先日江東区南砂町にある「スナモ」っていうショッピングモールに行って、カインズホームのTシャツを買ってきました。
これが凄く良い。
肌触りが凄く良くて、湿度の高い時とか裸よりもサッパリしているくらい。何ならこの生地で全身タイツを着ていたいくらい。モジモジ君みたいなの。
この生地はどっかで売っていないのかな。凄い欲しい。シーツとかタオルとか、何にでも使いたい。
扇風機の前に濡らして洗濯機で脱水して干しておけば即席冷風扇にもなる。
「なりそう。」ではなくて、実際になる。すぐ乾いちゃうけど。
ただ、カインズホームって店舗の大きさとか売上に対して店員さんの数が圧倒的に不足しているみたいで、商品補充とか陳列値札の管理とかが超手抜き。値札自体がない商品とかよくある。それは誰も買わないです。いちいち店員さんを探してまで値段は聞かないです。値札はちゃんとつけましょう。つってもお店が広いからなー、これは取締役とかが自分で回らないとダメかもね。店長さんは嫌がるかも知れないけど。
これが凄く良い。
肌触りが凄く良くて、湿度の高い時とか裸よりもサッパリしているくらい。何ならこの生地で全身タイツを着ていたいくらい。モジモジ君みたいなの。
この生地はどっかで売っていないのかな。凄い欲しい。シーツとかタオルとか、何にでも使いたい。
扇風機の前に濡らして洗濯機で脱水して干しておけば即席冷風扇にもなる。
「なりそう。」ではなくて、実際になる。すぐ乾いちゃうけど。
ただ、カインズホームって店舗の大きさとか売上に対して店員さんの数が圧倒的に不足しているみたいで、商品補充とか陳列値札の管理とかが超手抜き。値札自体がない商品とかよくある。それは誰も買わないです。いちいち店員さんを探してまで値段は聞かないです。値札はちゃんとつけましょう。つってもお店が広いからなー、これは取締役とかが自分で回らないとダメかもね。店長さんは嫌がるかも知れないけど。
洗濯機に洗濯物を入れっぱなしにすると臭くなっちゃう。
だから洗濯機が洗濯脱水を終了したらテレビ画面の隅に表示してくれると有り難いやね。
あと、ガスコンロに火がついている場合に、点火から何分経過したのかを表示していてくれると安全かも。どうせガスコンロには温度センサーがついているんだから、温度も一緒に表示してくれているといいな。
あと、玄関のインターホンもテレビと連携していると便利。
あ、電話の受話器を外すと自動的にテレビの音声が小さくなるとか。
地デジのテレビに買い替えてから、番組表が表示されるようになったんだけど。文字が小さくて、普通にテレビを見る距離からだと読みづらい。パナソニックは手元用の小型モニターを開発しているらしいんだけど、そういう小型モニターに機能を集約、全ての家電の集中管理、更には戸締まりとかまで管理してくれるといいな。
赤外線カメラで光彩認識してくれればオートロックにできるしね。
あと、雨が降ってきた時に「外に干している洗濯物はないですか?。」って知らせてくれるとか。「2階の誰もいない部屋の窓が開いてるよ。」とか。
鉢植えの植物への水やりもテレビが管理してくれると面白いかもね。
ヒトの脳っていうのは、まったりしちゃうとアレコレ忘れちゃうものだから。テレビ見ながらまったりしている時にお知らせしてくれると有り難いと思う。
あ、あと、冷蔵庫の扉が、中に入れた品物の関係とかで半ドアになっていることがたまにあるので、そういうのもテレビが教えてくれるといいな。
「お風呂が沸いたよ。」とか。
エアコンつけてるときに「外の方が涼しいよ。」とか。
外出している家族がいつも使う電車が運行中止になったときとか。
まあ、スマートフォンで全部できるのかな。でもスマートフォンって月々の契約料が結構高いのよね。あと、セキュリティの観点からはAndroidをネットワークに繋いでおくのも恐いよね。構造的に提供元不明アプリがロードできないようにしておけばいいのかな。だからネットワークに公開するマシンと、家庭内セキュリティマシンの二種類があればいいね。
でも、そういえばネット上に一括で見られるテレビ番組表サイトってないよね。各局ごとの番組表はあるけど。NHK中心で各局共同で作ればいいじゃんか、教育3チャンネルとか、MX2とか、放送大学2、3チャンネルとか、一覧できると便利。
今の地デジ番組表って、教育3チャンネルとかが表示されない。
だから洗濯機が洗濯脱水を終了したらテレビ画面の隅に表示してくれると有り難いやね。
あと、ガスコンロに火がついている場合に、点火から何分経過したのかを表示していてくれると安全かも。どうせガスコンロには温度センサーがついているんだから、温度も一緒に表示してくれているといいな。
あと、玄関のインターホンもテレビと連携していると便利。
あ、電話の受話器を外すと自動的にテレビの音声が小さくなるとか。
地デジのテレビに買い替えてから、番組表が表示されるようになったんだけど。文字が小さくて、普通にテレビを見る距離からだと読みづらい。パナソニックは手元用の小型モニターを開発しているらしいんだけど、そういう小型モニターに機能を集約、全ての家電の集中管理、更には戸締まりとかまで管理してくれるといいな。
赤外線カメラで光彩認識してくれればオートロックにできるしね。
あと、雨が降ってきた時に「外に干している洗濯物はないですか?。」って知らせてくれるとか。「2階の誰もいない部屋の窓が開いてるよ。」とか。
鉢植えの植物への水やりもテレビが管理してくれると面白いかもね。
ヒトの脳っていうのは、まったりしちゃうとアレコレ忘れちゃうものだから。テレビ見ながらまったりしている時にお知らせしてくれると有り難いと思う。
あ、あと、冷蔵庫の扉が、中に入れた品物の関係とかで半ドアになっていることがたまにあるので、そういうのもテレビが教えてくれるといいな。
「お風呂が沸いたよ。」とか。
エアコンつけてるときに「外の方が涼しいよ。」とか。
外出している家族がいつも使う電車が運行中止になったときとか。
