簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

日永神社と一里塚 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-27 | Weblog


 これといった目算が有ったわけではないが、南日永駅まで乗車した。
歩けば3㎞程の距離、時間にして1時間弱を電車なら10分余りと早い。
流石にここまで楽をしてしまっただけに、再び四日市に戻り、この間を
歩き直す気にはならない。
東海道完歩の夢は潰えたが、好きな電車に乗れたのだから良しとしよう。



 駅の真ん前に日永神社が鎮座している。
天照大御神を御祭神とする神社で、伊勢七福神巡りの道場になっている。

 「右の森に神明、山王、天満宮の社有り・・」と古くから伝わる社で、
南市場神明社とも南神明社とも呼ばれた。
日永神社と称されるのは、明治も後期頃からである。



 境内の正面拝殿の横に古い道標が立っている。
元々はこの先の追分けの伊勢神宮遙拝鳥居の場所に有ったもので、現在
のものが建てられ不要になって明暦2(1656)年に僧侶によってこの場
所に建てられた。

 正面が「大神宮 いせおいわけ」、側面に「京」と「山田」とあり、
裏面には「南無阿弥陀仏 専心」と刻まれているのが珍しという。
東海道に残る道標では、最古のものという。



 その境内を抜けると、目の前を南北に旧東海道が通っている。
朝の通勤ラッシュの時間帯なのか、余り広くもない旧道に車の列が伸び
朱いテールランプが点滅をしている。
それを尻目に民家に沿って、車列の隙間を縫うように更に南に進む。



  すると民家と倉庫の建物の間の幅1mも無いような狭い空間に隠され
るように「史跡 日永の一里塚跡」と書かれた石柱が立っていた。
うっかりすると見過ごしてしまうほど目立たない場所だ。
元は五間四方、高さ2.5間の塚が残されていた。
右に「エノキ」、左に「エノキ」と「マツ」が聳え立っていという。(続)





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四日市あすなろう鉄道 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-24 | Weblog
 「乗られますか?もうすぐ発車ですよ」



 改札の駅員から声が掛かり、券売機の前でコインを握りしめ、逡巡す
る身を急かせてくる。
ここには床面の一部を透明化し、運転中の車輪や枕木、道床などの様子
が眺められるシースルー車輌もあると言う。
なによりも、ナロゲージの車輌も見逃せない。



 四日市駅前のビジネスホテルで泊まった翌朝、旧東海道筋を外れ、近
鉄の湯の山線も乗り入れているという駅に向かった。

 当地には、私鉄の「四日市あすなろう鉄道」が走っている。
この駅に併設されて、起点である「あすなろう四日市」駅が有る。
鉄道好きには、このままやり過ごすことも出来ず、様子を見に来たのだ。



 この鉄道を調べてみるとその歴史は意外と古く、前身は明治末期に設
立された三重軌道(後の三重鉄道)で、大正元年に南浜田―日永間で営
業運転を始めている。

 三重鉄道時代には、湯の山温泉への直通運転も行われていたらしく、
その後近鉄が三重鉄道を合併し運営していたが、鉄路の廃止、バス運用
の話が持ち上がった。関係者間で協議が進められた結果、平成26年に新
会社が設立され、新たな態勢での鉄道運営が決まった。



 あすなろう四日市駅と内部駅を結ぶ内部線と、途中日永駅から分岐し
て西日野駅に至る八王子線がある。
路線総延長5.7㎞、9駅で運営され全線電化だが、全てが単線だ。
軌間が762mと言うから、特殊鉄道である軽便鉄道の線路幅である。



 内部線は、ほぼ旧東海道に沿って走っている。
乗れば、ふたたびここまで戻って街道を歩くことはまずなく、これまで
続けてきた東海道完歩は夢と霧散する。

 「どうする、どうしょう・・。」
散々迷った挙げ句、発車の案内に急かされホームに走った。(続)





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コンビナートのまち・四日市(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-22 | Weblog


 古には蜃気楼が見えたという那古浦、四日市宿の入口に当たる三滝橋
の上からは、今日その海は見えない。
要塞のような異様な形で、石油コンビナートが立ち塞がっている。
高度経済成長期に、「四日市喘息」など公害問題をまき散らした工場群だ。



 四日市は第二次世界大戦では、終戦の年の6月に9回にわたる執拗な
空襲で全市の1/3が焼失し、多くの死傷者工場の壊滅的な被害を受けた。
 戦後に海浜部の開発が進み、大規模なコンビナート等が形成されると、
町は急速な近代化・工業化が進み、町中でも大規模な再開発・区画整理
が行なわれた。



