簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

国清寺駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-29 | Weblog
 市内中心部への乗り入れが出来ず、旭川の船運に料金でも見劣りのし
た三蟠鉄道は、昭和6(1931)年6月、僅か16年弱の短命で廃線に追い
込まれてしまい、この突然の廃線は余りにもあっけなかった。
その為か、今日では「幻の鉄道」等と呼ばれている。



 鉄道会社は、都市計画道路として鉄道用地を売却し、鉄道が廃止され
ると直ちに、三蟠自動車(株)を設立し、市中心部の内山下と三蟠の間で
バスの定期運行を始めることになる。
この会社は後に岡山バスとの合併を経て、今日の両備バスに合併吸収さ
れている。



 鉄道時代、国清寺駅には駅舎が建ち、鉄道会社の本社があった。
行き止まりの駅の前には東西に流れる通りが有り、道を隔てた西方には、
臨済宗妙心寺派の禅寺・萬歳山国清寺の甍が聳えていた。



 駅前の通りの西側には、路面電車旭東線の門田屋敷駅が有り、寺域の
北側の国道2号線となった旧山陽道の通りには、中納言停留所も有った。
何れも200mと行かない距離である。
 現在では駅前の通りは、寺域などを削り拡幅され国道250号線となり、
通りの東側には永代橋・「新京橋」も架けられている。



 当時の駅舎は、国道に面した歯科医院と、その南側の市立旭東小学校、
東側の南に向かう道路に跨る辺りに有ったと言われている。

 因みにこの小学校の歴史は古く、明治5(1872)年に、第五学問所と
して設立されている。
したがって鉄道の開業以前から、ここに学び舎を構えている事になる。



 今日この辺りのどこにも、嘗ての鉄道の痕跡は残されていない。
小学校の東を南に向かう一車線の狭い通りが廃線跡と思われる。
その道も150mほど先で民家に塞がれ途絶えている。その敷地を抜け、
緩く東に向きながら、都市計画道路旭東線に向かっていたようだ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

客離れが進む三蟠鉄道(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-27 | Weblog


 大正4(1915)年8月、三蟠と桜橋間で開通した三蟠鉄道の経営は順調で、
乗客は年間10万人超となるなど、生活の足として重宝される事になる。
 開通から8年の後には、途中の湊駅から桜橋駅までの間に分岐を設け、
旭川に架かる小橋東詰の国清寺門前まで延伸開業し、念願の路面電車・
中納言駅との接続を果たす。



 開通時は濱中、宮道、上屋敷、平井、湊の各駅が有り、その先が終点
の桜橋であった。後に国清寺まで延伸され、湊と桜橋間は廃止となる。

 大正12(1923)年2月、終点と湊の間の網濱に駅が出来、これにより
港と中心部近くに到る路線距離7.25kmの全線が開通した。
当時は1日11往復(12往復と書かれた書物も有る)の運転であった。



 明治24(1891)に、三石と岡山間で山陽鉄道が営業を始める。
明治37(1904)年には、中国鉄道の津山線が、岡山市駅から400m程延
伸され、国鉄岡山駅に乗り入れることになる。
更にこれらの鉄道が国有化され、明治末には宇野線も開通する。

 こうして鉄道網が充実・発展するにつれ、町の賑わいは旧城下町の京
橋から、徐々に新興の国鉄岡山駅前に移る事になる。



 国清寺で路面電車と接続するとは言え、中心地まで直通出来ない事は
乗換える利用者には何かと不便である。
このため、当初順調に伸びた客足も次第に鈍化の兆しが見える始めた。
 加えてこの頃旭川では、大規模な浚渫作業が行なわれ、この事が想わ
ぬ影響を鉄道に与えることになる。



 市内の開発が進み発展が続くと、コンクリート需要が高まり、大量の
砂石が必要と成り、旭川では採取の浚渫が行なわれることになる。
これまで大量の土砂の流入で泣かされていた旭川は、これにより水深が
再び戻り、舟運は想わぬ恩恵を受けることになった。