まあ、スマートフォンで全部できるのかな。でもスマートフォンって月々の契約料が結構高いのよね。あと、セキュリティの観点からはAndroidをネットワークに繋いでおくのも恐いよね。構造的に提供元不明アプリがロードできないようにしておけばいいのかな。だからネットワークに公開するマシンと、家庭内セキュリティマシンの二種類があればいいね。
でも、そういえばネット上に一括で見られるテレビ番組表サイトってないよね。各局ごとの番組表はあるけど。NHK中心で各局共同で作ればいいじゃんか、教育3チャンネルとか、MX2とか、放送大学2、3チャンネルとか、一覧できると便利。
今の地デジ番組表って、教育3チャンネルとかが表示されない。
子供の成育過程における、無意識的な刷り込み学習による倫理観。フロイトの提唱する「超自我」によっても、外見上公益倫理的判断を行うようにはしつけることは可能である。
ところが、この「超自我」というものは無意識な行動を促すだけなので、刷り込まれた倫理観に基づいた判断以外には抑制が効かない。
幼児の行動を抑制するためには、しばしばこうした強迫観念的な行動抑制が必要な場合もある。「見通しの悪い路地から飛び出してはいけない。」ことを、小さな子供にとっては理論的説明よりも、気分的な抑圧を用いた方が効果的な場合があるからだ。
子供というのは理論的な思考よりも、感情が優先しがちである。道路に飛び出しても自動車に轢かれた経験がない場合。その非常に短期における経験則に基づいた気分的安心によって、道路に飛び出すことを恐がらない。
こうした気分的安心を相殺するために、「道路に飛び出すと、親から怒られる。」といった強制的な強迫観念として「叱る」ことによる無意識行動を促すような刷り込み学習を行わなければならない場合がある。
しかし、こうした無意識的な刷り込み学習というのは、特定の条件における気分的な安心や恐怖だけが行動の基準になってしまうことになる。
これが、例えば権威への服従行動を刷り込み学習している場合。服従してさえいれば気分的には安心なのであり。それこそがアイヒマン実験に「引っ掛かる。」ヒトという種の生物の行動習性を促すのである。
本質的な倫理、すなはち環境に依存しない自律的な行動選択判断を行うためには。超自我的な強迫観念による無意識的な行動抑制では意味を成さない。
自発的な思考を行うためには、先ず無意識的な機械手続き的条件反射だけで行動が決定していたのではダメなのである。自らの行動を自ら認識する意識がなければ、自律判断というものは成立しない。
悪いことを考えるのは自由である。別に猟奇殺人を考え、それに勝手に興奮していることに社会的実害はないからである。江戸川乱歩がどんなに猟奇的犯罪を妄想しようとも、読者がそれに興奮しようとも、それは個人的な楽しみであって、他人にとやかく言われる筋あいのことではない。
芸術に属する気分的興奮や感動といったものは、アニメーション作家の宮崎駿が言うように「気晴らし。」に過ぎない。自分の大脳辺縁系がどのように反応しようとも、それが直接社会的行動として直結しなければ人畜無害なのである。だから芸術というものは自由で構わないのである。
しかし、社会的行動として、気分が行動決定を優先してはならないのである。社会の安全性というものは、その場限りの気分によって導き出されるものではなく。あくまで理論的根拠に基づく検証によって構築されるものでなくてはならない。
重要なのは、そうした分別を自律的にできるかどうかであって、個人的好みの偏り自体に問題があるわけではない。
安全学や危険学といった、工学的なアプローチなくして、安全性というものの向上は有り得ないからである。
暴動などの反社会的行動というものは、それを行うヒトに自律的な自己抑制が働いていないからである。一度暴動が発生すると連鎖的に便乗してしまうヒト達というのは、その行動選択というものが完全に気分に左右されてしまっているからである。
街が荒廃していると犯罪というのは増加する。「荒廃している。」という見かけ上の雰囲気によって、犯罪発生数というのは変動するのであり。これは犯罪というものの環境依存性を証明しているのである。
節電によってひったくりが4割増加したという報道があったが。私が思うに単なる街路照明の明るさだけが原因ではなく、震災や原発事故といった社会的な不安感によって、気分的になげやりになってしまうことによって、無意識的な抑制が働かなくなっていることも一因ではないかと思われる。
どちらにせよ、こうした犯罪といったものは突然生ずるようなものではなく。潜在的に多数のヒトの精神の中に存在していたものが、環境の変化によって露呈しているだけなのである。
環境に依存せずに自律的に行動を選択できれば、震災や原発事故、暴動などに影響されることなく、自発的に「社会はどうあるべきか。」という考えに基づく行動判断ができるはずのものである。
暴動やひったくりなどの、反社会的行動を採るヒトにはこうしたビジョンというものが最初から存在せず。「社会とは、特定の誰かによって制御されるべきものである。」といった依頼心に基づいた無思考に脳が支配されているのである。
ヒーロー幻想などというものも、結局は救世主幻想に基づくものであり。社会を構成する多数の個人による自律というものを無視したお伽話、「気晴らし。」でしかないのである。
一人の力は非常に小さなものである。だが、微力ではあっても無力ではない。社会というものは、こうした名もなき微力の集積によって成立していることを、多くのヒトは気分的に嫌がるのである。
パン屋が毎日パンを焼く。家具職人が毎日椅子を作る。そうした小さな力の集積によって社会は成立しているという事が、多くの「ヒト」は本能的に気に入らないのである
そうした地道な積み上げによって物事を解決に導くことよりも、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的最終解決の方が大衆観念的気分にとっては「スッキリ」するからである。
こうした短絡的無思考こそがヒトという種の生物が引き起こすあらゆる諸問題の改善を阻む最も根源的要因であることを、多くのヒトは認識したがらない。
「ヒト」とは、そういうものなのである。単なる生物種としての「ヒト」であるだけなら、そこに進歩はない。
