簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

信貴山西麓の道(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-30 | Weblog
 瓢箪山の商店街を過ぎると、国道170号線には再び車が戻ってくる。
これからはほぼ一本道を歩くことに成り、通りには車も多くなってきた。
ところどころ歩道のない場所も有り、気が抜けない。



 東大阪市の埋蔵文化センターの建物を見ながら街道を進む。
現在この地には、縄手小・中学校が建っているが、縄文時代の「縄手遺跡」
があり、また市内では最古の「木塚古墳」も確認された場所との説明板が
建てられている。



 街道はこれから八尾市に入り、左手に信貴山を眺めながら南進する。
ここら辺りは、植木の産地なのか、道の両側に何軒かの造園業者の畑が
有り、形の良い槙の木や、紅葉、椿など色々な庭木が育てられている。



 信貴山と言えば、何十年か前に一度来たことが有るが、どんなところか覚
えていない。
おそらく近鉄に乗ってきたのであろうが、どうやって訪ねたのかも、ほぼ何も
記憶がないが、不思議に来たと言う事だけは覚えている。



 街道を左に1キロほど離れればケーブルの駅が有る。
これに乗れば行ける筈だから、時間と体力さえ許せば、立ち寄ってみたいと
ころであるが、残念ながらそんな余力も無くそれは叶わない。
車ならちょっと寄り道であっても、歩きとなるとなかなか興味はあっても立ち
寄ることは叶わないのが些か残念でもある。
そんな信貴山口に向かう近鉄の線を潜って先に進む。



 街道は、河内の二宮・恩智神社を見て、柏原市に入って来た。
石神社の所で右に折れ、暫く進むと右手から近付いてくるJRの関西本線や
近鉄の大阪線と交差する。
左手に近鉄の安堂駅を見て、線路を越えれば正面の交差点の先に大和川
が見えて来る。(続)





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瓢箪山の稲荷(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-27 | Weblog
 「東高野街道」は、右に緩やかに曲り、賑やかな町中に入り込んできた。
道路改修記念碑の建つ道路脇に、石造りのひょうたんが幾つも並べられ
ている。
アーケードの有る通りには人通りが多く、活気ある町並みを見せていて、
およそ古街道の雰囲気は感じられない道だ。



 この商店街はれっきとした国道に指定されている通りであるが、不思議な
ことに車は一切走れない。ここは「瓢箪山」と呼ばれるところである。



 この付近に双円墳があり、ひょうたんを埋めたような形に似ている事から、
瓢箪山古墳と呼ばれるようになり、それが地名の由来になっていると言う。





 賑やかなアーケードが続き、途中近鉄の瓢箪山駅を右に見て、線路を超
える。「おいしいですよ」と呼びかけるお姉さんの素敵な笑顔にひかれ、お菓
子屋さんの店先で、柏餅を頂く。
いつもながら、疲れた身体には甘いあんこが何ともうまい。
因みにこの店の一番の売りは、店名の示す通り「千鳥饅頭」だそうだ。



 その先に日本三大稲荷の一つとされる、「瓢箪山稲荷」の一の鳥居が建っ
ている。瓢箪山古墳を背に社殿が祀られていて、辻占内の総本社として知
られたところだ。
秀吉が大阪城築城の折り、その鎮護のため金の瓢を埋めさせたとの由緒が
伝えられている。



 全国の三大稲荷と言えば、伏見、祐徳、豊川は揺るぎのない所と思うの
だが、その土地の信仰心の強さの表れか、我こそはその一角と名乗る稲
荷社が全国には多いものである。ここもそんな一つであろうか。(続)




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石切の町を抜ける(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-25 | Weblog
 あとで写真を見ると、丁度国道に合流した所に横断歩道が写っていた。
正しくはそこを渡らなければならず、ここに入ればその先は一本道である。
手持ちの地図が一本道に見えたのは、国道合流前の小さな左カーブが略
されていたから、曲がった先でそのまま国道の歩道を進んでしまったのだ。



 猛スピードで行き交う車に怯えながら、坂の途中の階段を下り、住宅街に
入り込み、やっとの思いで善根寺辺りの国道170号線に合流した。
ここら辺りでは、新道と旧道がほぼ重なりあっている。



 疲れ果て、見つけた喫茶店で休憩がてら昼食をとることにする。
店主一人の店で、調理に手間取ったお蔭で、焦る気持ちが抑えられ、ゆっ
くり休養を取ることが出来たのは先のことを考えれば幸いで有った。



