簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

笠寺一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-29 | Weblog


 恐らく正面には、伊勢湾の大海原が広がっていたのであろう。
東海道は鳴海の中心部を出ると、作町で直ぐに北に向けて進路を変える。
嘗ての伊勢湾は深くこの辺りまで入り込んでいて、東海道の行く手を塞
いでいた。ここから先宮宿までは、1里半6町(約6.5㎞)の湾岸に沿っ
た道が北に向け伸びていた。



 後に陸路をとる東海道も、中世の頃は是よりもより海に近い干潟を通っ
ていたらしく、潮位によっては更に短縮したシーョトカット道であった。
今日では、そんな街道のどこからも伊勢湾の海を見ることは出来ない。
すっかり住宅等で埋まり、海までは直線距離でも数キロも離れている。



 北に向けて進んできた東海道は、松ヶ根台に突き当たる三王山辺りで、
西寄りに進路を変え天白川に架かる天白橋を越える。
嘗ては田畠橋と呼ばれる廿七間の板橋が掛けられていたという。
橋の上からは星崎城が見えたと言う。城は今日の笠寺小学校辺りにあった。



 赤坪の郵便局を過ぎ300mほど行ったY字路に、大木が見えてくる。
盛土の上に植えられたエノキは、樹高約7.5m、幹周り約3mと言われ
るまでに成長し、四方に力強く枝を張り巡らせている。
地表に現われた太い根が、塚を鷲掴みする姿に、強い生命力が感じられ
るものの、寄る年波には勝てないのか、数本の補助支柱で支えられてい
るのが何とも微笑ましい。



 江戸から数えて88里目に当たる「笠寺の一里塚」である。
大正時代には、道の西側にもムクノキが植えられた塚が残っていたらし
いが、消滅したという。
市内には一里塚が12カ所有ったが、現存するのは唯一ここだけに成った。(続)





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文人墨客が愛した鳴海潟 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-27 | Weblog
 「此所、古は海近く鳴海潟を見渡して往来して、塩の満ちる時は右の
方上野という野を行き通いけるとぞ。浜辺を宵月の浜、又は呼続の浜と
も言う。夜寒里、星崎、松風の里、皆並びて浦伝いなる、」
(東海木曽両道道中懐宝図鑑)



 中世の頃の鳴海一帯は、これより更に北まで深く伊勢湾が入り込み、
海に面した湊町として開け、鳴海も宮も潮待ちの宿と呼ばれていた。
又古くから数々の歌にも歌われた、風光明媚な鳴海潟が知られていた。



 昔から伊勢湾は、潮の干満の差が大きい事が知られていて、干潮時に
はそこに広大な干潟が形成される。
中世の東海道は、潮の干満を見定めて人も馬も干潟を渡っていたようだ。
干潟を歩くには、干満の時刻を知る必要があり、旅人は鳴海や宮の宿で
情報を得て潮待ちなどをしていたようだ。



 その頃はまだまだ庶民の多くが行き来をする時代でも無く、旅人の多く
は公用の武官か、風流を求める文人墨客などで有ろう。
浜千鳥の群れ飛ぶ姿、塩焼きの釜で働く浜子の様子を眺めながら、潮風を
受け優雅に酒を酌み交わし、詩を読み、気長に潮の引くのを待っていた。



 鳴海宿の西の入口、丹下町にも立派な常夜灯が残されている。
寛政4(1792)年の設置と言うから、東入口の物より14年ほど早く建て
られている。
こちらも秋葉大権現に安全と火災厄除を祈願した物だが、東入口にはな
い伝馬の馬方衆の安全を祈願しているところが面白い。



 この辺りの右手、住宅地の奥に見えるのが乙子山らしい。
ここには当地の氏神様が鎮座している。
日本武尊を祭神とする成海神社である。(続)





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鳴海宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-24 | Weblog
 有松と共に、「絞り」で知られた鳴海宿の東の入口が平部町である。
その角に、立派な常夜灯が残されている。
文化3(1806)年に設置され、旅人や宿内の安全、火災厄除けなどを
秋葉神社に祈願したものだ。



 鳴海町は昭和38(1963)年、名古屋市との合併で緑区鳴海町となり、
町役場は緑区役所となった。そこには問屋場が有ったと言うが、今は無
骨な役所があるだけで痕跡は何も無い。



 宿場は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、戸数は847軒という。
人口も3,600人余りと伝えられているので小さな宿場ではなかったようだ。
町並の長さも、凡そ半里に及ぶほどの宿場であった。
当時は何所の宿場もそうであったように、人口比で見るとこの宿場も女性
の方が多かった。