バカ生物学者共であれば、それを社会環境の問題であると言い張る。ヒトという種の生物が遺伝的に現代社会に適応することができないから問題が生ずるかのごとく、(実際には何ら論理的根拠はないのだが。)問題意識を撹乱するのである。
もし、生物学的な「進化」を促すためには、そこに環境適応という「淘汰」が働かなければならず。突然変異で適応できないヒトを淘汰するような社会構造を必要とするのである。それは極めて非人間的な制度であることは少しでも考えればすぐにわかることである。
生物学者共が論ずる内容というのは、「ヒトとはどういう習性を持つものであるか。」以外に何も論ずるつもりはなく。「人間とは、どうあるべきか。」には全く興味がないのである。
ヒトという種の生物の存在価値を、どんなにたくさん枚挙したところで。それがヒトという種が引き起こす諸問題の解決には全く結び付かないばかりか、むしろ大衆観念的な短絡思考との親和性によって、問題の理論的原因究明を阻害しているのである。
ところが、この「超自我」というものは無意識な行動を促すだけなので、刷り込まれた倫理観に基づいた判断以外には抑制が効かない。
幼児の行動を抑制するためには、しばしばこうした強迫観念的な行動抑制が必要な場合もある。「見通しの悪い路地から飛び出してはいけない。」ことを、小さな子供にとっては理論的説明よりも、気分的な抑圧を用いた方が効果的な場合があるからだ。
子供というのは理論的な思考よりも、感情が優先しがちである。道路に飛び出しても自動車に轢かれた経験がない場合。その非常に短期における経験則に基づいた気分的安心によって、道路に飛び出すことを恐がらない。
こうした気分的安心を相殺するために、「道路に飛び出すと、親から怒られる。」といった強制的な強迫観念として「叱る」ことによる無意識行動を促すような刷り込み学習を行わなければならない場合がある。
しかし、こうした無意識的な刷り込み学習というのは、特定の条件における気分的な安心や恐怖だけが行動の基準になってしまうことになる。
これが、例えば権威への服従行動を刷り込み学習している場合。服従してさえいれば気分的には安心なのであり。それこそがアイヒマン実験に「引っ掛かる。」ヒトという種の生物の行動習性を促すのである。
本質的な倫理、すなはち環境に依存しない自律的な行動選択判断を行うためには。超自我的な強迫観念による無意識的な行動抑制では意味を成さない。
自発的な思考を行うためには、先ず無意識的な機械手続き的条件反射だけで行動が決定していたのではダメなのである。自らの行動を自ら認識する意識がなければ、自律判断というものは成立しない。
悪いことを考えるのは自由である。別に猟奇殺人を考え、それに勝手に興奮していることに社会的実害はないからである。江戸川乱歩がどんなに猟奇的犯罪を妄想しようとも、読者がそれに興奮しようとも、それは個人的な楽しみであって、他人にとやかく言われる筋あいのことではない。
芸術に属する気分的興奮や感動といったものは、アニメーション作家の宮崎駿が言うように「気晴らし。」に過ぎない。自分の大脳辺縁系がどのように反応しようとも、それが直接社会的行動として直結しなければ人畜無害なのである。だから芸術というものは自由で構わないのである。
しかし、社会的行動として、気分が行動決定を優先してはならないのである。社会の安全性というものは、その場限りの気分によって導き出されるものではなく。あくまで理論的根拠に基づく検証によって構築されるものでなくてはならない。
重要なのは、そうした分別を自律的にできるかどうかであって、個人的好みの偏り自体に問題があるわけではない。
安全学や危険学といった、工学的なアプローチなくして、安全性というものの向上は有り得ないからである。
暴動などの反社会的行動というものは、それを行うヒトに自律的な自己抑制が働いていないからである。一度暴動が発生すると連鎖的に便乗してしまうヒト達というのは、その行動選択というものが完全に気分に左右されてしまっているからである。
街が荒廃していると犯罪というのは増加する。「荒廃している。」という見かけ上の雰囲気によって、犯罪発生数というのは変動するのであり。これは犯罪というものの環境依存性を証明しているのである。
節電によってひったくりが4割増加したという報道があったが。私が思うに単なる街路照明の明るさだけが原因ではなく、震災や原発事故といった社会的な不安感によって、気分的になげやりになってしまうことによって、無意識的な抑制が働かなくなっていることも一因ではないかと思われる。
どちらにせよ、こうした犯罪といったものは突然生ずるようなものではなく。潜在的に多数のヒトの精神の中に存在していたものが、環境の変化によって露呈しているだけなのである。
環境に依存せずに自律的に行動を選択できれば、震災や原発事故、暴動などに影響されることなく、自発的に「社会はどうあるべきか。」という考えに基づく行動判断ができるはずのものである。
暴動やひったくりなどの、反社会的行動を採るヒトにはこうしたビジョンというものが最初から存在せず。「社会とは、特定の誰かによって制御されるべきものである。」といった依頼心に基づいた無思考に脳が支配されているのである。
ヒーロー幻想などというものも、結局は救世主幻想に基づくものであり。社会を構成する多数の個人による自律というものを無視したお伽話、「気晴らし。」でしかないのである。
一人の力は非常に小さなものである。だが、微力ではあっても無力ではない。社会というものは、こうした名もなき微力の集積によって成立していることを、多くのヒトは気分的に嫌がるのである。
パン屋が毎日パンを焼く。家具職人が毎日椅子を作る。そうした小さな力の集積によって社会は成立しているという事が、多くの「ヒト」は本能的に気に入らないのである
そうした地道な積み上げによって物事を解決に導くことよりも、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的最終解決の方が大衆観念的気分にとっては「スッキリ」するからである。
