簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

吹屋に残る遺構(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-30 | Weblog
 「ラフォーレ吹屋」は、廃校になった成羽町立吹屋中学校の跡地に建
つ公共の宿である。玄関を抜けると、左にフロントと売店、右手にカフ
ェ・レストラン等がある。ホールを抜けるとステージのある芝生の中庭
で、客室や宴会場等の建物がそれを取り囲んでいる。



 館内のカフェ・レストランでは、ランチの一般利用も出来る。
地元産の食材を使うと言い、地産地消に拘った料理が提供されている。
鉢物や揚げ物、お造りなどを盛り込んだ松花堂に、千屋牛・岡山牛や若
鶏やイカ焼き等の鉄板焼きを組み合わせた料理が提供される。



 町並の背後の少し高台に、「旧吹屋小学校」が残されている。
明治33(1900)年に造られたのが東西両端の二棟で、その9年後に増
築されたのが中央部分の本館だ。平成24(2012)年の閉校まで、最古
の木造校舎として知られていた名建築で有る。
当時の木造洋風建築の粋を伝える全国最古級の校舎で、県の重要文化財
の指定を受けている。



 「広兼邸」は、銅山の経営とローハ(弁柄の材料)の製造を手がけた
大庄屋である。お城を思わす堂々たる石垣の上に堂々と建つ大邸宅は、
映画八つ墓村のロケに使われた。
この広兼邸と双璧を成すのが「西江家」で、その邸宅も冬至の姿で残さ
れ資料館として公開されている。



 このほかにも見どころはあり、「笹畝坑道」は、江戸から大正時代に
かけて採掘された黄銅や硫化鉄の鉱山である。
廃坑になった後、昭和53(1978)年に坑内を復元整備して、一般に公
開している。



 又最近では、笠岡から吹屋に鮮魚を運んだ「吹屋往来」が、「とと道
ウォーキングコース」として復元整備され、俄に注目を集めている。
(日本遺産 鉱山の町・吹屋 完)



 次回から「東海道五十三次歩き旅・伊勢の国 後編」が始ります。
亀山から関宿を経て坂下宿へ、さらに西の難所・鈴鹿越えに挑みます。



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豪商達の住宅(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-28 | Weblog

 「吹屋よいとこ 金吹く音が 聞こえますぞえ 窓坂え
吹屋よいとこ金掘るところ、掘れば掘るほど金が出る・・・」
こんのふうに俗曲で唄われた吹屋で有る。



 弁柄景気で沸いた吹屋で莫大な利益を得た商人達は、挙って競うよう
に豪邸を建て、赤い町並造りに貢献した。
その中心的な建物が、屋号を「胡屋(えびすや)」と言った国重要文化
財の「旧片山家住宅」である。



 宝暦9(1759)年の創業以来、200年余りにわたり「吹屋弁柄」の製
造・販売を手がけてきた老舗の建物である。
間口は10間と、豪商の邸宅にしてはそれほどでもないが、奥行きは何
と40間もあるうなぎの寝床で有る。



 その向が片山家の総支配人を務め、分家された家である。
今では「郷土館」として有料で室内が公開されている。
間口五間、奥行き16間の典型的な中級の商家造りは、石州の宮大工の手
になる建物で、「これほどの良材と大工の手の揃った家は世に少ない」
とまで言われる名建築とされている。



 当時の片山家は、吹屋地区では最大クラスで、中心的な豪商と言われ、
名字帯刀を許される勢いであった。
千余町歩の山持ちでそこから栗材や桜材など、選りすぐりの良材を切り
出し、建材としてふんだんに利用し豪邸を建て、造作にも凝ったという。



 その他にも、戸田家、藤森家、林家、那須家等多くの商家の建物が残
されている。
弁柄商を営んだ田村家の住宅主屋は、安政三年頃の建築といい、以降順
次増築され、昭和49年まで営業を続けていた。
これらの主屋は何れも入母屋造り平入り形式である。



