね。
オリンパスのメールマガジンに登録したいと思ってたんだけど、どこから登録すればいいのかわからなかった。
そしたら、オリンパスデジタルカメラサイトの中のフォトパスっていう写真コミュニティに登録すれば自動的にメルマガが来るらしい。まだ登録したてなので、来るのかどうかわかんないんだけど。
以前新製品の発表イベントがあったことを、翌日に知ってがっかりしたことがあったので、メルマガで知りたかった。
このフォトパスっつうのに登録すると、オリンパスのカメラが当たる懸賞にも応募できます。本当は紹介なんかすると応募者が増えて不利なんだけど、アクセスIPも二桁しかないので影響ないかなと。
◆追記:影響ないかなとか思ったんだけど、この記事書いたらアクセスIP激増。書くんじゃなかった。
そしたら、オリンパスデジタルカメラサイトの中のフォトパスっていう写真コミュニティに登録すれば自動的にメルマガが来るらしい。まだ登録したてなので、来るのかどうかわかんないんだけど。
以前新製品の発表イベントがあったことを、翌日に知ってがっかりしたことがあったので、メルマガで知りたかった。
このフォトパスっつうのに登録すると、オリンパスのカメラが当たる懸賞にも応募できます。本当は紹介なんかすると応募者が増えて不利なんだけど、アクセスIPも二桁しかないので影響ないかなと。
◆追記:影響ないかなとか思ったんだけど、この記事書いたらアクセスIP激増。書くんじゃなかった。