 水深が戻り、三蟠港から京橋港まで巡航船の運航が可能となったのだ。
これにより人々のニーズは、鉄道より料金の安い巡航船に移って行った。
更に追い打ちを掛けるように、都市計画道路と鉄道敷が被る事が判明する。

(写真:旭川界隈)(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絡み合う交通機関(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-25 | Weblog
 文禄年間宇喜多秀家は山陽道を城下に通し、初めて旭川に橋を架けた。
それが京橋で、当初は板橋であった。
街道がこの城下経由に変更されると、川湊も有る京橋周辺は商いの中心
となり、水陸交通の要衝として栄える事になる。



 その後京橋は、何度も架け替えが行なわれている。
明治に入り旧街道は官道(国道)2号線と成り、人車の通行の多い幹線
道路となった。大正時代に入ると板橋は、ようやく鉄筋コンクリート製
の永代橋に架け替えられることになる。



 しかし時代と共に車が増え橋と道は交通のボトルネックとなって行く。
対策として橋が拡幅・補強されたのは、三蟠鉄道が延伸開業したのと同
じ年である。

 橋が強固となると路面電車の通行も可能になり、岡山電気軌道内山下
線が延伸され、西大寺町~東山の旭東線の営業運転も始まった。



 当初三蟠港から桜橋間で開業していた三蟠鉄道が、国清寺迄延伸させ
たのは、この旭東線や、京橋湊での船との接続を考えての事である。

 又これより少し前の時代には、西大寺軽便鉄道もこの京橋周辺地域へ
の乗り入れを考えていた。



 明治44(1911)年12月に、(西大寺)観音と長岡(後の東岡山)の間
で開業した西大寺鉄道は、翌年森下まで延伸開業した。
森下は江戸時代には岡山城下の東入口に当り、惣門が聳えていた場所だ。
 
 同鉄道は、この地盤の固められた旧山陽道をそのまま利用して鉄路を延
伸し、旭東地区で接続を目指したが資金難で断念し免許を取り下げている。



 最終的には森下から急カーブで進路を変え、現在の夢二郷土美術館の
有る辺りに後楽園駅を設け終着駅としたのは大正4(1915)年の事だ。

 その後大正10(1921)年には岡山電気軌道の路面電車番町線が開業し、
鶴見橋を渡った先に後楽園前停留所が設けられた。
京橋での接続は叶わなかったが、西大寺鉄道はこれにより念願の市内で
の接続を果たす事となった。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽便鉄道の開通(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-22 | Weblog
 江戸期の干拓地に造られた三蟠港は、四国連絡などの要港として繁栄
していたが、宇野港(玉野市)が開港し、宇高連絡船が運航を始めると
その機能が低下、港は衰退する。
そこで地番沈下を防ぎ、港周辺の活性化の為鉄道インフラが検討された。



 国が軽便鉄道敷設法を制定した当時は、全国で軽便鉄道の開設がブー
ムとなっていた。そうした背景が有り、当地にも大正3(1914)年2月
「三蟠鉄道株式会社」が設立された。

 三蟠港から岡山中心部に近い桜橋(さくらばし)の間に線路を敷設、
旅客や貨物を運ぶ混合列車を走らせる、これが「三蟠軽便鉄道」の開
業で、大正4(1915)年8月のことであった。



 旭川右岸の浜野には、明治40(1907)年に岡山製紙が立地した。
当時、桜橋駅近くには、岡山瓦斯会社や鐘淵紡績岡山工場もあった。
又京橋上流の津島には、陸軍第17師団が造営された。



 鉄道はこうした施設や工場に向けて、日用品や原材料、石炭等を輸送
する目論見である。
また干拓で拓かれた新田は穀倉地帯で、生産物を運ぶ役割も狙っていた。
旭川の水深の影響を受ける船運のみでは不安定で、代替え輸送を陸運で、
との思惑を見据えての開業である。



 因みに鐘紡岡山工場は、明治14(1881)年7月に県最初の岡山紡績所
として開業した。昭和初期頃までは綿糸生産工場で、それ以後は麻毛生
産に切り替えている。工場の閉鎖は昭和20(1945)年10月の事で、その
跡地は「岡山市さくら住座住宅」として開発された。



