簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

旧河本町(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-29 | Weblog
 五福通りから連なる旧道をそのまま北東方向に向かい、新堀川を超え、
工場の塀沿いの道をそのまま進むと、所々に古い商家風の和風建築が残
る、趣ある通りに出る。
 嘗ては「町屋百軒」と言われた旧河本町の町並で、道沿いには商店が、
ぎっちりと軒を並び連ねていた事からこのように謳われた。





 ここは、高瀬舟による吉井川舟運の寄港地として栄えたところである。
かつて川の両側には、常夜灯が建てられ川湊を照らしていたが、その天保
7年の銘が入った常夜灯も、堤防下に残されている。
元々は川縁に有ったが堤防の工事で、この地に移されたものだ。
又今でも引き潮で水位が下がると、川岸に当時の石敷の雁木跡が姿を現す。





 旧河本町とは観音院を挟んだ反対側、南西方向に延びる旧街道沿いを、
旧今町・渡場町筋と言い、ここにも古い町並が残されている。
高松城水攻め後の中国大返しの折、秀吉軍の分隊がここから吉井川を渡っ
て姫路方面に進軍したとされる場所だ。





 第二次大戦の、空襲による全焼失を免れた西大寺には、古い町並や、
門前町、港町の狭い町並、入り組み曲がりくねった狭い道路、変則的な
交差点など、往時の姿を彷彿させる物が数多く残されている。

 西大寺には祭以外にも、貴重で珍しい風致の地が幾つもある。
その一つ五福通りでは、町並の保存や活性化策、又新店のオープン等、
少しずつ動き出しているようだ。

 しかし残念ながら、折角のこう言った資源をまだまだ充分には生かし
切れてはいないのが現状のようだ。(西大寺鉄道廃線跡を歩く・完)




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五福通り(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-27 | Weblog


 「五福」とは、人生に於ける五つの幸福の事である。
即ち「寿命の長いこと」「財力の豊かなこと」「無病で過ごすこと」
「徳を好むこと」「天命を全うすること」を言うそうだ。

 西大寺会陽(はだか祭)では、本堂前の大床上で揉みあう裸衆に、
この五福が込められた陰陽一対の宝木(しんぎ)が投げられ、その福
を獲るための奪い合いが行われる。



 その謂れに因んで、観音院に近い仁王門前の通りは「五福通り」と呼
ばれるようになった。
そこは吉井川の河口に近い場所で、昔から川運と瀬戸内海を結ぶ備前の
要港として栄え、寺もそんな賑わいと共に発展し、周辺に門前町が形成
され栄えてきた。
明治に入ると、多くの町屋で町並が形成され、商業の中心と成ったのが、
この五福通りである。



 通りを歩けば、両側に商家の立ち並ぶ町並からは、何だか、どこか懐
かしい昭和の香りが漂ってくる。
この佇まいは、今日では珍しくなった「看板建築」と言うらしい。
これは関東大震災以降、全国的に商店等で用いられた建築様式だそうだ。



 道路側の壁面線を揃える法令の普及や防火目的などで、建物前面に壁
を立ち上げ、外観を銅板やモルタルで擬洋風に仕上げたものだが、その
中身は昔ながらの純和風な建築である。
 この通りでは、昭和の初期にバスを通す計画もあり、道路側の1階部
分の軒先が切り取られたことで一気に普及したという。



 このレトロな懐かしい雰囲気が人気で、これまでにも「カンゾー先生」、
「ALWAYS三丁目の夕日」「魔女の宅急便」「この世界の片隅に」「君と
100回目の恋」等、多くの映画やドラマの撮影に使われている。(続)






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西大寺会陽 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-25 | Weblog
 金陵山・西大寺・観音院の会陽は、「天下の奇祭・はだか祭」として
知られている。
これは、旧暦の1月に14日間行われる修正会が満願を迎える日の午前
零時(現在は毎年2月第3土曜日午後10時に変更)、本堂上部の御福窓
から投下される陰陽二本の宝木を裸の男たちが奪い合う勇壮な祭である。





 こんな祭に集まる参詣者を運ぶため、西大寺鉄道では所有する車両や
社員を総動員し、時には臨時の応援を得ながら乗客を捌いていたそうだ。
しかし増結に増結を重ね、フル回転しても溢れかえる乗客を捌き切れず、
オープンなデッキには乗客が溢れ、乗り切れない乗客は強引に車両の屋
根に上るものまで出る始末で有った。沿線にトンネルが無かったからだ。
が、乗れれば良い方で、乗車を諦めて、歩き始める人も多かったらしい。





