五福通りから連なる旧道をそのまま北東方向に向かい、新堀川を超え、
工場の塀沿いの道をそのまま進むと、所々に古い商家風の和風建築が残
る、趣ある通りに出る。
嘗ては「町屋百軒」と言われた旧河本町の町並で、道沿いには商店が、
ぎっちりと軒を並び連ねていた事からこのように謳われた。
ここは、高瀬舟による吉井川舟運の寄港地として栄えたところである。
かつて川の両側には、常夜灯が建てられ川湊を照らしていたが、その天保
7年の銘が入った常夜灯も、堤防下に残されている。
元々は川縁に有ったが堤防の工事で、この地に移されたものだ。
又今でも引き潮で水位が下がると、川岸に当時の石敷の雁木跡が姿を現す。
旧河本町とは観音院を挟んだ反対側、南西方向に延びる旧街道沿いを、
旧今町・渡場町筋と言い、ここにも古い町並が残されている。
高松城水攻め後の中国大返しの折、秀吉軍の分隊がここから吉井川を渡っ
て姫路方面に進軍したとされる場所だ。
第二次大戦の、空襲による全焼失を免れた西大寺には、古い町並や、
門前町、港町の狭い町並、入り組み曲がりくねった狭い道路、変則的な
交差点など、往時の姿を彷彿させる物が数多く残されている。
西大寺には祭以外にも、貴重で珍しい風致の地が幾つもある。
その一つ五福通りでは、町並の保存や活性化策、又新店のオープン等、
少しずつ動き出しているようだ。
しかし残念ながら、折角のこう言った資源をまだまだ充分には生かし
切れてはいないのが現状のようだ。(西大寺鉄道廃線跡を歩く・完)
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工場の塀沿いの道をそのまま進むと、所々に古い商家風の和風建築が残
る、趣ある通りに出る。
嘗ては「町屋百軒」と言われた旧河本町の町並で、道沿いには商店が、
ぎっちりと軒を並び連ねていた事からこのように謳われた。
ここは、高瀬舟による吉井川舟運の寄港地として栄えたところである。
かつて川の両側には、常夜灯が建てられ川湊を照らしていたが、その天保
7年の銘が入った常夜灯も、堤防下に残されている。
元々は川縁に有ったが堤防の工事で、この地に移されたものだ。
又今でも引き潮で水位が下がると、川岸に当時の石敷の雁木跡が姿を現す。
旧河本町とは観音院を挟んだ反対側、南西方向に延びる旧街道沿いを、
旧今町・渡場町筋と言い、ここにも古い町並が残されている。
高松城水攻め後の中国大返しの折、秀吉軍の分隊がここから吉井川を渡っ
て姫路方面に進軍したとされる場所だ。
第二次大戦の、空襲による全焼失を免れた西大寺には、古い町並や、
門前町、港町の狭い町並、入り組み曲がりくねった狭い道路、変則的な
交差点など、往時の姿を彷彿させる物が数多く残されている。
西大寺には祭以外にも、貴重で珍しい風致の地が幾つもある。
その一つ五福通りでは、町並の保存や活性化策、又新店のオープン等、
少しずつ動き出しているようだ。
しかし残念ながら、折角のこう言った資源をまだまだ充分には生かし
切れてはいないのが現状のようだ。(西大寺鉄道廃線跡を歩く・完)
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