こうした短絡的無思考こそがヒトという種の生物が引き起こすあらゆる諸問題の改善を阻む最も根源的要因であることを、多くのヒトは認識したがらない。
「ヒト」とは、そういうものなのである。単なる生物種としての「ヒト」であるだけなら、そこに進歩はない。
バカ生物学者共であれば、それを社会環境の問題であると言い張る。ヒトという種の生物が遺伝的に現代社会に適応することができないから問題が生ずるかのごとく、(実際には何ら論理的根拠はないのだが。)問題意識を撹乱するのである。
もし、生物学的な「進化」を促すためには、そこに環境適応という「淘汰」が働かなければならず。突然変異で適応できないヒトを淘汰するような社会構造を必要とするのである。それは極めて非人間的な制度であることは少しでも考えればすぐにわかることである。
生物学者共が論ずる内容というのは、「ヒトとはどういう習性を持つものであるか。」以外に何も論ずるつもりはなく。「人間とは、どうあるべきか。」には全く興味がないのである。
ヒトという種の生物の存在価値を、どんなにたくさん枚挙したところで。それがヒトという種が引き起こす諸問題の解決には全く結び付かないばかりか、むしろ大衆観念的な短絡思考との親和性によって、問題の理論的原因究明を阻害しているのである。
以前、「暴動」というタイトルの記事の中で、自発的に「甘え」を断ち切る意思が重要だって書いたことがあるんだけど。誤解があってはいけないので追加しておく。
子供が親や大人を頼りにすることは必ずしも「甘え」であるとは言えない。あくまで「自発的」に断ち切ることが重要なんであって、単なるネグレクト、育児放棄の理由にはならない。
子供を無理に放置するというのは、むしろ放置している親の方の自律が欠けている。
自己自身の「甘え」を自発的に断ち切るようになるためには、親の顔色をうかがわなくてはならないような服従性を植え付けないことが必要。
親が子供に過酷な強制を行わないことが、むしろ子供自身の「甘え」を断ち切れるようになるための布石となる。
つまり、「甘え」というのは親大人から強制的に「断ち切らせる」ような環境依存的なものではだめで。あくまで自発的に「断ち切れる」自発性を育むことが先。
それによって、結果的に自発的に自己自身の「甘え」を断ち切れるようになるのである。
虐待をされて育った人ほど、自己自身の「甘え」を断ち切ることが困難であり。だからこそ自律的に虐待を止めることができないのである。
アインシュタインの懸念であった、「人工的権威、力を用いた強制性」こそが、暴動だの振り込め詐欺、通り魔やひったくりの根源となっているのである。
子供の自発性を重んじることを「甘え」と勘違いしては絶対にならない。どうも大衆観念に基づいた勘違いを自律的には修正できない「甘え」たヒトが多すぎる。雰囲気で行動を決定するのではなく。きちんとした論理的思考に基づいた行動選択をして頂きたい。
本質的合理性というものも、目先の経済性の追求などではなくて、キチンと社会全体の利益、公益的な視点に基づいて合理的判断をすることが重要なのであり。大衆観念に基づく「利己的な合理性」が本質的には合理性でも何でもないのと同じことである。
子供が親や大人を頼りにすることは必ずしも「甘え」であるとは言えない。あくまで「自発的」に断ち切ることが重要なんであって、単なるネグレクト、育児放棄の理由にはならない。
子供を無理に放置するというのは、むしろ放置している親の方の自律が欠けている。
自己自身の「甘え」を自発的に断ち切るようになるためには、親の顔色をうかがわなくてはならないような服従性を植え付けないことが必要。
親が子供に過酷な強制を行わないことが、むしろ子供自身の「甘え」を断ち切れるようになるための布石となる。
つまり、「甘え」というのは親大人から強制的に「断ち切らせる」ような環境依存的なものではだめで。あくまで自発的に「断ち切れる」自発性を育むことが先。
それによって、結果的に自発的に自己自身の「甘え」を断ち切れるようになるのである。
虐待をされて育った人ほど、自己自身の「甘え」を断ち切ることが困難であり。だからこそ自律的に虐待を止めることができないのである。
アインシュタインの懸念であった、「人工的権威、力を用いた強制性」こそが、暴動だの振り込め詐欺、通り魔やひったくりの根源となっているのである。
子供の自発性を重んじることを「甘え」と勘違いしては絶対にならない。どうも大衆観念に基づいた勘違いを自律的には修正できない「甘え」たヒトが多すぎる。雰囲気で行動を決定するのではなく。きちんとした論理的思考に基づいた行動選択をして頂きたい。
本質的合理性というものも、目先の経済性の追求などではなくて、キチンと社会全体の利益、公益的な視点に基づいて合理的判断をすることが重要なのであり。大衆観念に基づく「利己的な合理性」が本質的には合理性でも何でもないのと同じことである。
っていうのをやろうと思ったんだけど、これが結構ややこしい。
出力サービス会社さん曰く、自由曲面でツールボックスの「モデファイ」から「一点収束」コマンドを実行すると、8割がたダメなんだそうです。それなら「閉じた面形状」で塞げばいいのかというと、これも5割がたダメなんだそうです。
球体プリミティブを「変換」した場合の上下の頂点とかは問題ないそうです。
多分、手動でグリッドスナップを利用して面を塞げば自由曲面が使えるんだと思います。実際そういうデータを送ったらOKが出ました。
最新のShade12では、集合演算が適用できるようになりましたが、これも必ずしも造形出力に適したデータにはならないそうです。
作った立体データが使えるかどうかは*.objファイルをデジモデさんに送ればすぐに判別してくれるそうです。或はフリーウエアの「Net Fab Studio Basic」というのをダウンロードして、Shadeから*.obj形式でエクスポートしたファイルを読み込めば一発で判定されるそうです。立体データを作っている途中で確認しながら作れば無駄な努力もしなくて済みそうですね。
Shadeっていうソフトは造形出力には不向きだと、専門家の方が言ってました。