 何千人もの裸が宝木を争奪する祭が終われば、境内の周辺では一か月
にも渡る後まつりも開かれていた。
屋台や市、猿回し、サーカス、芝居小屋、見世物小屋までが立ち並んだ。
又、昔から岡山は農機具の生産が盛んで、大規模な展示会が開かれたり
もしたらしい。
今日衰退したとは言え、屋台植木市、骨董市等は今も引き継がれている。





 近隣各地から参詣に訪れる善男善女は大層な数に上り、門前町の商店
や出店する屋台などは、この一か月で一年の大半の収入を得たと言うが、
西大寺鉄道も事情は同じであった。

 「備前平野に春を呼ぶ」、と言われる祭りは、春を待ち焦がれる人々
で大いに賑わい、門前の店や鉄道を大層に潤していたと伝えられている。(続)




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西大寺観音院 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-22 | Weblog


 西大寺鉄道の終点、観音駅(後の西大寺市駅)で「けいべん」を降り、
参詣通りを800m程歩くと、県下でも最大級と言われる仁王門が人々を
優しく迎え入れてくれる。
石橋の先に建つのは、和洋と禅宗様式を併用した三間一戸の堂々とした
楼門で、左右には金剛力士像も立っている。



 山門を潜ると境内で、左手には弘法大師を祀る高祖堂(御影堂)、右
手にはやや小ぶりの三重塔と六角経蔵が建っている。
何れも江戸時代に建てられたものだ。

 その間に延びる石畳の参道の先に、巨大な屋根を被る正面五間の本堂
が構えている。
外陣部分は板敷の葺き放しで、一般的には大床と呼ばれ、その上部には
はだか祭りで重要な役割を果たす御福窓が設けられている。



 本堂の右手、吉井川の堤防下に建つ一際異彩を放つのが石門である。
一階部分は石造り、二階部分には白漆喰が塗られ、周りの欄干を朱塗り
としていて、その姿は物語の中の竜宮城を思わせる。



 その下正面には鳥居が建ち、一段下がった水垢離場となっている。
かつては吉井川と繋がり、大潮の時にはここに川水が流れ込んでいた。
はだか祭に参加する裸衆は、まずここで身を清めることになる。
その横には、はだか祭観覧用の有料スタンドも造られている。



 本堂左手には、今日唯一残る末寺の千手院や客殿が建っている。
その奥が、国の登録有形文化財の指定を受けている牛玉所殿である。
江戸時代後期には倉敷の由加山蓮台寺大権現、四国の金毘羅大権現と並
び三社参りで隆盛を見たところである。



 近頃では「はだか祭」のみならず、「和合の楠」を初め、「合格祈願
の白玉文殊」「水掛誓願不動」「身代わり水掛観音」「土地家屋安穏北
向き地蔵」など、祈願スポットやパワースポットが殊の外人気だそうだ。(続)




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観音院の参道 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-20 | Weblog


 旧西大寺鉄道の開通当時は「観音」駅と称し、その後「西大寺町」駅
となった。更に昭和28(1953)年には町の市政施行に伴い、「西大寺
市」駅に変更されている。

 そんな駅は、「金陵山・西大寺・観音院」を参拝する、多くの人々の
利用を見越して設けられていて、終点で降りると、目の前には観音院に
向かう門前町の賑やかな800m程の参道が延びていた。



 往時この間の通りには、沢山の土産物屋、飲食店等の商店が立ち並ん
でいた。
 「はだか祭」の宝木は、深夜零時(現在は午後10時に変更されている)
に投下されていたので、着替え場所を提供するところや、銭湯、宿泊場
所等も沢山あり、終日営業で賑わったそうだ。



 しかし今日の通りには、改業や既に表戸を閉ざした店も少なくはなく、
当時の繁栄を窺い知ることは出来ない、寂れた通りになってしまった。
戦災で全消失を免れた土地だけに、通りを歩けば何となく懐かしさは感
じるが、只それだけの参道でしか無く、往時の賑わいは感じられない。



 参詣道は、吉井川の鴨越堰から取水している農業用水・西川を越える。
この川沿いにも風情のある町並や、謂れのある古くからの橋も多く架け
られているので、参詣道を外れ、辿ってみるのも面白いかも知れない。
道標も案内板も至る所に立てられているので迷う心配は無い。



 観音駅から辿った参詣道は、西川に沿って進み、大正6(1917)年に
架けられた千歳橋を渡り、JR西大寺駅前から続く広い通りを越えると、
門前通りと成り、その狭い通りの先に仁王門が見えると観音院は近い。(続)