 名鉄鳴海駅に至る道路の角の本町に、松尾芭蕉ゆかりの誓願寺が有り、
この辺りに本陣を務めた家があるらしいが、どこだか良く分からない。
 名物利休まんじゅうで知られる安政4(1857)年創業の菓子処・菊屋茂
富のある角に、当時を窺い知る曲尺手(だと思う)が残されている。



 しかし残念ながらその他には、当時を知る伝統的な建造物は何も残さ
れてはいず、見るべき物が何も無い。通りには連子格子の建物も二三見
かけるものの、時代的には新しい物のようで、どこにでもあるごく普通
の町並だ。ここに旧街道の面影を求めるのは無理なようだ。



 街道は作町の辺りで大きく右に回る。
この辺りの右手奥に、信長により廃城の憂き目を見た鳴海城の跡があり、
この町も嘗ては城下町であったようだ。
東海道は尾張国最後の宿・宮(熱田)迄は一里半六町(凡そ6.5㎞)だ。(続)



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鎌研一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-22 | Weblog
 池鯉鮒と東海道40番目の宿場・鳴海の宿間は二里半十二町(11.1㎞)
だが、間の宿の有松まで来れば残りは一里弱(およそ3㎞)と近くなる。
元々が山間の僻地で、藩の振興策により開かれた町並の賑わいは、絞り
を商う十余軒が中心で、土産を買い求める客も多かったと言う。



 箱根東坂の中頃にある畑宿も間の宿とされた町で、ここには名産の寄
せ木細工がある。
行き交う旅人に土産を売る状況は、有松の絞り染めと同様である。
しかし畑宿にはもう一つの顔があり、江戸を控えて不審者が入り込まな
いように、監視の役割が課されていたらしい。



 徳川御三家の尾張名古屋の城下町も近い有松の役割はどうだったのか。
尾張藩との繋がりの強い土地柄だけに、もしやと思ってみたりもする。
興味深いところだが、そこの所は良く分からない。



 町を抜け暫くすると名古屋高速第二環状道路の高架を潜る。
その下で、名鉄名古屋本線の線路を越えると鎌研である。
曰く有りげな地名に興味が湧くが、知りたくても近くには何の説明表示
も無いのが残念だ。手越川に架かる鎌研橋を渡る。
丁度この辺りが、間の宿・有松の西の入口に当たる場所である。



 嘗てはここに江戸から数えて82番目の「鎌研一里塚」があったとされ
ているが、大正時代に払い下げられ民有地となり消滅したという。
近年「有松一里塚」として復元されたらしいが見落としてしまった。



 鎌研橋辺りと目星を付けていたが、どうやら高架の手前に真新しい小
さな塚が旧道を挟んで二基築かれ、若木が植えられていたようだ。
足も痛く、先を急ぐ余り、全く気付かず通り過ぎてしまった。(続)



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絞り商の屋敷 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-20 | Weblog
 有松は天明の大火で、悉く茅葺きの町屋を焼失する災難に見舞われた。
その後藩の援助を受けた復興に際して、建物は火災に強い防火を考慮し
た建物に建て替えられた。
 
 屋根は桟瓦葺きとし、壁は漆喰等を塗り込んだ塗籠造りに改め、隣屋
と接する屋根には延焼防止の卯建を設けて町の再建を果たす事になる。





 その代表的な建築物が、県指定文化財の服部邸(井桁屋)で、母屋の
二階は黒漆喰の塗り籠め造りで虫籠窓をはめ、屋根には瓦葺きの立派な
卯建を上げている。
 隣接する蔵は土蔵造りで、白漆喰の塗り籠め、腰回りは海鼠壁である。
江戸時代末期から明治元年までに建てられたものらしく、当時の姿を留
める有松を代表する建物群だという。





 岡家住宅は、名古屋市指定の有形文化財である。
一階は連子格子と海鼠壁、二階は虫籠窓の塗り籠め造りの建物で、江戸
時代末期に建てられたものらしい。重厚で特徴的な建物は、有松の絞り
問屋の建築形態を良く残していると言われている。

 他にも小塚家、竹田家、中濱家などの住宅や蔵が有り、黒を基調とし
た重厚な作りは見応え充分だ。それらの建物は江戸から、明治を経て、
昭和の時代に到る間に二階の高さが段々に高くなるのが特徴という。

 有松の絞り商は、東海道を旅する旅人に、店頭販売を行うため主屋を
街道に面して建て、広い間口を解放して店舗とした。その主屋は木造二
階建て、切妻桟瓦葺で、平入りを基本とした。
是が統一感のある町並となっている。





 通りには白い土蔵造りの「有松山車会館」がある。
毎年10月に行われる「有松天満社秋季大祭」で引かれる、からくり人形
を乗せた豪華な山車が一台ずつ展示されている。(続)

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有松絞り (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-17 | Weblog
 間の宿・有町は、400年近い伝統の「有松絞り」で知られる町だ。
絞りとは木綿を糸で括って、多くは藍で染め、その括り方により様々な
模様を描く技法である。