 一方、城井田家や松浦本家等は、切り妻造りの妻入りで、家の構造は
必ずしも同じでは無く、当主の好みも反映されている様だ。
それでも、屋根・壁の外観には、町造りの統一感への配慮が当然なされ
ている。(続)



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赤い集落(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-26 | Weblog

 「弁柄」製造で巨万の富を得た豪商達が、今日の「赤い集落 吹屋の
町並」を作り上げた。
長者達は、石州(今の島根県)から宮大工を招き、競い合うように良材
を惜しげも無く使い、贅を尽くした上に、町並の統一感をコンセプトに
大邸宅を次々に建てていった。



 今日吹屋の町並に残された家屋はどれも豪壮な造りで、多くが平入り
や妻入り、切り妻二階造りの建物だ。屋根は赤銅色の石州瓦葺で、壁や
塀は弁柄を練り込んだ漆喰壁で仕上げられ、表戸に面した腰高格子や出
格子等は弁柄で赤く塗り染められた。
今日に残るこれらは、江戸末期から明治にかけて建てられたものだ。



 吹屋観光のメインは、数百メートルに及ぶ「赤い町並」である。
電柱が地中化され、余り広くはない通りには、こうして造られた妻入り
と平入りの二階屋に軒の低い家屋が入り交じり、不統一な家並みがかえ
って独特な景観を醸し出している。
赤い家並みに混じり、所々の白漆喰壁や海鼠壁の土蔵などがアクセント
となって映えている。



 通りにある市の地域局や郵便局等も一様にベンガラ塗りの町屋造りだ。
アンティーク店、カフェや土産処に混じり、オリジナルのお土産造りの
体験が出来る工房等も何軒かある。弁柄の絵の具を使い型紙でやる型染
めや、弁柄液に浸す泥染めの体験などができる。



 地域に有る「ベンガラ館」は、明治時代のベンガラ工場をモデルにして、
復元された資料館だ。
内部では、繁栄を極めた当時の町の様子や、ベンガラの四つの製造工程
を見ることが出来る。



 観光には、「吹屋ふるさと村周遊券(1000円)」が便利である。
有料施設である旧片山家住宅、郷土館、ベンガラ館、笹畝坑道、広兼邸
がこのチケットで入館できる。(続)





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ベンガラ(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-23 | Weblog

 弁柄(ベンガラ)は、人類が最初に使った赤色顔料である。原料は土
から取れる酸化鉄で、地球上に存在する赤色は、殆どがこれに由来し、
「大地の赤」と言われている。

 日本にはインドのベンガル地方から伝来したことから、ベンガラと呼
ばれるようになり「弁柄」、「紅殻」などと表現されている。



 国産「弁柄」の初めての発見は、18世紀初頭である。
江戸は宝永年間に、備中吹屋地区で、銅鉱山で産出される硫化鉄鉱から
得られる酸化第二鉄から偶然の産物として生まれた。



 「火鉢の中の焼き石を庭先に捨てたところ、降り出した雨に濡れて水
が赤く変色した」このことが、鉱石を焼いて水洗いをすれば、赤色の色
素が得られるというヒントになった。
その後、時の吹屋代官が弁柄の商品価値に着目し、当地で独占的に生産
する事を奨励した。



 当地で生産される製品は、品質が格段に優れる高級品とされ、「赤の
中の赤」とまで言われるほどに珍重され日本全国に広まり、更に海外ま
で知られるようになった。
防虫・防錆・防腐効果があり、家屋や寺院などの弁柄塗りや、道路の着
色料としても使われている。



 当時、中国山地一帯で生産される銅や砂鉄、「弁柄」、薪炭や雑穀は
ここ吹屋に集められた。その為吹屋の町には問屋や旅篭、飲食店が何軒
も並び、市場としての体を成していた。集められた物産の荷駄は、隊列
を成して吹屋街道を成羽に向け運ばれていたと言う。