なんでもShadeというソフトはNECのPC9800時代からあったそうです。名前が当時からShadeだったのかどうかは知りませんが。
デジモデさんの立体出力を商品原型にしようと画策していたんですが、精密な造形ができるのはPerfactryという機械でないと出来ないそうで、これは小さなものしか作れないので結構厄介です。
なかなか上手くはいかないものです。
まあ、いろいろ試しに作ってみればわかるんで、あれこれ試して「道」を踏み慣らしてみようと思います。Shadeでの造形Tipsサイトも見つからないので、
ただ、MacG4が湿度のためか調子がすこぶる悪いです。戻るのかこいつ。
出力サービス会社さん曰く、自由曲面でツールボックスの「モデファイ」から「一点収束」コマンドを実行すると、8割がたダメなんだそうです。それなら「閉じた面形状」で塞げばいいのかというと、これも5割がたダメなんだそうです。
球体プリミティブを「変換」した場合の上下の頂点とかは問題ないそうです。
多分、手動でグリッドスナップを利用して面を塞げば自由曲面が使えるんだと思います。実際そういうデータを送ったらOKが出ました。
最新のShade12では、集合演算が適用できるようになりましたが、これも必ずしも造形出力に適したデータにはならないそうです。
作った立体データが使えるかどうかは*.objファイルをデジモデさんに送ればすぐに判別してくれるそうです。或はフリーウエアの「Net Fab Studio Basic」というのをダウンロードして、Shadeから*.obj形式でエクスポートしたファイルを読み込めば一発で判定されるそうです。立体データを作っている途中で確認しながら作れば無駄な努力もしなくて済みそうですね。
Shadeっていうソフトは造形出力には不向きだと、専門家の方が言ってました。
なんでもShadeというソフトはNECのPC9800時代からあったそうです。名前が当時からShadeだったのかどうかは知りませんが。
デジモデさんの立体出力を商品原型にしようと画策していたんですが、精密な造形ができるのはPerfactryという機械でないと出来ないそうで、これは小さなものしか作れないので結構厄介です。
なかなか上手くはいかないものです。
まあ、いろいろ試しに作ってみればわかるんで、あれこれ試して「道」を踏み慣らしてみようと思います。Shadeでの造形Tipsサイトも見つからないので、
ただ、MacG4が湿度のためか調子がすこぶる悪いです。戻るのかこいつ。
イラストSNSのPixivで「むず」っていう作家さんが作った画像が涼しげ。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=12701503
おいらは壁紙に使ってます。
Apopysisとかいうフリーウエアを使って作った画像なんだそうですけど、結構偶発的にしか作れないんだそうで、この画像に関してはバリエーションがないのはそのためらしいです。
おいらのAndroidPCで上のリンクにジャンプするとスマートフォン用ページに飛ぶんですが、PCページでないと大きな画像はダウンロードできません。
スマートフォンっていうと、概ね小さなマシンが多いんだろうけど、中にはスレートPCとかおいらの東芝Androidネットブックみたいな、それなりに画面の大きなマシンもあることを前提にページを作って欲しいんだけどな。
中にはAndroidOS=携帯電話通信契約であると決め付けて、携帯メールでのログイン登録しか許さないサイトとかもある。
不便。
◆追記:Pixivのサイトからは掲載画像がダウンロードできない構造になってしまったようです。
muzuさんのブログからCooltownで検索かけたら画像を直接ロードできました。
http://muzumuzu.files.wordpress.com/2010/08/extrude_720.jpg
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=12701503
おいらは壁紙に使ってます。
Apopysisとかいうフリーウエアを使って作った画像なんだそうですけど、結構偶発的にしか作れないんだそうで、この画像に関してはバリエーションがないのはそのためらしいです。
おいらのAndroidPCで上のリンクにジャンプするとスマートフォン用ページに飛ぶんですが、PCページでないと大きな画像はダウンロードできません。
スマートフォンっていうと、概ね小さなマシンが多いんだろうけど、中にはスレートPCとかおいらの東芝Androidネットブックみたいな、それなりに画面の大きなマシンもあることを前提にページを作って欲しいんだけどな。
中にはAndroidOS=携帯電話通信契約であると決め付けて、携帯メールでのログイン登録しか許さないサイトとかもある。
不便。
◆追記:Pixivのサイトからは掲載画像がダウンロードできない構造になってしまったようです。
muzuさんのブログからCooltownで検索かけたら画像を直接ロードできました。
http://muzumuzu.files.wordpress.com/2010/08/extrude_720.jpg
グーグルの画像検索ページが、知らない間にスマートフォン用のページしか見れないようになってしまっていた。
いや、別に石原さとみちゃんのパンツが見たかったわけではなく、グーグルの画像検索ページを開くには、普通のWeb検索から有名人をググると画像検索が引っ掛かるので、たまたま石原さとみでググっただけなんですが。
どうも東芝AndroidPCを使っていると、相手のサイトがこっちのAndroidマシンをスマートフォンであると決め付けてしまって、勝手にスマートフォン用ページしか表示しない場合というのが少なくない。
しかも検索ワードを入力するテキストエディットが使えない。
ま、でもグーグルにこだわらなきゃいいのか。Yahoo!とか他にも検索サイトあるしね。でも他の検索サイトも同じようなことになっていたらやだな。
ああ、憂鬱。
めんどくさいわー。