 石切中学校の所で国道を離れ、左の旧道に入ると道は、ほぼ新道と並行
して延びていた。
途中「ようおまいり石切さん」と書かれた横断幕を見かけた。



 関西では結構有名で、できものの神様として信仰を集める、「石切神社」
の西参道と書かれている。
調べてみると、表参道は近鉄奈良線の石切駅から延びていて、そこからは
歩いて10分ほどだそうだ。
この参道が結構面白くて、人気があるのだとか・・・。



 その先で第二阪奈道路を超え暫く歩くと、左に「牧岡神社」の一の鳥居が
建っていて、松の馬場と呼ばれる参道が延びている。
ここは河内の国の一宮だ。
傍らには東大阪市内では一番古いとされる燈籠が風格を見せ佇んでいる。



 時間と余分に、歩く体力・気力さえあれば、立ち寄ってみたいスポットの
一つである。東高野街道の沿道には、こんなところがいくつもある。(続)




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懲りない珍道中(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-23 | Weblog


 何度繰り返しても、懲りない二人の珍道中である。
「野崎観音」の前から、弘法大師伝説のある「メノコ橋」の欄干石を見て、
寺川に出てきた。ここでまた、とんでもない間違いを犯してしまった。





 「メノコ橋」と言うのは、空海が修行時代この地を訪れ、周囲の山中での
修行で10日間ほど滞在したことが有った。
その夜の寝床としてこの橋の欄干を枕として休んだと言う言い伝えの場所
で、ネドコがネノコ橋に転化、更に訛ってメノコ橋といつの頃からか呼ばれ
るようになった。



 ここを過ぎると旧道は、左に曲がりながらその先で、国道170号線に鋭角
的に接するように合流する。
この地形さえ頭に入れておけば、とんでもない間違いを起こすことも無かっ
たのに・・・と今更ながらに悔やまれてしょうがない。



 手元の大雑把の地図が示す行き先は、太線で書かれていて、道なりにま
っすぐ進むように見えたので、そのまま国道の歩道を何の疑いも無く歩み
始めていた。
やがて国道は右にカーブしながらかなりの勾配で登り始め、道沿いに民家
が無くなると歩道も尽きてきた。気が付けば車の流れは一方通行である。



 何か変だ。訝りながら左前方に目をやると、遥か高い山の上を車が走っ
ている。道はどうやら九十九折の登り道であるらしい。

 ここにきて初めて間違いに気づき引き返すのだが、その途中で行き違っ
た地元と思しき男性に問うと、「山越えで、奈良に行く道」とのことだ。
何をやっているのだろう。とんでもない道を、30分も登ってきてしまった。(続)



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野崎観音(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-20 | Weblog


 「野崎参り~は、屋形船で~参ろ~♪♪」
幼いころ親父が口ずさんでいたこの歌の、このフレーズだけが妙に記憶とし
て残っている。
この先で、確か「お染・久松がどうしたこうした・・・」と出て来る筈であるが、
詳しく覚えてはいず、思い出すことも出来ないが、この冒頭の一説だけは
今でも時々鼻歌のように口から飛び出してくる。



 四条畷から大東の町に入って来た。
狭い道幅の両側には、住宅が庇を触れ合うように建っている。
ここからは車の喧騒からも離れ、何と無く旧街道の雰囲気が感じられる道
を行くことになる。



 分岐から、500メートル程入り込んだところに「野崎まいり公園」が有った。
野崎参りで知られた「野崎観音」への入り口近くに建つ公園は、和風建築
公園と書かれていてこの日は休園日とかで木製の扉が固く閉ざされていた。



 その先に野崎観音・慈眼禅寺に向かう参道の石段が、山の木々の中に
延びている。
行ってみたい気持ちはあるが、生駒山地の中腹にある寺まで歩き疲れた身
体を運び上げる気力も無く、石柱に軽く頭を垂れ、先を急ぐのである。



 かつてこの生駒山地の西麓一帯は、寝屋川やその支流の谷田川に繋が
る大きな沼池(深野池など)の多い湿潤な地で有ったので、高野街道はそ
んな緩い地を避け、山裾近くを南北に貫いていたと言う。
「野崎観音」は、その東高野街道の道筋にある。