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中心地の衰退(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-18 | Weblog
 西大寺鉄道の終点は、同鉄道の発祥の地に有り、鉄道が廃止された
跡は、バスターミナルとして整備され、今でも交通の拠点である。
主なバスの路線は岡山市の中心部向けで、それ以外にも牛窓や、虫明、
宝殿など瀬戸内海に面した主要な町とを結ぶ路線が運行している。





 周囲は文教地帯で学園・学校も多く、税務署や福祉施設のふれあいセ
ンター等もある。
隣接地にはグループ企業が運営する范曽美術館や、系列会社の営業所や
旅行会社、大型スーパー等もある。
周辺は、紛れもなく旧西大寺市時代から続く中心的な場所でもあった。





 平成21(2009)年、町南部のカネボウ西大寺工場跡地をメイン会場
とした「全国都市緑化フェア」が開催された。
それが終わると跡地の南側は広大な「緑化公園」となり、「百花プラザ」
という拠点施設が整備され、図書館などが設けられた。

 隣接した北側エリアには、複合商業施設の「西大寺グリーンテラス」が
開業し、更に周辺には、東区役所や消防署が移転開設された。
元々、この辺りには、大型のスーパーや大病院等も立地していて、これで
一大商圏が出来あがり、今では町の中心部はこちらに移った感がある。





 明治時代の末期、鉄道の開通により岡山市中心部からは岡山電気軌道
の路面電車との接続も有り、観音院への参拝者が激増した。
鉄道は運賃収入で潤い、観音院に向かう参詣道・門前町の各店も繁昌を
極めたと言う。

 そんな発祥の地も、今日では商圏が南に移り地盤低下は防ぎようも無
い状況になっている。
立地していた大型スーパーも、近年撤退を決め空き店舗となっている。(続)




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西大寺鉄道発祥の地 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-15 | Weblog


 西大寺鉄道の終点・西大寺は、文字通り西大寺鉄道の発祥の地である。
鉄道の廃止後その跡地は、バスターミナルに変貌した。
周辺には両備ホールディングス等の事務社営業所、旅行会社等があるが、
登記上この地は、本店機能を有しているという。



 バスターミナルの敷地内に建つ赤い屋根の建物は、現在でも営業所の
事務所として使われているが、かつての鉄道の本社社屋である。
明治44(1911)年頃の建物と言うから、それに間違いが無ければ既に
百年以上も経過している。



 バスが到着する乗降場前には、誘導するラインの代わりに鉄道のレー
ルが埋め込まれているのが如何にも駅跡らしいが、線路跡と言う訳では
なさそうだ。
この地は、今も昔もこの地域の交通の拠点で有ることに変わりがない。



 表通りに面した一角には、ポイントの切り替え機とともに、当時主力
の気動車と言われたキハ7型(川崎車輌製)が静態保存されている。
全国的に見ても珍しい914mmゲージの車両は、希少価値のある存在で、
平成16(2004)年には「推薦産業遺産」に認定されている。



 その前には前身である西大寺鉄道から発展した両備グループの創業者
松田与三郎翁の胸像が静かに町の発展を見つめている。
彼こそが当時の山口誠孝西大寺町長らに呼応し、鉄道の開通に奔走した
中心的な人物である。



 鉄道創設委員会が組織され、「西大寺軌道株式会社」として、設立総
会が西大寺観音院で開催されたが、これも院と供に生きる門前町らしい。
 明治43(1910)年10月の事で、その翌年に鉄道は「観音」と「長岡」
駅(現在のJR東岡山)の間で開通し、営業運転を始めている。(続)




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終点・西大寺  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-13 | Weblog


 当時の西大寺鉄道は非電化で、ドイツ・コッペル社製等の蒸気機関車
が5両導入され、客車は10両あり、それ以外に貨物用の車輌を8両程保
有していたらしい。
全線単線であるが、廣谷は2面2線ホームを持ち、行き違いが出来た。



 この鉄道は平野部を走り、沿線は地勢的に農業用水路の多い処だけに、
小さな橋梁は幾つもかけられていたようだ。
また山際を避けて敷設されていたので沿線にトンネルも無く、道路の跨
線橋の下を潜ることも無かったのがこの路線の大きな特徴でもあった。



 保育園に隣接した「廣谷」駅を出た鉄道廃線跡は、左手に芥子山を望
みながらその先で進路をやや南に振りJRの赤穂線とは離れ、そのまま
終着駅・西大寺市(町村合併で現在は岡山市東区となったが、当時は西
大寺市)を目指す。



 途中砂川を歩道橋で渡るが、この川の中には橋梁の基礎部分が残され
ているらしく、川の水量が少ないときなどは顔を見せると言う。
しかし生憎この日は二三日前に降った雨のせいか、その姿を目にするこ
とは出来なかった。

