簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

軽便鉄道の開通 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-08-30 | Weblog
 高瀬舟による吉井川の舟運、北前船による瀬戸内海航路の拠点として
栄えた西大寺は、山陽鉄道敷設時には、舟運の衰退を懸念して、鉄道が
通る事に異を唱えていた。
その為、鉄道路線とも切り離され、後々陸上交通では大きく後れを取る
事となった。



 国内各地で「軽便鉄道」ブームが起こる中、挽回策として鉄道建設の
機運が高まるのは、明治も終わりに近づいた頃だ。
周辺に立地し始めた繊維関係工場の荷物輸送として、また天下の奇祭・
はだか祭で知られる西大寺会陽の見物客の輸送を担う鉄道として、大き
な期待が掛けられた。



 明治44(1911)年12月29日、町の中心西大寺観音院の門前通りの先に、
待望の観音駅(後の西大寺市)が開業し、ここから山陽本線(当時は山陽
鉄道)と接続する長岡駅までの間、5.5㎞を結ぶ路線が先行開業したのだ。
軽便鉄道・西大寺軌道(後の西大寺鉄道)の開通である。
(山陽本線長岡駅はこれよりも早く、明治24(1891)年に開業しており、
後に財田駅と呼ばれた。東岡山駅への改称は昭和36(1961)年の事。)



 当時は初めて鉄道に乗る人も多かったらしく、一番列車が動き出すと、
見物人の間からは、歓声と共に万歳が起こったと言う。
町では花火が上がり、夜には提灯行列で、町民がこぞって祝ったという。



 翌年には長岡から4.6㎞先の森下駅までが開通した。
観音から先、松崎-大多羅-岩間-長岡-関-二本松-原尾島の各駅が
設けられ森下に到る路線だ。
この間所要時間は40分余りを要し、運賃は10銭であったらしい。



 更に、後楽園までの1.3㎞が延び、全線が開通するのは大正4(1915)
年の事だ。
これで、岡山後楽園の北側辺りから、観音院のある西大寺の中心部まで
11.4㎞を10駅で結ぶ路線が全通した。(続)





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西大寺市 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-08-27 | Weblog
 古代より県下の河川では、小さな海舟がある程度のところまで遡って
いたが、中世に入ると急流を上下するに適した独特の構造を持った舟が
現われ、かなり上流まで遡るようになった。

 これが「高瀬舟」で、記録によると吉井川では標高88mの津山まで、
旭川では159mの勝山、高梁川では65mの高梁辺りまで通じていたと考
えられる。(「岡山の交通」昭和47年5月 日本文教出版)





 岡山市東部に位置する西大寺(旧西大寺市)は、吉井川の河口に開け
た町だ。吉井川は、上流の美作との間で舟運が開け、この地区の流域に
も幾つもの川湊が有った。
 また古くから金岡荘と言われる荘園で、舟運の拠点・金岡湊が有り、
西大寺観音院の門前町としても栄えていた。





 上流から高瀬舟により運ばれ、集積された物資は、これらの川湊で陸
揚げされ、或はここを中継拠点として北前船に積み替えられ、瀬戸内海
航路を経て各地に運ばれていた。
当時そんな商湊として繁栄していたのが、吉井川河口西岸の西大寺・金
岡湊である。

 江戸時代に入り、沿岸で干拓が進み、開発された新田では、「綿花」
や「い草」の栽培が奨励され、これらは川湊から各地に売られ、町の財
政を潤し、繁栄の礎となっていた。
明治になると地元資本による紡績工場、織物工場や製紙工場が相次いで
設立されている。




 
 繁栄を続ける町は、戦後間もなく周辺14町村と合併し、「西大寺市」
を名乗る。
町に勢いのある時代であったが、それも長くは続かなかった。

 昭和44(1969)年には岡山市に編入合併し、平成21(2009)年には、
岡山市の政令指定都市移行により、東区に入り現在に到っている。(続)




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軽便鉄道 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-08-25 | Weblog


 「軽便(けいべん)」
線路の内側の最短距離を「軌間」、或は「ゲージ」と言うが、この鉄道
は914mm(3フィート)で、俗に「軽便(けいべん)」と言われた。
嘗て岡山にはこの鉄道が走り、市民からは親しみと愛情を込めて、「け
えべん」と呼ばれていた。



 明治時代富国強兵を目指す政府により、鉄道国有法が公布されると、
私設鉄道の施設出願が激減し、地域開発の推進が後退する結果となった。
慌てた政府は、それを補完する目的も有り、かなり規制を緩めた「軽便
鉄道法」を公布する事になる。
これにより国内各地では、俄に「軽便鉄道」ブームが起きたと言う。