 荷はそこから高瀬舟に積み替えられ、高梁川を下り玉島港に集められ、
瀬戸内海を使い上方や西国に送られた。
吹屋の賑わいは、江戸時代天領として栄える倉敷と比べても、遜色の無
いものであったと言われている。(続)





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備中の国・吹屋(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-21 | Weblog


 岡山県の中西部、渓谷沿いの細い道を辿り、急峻な山道に分け入って
上ると、標高約500mの吉備高原上に「赤い家並みの小さな町」が忽然
と姿を現わす。
これこそが「ジャパンレッド」を創出した「鉱山の町」「弁柄の町」、
「備中吹屋(ふきや)集落」である。



 ここには江戸中期から、幕府直轄領の銅鉱山があり、良質な銅の生産
が行われていた。更に幕末頃からは、「吹屋弁柄」が加わりその相乗効
果で、中国筋でも第一と言われる隆盛を極めるようになる。
その後昭和中頃までは、日本で唯一の弁柄の産地でもあった。



 小さな集落の建物の屋根は赤い瓦葺で、外観の壁や塀は、防虫・防腐
効果のある弁柄を入れ込んだ漆喰壁で仕上げられ、腰高格子や出格子等
も弁柄で染められ赤い町並が続いていた。
そんな建物に混じり、白漆喰海鼠壁の土蔵などがアクセントとなって混
じっている。



 第二次世界大戦が終わり、安価な化学工業製品が出回り、次第に取っ
て代わられるようになると、追い被せるように町を支え続けた銅山も廃
坑に成ってしまう。



 結果、赤い集落は衰退し、町並の建物も老朽のままに任せる事となる。
町から勢いが消え、商家は廃業、それに引きずられるように他の店も閉
まり、山奥の集落は寂れる一途であった。

 その後町並を保存再生させ、観光に生かそうという機運が盛り上がる
のは昭和も後半に差し掛かる頃である。



 やがて町は蘇り、繁栄の面影を今に色濃く残す町並は、昭和49年に
「岡山県ふるさと村」に指定され、「吹屋ふるさと村」と呼ばれるよう
になる。更に三年後、文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の選
定を受ける事になる。(続)



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ジャパンレッド(日本遺産 鉱山の町・吹屋)

2023-06-19 | Weblog


 「赤色」は、古来より命の源を表し、神聖な色とされ、旧石器時代の
壁画や縄文土器などの彩色にも頻りに用いられている。
以来今日までに絵の具を初め、日本を代表する伝統的な工芸品にも多々
使われてきた。
輪島塗などの漆器、伊万里焼・九谷焼などの陶器や、染織等である。



 特に陶磁器の赤絵や、漆器の朱漆などの優れた工芸品は、明治期以降、
欧米に頻りに輸出されると日本的色調である「赤」が日本の代表的な
色として認知されるようになる。
やがて日の丸に象徴される「赤」は日本のイメージカラーとして定着し、
「ジャパンレッド」と呼ばれるようになった。



 岡山県高梁市は、日本遺産の候補案件として、『「ジャパンレッド」
発祥の地』を申請した。
 これに対し文化庁は、「わが国を代表する陶器や漆器の『赤』を、
「ジャパンレッド」と表現した興味深い物語」として、当地の伝統的建
造物群保存地区を中心に、この発祥の地を日本遺産に認定した。
令和2(2020)年6月19日の事である。



 同日には、北海道根室海峡の『「鮭の聖地」の物語』や、静岡県藤枝・
静岡市の『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅』
等21件の認定も有った。
 2015年度に創設された日本遺産は、これで全国に104件となり、岡山県
下では7例を数えることとなる。



 認定されたのは、嘗て国内屈指の銅と弁柄の生産で栄えた鉱山の町、
「備中吹屋(ふきや)」(現高梁市成羽町吹屋)である。
人口3000人程度の吹屋はこれで、「吹屋ふるさと村」と、「日本遺産の
地」と言う二つの称号を得ることになった。(続)