 結果街道筋からは、古い物は失われ、何も残されることは無かった。
環境問題は、その後の技術革新や環境政策などで次第に改善された。
しかし住民の健康を損ね、苦しみを与え続けた事実は消しようも無い。
 又近代化により古き物を失った開発が、この町の発展を支えはしたが、
その代償も大きかったことも否めない。



 古い道標の立つ道を右折、国道1号線を西に渡ると正面に「諏訪神社」
が見えてくる。創建が鎌倉時代初期という古社で、四日市地区の氏神様だ。
社頭が街道に面していた事も有り、多くの旅人が旅の安全を願ったという。
東海道分間絵図によると、宿場の賑わいもこの辺りまでで、その先は松並
木が描かれている。



 今日諏訪神社の社頭は賑やかなアーケード商店街「表参道 スワマエ」
と成っている。この道が旧東海道である。
この先44番目の宿場、石薬師までは二里半九丁(約11㎞)の長丁場となる
が、今宵は近鉄の駅近くに宿をとっている。(続)





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四日市宿(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-20 | Weblog
 広重は、東海道五十三次四日市の画として、三重川を描いている。
橋の上からは、古くは那古浦と呼ばれた四日市の海に注ぐ光景が眺めら
れたという。この浦では春夏の間、蜃気楼が立つことが知られていた。
三重川は御滝川とも呼ばれた、今日の三滝川である。



 三滝橋を渡ると右手に「東海道四日市宿資料館」があったが、生憎閉
館中である。見れば耳鼻咽喉科・福生医院の看板も掲げられた、立派な
和洋折衷の戸建て住宅である。



 江戸時代、問屋役を務めたのがこの屋の持ち主・福生家で、ここに問
屋場があったらしい。明治に入り医者として開業、その後廃院となった
建物を当主が無償で貸与、地元の有志が地域開発の一環で再活用して開
いた施設らしい。



 国道164号線を越えたところが旧町名「南町」、現在の「中部」でそ
の交差点に、文化7(1810)年に建立された道標が立っている。
一般的な道標には、方角が彫り込まれていることが多いが、このものに
は「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とあり、その方向を示す手の形が彫
られている。



 丁度この辺りが旧宿場町の中心らしい。
かつての宿場は、人口7,114人、家数1,811軒は先の桑名宿に匹敵する規
模で、さらに本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠も98軒有ったという。
 東海道が整備された当初は、四日市から宮宿に向かう十里の渡し舟が
出ていたが、何時しか渡しは桑名の七里の渡しが主流となった。



 その渡し場跡は、安政の大地震で壊滅的な被害を受け港としての機能
を失った事も禍した。しかし宿場としては、この先にはお伊勢さんへの
参詣道の追分けが控えている事もあり、とても賑わったらしい。(続)





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三重の「なが餅」(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-17 | Weblog
 三滝橋を渡ると左側に、「日永のなが餅」の笹井屋がある。
実はここに至る前の国道1号線沿いにも店があり、「なが餅」を買い求
めようと立ち寄ったのだが、ばら売りはしていないと言われやむなく店
を後にしていた。



 三重県では桑名の町中にも「桑名の安永餅」の店が有ったらしいが、
広い通りの反対側歩道を歩いて来たためか見落としていた。
 四日市には、この他にも金城軒の「太白永餅」というのも有り、何れ
も「なが餅」と見た目がそっくりで、名前が違うが名物となっている。



 どちらも中に小豆餡が入った細長く延ばした棒状の餅で、外側は軽く
炙り薄い焦げ色が香ばしく付けられている。
 焼き餅の香ばしさと、北海道産小豆で作る甘さを控えた餡との絡みが
売りの生菓子だ。人口着色料、添加物は一切使用していないので、封を
開けたらその日のうちに食べて欲しいというのが老舗の言い分である。



 天文19(1550)年と言うから戦国時代の事である。
日永のなが餅は、笹井屋初代彦兵衛創りだしたもので、長餅、笹餅など
と呼ばれていた。
今では地名に因み「日永のなが餅」が一般的な呼び名となっている。



 ばら売りは無いと承知で、三滝橋の店舗に立ち寄り、敢て店員に尋ね
てみたが矢張りダメであった。
だからと言ってそのまま引き下がる事も出来ず、竹皮風の袋に7個入っ
た一番小さなものを一つ買い求めた。



 お茶の接待を頂き、店内で食べさせてもらったが、甘さ控えめとは言え、
流石に一度に7本もは食べられない。
残りは今晩の宿で、食後のデザートとして頂いた。(続)





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海蔵川と三滝川(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-15 | Weblog
 多度神社の所で国道を外れ、一部残された旧道に斜めに入り込む。
しかしその距離は無く、すぐに堤防に突き当たる。