 ここ岡山の西大寺地区地に、鉄道建設の機運が高まるのは、やや遅れ
た明治も終わりに近づいた頃だ。
世の中が、日清・日露の戦勝景気に湧き、地方経済の開発機運が高まり、
鉄道の有用性が伝えられる中、この軽便鉄道法の施行が強力な後押しと
なったようだ。



 俗に軽便鉄道と呼ばれる鉄道は、当時の国鉄の標準軌道である1067
mm以下の軌間を有する鉄道を言い、一般的には762mmが多かった。
ところが西大寺軌道(後の西大寺鉄道)は、914mmの採用が決められ
たが、これは全国的に見ても非常に珍しい存在であった。



 地元有力者や支援者を中心に、鉄道創設委員会が組織され、敷設免許
の申請が行われた。
株式5000株を発行し公募する中、地元西大寺町が凡そ3割を負担した。
残りの株の外部公募を行った結果、二三の大株主に買われ、資金の目処
が立ったらしい。
こうして西大寺軌道株式会社が設立されるのは、明治43(1910)年7月
の事だ。(続)





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軌間(ゲージ)(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-08-23 | Weblog


 鉄道の多くは、二本のレールによって線路が構成されている。
その線路の内側の最短距離を「軌間」、或は「ゲージ」と呼び、鉄道会社
により各種の幅が採用されている。
世界的に一番多いのが、「軌間1435mm(4フィート、8.5インチ)」で、
半数以上が採用していることからこれを「標準軌」と呼んでいる。



 日本の新幹線は、「標準軌」を採用している。
走らせる車輌の重心が同じ高さなら、線路幅が広い方が横方向の力に対し
てより安全で、列車の場合は高速になるほどその影響は大きくなる。
高速走行を売りにする新幹線には、「標準軌」が適しているらしい。



 一方嘗ての国鉄や現在のJR在来線、私鉄の東武、西武、名鉄、南海
等では、1067mmと軌間が少し狭いものが採用されている。
この「標準軌」を中心に、より広い軌間を有するのが「広軌」、逆に狭い
ものは「狭軌」と呼ばれているから、在来線などは「狭軌」の範疇である。



 一般的に軌間が広くなる方が、高速運転が可能で、輸送力も高まるが、
建設コストは「狭軌」に比べると高くなると言われている。
日本では鉄道の黎明期、よりコストが重視され、多くの私鉄がこの「狭
軌」を採用した。



 京成、京急、阪神、阪急など私鉄7社は、新幹線と同じ「標準軌」を
採用している。
また国内の地下鉄は、「標準軌」と「狭軌」が入り乱れているようだ。

 函館の市電や京王は、それより少し狭い1372mmを採用しているが、
四日市あすなろう鉄道、黒部渓谷鉄道などはその半分ほどの762mmを
採用している。
各社それぞれの事情が有ってのことだろうが、中々にややこしい。(続)





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西大寺鉄道への乗換え (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-20 | Weblog
 昭和9(1934)年の室戸台風は、岡山にも大きな被害をもたらした。
「岡山後楽園」の園内は水没し、建物類にも大きな被害が出たが、順次
江戸時代の絵図面を基に復旧が進められた。



 復旧に当り園の西側を流れる旭川も、大規模な浚渫工事が行われた。
同時に防災の為、東側に新たな支流(東派川)が掘られ、園地は完全な
中州にある公園となった。
昭和14(1939)年の事で、対岸に向け「逢来橋」も架けられている。



 路面電車・番町線が開通した当時は、支流(東派川)はまだ無く地続
きである。従って、旭川に架かる「鶴見橋」を渡り、右に取ると「岡山
後楽園」の入口に到るが、その川を渡った左岸には、番町線の開通より
6年前の大正4(1915)年に延伸開業した「西大寺鉄道」の「後楽園駅」
が建っていた。



 江戸時代には、吉井川から瀬戸内海にかけた水運で、大いに栄えた東
部の西大寺は、何時しかし衰退の道を歩んでいた。
「西大寺鉄道」はその挽回策として開通し、度重なる延伸で、岡山市内
まで乗り入れていた。
有名な西大寺観音院の、「はだか祭」への参詣客輸送と言う大きな目的
も有り営業を始めていた。



 番町線の開通により岡山市内と、西大寺鉄道との接続が出来上がった。
新たな支流(東派川)の影響で、西大寺鉄道の駅は100m程後退する事に
なったが、それでも路面電車の「楽園口」電停からは、僅かな距離で繋が
り、新たな鉄道で移動の出来るルートが成立した事になる。