 その昔、五月初頭の「野崎参り」の頃になると、大阪・天満橋から川を伝
い深野池まで、参拝客向けに屋形船が運行されていたらしい。
冒頭のフレーズはそんな情景を唄った「野崎小唄」の一節だ。(続)




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楠公の地(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-18 | Weblog
 四条畷歴史民俗資料館を後に、少し歩くとその先で国道170号線に行き
当たる。
このあたりが、南北朝時代の四条畷の戦いの旧跡らしく、和田賢秀公の墓
所との説明が有るが、時代背景や賢秀公のことは良く知らない。



この時代の歴史に疎いとは言え、この地に来て楠と言えば、やはり四条畷
の楠正成や楠正行のことぐらいは思い出す。



 正成は建武の新政の立役者として知られる武将で、鎌倉時代には悪党と
か非御家人と呼ばれるが、江戸時代には忠臣、明治になると「大楠公」と呼
ばれた人物である。
その嫡男の正行は「小楠公」とも呼ばれていて、それの所縁の地でもある四
条畷には、そのものズバリの「楠公(なんこう)」と言う地名が残されている。



丁度この辺りの新道(国道170号線)は、もともとの「東高野街道」の古道と
重なる道で、車の往来の多い賑やかな通りである。
そんな通りを少し歩くと四条畷神社がある。



 南北朝時代、南朝の将として四条畷の戦いで敗死した楠正行を主祭神と
し、その楠一族も配祀する神社である。
その街道沿いに面して、参道へと通じる一の鳥居が建っている。
飯盛山の西麓に建つ神社の拝殿までは600メートル程、真っ直ぐに広い参
道が延びている。



 北条交番前を過ぎ、真新しい山門の前に「小楠公並一族菩提寺」と書か
れた石碑の建つ十念寺の前をやりすごし、ここで国道170号線を離れ、左
の旧道へと向かうと、道は四条畷市から大東市に入っていく。(続)






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四条畷(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-16 | Weblog


 忍ケ丘の駅を超え、曲がりくねつた旧道を進むと、この辺りが旧正法寺
跡と言われるところだ。
説明板によると旧正法寺は白鳳時代から江戸初期の頃までこの地に有っ
た寺院らしく、発掘された遺物などから、東西に二つの塔を持つ、薬師寺
式の伽藍配置を誇る大寺と推定されている。



 白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたのが、この正法寺であったと
伝えられているとか。東高野街道と清滝街道の通るこの四条畷は、原始時
代の遺跡や貝塚なども残され、このほかにも古寺・古社の多い北河内でも
特異な地域で有ったらしい。



 ところでこの四条畷の「畷」は、難読漢字の一つで有ると同時に、正確に
書くには中々難しい字でもある。
この字は「道」と言う意味を持っているらしいから、古代農地を区画整理した
条里制の「四条にある道」とでもなるのか、なかなか面白い、興味深い地名
でも有る。



 中野で国道163号を潜る。
その先は住宅地の中の道となり、右手からJR片町線が近付いてくると、
そこに四条畷市の歴史民俗資料館が有った。
入口付近に大きな楠が植えられ、傍らに「この道は京都の東寺より高野山
に至る街道であり・・」と書かれた石柱が建てられている。



 一般に「東高野街道」は京都府の八幡市が起点とされているが、この道
はお大師信仰の聖地への道であることから、起点をお大師に馴染みのあ
る東寺とし、「鳥羽街道」からここに至る一本の巡礼道として考えられてい
るようだ。(続)






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ねやがわ文化と歴史の道(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-13 | Weblog
 寝屋川の町に入ってくると、町中にはお伽草子「鉢かづき姫」をモチーフ
にしたサインが有り、「ねやがわ 文化と歴史の道」として街道の道標と、
謂れの説明がされている。



 枚方の町中では見落としていたのかもしれないが、ほとんど道標を見る
事も無く、散々に迷ってきただけにこれらのサインには本当に助けられる。



 掘割の底を走るJR線を東寝屋川駅の近くで越え、突当りを左に折れると
旧道に入ってくる。
少し進むと小学校の前に一寸した緑の塊、小さな森のような少し異様な雰
囲気のする場所が有る。



 樹木が生い茂り、草の伸びた地に、大石で組み立てた祠のようなものが
有り、中に仏像が二体祀られている。
その周りには巨大な石が幾つも無造作に転がっている。
祠の中の仏像は、お地蔵さんかと思ったが、弘法大師像だと言う。
古くからこの地にもお大師信仰が有ったらしい。