 「東海道分間之図(元禄版)」によると、当時この辺りは松並木で、
その中に小さな茶店が建ち、横には松と榎の植えられた一里塚があり、
海蔵川(かいぞかわ・かいさうし川ともいう)には小さな土橋が架けら
れていた。



 昭和に入り河川が拡幅整備された際、川の中に取り込まれて一里塚は
消滅した。平成13(2001)年、一里塚跡と定め公園として整備したのが
「三ツ谷の一里塚跡」である。
そこから土手を上がり、上流に60m程迂回して国道の海蔵橋を渡る。



 橋を渡り下流方向に土手道を歩き、再び旧道に入り南下する。
この辺り、嘗ては浜一色村と言い、海蔵川とこの先の三滝川に挟まれた
砂州地帯である。今日では下流の海浜は埋め立てられ、広大な四日市コ
ンビナートとして開発されている。



 国道1号線の西側には「陶栄町」と言う町があり、そこに「萬古商業
会館」が有るらしい。
その名の示す通り、この辺りから下流域にかけた一帯は、四日市の地場
産業・萬古焼で栄えたところで、今でもその工房が有るという。



 更にその先に進み、三滝川に架かる三滝橋を渡る。
嘗ては「みたち川のすゑ土橋」と呼ばれ、長さ卅五間の土橋が架けられ
ていた。橋は明治になると板橋に、更に大正には鉄構橋(長さ72m、幅
6.3m)に架け替えられた。



 「すゑ」は「陶」、即ち陶土を意味したもので、昔から萬古焼に敵し
た土が多かったようで、それが名物焼き物へと発展していった。
 萬古焼は、特に紫泥の急須が知られていて、他のも土鍋、蚊取り線香
を立てる蚊遣豚など、生活に密着した焼き物が多い。 
渡ればここからは、四日市の宿へと入っていく。(続)





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かわらずの松(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-13 | Weblog


 旧街道は相変わらず緩やかに曲がりながら、静かな町並みの中を抜け
ている。稀に旧家らしい平入りの家屋を目にするが、左程古い物では無さ
そうで、街道は旧態を留めているものの、この辺りにも当時を彷彿させる
ものは余り残されてはいない。
途中米洗川の袂に、大きな羽津の常夜灯が立っていた。



 これまでも街道筋や宿場の内外で、幾つもの常夜灯を目にしてきた。
常夜灯の多くは地元の篤志家等から寄付されたケースが多いが、これも
その土地その土地で意味合いが違っている。

 静岡から愛知にかけては、火伏の神として知られる秋葉神社の献灯で
あったが、伊勢路に入るとその多くは、伊勢神宮に至る道に設けられた
献灯となる。



 旧街道が羽津地区に入ると、前方に大きな松の木が一本、早傾きかけ
た西日を受けシルエットとなり見えてきた。
江戸時代後期に植えられた樹齢約200年という松だ。

 戦前まではまだ多くの松が並木を成して残されていたらしいが、戦後の
経済発展に歩調を合わすように切られ、遂にはこの一本だけになった。
昔この地は「川原須(かわらず)」と呼ばれていて、この松も「かわらず
の松」と呼ばれている。



 古墳時代の古墳跡地に立地している、古墳神社・志氐神社(しでじん
じゃ)門前の鳥居を見て進む。
その先で旧街道はいったん途切れ、左にとり国道1号線に迂回する。
反対の右にとれば羽津城址があるらしい。



 国道に出ると金場町の交差点に古い道標が残されていた。
角柱の角は風化したのか、可成り欠けて丸みを帯びているが、「桑名 
四日市道」等と刻まれているのが読める。(続)





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富田の力石(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-10 | Weblog
 茂福の「新設用水道碑」の横に、二つの力石が置かれている。
地区内の御堂建築の折、土台石として各所から沢山の石が奉納された。
その節休憩中の若者達が、石を持ち上げんと、力を競い合った。
これが起源となり、大正の終わり頃まで青年の間で力比べが続けられて
いたそうだ。



 石を持ち上げる力比べは、江戸から明治にかけての遊びとして流行っ
ていたらしい。
ルールはただ重い石を持ち上げるだけ、到ってシンプルである。
神社などの祭礼や余興として行われ、その石が奉納された例は他にも数
多く存在するらしい。



 当地の大きい石には32メと刻まれているので、恐らく32貫(120㎏)
の事であろう。
その前の小さな石が子供用で、重さ5貫(19㎏)と書かれている。
大人も子供もシンプルな競技に熱中したらしいが、最近ではこうした
行事は行われなくなった。



 力石は富田駅近くの、八幡神社の境内にも置かれていた。
この神社の物は重さ百キロと言い、説明によると、村一番の力持ちの競
い合いは鎌倉の頃より行われ、豊作の願いと共に時代を経て継承されて
きたという。