 そんな鉄道も、昭和37(1962)年に廃線と成り、駅も撤去された。
現在の逢来橋の前に、メルヘンチックな姿で佇む、「夢二郷土美術館」
のある辺りにその駅が有ったと言う。
(「岡山市内電車・番町線」完 「西大寺鉄道廃線跡を歩く」に続く)





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岡山市内の路面電車 (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-18 | Weblog


 岡山の路面電車の開通を支えたのは、地元の篤志家を初め、多くは
神戸の資本家や実業家であった。
明治39(1906)年130名余りの発起人により「岡山電気軌道」が設立
されたが、当時その中の岡山関係者は1割程度しかいなかったらしい。



 当時の本社と車庫は、上之町1丁目、現在のオリエント美術館のある
辺りに置かれた。
当初の車輌は12両による運行で、運賃は4銭であったと伝えられている。
その後大正時代末期には、本社と車庫が旭東線の終点の東山に移された。
路線名も東山線と変更になり、これでようやく現在の形が整った。



 その後の路面電車は、市民の気軽な足として、ピークと言われる昭和
30年代には、65の都市で活躍をし、総延長は1497㎞と言われている。
しかし今日では、18都市19路線と減り、その距離も237㎞余りと桁違い
に短くなった。

 岡電の実績でも最盛時は年間一千万を越える人々の足として使われて
いたようだが、今日では300万人程度と言われている。



 ノスタルジック型式の路面電車には、色鮮やかに多彩な広告デザイン
も施されている。様々な形や色彩の車輌が、のんびり市内を走る姿は、
見ても乗っても楽しいものだ。

 特に超低床型の「MOMO」、市内では最古の車両をリニューアルした
「KURIO」、和歌山電鉄ゆかりの「たま電車」や、別途料金が必要にな
るが、「おかでんチャギントン電車」が人気だ。



 車内で購入が可能な、便利でお得な「1日乗車券」を、大人400円、
子供200円で販売している。
これには「夢二郷土美術館」「オリエント美術館」などの入館割引や、
沿線施設での飲食割引などの特典もついている。
時には一日乗廻しを楽しむのも良いだろう。(続)





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新鶴見橋の完成 (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-16 | Weblog


 路面電車は、室戸台風の水害や、岡山空襲による架線柱全焼失と言う
被害からも力強く復旧し、戦後の復興事業に貢献を果たしてきた。
戦後経済の復興は、「石炭」、「水力発電の電力」、そし「鉄道」によ
り成されたと言われている。



 路面電車も多くの都市で路線が拡充され、人々の移動手段として重宝
されて来た。しかし、東京オリンピックを契機に道路網の整備が進むと、
日本経済の牽引は自動車が担う事がより顕著となり、加えて電車の大敵、
バス事業者の乱立と路線網の急伸があった。



 自動車や路線バスの増加を見越し、既存の道路が拡幅され、新道の計
画が相次ぐと、路面電車の存続には懐疑的な声が高くなった。
道路整備よりも、車の普及速度が上回る時代で有る。
至る所で道路が渋滞し、路面電車も巻き込まれ思うように走れない。
それどころか、邪魔者扱されるようになる。



 岡山市内でも戦後の市街地復興の一環で、番町交差点の国道53号線と、
原尾島交差点の国道2号線(現250号線)を結ぶ2.3㎞の県道402号線が
計画され、その途中の旭川には、出石地区と対岸・浜地区とを結ぶ新た
な橋が架けられる事になる。



 昭和46(1971)年「新鶴見橋」の完成を待って新たな県道が開通する。
その3年前、新道には無用とばかりに役割を終えた番町線は、惜しまれつ
つこの道路から完全に姿を消した。
モータリゼーションの波は、延伸どころか、廃線に追いやってしまった。



 余談になるがこの原尾島の国道2号線は、昭和41(1966)年日本で
最初に点字ブロックが道路に敷設された場所である。
交差点には記念のモニュメントが建てられている(続)




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番町線の終点 (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-13 | Weblog


 番町線の線路は「後楽園口」を出ると城下筋に突き当り、それを左に
折れ西進する。この角の最初の電停が「憲兵隊前」だ。
大日本帝国陸軍憲兵分隊が各県に配置されたのは、明治20年代のことだ。
古い地図を見ると、今日就実学園高等学校の第一体育館が建つ辺りに、
「憲兵隊岡山分隊」の建物が記されている。



 就実高校の前身、「私立岡山実科女学校」は、明治37(1904)年
にこの地で設立された。その7年後には「就実高等女学校」と、校名
の変更を行い、戦後になると中学校も開設される。
憲兵分隊は第二次大戦後には解体され、それに伴いこの電停は「就実
学園前」となった。