 全国一の「絞り染め」の産地とされ、昭和50(1975)年には、国の
伝統的工芸品に指定されている。また令和元年には、「江戸時代の情
緒に触れる絞りの産地~藍染が風に揺れる町 有松~」として、文化
庁より「日本遺産」に認定されている。



 東海道の通り道とは言え、元々この辺りは人家も乏しく耕地の少ない
地で、尾張藩は治安の維持も有り、諸役を免除する条件でこの地への移
住を奨励し、産業の開発を進めたと言う。

 しかし移り住んだものの、開発の乏しい地では、農業だけでは生きて
は行けず、副業として工夫されたのが、この絞り染めであった。
ヒントは、名古屋城築城の折、手伝い普請の豊後の人たちの着衣を見て、
と伝えられている。



 藩は保護のため他所での製造を禁じ、問屋の戸数を限定し、営業の独
占権を与える等の庇護をした。こうして伝統の技術で作られる商品は大
層な人気を呼び、町は栄え、商人は財をなし「田舎に京の有松」と謳わ
れるほどの繁栄を見ることになる。



 絞りの歴史や技術等は、町並の中にある「有松鳴海絞り会館」で知る
ことが出来る。実物の展示やビデオの上映が有り、二人の職人の「くく
り絞り」の実演などが行われ、わかりやすく解説している。
体験教室開催や、伝統の逸品から各種雑貨まで展示即売も行われている。



 また当地では毎年6月第一土・日曜日に、「有松絞り祭」が開催される。
有松の旧東海道一円を会場として、コロナ禍で中止が続いていたが、今年
は2年振りに開催されたようだ。38回目という。(続)



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間の宿・有松 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-15 | Weblog
 間の宿とは、宿場間の距離が長い場合や、峠越え、川越えなど難所に
臨む地などに便宜上設けられた休憩の場である。
従って宿とは言え、この地で宿泊は許されてはいなかった。
知立から鳴海の間が2里半12丁(およそ11㎞)もあり、有松に間の宿が
開かれた。



 桶狭間の合戦の折、信長が軍勢を整えたとされる大将ケ根(たいしょ
うがね)の交差点で国道を離れ、旧道に入り込む。
藍染川に架かる松の根橋を渡ると、落ち着いた平入りの町並が現われる。
名鉄有松駅の南を抜ける旧東海道筋は、駅を中心に東西800m程の間の電
柱が地中化され、車も一方通行に規制された通りと成っている。



 「鳴海より一里ばかり東にあり。細き木綿を風流に絞りて、紅藍に染
めて商うなり。この市店十余軒あり。」言われた有松村は、次の鳴海村
と共に、「絞り」が知られた土地柄だ。
安藤広重の東海道五十三次では、「鳴海 名物有松絞」の画として、宿
場町・鳴海ではなく、間の宿・有松が描かれている。



 街道には有松絞りの店が二軒並び、店先には絞り染めの布地が飾られ、
駕籠や馬で街道を行き交う旅人が描かれている。
旅の女性が笠を持ち上げ、欲しげに眺める様子が印象的な画である。



 今でこそ高級品のイメージが定着しているが、江戸時代には手ぬぐい
や浴衣に加工され、東海道を旅する人々の土産として人気を博していた。
十返舎一九の描く、あの弥次さん北さんも、擦った揉んだの挙げ句、二
尺五寸の手ぬぐいを買い求めている。



 有松の絞り商の栄華の歴史は、街道沿いに建つ今日に残された商家群
を見ると良く解る。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された町並
には卯建の上がる重厚な日本家屋が連なり、見応な家並みが続いている。(続)





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古戦場の亡霊 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-13 | Weblog


 田楽狭間で勝利の宴を開いた今川義元は、豪雨の中信長の急襲を受け、
敢えなく敗退し首を掻かれてしまう。
義元の首級は信長に届けられ、首実検されるも、後に駿河に返された。

 一方首のない胴体は、今川の家来により駿河に連れて帰える事にる。
しかし時期的にも想像以上に腐敗が早く、仕方なく途中、今の豊川市辺
りで葬られたという。



 その後、この古戦場の周辺には、夜な夜な白い衣を着た兵士の亡霊が、
辺りを走り回るとの噂が立つ様になる。
そこで嘉永6(1853)年に尾張藩士が塚を築き、地蔵尊を建立し手厚い法
要を催すと、霊は収まり現れなくなったと言う。



 「桶狭間古戦場伝説地」には、「義元の墓」と言われる石塔が有る。
明治に入って直ぐの頃、地元の篤志家が墓として建てたものらしい。
しかし、ここに義元の遺体は埋葬されてはいない。
「義元の墓」には遺体の代わりに、古戦場を走り回っていた、行き場の
ない霊が祭られているのである。