 大石は古墳に使われていた石と言う。
今に残る地名から、この付近には元々古墳が多く存在していたと推測され
るらしいが、多くは耕地などに変り消滅してしまい、大石だけが集められ残
された名残なのだそうだ。



 さらに進むと、趣の違う燈籠が二基並んで立つ場所が有る。
大きな燈籠は花崗岩製で、正面には「二月堂」、側面には天保14年の年号
が刻まれている。
奈良東大寺二月堂の、お水取りに関連する施設らしいが、詳しいことは
解っていないと言う。
もう一基は江戸時代中頃のもので、近くの八幡宮に寄進されたものだ。(続)





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打上の弘法井戸(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-11 | Weblog
 梅が枝の新天野川橋を渡り、その先で左の堤防道を歩き、国道168号に
出るまでは良かったが、国道を渡り、右に入る道を一本早く入ってしまった
ものだから、これがとんでもなく遠回りの道になってしまった。



 早く戻そうと、道々「東高野街道は・・・」と聞いてみるが、知らない人が多
く一向に埒が明かない。
元々手にしている地図が大雑把なものであるから、見せても現在位置すら
良く解らない。住宅街に迷い込んでしまったので始末が悪い。



 どうにか目印のJR片町線の星田駅に辿り着いたのは、予定より30分余り
も遅れてのことであった。犬を散歩中のご婦人が導いてくれた。



 駅近くの住宅前で、植木の手入れをしている年配のご主人に聞くと、さす
が「これが高野街道、道なりに行けば良い」と教えてくれる。
やっとここまで来て街道に戻ることが出来た。



 何となく旧道らしい風情のある細道である。
然しこんな行き違いの出来ない細い道でも、前から後ろからと車が突き進
んでくるので引っかけられそうで危なくって仕様がない。
こうして歩いていると、便利とは言え自己中な、車社会を考えさせられる。



 打上で途中脇道に入ると、うっかりしていると見過ごしてしまいそうなとこ
ろに「弘法井戸」が有った。
お伽草子「鉢かづき姫」をモチーフにしたサインが有り、それによると、昔か
ら土地の人々が使う井戸で、「弘法観念水」と刻んだ石柱がありいくら日照
りが続いても枯れることが無いと書かれている。



 それは、街道を行きかう人々の喉を潤し続けたことと、お大師様への感謝
の気持ちが現れたものだと伝えている。(続)




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四国の道標(四国遍路の旅・高野山編)

2015-11-09 | Weblog
 前方にコンビニが見えてきた。
雨も止んできたので、そろそろ休憩しがてら、雨具を脱ごうと考えていた。
道路を隔てた反対側には、目印にしていた公園も見えている。



 しかし、どうも違う。
公園入口の門柱に書かれている表示名が、どう見ても三文字に見える。
目標にして来た公園は二文字の筈だ。



 コンビニの店員に手持ちの地図を見せ、現在地を確認すると、見にくいの
か何度も向きを変えながら頭をひねり、やがて「ここです、ここです」と嬉し
そうに、地図の端の方を指さした。

 「えっ! うっそぉー」
その場所を覗きこんで愕然としてしまった。
今の今まで、どこを歩いてきたのだろう?まるで違うところだ。
こちらは少しも嬉しくないのである。



 枚方ハイツを下り2車線の車道に突き当たり、右に取ったまでは良かった
のだが、その先ですぐに道路を渡り、細い住宅街の道に入らなければなら
なかったのを、そのまま直進していたのだ。

 結局2キロほどの遠回りをして枚方企業団地前で国道1号線に戻り、出屋
敷北で左の旧道に入るとモーテルの立ち並ぶ道となり、その先に山田池公
園が見えて来た。



 長ケ嶽橋を渡り左折、出屋敷の古い集落を抜け、枚方市の運動公園を右
に見て、出鼻橋で左の旧道に入り進むと京阪交野線の郡津駅だ。



 それにしても四国の遍路道の凄さが、改めて思い知らされることとなった。
そこには、古くからの丁石や石柱の道路標識だけではなく、新しい道標やシ
ールが充実していて、それに従えば初めてでもほとんど間違えることはない。



 しかし、ここ「東高野街道」では、枚方市に入ると道標らしきものを目にす
ることは殆どなくなってしまった。(続)




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