 次が終点の「七番町口」、後の「番町」である。
前の電停からは200m程離れた、今日の岡山中央小学校の西端前辺りと
思われるところだ。
開業当時、ここには弘西小学校が有った。



 妙応寺境内に前身の「第二学問所」が創立されたのは明治5(1872)
年のことで、5年後に現在地に移転して弘西小学校と名前を変えた。
戦後には岡山市立の小学校となったが、平成に入り統合され130年近い
歴史の幕を閉じている。
現在道路に面した校門の両側にある古めかしい石造の台座は、昭和初期
に建てられた当時の遺構らしい。



 城下から分岐した、僅か900mの路線の終点がこの番町である。
真っ直ぐに西進すれば環状化の経由地の万町(現万町跨線橋)の辺りだ。
電停は将来の延伸・環状線化を考慮して、終点構造に見る、あの車止め
も何もないものであった。
当時の写真を見ると、道路中央に軌道敷が敷かれているが、刃物で切った
ように軌道敷も線路も突然に途絶えている。(続)





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鶴見橋(岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-11 | Weblog


 廃止された「番町線」の次の電停「後楽園口」は、現在の弓之町東付
近に有った。
ここは文字通り「岡山後楽園」の入口に一番近く、最寄り駅である。
岡山後楽園を訪れる客は、ここで路面電車を降り、旭川の堤防に向け緩
く上る道を辿ることになる。



 この道が現在の後楽園通りだ。
坂を登ると途中左手に、黒い焼き杉の外壁に、白い虫籠窓が映える和風
の建物が見えてくる。明治期に建てられた「旧福岡醤油」(地上2階地
下1階建)で、戦災で焼失を免れた数少ない建物の一つだ。
廃業後暫く放置されたままであったが、近年「福岡醤油ギャラリー」に
生まれ変わっている。



 その先で旭川に架かる橋を渡ると、正面に「岡山後楽園」の森が見え
てくる。後楽園が築園された当初は、ここには藩士が御用で利用するだ
けの簡単な仮橋が架けられていた。
 元々藩主は、園を利用する場合、お城から旭川を舟で渡っていたので、
立派な橋は必要が無かったのだ。園には御舟入(おふないり)の遺構が
伝えられていて、近年その全容が発掘調査で明らかにされている。



 その後木橋に架け替えられるが、度々の旭川の水害で流されている。
恒久的な鉄筋コンクリートの橋が架かるのは、昭和5(1930)年の事。
長さ147.6m、幅7.5m、高欄には檜材が使われ、擬宝珠や銅製の行灯
(アンドウ)で飾られた立派なもので有ったそうだ。



 築園当時から後楽園では、めでたいことの象徴としてツルが飼育され
ていた。
そんな園内の様子が、ここから望まれ、鳴き声も聞かれたのであろうか?
新しく架けられた永代橋は、「鶴見橋」と名付けられた。(続)





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天神山の守り神  (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-09 | Weblog


 番町線沿線のその西側一帯は、小高い丘で有る。
嘗て天神社が有り天満山と言ったが、江戸時代には天神山と呼ばれるよ
うになった。
現在、「土光敏夫先生記念苑」や「オリエント美術館」、「県立美術館」
が建つ辺りである。



 天神山は、東から北を回り西側にかけて、円弧状の堀で囲われていた。
これが城の中堀で、この内側には三重の内堀が、外側には外堀が掘られ、
岡山城は五重の堀に囲また堅固な城であった。この堀は明治14(1881)
年に埋め立てられている。
現在「土光敏夫先生 記念苑」と言う公園で、石垣の遺構が残っている。



 公園の南方が天神山の南裾に当たる部分で、「オリエント美術館」の
西隣には、赤い鳥居の建つ「甚九郎稲荷」の小さな祠がある。
祭神は白狐で、今でもこの町内の守り神になっているという。



 由来書きによると『宇喜多家再興の為岡山に潜入した佐久間甚九郎が、
当地を視察中、多数の暴漢に襲われ危機一髪となった。
その時、天が霊光燦然と輝き、白狐の声が轟、暴漢どもその場に平伏さ
せたので甚九郎は危機を脱した』のだそうだ。
白狐は、当地にあった天神社の御本尊であろうと、ここに甚九郎稲荷と
して合祀された。



 その境内に、「亜公園集成閣跡」と刻まれた小さな石碑がある。
明治25(1892)から僅か5年間営業をした「亜公園」の集成閣跡地を
示す物だ。「亜」には、準ずる、二番目との意味がある事から、後楽園
に次ぐ公園の意が込められていた。

 七階建てのシンボルタワー・集成閣を中心に、ビリヤード、射的等の
娯楽施設や物販・飲食店があったが、県内では最古のテーマパークの存
在は余り知られていない。(続)





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