 史跡公園とは道路を隔てた反対側に、桶狭間合戦の戦没者供養と当地
での布教のため、高野山から移転した高徳院というお寺がある。

 この桶狭間の一帯では、近年になっても道路や建築の工事などで地面
を掘り起こすと、地下から鎧や刀などが出土する。
土地の人々は、こうしたものを高徳院に持ち込んでくると言い、寺では
手厚く供養しているのだそうだ。



 この戦では、今川軍には2500人、織田軍には830人程の戦死者が出た
とされている。
当地では古くから戦死者の霊の弔いが行われていて、文化6(1806)年
には、「桶狭間弔古碑」が建立されている。(続)





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桶狭間の合戦 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-10 | Weblog


 時は戦乱の時代で有る。
全国の大名達は国の統一を目指し、しのぎを削っていた。
勢力を得て常に近隣地へ侵攻し、領土を拡大し、やがては天下国家の支
配をと虎視眈々と狙い野望をメラメラと燃やしていた。



 永禄3(1560)年、満を持して上洛を目指す駿河の今川義元は、遠江・
三河の兵、二万五千の大軍を率いて尾張に攻め込んできた。
5月19日朝、五千の兵で沓掛城を出た義元は、大高城に向けて進軍した。

 早朝この知らせを聞いた尾張の織田信長は、僅か六騎で清須城を出る。
途中、熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願を行う頃には、ようやく追いついた
家臣で1000人ほどになっていた。



 尾張方の先方隊300騎は、早くも善照寺砦から出陣し、当日昼頃今川
軍と刃を交えるものの、多勢に無勢で勝負は明らか、今川軍の一方的な
勝利に終わる。
 田楽狭間(ここから南西1キロほど離れた豊明に有る)で勝利を聞い
た義元は、輿から降り松林を本陣として勝利の宴を始めた。



 一方大将ケ根で、人数待ち待機をする信長軍は、ようやく3000人ほど
に膨らんでいた。
折しも西北の空には暗雲が巻起こり、激しい雷雨となる。

 これに乗じて進軍した信長軍は、雨上がりの午後2時、すっかり寛い
で緊張感も緩くなった今川本陣を急襲した。
油断していた今川軍も応戦するが周辺の深田に足を取られ力尽き、逃げ
ることもままならず総崩れ、大将・義元は首を取られてしまう。



 それから幾星霜の後の世の事。
この地に供養の七石表(七本の供養のための石塔)が建てられたのは、
明和8(1771)年の事と言う。

 一号碑には「今川上総介義元戦死所」と刻まれ、義元の戦死した場所を
示し、二号碑は松井宗信、三号碑以下は義元の五人の武将の戦死した場所
とされている。
このことから当地が古戦場である、と言う根拠とされたらしい。(続)



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桶狭間史跡公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-08 | Weblog
 旧東海道は、名鉄「中京競馬場前駅」の手前で国道に合流する。
ガードを抜けて暫く行くと、「桶狭間古戦場 100m」や、「桶狭間古
戦場まつり」の開催を告げる案内板が見えてくる。
この駅が有名な古戦場巡りの最寄り駅にもなっているようだ。



 折角の機会である。
街道を外れるとは言え、これぐらいなら足が痛くても寄れそうなので、
案内板に従いそこを左折し、坂道を100m程上って行く。
すると左手に緑も濃い森が現われ、入口に「史跡桶狭間古戦場跡」の
石碑が建つ史跡公園があった。



 歴史の重要な転換点となった「桶狭間の合戦」が行われたとされる場
所で、「国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地」である。
今川義元はここで織田信長に襲われ、戦死したと伝えら、その弔いが古
くからここでは行われてきた。



 田楽狭間、或は舘狭間とも呼ばれた地である。
しかし古戦場がどこであったかは異説もあって、昔から議論が頻りに行わ
れているらしい。
両軍併せて3万人にも及ぶ軍勢が入り乱れ、彼方此方で刃を交わしたから、
古戦場となると、特定の場所だけとは行かず、ここも故に「古戦場伝説地」
となっている。



 この日公園では「桶狭間古戦場まつり」と言うイベントが開かれていた。
ボランティアスタッフが何人か詰めていて訪れる人々の案内をしている。
それ目当ての歴史ファンなのか、見学の人の姿もチラホラと見受けられる。



 そこでご婦人のスタッフが見せてくれた古い写真には、愛知電気鉄道
の「桶狭間駅」と、昭和16(1941)年に県によって建てられた「古戦場
跡の石碑」が写っていた。
そこは驚くほど何もない荒んだ地で、公園として整備される以前の物ら
しく、石碑だけがポツンと寂しげに立っていた。(続)



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