いや、別に石原さとみちゃんのパンツが見たかったわけではなく、グーグルの画像検索ページを開くには、普通のWeb検索から有名人をググると画像検索が引っ掛かるので、たまたま石原さとみでググっただけなんですが。
どうも東芝AndroidPCを使っていると、相手のサイトがこっちのAndroidマシンをスマートフォンであると決め付けてしまって、勝手にスマートフォン用ページしか表示しない場合というのが少なくない。
しかも検索ワードを入力するテキストエディットが使えない。
ま、でもグーグルにこだわらなきゃいいのか。Yahoo!とか他にも検索サイトあるしね。でも他の検索サイトも同じようなことになっていたらやだな。
ああ、憂鬱。
めんどくさいわー。
家庭用のドライミストのノズルっていうのが売っているそうです。ネットであちこち読んでみたんですが、エアコンの室外機にドライミストをかけても電気代が下がるより水道代が上がる方が大きいそうです。
それでも節電にはなるんだけどねぇ。節水にはならないけど。
せめて、日中気温の高い時間帯だけでもエアコンの室外機にドライミストを噴霧しておくといいかなって思う。
節水型のドライミストノズルってのがあればいいのかな。画像で見る限り、市販のドライミスト装置って霧が凄いたくさん出ている。もう少し控え目に霧を出すノズルがあれば電気代と水道代のバランスも良くなると思うんだけどな。
ナノミストノズルって、RPで作れないのかな。
それでも節電にはなるんだけどねぇ。節水にはならないけど。
せめて、日中気温の高い時間帯だけでもエアコンの室外機にドライミストを噴霧しておくといいかなって思う。
節水型のドライミストノズルってのがあればいいのかな。画像で見る限り、市販のドライミスト装置って霧が凄いたくさん出ている。もう少し控え目に霧を出すノズルがあれば電気代と水道代のバランスも良くなると思うんだけどな。
ナノミストノズルって、RPで作れないのかな。
積水グループの会社で、ステンレスを蒸着した布地を生産しているそうです。
この金属蒸着生地を使った日傘は紫外線だけでなくて熱線までをも遮断してくれるそうです。
こういう生地って高価なのかな。被災地の仮設住宅の屋根とかに使えないのかな。
自転車乗るときとかに、こういう生地で作ったフード付きのウインドウブレーカみたいのがあれば、日差しが遮ることができて、返って涼しいのではないかな。
自転車に乗っていると、袖口とか衿元から風が吹き込むから、ラム圧を利用して遮熱ジャケットとか作れそうな気がするんだけど。
この金属蒸着生地を使った日傘は紫外線だけでなくて熱線までをも遮断してくれるそうです。
こういう生地って高価なのかな。被災地の仮設住宅の屋根とかに使えないのかな。
自転車乗るときとかに、こういう生地で作ったフード付きのウインドウブレーカみたいのがあれば、日差しが遮ることができて、返って涼しいのではないかな。
自転車に乗っていると、袖口とか衿元から風が吹き込むから、ラム圧を利用して遮熱ジャケットとか作れそうな気がするんだけど。
岡部 洋一 放送大学学長が講義しているコンピュータの入門講座が面白いと思う。もちろん「面白い。」かどうかは主観だから、おいらが言えるのは主観的な感想でしかないんだけど、デジタルネイティブ世代だったら見ておいて欲しいな。
テキストなんて要らない、無理に憶えようとしなくてもいい。どうせプログラミングには直接的には関係しない構造原理のお話だからね。
超高速で計算するCPUとかいっても、現実には割り算や掛け算を直接できるわけではない。むしろ、そういうややこしいことを全くしないようにすることによって超高速計算を実現している。そういうことをトリビアの泉的に「何へぇ~。」かだけ評価しておいても構わない。
面白がることが学ぶことの最も重要な基本なんです。「強いて、勉めている。」と、川島隆太とか茂木健一郎みたいに世間からのウケ狙いで嘘をついてしまって、かえって社会的信頼を失ったりするんです。
テキストなんて要らない、無理に憶えようとしなくてもいい。どうせプログラミングには直接的には関係しない構造原理のお話だからね。
超高速で計算するCPUとかいっても、現実には割り算や掛け算を直接できるわけではない。むしろ、そういうややこしいことを全くしないようにすることによって超高速計算を実現している。そういうことをトリビアの泉的に「何へぇ~。」かだけ評価しておいても構わない。
面白がることが学ぶことの最も重要な基本なんです。「強いて、勉めている。」と、川島隆太とか茂木健一郎みたいに世間からのウケ狙いで嘘をついてしまって、かえって社会的信頼を失ったりするんです。
暴動の映像とか見ていると、いつも思うんだけど。暴れている奴らに政治的な思想とか方向性があるようには見えない。
まあ、「見た目」の印象で決め付けちゃいけないんだけど。やっていることと問題との関連性が全くないので、理論的にも意味がない。
単に日頃のうっぷんをはらしたくて、社会に対して無差別に攻撃したいと思っていた奴が、暴動をキッカケに「皆でやれば恐くない。」的に便乗しているだけ。
先日の韓流バッシングとかも同根だね。誰か自分達と異なる集団とか個人を攻撃することによって、気分的に正義を振り回した錯覚に陥って満足しているんだね。
そもそも「日頃のうっぷん。」なんてものがあるのは、社会に対して迎合的であるからこそ生じるものであり、権威に対する批判精神がないことの証明。無差別攻撃なんていうのは攻撃すべきものが何なのかがわからないから無差別になる。
何が問題で、どうすれば解決するのか。原因究明と対策を行わない限り問題なんて永遠に続く。ところが、そんな面倒臭いことは気分的に嫌なので。インスタントに攻撃対象をでっちあげて暴力を振るっておけば気分がスッキリする。
大脳辺縁系がスッキリする。
誰かを悪者と定義しておいて暴力を振るうとスッキリする。水戸黄門の人気とはそれが原因である。水戸黄門とかアイロン男みたいなバカげた正義でスッキリしているような大衆の頭の悪さこそが諸悪の根源。水戸黄門なんて権威に服従することが大前提だからね。
社会に対して個人が影響を及ぼせることなんて、本当はちっぽけなもの。それは厳然たる事実。だけど、逆に集団が及ぼす力は強大。