 又岡山瓦斯会社は、明治43年(1910)1月に株式会社として設立され、
今でも大きなガスタンクを構え「岡山ガス株式会社」として同地に存続、
「岡山製紙株式会社」も同様に今も健在だ。
第17師団の跡地は、現在の岡山大学の津島キャンパスになっている。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三蟠港の衰退 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-20 | Weblog


 昭和の時代、岡山市内中心部を流れ下る旭川の右岸近くには、岡山臨
港鉄道が走っていた。国鉄宇野線の大元駅を起点に、南部に出来た岡山
港近くの岡山港駅まで8.1㎞の路線である。名前の通り貨物輸送で収入の
7割を稼ぎ出し、旅客輸送はおまけのような鉄道であった。



 沿線の倉庫や工場には、専用側線が引かれ、物資の輸送に供されてい
たが、時代と共に自動車が普及すると、長大編成の貨車が道路と交差す
る踏切では、慢性的な交通渋滞を引き起こし問題視されるようになる。
 加えて貨物輸送も、小回りのきくトラック輸送への切り替えが急速に
進み、ついには昭和59(1984)年には廃線に追いやられた。



 一方旭川の左岸はと言うと、河口付近には三蟠港が有り、海の交通の
要衝となっていた。江戸末期から昭和40年代頃まで、四国連絡の船便は
この市南部の干拓地に造られた三蟠港から出ていた。
 明治に入ると市内中心部の京橋からは、旭川を下る連絡船も運行され、
三蟠港で船を乗り継ぎ四国へ渡るようになる。



 しかし旭川は元々水深が浅く、特殊な船での運行でも度々欠航が出る
有様で、更に肝心な岡山中心部の港・京橋には古くからの土砂が堆積し
て機能不全に陥っていた。
 加えて明治の末期になると、国鉄宇野線が開通し、更に宇野港が開設
され、ここに四国連絡の宇高連絡船が運行されることになる。



 四国連絡の玄関口としての機能を失った三蟠港の地盤沈下は避けられず、
その打開策として計画されたのが、港と市中心部を結ぶ新たな鉄道の建設
であった。
 こうして大正の頃、旭川の左岸にも一筋の鉄路が敷かれた時代が有った。
大正4(1915)年8月、待望の営業運転を始めた「三蟠軽便鉄道」である。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重要港湾・三蟠港 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-18 | Weblog
 岡山平野の耕地面積の凡そ7割は、干拓により新たに生み出された地
と言われている。江戸時代に岡山藩主・池田綱政の命により、津田永忠
が干拓した沖新田もその一つだ。凡そ12㎞に及ぶ廻り堤を築き、内陸部
を干拓する丁場は、9つに分けて工事が進められた。



 それぞれの工区で競わせ、早期に完工する事を狙ったものと伝えられ
ている。九つの丁場の名残は今も、沖新田周辺の九蟠港や六番川、或は
四番川、三蟠港等、数字の入った名で知ることが出来る。



 その一つ三蟠港は、江戸時代末期に誕生した港である。
岡山城下の京橋港の外港として発達し、ここで船を乗り継いで四国に向
かう連絡船が出ていて、牛窓や下津井と並ぶ主要な港湾と位置付けられ
ていた。
特に宇高連絡線が開通する以前は、ここが高松に渡る主要港でも有った。



 三蟠港当時の波止場は、今は無く巨大な防波堤の下に眠っている。
平成24年に起きた高潮による浸水被害を防ぐための改良工事が行なわれ、
堤防道路が盛土により嵩上げされ、更にそれよりも高く、幅も広げられ
た堤防が築かれ、嘗ての波止場はこの下に埋め込まれてしまった。



 明治天皇は全国御巡幸の最期の地、岡山へは海路での御行啓で有った。
明治18(1885)年の事で、御召艦「横浜丸」により児島沖に到着した。
そこで蒸気船に乗り換えてこの三蟠港に上陸されたと伝えられている。