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熊褒野神社(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-06-16 | Weblog


 東海道和田の道標を右に折れると街道は亀山宿を目指し標高は30m
ほどのこの地から軽い登りの坂道となる。
 この辺りの情景は、広重の東海道五十三次では、亀山の一つとして
「和田の坂道」の名で描かれている坂で、この先の亀山本町辺りまで
登り、そこは標高70mを越える。



 そんな坂の途中に、復元された和田の一里塚がある。
近世までこの辺りはまだ松並木も残っていたらしいが、道路の拡幅工事
ですべて切り払われ、今日では一本も残されていない。
道が広がり、両側には人家も増え、旧道は亀山の中心地に隣接したベッ
トタウンと化した。



 栄町に入ると左側に操業が昭和2(1927)年の有名な亀山ローソク
の本社工場が有る。本社は大阪に構えているが、創業の地には、亀山
本社工場を設立し、今も関わっている。



 その先には日本武尊の墓所とされる白鳥陵のある、「熊褒野(のぼの)
神社」遙拝の大きな二の鳥居が立っている。
 日本武尊はこの熊褒野で死んだとの伝説があり、当地に古くからあっ
た「王塚」と呼ばれる前方後円墳がその墓と言われていた。



 それが当時の内務省により正式に比定されたことから、日本武尊を主
祭神として、明治16(1883)年に神社が創建された。
その後周辺は、のぼの公園として整備されているらしい。
 その神社はここから北に3.5㎞程離れた安楽川の左岸近くに建っている。
この鳥居は、亀山駅前に立つ一の鳥居に続くものだ。



 神社の最寄り駅としては、亀山駅よりも井田川駅の方が位置的には遥
かに近い。
 井田川駅は昭和に入って設けられた新しい駅で、明治23(1890)年開
設の亀山駅には、早々と鳥居が建立されていて、最寄り駅の地位を取ら
れてしまったので有ろう。
(東海道歩き旅・伊勢の国 中編・完 後編に続く)



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亀山へ二里 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-06-14 | Weblog

 庄野より東海道46番目の宿・亀山までは二里、凡7.9㎞の道程である。
JR関西本線や国道1号線と縺れながら、鈴鹿川の支流・椋川に沿って
西進する。西富田の町外れで、安楽川により断たれた旧道を少し下流の
和泉橋で越え、すぐに堤防道を右折し旧道に戻る。



 和泉町から更に井田川町に入ると、古くは海善寺村と呼ばれた地だ。
井田川駅の手前で線路を越え、その海善寺のある二叉路を左に折れる。
真っ直ぐに進めば、井田川茶臼山古墳、日本武尊御陵があるらしい。



 左手に駅を見て更に川合町に入り、右カーブで国道1号線を越える。
戦前までこの辺りにも松並木が残っていたらしいが、松根油を採る為、
全て切り払われた。
西信寺の角を左折し町中を抜けこの先で椋川に架かる川合椋川橋を渡る。



 川合町と和田町の境辺り、古くから「やけ地蔵さん」と呼ばれる地に、
「谷口法悦題目塔」が立っている。
 谷口法悦は、江戸中期の頃京都に住む熱心な法華信者で、全国各地を
巡り、寺院や街道筋に題目塔を建立したとされる人物である。



 ここには「東海道刑場供養」の標識が立っていて、かつて刑場が有っ
た跡地らしい。
元禄年間に谷口法悦により、刑死した者への供養で立てられた供養塔で、
正面に「何妙法蓮華経」と刻まれている。



 国道に接する手前の和田に古い道標がある。
東海道から神戸(二里半)、白子(三里)を経て若松(三里三十四丁)
の港(亀山領)へ向かう追分けに建てられたものだ。
 元禄3(1690)年の銘があり、東海道の道標としては、三重県内最古
のもの市の文化財に指定されている。
東海道はここを右に取る。(続)