困ったことに、感情的な行動を共鳴させることというのは非常に簡単で。理論的合理性を追求する理性というのは集団を形成しずらい。
それは、集団を形成すること自体が動物的な習性に因るものであるからで。いうなれば「にわか暴力団。」みたいなもんなんだろうね。
本当に必要なのは、単なる動物的習性としての集団心理ではなく。独立自尊としての自律的判断を、より多くの人が行うこと。
集団の力というものも、結局は「何に、どう使うか。」という目的意識が必要不可欠。方向性のない力こそが最も始末に負えない。原発の燃料みたいなもんだからね。
アインシュタインが懸念していた、学生に対する人工的な権威、力を用いることの悪影響というものは。自律的に自分で善悪を判断しなくなってしまうことを指している。
暴動が起きているイギリスだって、学力は低くはない。暴動をやっている奴の学力が低いかどうかではなくて、そもそも自発的学習に基づく結果としての学力成績を重視していないからこそ、個人に自律判断が育たないのである。
もしかしたら学力と暴動は無関係かも知れないし。秋葉の通り魔だって学力は高かったもんね。
自分の感情を制御する教育方法というものがあるけど。これも最終的には教育環境に依存している限り、環境変化に対応できるとは限らない。だから大切なのは個人の本質的自発性を重んじることであって。これは哺乳類の習性としての服従性、「甘え。」を自ら断ち切る意思が重要。
暴動が起きた時に、その環境に迎合するか、それとも自律的に感情を抑えるか。そこは他人からの「エサ」としての見返りや報酬があるわけではない。
他人から与えられる「エサ」としての見返りがなくても自律的に判断するのは、最終的には個人の求める「社会とは、かくあるべき。」というビジョンがあるかどうか。
暴動や略奪の横行する社会を、個人が求めているのかどうか。多くの人がそこに意識がいかなければ暴動はなくならない。
学力ビジネスに関わるヒト達であれば、本質的自発性の重要性なんて面倒臭いことには関わりたくない。目先の学生の学力さえ向上すれば権利権益になるから、後に学生が通り魔になろうが、暴動に参加しようが、「私の知ったことではない。」ってことになる。それなら学力ビジネス関係者というのは「教育者。」としての素養に欠けていることになる。
「社会とは、かくあるべき。」というビジョンっていうのは、あくまで自発的に想像しないと形成されることはない。ましてや現状の社会に迎合するだけなら、そんな面倒臭いことは考えない方が気分的に楽だから。
競争というものは、個人的に好きなことにおいて楽しむべきものであって。多数からの強迫観念に基づいて行うべきものではない。ましてや学力なんぞを競争させるべきものではない。学生同士の競争に勝っても、それが社会で通用する保障すらないのである。
まあ、「見た目」の印象で決め付けちゃいけないんだけど。やっていることと問題との関連性が全くないので、理論的にも意味がない。
単に日頃のうっぷんをはらしたくて、社会に対して無差別に攻撃したいと思っていた奴が、暴動をキッカケに「皆でやれば恐くない。」的に便乗しているだけ。
先日の韓流バッシングとかも同根だね。誰か自分達と異なる集団とか個人を攻撃することによって、気分的に正義を振り回した錯覚に陥って満足しているんだね。
そもそも「日頃のうっぷん。」なんてものがあるのは、社会に対して迎合的であるからこそ生じるものであり、権威に対する批判精神がないことの証明。無差別攻撃なんていうのは攻撃すべきものが何なのかがわからないから無差別になる。
何が問題で、どうすれば解決するのか。原因究明と対策を行わない限り問題なんて永遠に続く。ところが、そんな面倒臭いことは気分的に嫌なので。インスタントに攻撃対象をでっちあげて暴力を振るっておけば気分がスッキリする。
大脳辺縁系がスッキリする。
誰かを悪者と定義しておいて暴力を振るうとスッキリする。水戸黄門の人気とはそれが原因である。水戸黄門とかアイロン男みたいなバカげた正義でスッキリしているような大衆の頭の悪さこそが諸悪の根源。水戸黄門なんて権威に服従することが大前提だからね。
社会に対して個人が影響を及ぼせることなんて、本当はちっぽけなもの。それは厳然たる事実。だけど、逆に集団が及ぼす力は強大。
困ったことに、感情的な行動を共鳴させることというのは非常に簡単で。理論的合理性を追求する理性というのは集団を形成しずらい。
それは、集団を形成すること自体が動物的な習性に因るものであるからで。いうなれば「にわか暴力団。」みたいなもんなんだろうね。
本当に必要なのは、単なる動物的習性としての集団心理ではなく。独立自尊としての自律的判断を、より多くの人が行うこと。
集団の力というものも、結局は「何に、どう使うか。」という目的意識が必要不可欠。方向性のない力こそが最も始末に負えない。原発の燃料みたいなもんだからね。
アインシュタインが懸念していた、学生に対する人工的な権威、力を用いることの悪影響というものは。自律的に自分で善悪を判断しなくなってしまうことを指している。
暴動が起きているイギリスだって、学力は低くはない。暴動をやっている奴の学力が低いかどうかではなくて、そもそも自発的学習に基づく結果としての学力成績を重視していないからこそ、個人に自律判断が育たないのである。
もしかしたら学力と暴動は無関係かも知れないし。秋葉の通り魔だって学力は高かったもんね。
自分の感情を制御する教育方法というものがあるけど。これも最終的には教育環境に依存している限り、環境変化に対応できるとは限らない。だから大切なのは個人の本質的自発性を重んじることであって。これは哺乳類の習性としての服従性、「甘え。」を自ら断ち切る意思が重要。
暴動が起きた時に、その環境に迎合するか、それとも自律的に感情を抑えるか。そこは他人からの「エサ」としての見返りや報酬があるわけではない。
他人から与えられる「エサ」としての見返りがなくても自律的に判断するのは、最終的には個人の求める「社会とは、かくあるべき。」というビジョンがあるかどうか。