 堤防下の道路脇には、三蟠港跡と明治天皇御上陸記念碑が建っている。
余談になるが7月20日の「海の日」は、明治天皇が北海道巡幸から「明
治丸」で帰途の折り、横浜港に無事到着された日を記念したものらしい。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旭川の船運(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-15 | Weblog
 京橋の架かる旭川の、嘗ての舟運の航行最上流地は、八束村の上長
田と伝えられている。現在の真庭市で鳥取県境に近い蒜山高原の一角、
標高は400mを超える地だ。
往時は源流域も近い上流まで、高瀬舟による舟運が行われていた。



 水深1丈3尺5寸(凡そ4m)程あった江戸期の旭川は、要所の福島、
牟佐(何れも岡山市内)や福渡(建部町)等には舟番所が置かれ、千石
船も頻りに行き交っていた。
 その旭川の主要な内港が、岡山城下の京橋港で、その下流河口に近い
三蟠港がその外港であった。



 明治30(1897)年には四国の讃岐鉄道が高松と丸亀間で営業を開始、
これを機に三蟠港と高松港を結ぶ海上37㎞の定期航路が開設される。
岡山から瀬戸内海を隔てた高松までは、乗り換え時間を含めても4~6
時間で連絡が可能となった。



 ところが旭川の川底には年々土砂が堆積し、数十石船すら通航に苦し
むようになる。更に明治期になると川床は更に上昇し、水深は江戸期の
半分程度となり、運行に支障をきたし、京橋港が機能不全に陥ることも
しばしば発生するようになる。



 船便運休時には代替交通として人力車を走らせ、臨時の乗船場を設け、
浅吃水汽船を採用するなど様々な対策が講じられたが、これで全ての問
題が解決される事は無かった。
四国連絡の重要なルートがこの有様では・・・、とばかりに別ルートが
検討されることになる。



 それが宇野線の開通と宇高連絡船の開設で、明治43(1910)年に運
行が始まった。時間も3時間余りに短縮され、利便性が格段に向上する
こととなる。
こうなると、京橋~三播~高松ルートの存続意義は無くなってしまう。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺と街道 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-13 | Weblog
 西国街道沿いに立地する國清寺は、池田藩の保護もあり、広大な敷
地に壮大な伽藍を構える繁栄を見るが、時代が江戸から明治に変ると、
寺の北側を通る街道は国道2号線となり、やがて寺領を削り国道は拡
幅される事になる。



 更に昭和に入ると大戦が起こり、岡山空襲では、伽藍の悉くを焼失し
てしまう。幸い御本尊の南無釈迦尼佛は奇跡的に焼失を免れたものの、
今日に残った建物は山門と鐘撞堂、大愚堂(座禅堂)位で有った。



 追い打ちをかけるように、戦後の都市計画等で敷地は大幅に縮小を余
儀なくされた。路面電車の走る通りは、国道となったものの、旭川に架
かる小橋、中橋、京橋がボトルネックとなり交通渋滞に悩まされ、新た
な付け替えが検討されることになる。



 東山の東照宮から西に向かう通りを拡幅し新国道とし、旭川にも新橋
をかける計画だ。それにより南側の寺領も大幅に削られ、門前には新国
道2号線の旭川を跨ぐ取り付け道路が通ることになる。
昭和38(1963)年のことで、着工から2年余りで完工した。
片側2車線、両側に歩道付きの新道と新京橋だ。



 今では新京橋に向かう新道が寺の門前を塞ぐように東西に流れ、幹線
道路らしく多くの車が行き交っている。
その後国道は郊外にバイパスが造られ、国道250号線となったが、今もそ
の喧噪は変わらず、交通繁華な地に変わりない。



 中心市街地に有り、周りをビルに囲まれ、狭いながらも今尚寺域を構
える寺の山門を潜ると、禅寺らしく小振りながら手入れの行き届いた庭
が目に入る。木々の濃い緑に覆われた境内は、四季折々の風情が楽しめ、
思いがけないほどの静寂がそこにはおりている。(続)

               (写真:國清寺近くの東中島町の町並)

  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

國清寺 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-11 | Weblog


 萬歳山國清寺(ばんざいさん こくせいじ)は、臨済宗妙心寺派の
禅寺である。 慶長14(1609)年、姫路城主・池田輝政の嫡子である
池田利隆が建立した。
利隆は、後に岡山藩主となる池田光政の父親に当たる人物である。



