簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

関宿の町並(JR乗り潰しの旅・関西本線)

2017-02-03 | Weblog
 関宿は、東の追分から西の追分まで、1.8 Kmの区間に江戸から明治にかけて建
てられた、古い町屋が200軒余り残されていて、国の重要伝統的建造物群保存地
区に選定されている。

 明治以降全国各地で、新しく鉄道や国道が整備されていく中、ここ関では幸いに
もこの古い街筋を避けて建設された事で、街並みがそのまま残り伝統地として保
存される事に成る。





 街道を歩いてみると弁柄塗りの鴨居や柱、くぐり戸や表の立て格子などの家が
目につく。
町屋の店先には“ばったり”と呼ばれる上げ下げが出来る棚も残されている。
商品を並べたり、街道を通る人びとが座ったりしたものだ。

 また店先では、環金具を見かける事がある。
馬や牛を繋ぐための金具で、その取り付ける高さによって、馬と牛を使い分けてい
たらしい。町屋の屋根や壁には、漆喰の彫刻が施されていたりするので、そんなも
のを捜しながらの散策も楽しいものだ。





 街道筋の中ほどに、百六里庭と呼ばれる小さな公園がある。
江戸から丁度百六里の距離にある事から名付けられた公園には、眺関亭と言われ
る展望所があり、ここからは関宿の低い屋並みの中に、緩い曲線を描いて通り抜け
る街道が一望できる。



 宿場の中間あたりのその先、一際大きな瓦屋根の建物が地蔵院だ。
天平時代の開基と伝えられている古刹で、境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要
文化財に指定されている。
関の地蔵尊として知られ、これは日本最古のものだそうだ。
街道筋にあって、広がる境内にはお参りの人びとやガイドを伴った観光客で賑わっ
ていている。(続)



                        
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鈴鹿の関(JR乗り潰しの旅・関西本線)

2017-02-01 | Weblog
 「昔此処鈴鹿の関成。故に関と言う」
亀山宿から凡そ1里半、江戸日本橋からは百六里の距離に当たる旧東海道47番
目の宿場町、“関”には7世紀ころには「伊勢鈴鹿の関」が設けられていた。



 しかしその関所(お役所)の存在は間違いがないがその場所となると位置が度々
変えられ、今日の研究でも特定することは出来ないのだそうだ。

 

 江戸時代の旅人は、一日十里を目途として歩いたと言われているから、江戸日本
橋を旅立った人々は、ここまで10日ほど歩き続けて来たことになる。
東海道を二週間余りで踏破する旅人にとってこの宿場町は、最後の難所鈴鹿越え
を前に、京・三条大橋に近づいて関西の匂いを感じ始めながら、しばし身体を休め
る場所でもあったようだ。



 そんな宿には本陣が2軒脇本陣が3軒あり旅籠の数は90軒を数えたという。
当時の人口は2000人程度で、600軒余りの家屋が建ち並んでいて、中には色々な
商いをする商家も軒を連ね、芸妓、飯盛り女も多く、大そうな賑わいだったと伝えら
れている。



 因みに当時の宿賃は200文(およそ890円)、人足一人56文(およそ200円)、飯盛
女は500文(およそ2200円)が相場であったらしい。



東の追分には、伊勢神宮の一の鳥居と常夜灯、道標が建っている。
ここはお伊勢参りに向かう伊勢別街道(伊勢参宮道)への分かれ道でもあり、伊勢
山田外宮まではおよそ15里と記されている。



 かつての宿場町にはここから西の追分まで1.8 Kmの区間に、今尚昔の面影を
伝える町並みが残されている。(続)

                        
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