暴動や略奪の横行する社会を、個人が求めているのかどうか。多くの人がそこに意識がいかなければ暴動はなくならない。
学力ビジネスに関わるヒト達であれば、本質的自発性の重要性なんて面倒臭いことには関わりたくない。目先の学生の学力さえ向上すれば権利権益になるから、後に学生が通り魔になろうが、暴動に参加しようが、「私の知ったことではない。」ってことになる。それなら学力ビジネス関係者というのは「教育者。」としての素養に欠けていることになる。
「社会とは、かくあるべき。」というビジョンっていうのは、あくまで自発的に想像しないと形成されることはない。ましてや現状の社会に迎合するだけなら、そんな面倒臭いことは考えない方が気分的に楽だから。
競争というものは、個人的に好きなことにおいて楽しむべきものであって。多数からの強迫観念に基づいて行うべきものではない。ましてや学力なんぞを競争させるべきものではない。学生同士の競争に勝っても、それが社会で通用する保障すらないのである。
最近ではコンピュータプログラミングを中高生が学べるようになったらしいです。
品川女子でプログラミングの授業を選べるらしいです。
今はRADがあるから、本当はそんなに難しくはないんですよね。ただ、プログラミング言語というのが記号的で見慣れないから難解そうに見えてしまうだけだったりするんです。
特に英語力も必要ないです。使う単語も少ないです。
考えようによってはLEGOみたいなものですから。
高速化とか難しいことをしなければ、普通のアプリを作るのは中学生でもできるもんなんです。
でも今はiPadとかiPhoneがあるので、プログラミングも楽しいでしょうね。おいらの学生時代は8086でフォートランで組んで、インパクトプリンタで出力するだけでしたから。
友達が持ってたNECのPC6001とか、なつかしいな。BASICですよ。インタプリタ。これが遅いんだ。
スレートPCのタッチパネルで自作アプリが動くと楽しいでしょうね。おいらはまだWin95しかプログラミングしたことないので、今の子供達は幸せですね。
話がわかりにくいですか?。済みません、独り言だと思ってください。でわまた。
品川女子でプログラミングの授業を選べるらしいです。
今はRADがあるから、本当はそんなに難しくはないんですよね。ただ、プログラミング言語というのが記号的で見慣れないから難解そうに見えてしまうだけだったりするんです。
特に英語力も必要ないです。使う単語も少ないです。
考えようによってはLEGOみたいなものですから。
高速化とか難しいことをしなければ、普通のアプリを作るのは中学生でもできるもんなんです。
でも今はiPadとかiPhoneがあるので、プログラミングも楽しいでしょうね。おいらの学生時代は8086でフォートランで組んで、インパクトプリンタで出力するだけでしたから。
友達が持ってたNECのPC6001とか、なつかしいな。BASICですよ。インタプリタ。これが遅いんだ。
スレートPCのタッチパネルで自作アプリが動くと楽しいでしょうね。おいらはまだWin95しかプログラミングしたことないので、今の子供達は幸せですね。
話がわかりにくいですか?。済みません、独り言だと思ってください。でわまた。
昨日だか一昨日に東北電力の供給可能電力の98%にまで需要が逼迫したそうです。
今日も96%だとか言っている。
その原因の一つが、先日の豪雨で数十箇所の水力発電所が被災、100万キロワットの発電能力を喪失したらしい。
弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂。水力発電所ってそんなに脆弱なもんなのかぃ。
昨日東京電力から東北電力に140万キロワット融通するってニュースがあったけど、これは東京電力の供給可能電力の3.9%に過ぎず、もうギッリギリ。
今年だけでも原発を起動しないとダメなのかな。
輪番停電で死ぬ人が必ずいる。真昼の炎天下に冷房が停止したら、仮設住宅の被災者はたまらないだろうね。
東京電力管内は、まだ90%に達していないけど、これからさらに猛暑になったら他人ごとでは済まない。
自然の猛威の前に、人知などハナクソだな。
今日も96%だとか言っている。
その原因の一つが、先日の豪雨で数十箇所の水力発電所が被災、100万キロワットの発電能力を喪失したらしい。
弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂。水力発電所ってそんなに脆弱なもんなのかぃ。
昨日東京電力から東北電力に140万キロワット融通するってニュースがあったけど、これは東京電力の供給可能電力の3.9%に過ぎず、もうギッリギリ。
今年だけでも原発を起動しないとダメなのかな。
輪番停電で死ぬ人が必ずいる。真昼の炎天下に冷房が停止したら、仮設住宅の被災者はたまらないだろうね。
東京電力管内は、まだ90%に達していないけど、これからさらに猛暑になったら他人ごとでは済まない。
自然の猛威の前に、人知などハナクソだな。
韓流批判とかする奴はいるけど、夜中に騒ぐ酔っ払いとか、違法改造車両を夜中に乗り回すバカとか、他にツッコミ入れなきゃいけないことがあっても、それはツッコミいれると面倒臭そうなので誰も批判しない。
要するにイジメ易い相手を攻撃して、自分達を正当化したいんだろうな。
民族とか宗教をネタにして攻撃するのは間違い。何に属しているかどうかではなくて、その個人が人間としての本質的社会性を持っているかどうかが、最も重要。そもそも遺伝子からは種としてのヒトには何ら違いなんぞ存在しないんだからね。
善人か悪人かは、民族や宗教からは判別できない。どこの宗教にもテロリストはいるし、聖人みたいな人もいる。
要するにイジメ易い相手を攻撃して、自分達を正当化したいんだろうな。
民族とか宗教をネタにして攻撃するのは間違い。何に属しているかどうかではなくて、その個人が人間としての本質的社会性を持っているかどうかが、最も重要。そもそも遺伝子からは種としてのヒトには何ら違いなんぞ存在しないんだからね。
善人か悪人かは、民族や宗教からは判別できない。どこの宗教にもテロリストはいるし、聖人みたいな人もいる。