 その先で国道2号線の高架下道路を歩道橋で越える。
当時はこのバイパス道路も、広い高架下道路も通ってはいなかったので、
線路は当然平面で敷設してあった。



 高架下道路を歩道橋で越えた専用道路は、民家や会社の建物の間を緩
やかに下りながら、終着の西大寺バスターミナルの広い敷地の中へと吸
い込まれて行く。

 そこは昭和37(1962)年、旧国鉄赤穂線の開通を尻目に、同年に廃止
された鉄道の跡地に設けられた鉄道に変る交通の拠点施設である。(続)





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駅名の変更  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-11 | Weblog
 右手に芥子山小学校、左に旭東公民館を見てそこを過ぎると少し先
に公園風に整備された地に、「廣谷」駅の跡を示す駅名標が立てられ
ている。

 ここは当初の駅名を「松崎」と言ったが、当時の鉄道院から、院線
との紛らわしい駅名は全て変更せよと強い下命があり、「廣谷」駅に
改称されている。

 元々松崎地区にあるから駅名に不思議は無いが、なぜ変更後が、同
じ小学校区とは言え、随分と東に離れた「広谷」に決められたのかは、
今一つ解せないものがある。





 思うに、それには観音院の存在が深く関わっているのではないかと
推測をしてみる。

 西大寺観音院の年間を通じて最大の行事と言えば、毎年2月の第3
土曜日に開催される、会陽(はだか祭)である。
その行事は19日前の「事始め」により始まり、その3日後には、重要
な儀式である「宝木取り」と言う行事が行われる。





 深夜零時になると数名の総代が、手甲・脚絆・菅傘姿で提灯を下げ、
観音院を出る。
片道4㎞の道を1時間ほど掛けて歩き、そこで宝木となる原木を受け取
って又同じ道を帰ってくる。
この間の道中では原木に魔が入らないよう、一切無言で通されると言う。

 授かった原木は削り形を整え、その後14日間の「修正会」で祈念をし、
香が焚き込まれ、結願の当日「宝木」として裸群に投下される。





 その原木を授けるのが、芥子山の中腹、広谷に位置する、「廣谷山・
妙法寺・無量寿院」と号す高野山真言宗派の寺院である。

 はだか祭とは、切っても切れない重要な所縁のある寺院である。
観音院にとってはだか祭りは、年間収入の大半をもたらす打ち出の小槌
とも言える存在である。
そんな事情から所縁の深い寺の知名度をも高めようとの忖度があっての
改名で、本当は「廣谷山無量寿院前」と言う駅名にしたかったのでは?
と思って見たりもするが、これでは如何にも長すぎるから短くした。
等と考えてみるが、真意の程は解らない。(続)




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歩行者自転車専用道路  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-08 | Weblog
 この旧大多羅駅辺りから終点の西大寺までは、地図を見ると線路跡
らしき痕跡が良く解る。

 庄内川を渡ると線路跡は、住宅地や道路等でかき消されてはいるが、
大多羅駅を出ると、旭東中学校の西端を掠めるように南進し、その先で
東にカーブしていた様子は地図上からも読み取ることが出来る。
大多羅公園の先からは、真っ直ぐに延びる道路に繋がっていて、それを
辿れば行き着く先は西大寺の町中である。





 そんな集落の用水に沿って建つ民家の外壁の基礎部分に、橋台の跡が
埋め込まれたまま残されている。
用水をやや斜めに横切っていた橋脚と思われる跡である。

 一段と高くなっている台座部分に、レールかガーターが敷設されてい
たらしく、それを支える2本のボルトが両側に残され、当時の様子を窺
い知ることが出来る。
崩すこともなくそのまま基礎として利用しているところを見れば、軽便
鉄道とは言え、さすがに基礎部分の造りは堅固で有ったのであろう。





 その対岸は民有地の駐車場に転用されているが、その前に鉄道の案内
板が建てられていた。
通り抜けも出来ず、一旦北の道に出て迂回し、先ほどの橋梁跡の延長線
辺りに来てみるとそこからは見事なまでに真っ直ぐな田圃を貫く通路が
延びている。





 ここから2.3Km先の終点まで線路跡は、歩行者自転車専用道路に生ま
れ変わり残されていた。

 左手の田畑の向こうには、この鉄道を廃線に追いやった、JR赤穂線
(当時は国鉄)の線路が直ぐそこを並走している。
その更に先は、芥子山(233m)が、「備前富士」とも呼ばれる優美な
姿を見せて聳えている。(続)




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