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幾つもの川俣神社 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-06-12 | Weblog

 庄野宿を出た街道は、川原町の交差点で国道1号線を越え、右に緩く
曲がりながら西に向かう。
北を国道が、更にその先にはJR関西本線が通されている。
少し西方には、安楽川と合流した鈴鹿川が南方にあり、広々とした河川
敷を展開しながら流れ下っている。



 地理院web地図を見ると、庄野宿内街道筋の標高は、20~22m程度だ。
この交差点で少し高くなるが、その先でも25m前後で、アップダウンの
少ない平坦な街道が続いている。



 一方鈴鹿川の河川敷の標高は、庄野橋下辺りが20m、上流に向かって
及川原橋下で25m、さらに和泉橋下では28m余となっている。
 今では30m余の堤防に守られているが、集落を守るべく堤防が無かっ
た時代、度重なる水難が、漆黒の深夜の堤防造りへと女人の心を動かし
た様子が、この地勢からも読み取れる。



 上り下り立場の有った中富田には、中富田一里塚の跡が残されている。
亀山領の東端に辺り、これを越えれば神戸領である。
大きな榎の大木が聳えていたらしい。



 隣接してここにも川俣神社(八王子社)を見るが、同名の神社は庄野
宿にも有り、これが二つ目である。
 更に街道を西進すると西富田にも、川俣神社(八王子社)が有りこれ
で三つ目だ。



 ここで旧道は途切れ、少し下流に迂回して安楽川に架かる和泉橋を渡る
が、当時の橋は丸い太い欄干を備えた、幅七十間の板橋があった。
橋を渡ると和泉町で、町外れの鈴鹿川に近い所にも川俣神社がある。



 一体どうなっているのか、狭い範囲に同名の神社が4社も鎮座しているが、
地区が違うので混乱することは無いのであろうか。
何とも不思議なことである。(続)



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女人堤防の碑 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-06-09 | Weblog


 庄野宿は小さな宿場ではあるが、通りの彼方此方に多くの案内板が掲
げられ丁寧な説明がされているている。
 宿の西側には、「川俣神社」があり、境内には宿の成立以前から自生
する樹齢300年という県指定の天然記念物のスダジイの巨木がある。



 実はこの先の街道筋の中富田や西富田にも、これと同名の神社が立て
続けにあり、狭い地域に三カ所もあるのが何とも不思議だ。

 街道を行くと、宿を出た辺りに、「従是東神戸領」と書かれた領界石
があり、その横に「女人堤防」と書かれた碑が立てられている。



 この汲川原村の地は、鈴鹿川と北安楽川との合流地点にありながら、
完全な堤防も無く、昔から度重なる川の氾濫に苦しめられていた。
その為幾度となく藩に堤防建設の訴願が行われて来た。



 折しもの倹約令と、南岸の城下町神戸に水害が及ぶのを恐れる藩は
許さなかったどころか、強いて行えば打ち首の極刑に処すとの触れま
で出す有様であった。

 度重なる被害を蒙るのは部落民で、耐え難く納得できるわけも無く、
処刑を覚悟で堤防建設を行おうとした。



 この時菊女を先頭とした女性達は、男性達が処刑されれば集落の存続
に関わると訴え、工事は女達200余名の死出の仕事にすると申し出た。

 以後女達は暗夜を選んで密かに集まり、築堤工事を進めることになる。
苦心の末、六年の歳月を掛けてようやく堤防を完成させることが出来た。



 しかしこのことは、何時しか藩主の知るところとなり、女達はその後
捉えられ、断頭の座に着かされてしまう。

 その刹那、藩から赦罰の早馬が到着し、助命が告げられる。
それどころか、築堤の功に対してお上からは金一封と絹五匹が贈られた。
その堤防は、この碑の立つ前辺りに東西に延びていたという。(続)





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