 町内には他にも北村若宮八幡宮に同じような力石が保存されている。
この力比べの力石との関連は解らないが、当地には市の無形民俗文化財
に指定された「石取祭」と言う夏祭りが残されている。

 これは、桑名の春日神社の夏祭りとして伝えられ、町屋川で拾った石
を祭車に乗せ神社に奉納するらしい。



 この辺りでは川石が豊富なせいか、信仰の対象など、石に纏わる伝承
が方々に残されている。
社寺を通じて、人々の生活に密着した歴史があり、今では健康長寿の石
として、末永く伝承するために保存しているという。(続)





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富田の焼き蛤(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-08 | Weblog
 街道筋に「富田の焼き蛤」と言う説明板が掲げられていた。
それによると元々「焼き蛤」は、先ほど通り過ぎてきた小向(おぶけ)
から、ここ富田にかけての郷土料理である。
 明治維新の折にも明治天皇がこの地の酒造家・広瀬家で暫し休憩され、
ご賞味されたそうだ。





 また「東海道名所図会」など、当時の道中記(案内書)でも、桑名の
名物としては取り上げてはいなかったが、富田が桑名藩領であったこと
から、いつしか桑名名物として定着した。
「焼き蛤」というと、反射的に桑名を思い浮かべるがどうやらそれは間
違いで、この辺りが本場らしい。





 「♪桑名の殿さん 時雨で 茶々漬け・・・♪」
という唄があるくらいだから、昔も今も桑名はどちらかと言えば加工さ
れた佃煮の、「時雨蛤」が中心のようだ。

 一方『富田の焼き蛤』を詠んだ「蛤の焼かれて鳴くやホトトギス」の
有名な句もある。江戸時代に芭蕉門下十哲の一人、宝井其角が中町の旅
籠・尾張屋の店先で詠んだ句である。

 その当時の句碑は、今も富田浜に記念碑として残されているそうだ。
あの弥次さん喜多さんも「めいぶつの焼き蛤に酒酌み交わし」ている。





 富田の町中を南に向けてすすむと、茂福町のT字路に、「新設用水道
碑」が建っていた。明治の中頃、耕地整理事業による十四川の改修で、
町内に流れる水路がなくなり、田に水が入らなくなった対応で暗渠によ
る水路が造られ、これで生活用水、防火用水として賄った。

 後年に成り国道1号線の開通や、伊勢湾台風時の水害などで暗渠は土
砂に埋まり、壊滅した歴史を伝える碑らしい。
その横には、何か曰くありげな力石が置かれている。(続)




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間の宿・富田(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-06 | Weblog
 東芝の工場を過ぎると左側に朝日町役場があり、前に浄土真宗本願寺
派・浄泉坊がある。徳川家と所縁が有り、葵のご紋の使用が許された寺
で、参勤交代の大名もこの門前では駕籠から降り、黙礼を捧げ通り過ぎ
たとの言い伝えが残る。



 JR関西本線の朝日駅前を右に見て、柿の集落を抜ける。
国道1号北勢バイパスを越え、朝明川の袂の常夜灯を見て、朝明橋を渡
り、富田の町中に入ってきたがその先も、旧道らしい緩やかな曲がりを
繰返しながら町中を抜けている。



 桑名から四日市までは、三里八丁(約12.7km)の長丁場だ。
そのため、中ほどにある富田に間の宿が設けられた。
近鉄線とJR線が交差する辺りが今日の町の中心で、この辺りに開かれ
たようだ。



 富田は四日市市の北部にある地区で、古くは三重郡富田町といった。
昭和16(1941)年、四日市市に編入され、町制は廃止になっている。
地区の東側は伊勢湾に面し、嘗てこの辺りの富州原、富田浜、霞が浜、
更に南に下ると千代崎海岸があり一帯は、白砂青松遠浅の絶好の海水
浴場が続いていた。



 千代崎海岸には「伊勢湾水練学校」が有り、小学生高学年の夏休み、
近鉄電車に乗って名古屋から通った懐かしい地である。

 「♪♪鈴鹿の連峰 背に受けて 
        千代崎が浜に集いつつ 水泳錬磨の健児らが~♪♪」

 白の六尺褌を締め、帽子を被り、灼熱地獄の砂浜で、後ろ手に、足を
広げ、・・・記憶に間違いが無ければ、こんな校歌を毎朝歌っていた。



 あれから数十年の時を得たが、これらの海岸を訪れる機会は残念ながら
皆無で有った。
地図を見ると富田や四日市沖の開発は顕著で、多くは埋め立てが行なわれ、
企業が立地しコンビナートが形成されているようだ。
あの美しい海岸は、どれだけ残されているのであろうか・・・。(続)





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