 当時の岡山藩下には、天台宗や真言宗等の密教系寺院や、日蓮宗の
お寺が多く建立されていて、そんな地に臨済宗を招いたことは注目さ
れたという。
 創建当初は「法源寺」と称していたが、その後「竜峰寺」と改称、
現在の「國清寺」になるのは、寛永9(1632)年の事だ。



 池田光政が、国替えにより姫路から岡山に転じた年である。
祖父輝政の法名「國清寺殿」による改称で輝政と父利隆の菩提寺とした。

 旭川を背にした寺は、東西81間(145.8m)、南北73間(131.4m)の
堀と塀に囲まれ、4,500坪余りの敷地に伽藍を構え、池田家の繁栄と共に
確たる地位を築いてきた。
又城の東の備えとして、重要な位置付けがされていた。



 岡山市発展の礎は、宇喜多直家・秀家父子による城下町造りに負うと
ころが大きい。直家は、沼城から石山(現岡山城の前身地)に城を築き
本拠を移し、その南側に城下町の形成を目指した。

 その後本丸を石山から現在地の岡山に移したのは秀家である。
当時城下の遙か北を通り抜けていた西国街道(山陽道)を、城下を抜け
るよう付け替え、新道には旭川を跨ぐ京橋を架け、町の賑わいに務めた
のである。



 東の入口、森下の惣門を潜り、片上橋を渡り南に向いていた街道は、
今日の吉備団子の老舗が立地する角、小橋町で直角に西に曲がる。
すると左手には、当時偉容を誇っていた國清寺の築地塀が京橋に向け
て延びていた。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿峠 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-09-08 | Weblog
 京・大坂と関東を結ぶ東海道は、様々なルートの変遷を重ねて来た。
とは言え、吉田宿(今日の豊橋)から東は早くからほぼ確定したルート
があり安定していたが、西のルートは時代と共に大きく変化している。



 取り分け尾張や三河国では、信長、秀吉、家康など、時の統治者の出
身地や支配地なども街道のルート決めには大きく影響していた。
しかし、それ以上に大きな要因は、当時の尾張地方の地勢が影響した。



 伊勢湾の海岸線は今よりも可成り深く入り込み随分北寄りであった。 
美濃との境には木曽三川が流れ下っていたが、当時は流れも定まらない
暴れ川である。
 これを如何に越すかも問題で、可成り上流に迂回していたようだ。
或は伊勢国から船便で直接三河国に渡る等の対応がとられている。



 更に難題は、鈴鹿山脈をどう越えるかで或る。
山越えとし鞍掛峠、八風峠、千草峠、鈴鹿峠等の山岳ルートも古くから
確立されている。

 一方厳しい山歩きを避け比較的穏やかな関ヶ原・垂井等を経る美濃廻
りや、柘植から関を経る伊勢廻りのルートも知られていた。 
何れも一長一短が有るが、美濃廻りは冬季豪雪地帯に変貌し、通行不能
に陥ることは免れないという事実があった。



 時が江戸に入ると、幕府は情報の迅速化を図るため伝馬制を発した。
これにより東海道の正式なルートは、鈴鹿峠越えに定められたのである。
他のルートに比べれば、これが早い近道であり、雪で通行不能も少ない
と判断したからだ。



 平坦な道に、東海自然歩道道標が建っている。左方向の矢印の先には、
「片山神社0.4km 坂下1.7km」右方向は「山女原4.1km 安楽越6.6km 
石水渓9.3km」とある。更に「田村神社跡10m・鏡岩150m」と記され、
「高畑山登山口」の表示も見える。


 
 関宿を出て少しずつ高度を稼ぎ、坂下から登り詰めた山道も、最早厳
しさは無く道は平坦になっている。
思ったよりは、苦も無く、ようやくにして鈴鹿峠に到達した。
(東海道歩き旅・伊勢の国 後編 完)

次回から「三蟠鉄道廃線跡を歩く」が始まります。



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする