簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

船坂峠 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-02-29 | Weblog
 播磨の国と備前の国の県境に位置するのが船坂峠である。
峠自体の標高は180mとさほど高くは無く、国道も鉄道もそれを意識することも無く、
トンネルで難なくここを通り過ぎて行く。



 しかし明治24年の鉄道開通時、峠を貫く1138mのトンネル工事は難渋を極めた
らしい。工期を短縮するため、三本の立坑を掘り、そこから前後に掘り進め、本来
の両方の坑口と合わせ8カ所から突貫工事で掘り進めたと言われている。



 その後複線化で、下り専用線が開通すると、旧トンネルは上り線専用となった。
更に電化工事に合わせ新たなトンネルが開通すると、これが上り専用線となり、
開業当時のものは廃止されることに成る。



 船坂峠と言えば、凡そ700年前元弘の乱に敗れ、鎌倉幕府によって隠岐の島に
流される後醍醐天皇を奪還せんと、児島三郎高徳が兵を挙げた場所としても知ら
れている。
廃れてしまった草深いトンネル上の旧道には顕彰の石碑が建てられている。



 「義を見てせざるは、勇無き」と大軍を起こし、名を子孫に残そうとした。
一族郎党を従えこの地で天皇一行を待つも、予期に反して道筋が違い、慌てて播
磨と美作の国境の杉坂峠に駆け付けるが、その時すでに遅く、一行は美作街道か
ら院庄館に入り作戦は失敗する。





 諦めきれない高徳は、せめて志だけでも天皇の耳に入れたいと、一人ご在所に
忍び込み庭の桜の木にあの有名な10字の詩を書き残したのである。
「天勾践を空しくするなかれ、時にハンレイ無きにしも非ず」(続)

『晴れの国・おかやま 観光かるた』  アップしました。



   

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山陽本線 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-02-26 | Weblog
 山陽本線は瀬戸内海に沿って、兵庫県の神戸から、岡山、広島、山口の
各県を通り、関門海峡をトンネルで抜け、福岡県の門司まで至る537.1Kmに
も及ぶ長大な路線である。
東北本線から始り東海道本線を経て、更に本州を西に引き継ぐ、日本を貫く
動脈とも言える大幹線路を構成する一つである。





 幹線とは言え九州への特急列車や寝台特急など、かつての花形列車が
廃止された今では、山陽本線を走る寝台特急は、東京発のサンライズ号の
みで、これとて岡山で出雲号と瀬戸号に分離され山陰と四国に向かうので、
岡山以西を走る寝台列車は皆無となってしまった。
特急列車も同様で、本線を通して走る長距離のものは無く、「はまかぜ」「ス
ーパーいなば」「スーパーはくと」などが、僅かに関西圏などの一部の路線
を通り過ぎるのみである。





 神戸駅は本線の起点ではあるが、面白いことにここを始発着とする列車は
一本も無く、東海道本線などから連続運行される途中駅に過ぎない。
それらは主に姫路・相生などの間で新快速、快速などとして運行され、関西
圏をスピーディに結んでいる。



 姫路・相生から岡山の間は、一転ローカル色の強い路線となり、岡山から
西は広島との間に区間運転の列車が多くなる。
このように今日では中長距離輸送は、並走する新幹線や、競合する航空機
に委ね、本線は沿線それぞれの都市圏における近距離の地域輸送が主体
のダイヤ編成となっている。



 山陽本線は岡山県内では、三石から笠岡までの90Kmほどで、本線124駅
のうちこの間に21の駅が有る。(続)

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デスティネーションキャンペーン(はれのくに)

2016-02-24 | Weblog
 いよいよ2016年4月1日(金)から6月30日(木)の3か月間に渡り「晴れの国おかやま
デスティネーションキャンペーン」が行われる。


                                      (旭川さくら道)
 これはJR西日本岡山支社とJRグループ各社、岡山県や同市などの地方自冶体、
観光事業者等とが協力して、岡山エリアにある名所や特産、伝統・技術などを掘り起
こし、全国に発信し、地域の活性化と観光客誘致を目指そうとするものだ。


                                     (半田山植物園)
 プロジェクトは、昨年の三月頃から動き出した。
「吉備之国くまなく旅し隊」と名付けられたたプロジェクトでは、景色などの「えぇとこ」、
特産品や工芸品などの「えぇもん」、更にご当地料理などの「うめぇもん」の三つのジ
ャンルを決め、魅力あるものの発掘に努めてきた。


                                        (鶴山公園)
 昨年県が発表した「観光客動態調査」(2015年8月)によると、2014年に県内を
訪れた観光客は1422万人で、前年より15.4%の増加で有ったそうだ。


                                         (醍醐桜)
 観光地別では、倉敷美観地区がトップで307万人、それに次ぐのが蒜山高原で
251万人、玉野・渋川が213万人、後楽園・岡山城が202万人、吉備路が168万人と
続いている。


                                        (宗堂桜)
 黒田官兵衛所縁の備中高松城址の有る、吉備路の伸び率が16.9%と際立って
大きかった。これはNHK大河ドラマの影響が考えられている。
今年の大河ドラマ「真田丸」では、タイトルの背景に備中松山城が使われており、
こちらも観光への期待が高まっている。


                                       (がいせん桜)
 このキャンペーンでは、瀬戸内沿岸のうららかな陽気を楽しむ旅や、遅い春を
迎える県北部でその息吹きを見つける旅、更に名園や温泉、しっとりとした趣あ
る街並みで夜の灯りに酔う旅など、様々なメニューを用意して全国から観光客を
呼び込もうと意気込んでいる。(完)(写真:本文とは無関係)

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調布(ちょうふ)  (はれのくに)

2016-02-22 | Weblog
 「きびだんご」「大手まんじゅう」ときたら、次は「調布」と来なければ、岡山のお
土産を語ることは出来ない。
それほど昔からよく知られた岡山の名物である。
個人的な好みでどれか一つをと問われれば、「きびだんご」より上、残る二つで甲
乙を付けると・・それは難しく、右手で「大手まんじゅう」、左手で「調布」そんな感じ
であろうか。



 「調布」とは、余り聞きなれない珍しい名であるが、これは昔朝廷に献上された手
織りの反物にその形が似ているから名付けられたそうで、「しらべぬの」とも読むの
だそうだ。



 岡山の市街地を流れる旭川の清流にさらした布を、折りたたんだ姿を連想した
頼山陽が、このお菓子をぞっこん気に入ったと言う話も残されている。
(「岡山の味と民芸」 昭和54年 山陽新聞社)



 新鮮な卵をたっぷりと使い、焼き上げた香ばしいカステラ生地の薄皮で、白玉粉
や餅粉に砂糖などを加えて練った柔らかい求肥を軽く巻いたお菓子である。
薄味の快い上品な味わい、その単純で飾り気のない姿には絶対的な自信が窺え、
雅で、風雅・高雅の趣のある伝統的な名菓と言っていいであろう。







 岡山は桃やぶどうの生産では、全国でもトップレベルを誇っている。
旬になれば駅の売店にもそんなお土産が並べられる。
また近頃では、それらの新鮮でおいしい果物類を素材にした饅頭やケーキ、フルー
ツソース、ゼリー、ジュレなど新しいスタイルのお土産なども店頭を賑わしているが、
岡山のお土産と言えば、「きびだんご」「大手まんじゅう」「調布」、このの三つはやは
り外せない。(続)


  

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大手饅頭  (はれのくに)

2016-02-19 | Weblog
 岡山のお土産として、忘れてはならないものに「大手饅頭」が有る。
多くの岡山県人が、県外に持っていくお土産では定番と言われるほど不動の地位
を築いている。





 備前米を材料とした糀から甘酒を作り、それに小麦粉を加え発酵させた生地を
極薄く伸ばした皮で、北海道産小豆から作る小ぶりに丸めた漉し餡を包み蒸し上
げた酒饅頭で、そんな饅頭の味を引き立てているのが名水の誉れも高い、「雄町
の冷泉」である。



 出来上がると中の餡が透けて見え、黒と白のまだら模様になった饅頭は、一つ
一つ丁寧にセロハンで包まれ、更にパッケージに入れられ店頭に並ぶ。



 夏の時期ならパッケージのまま一晩冷凍庫で凍らせ、冷菓として食べても美味し
いし、古くなったものは蒸直したりレンジなどで軽く温めれば大丈夫だ。

 また製造工場の直営店で入手出来るまだぬくもりの残る作りたては、豊潤な香り、
甘酒のコクと餡の甘さがまろやかに調和した味が最高で、これに勝るものは無い。



 大手饅頭は江戸時代岡山城下大手門近くに構えた店で誕生し、以来170有余年
の歴史ある岡山名物として知られてきた。今も本店を京橋付近に構えている。

 その昔、藩主池田公がひどくお気に入りになり、茶席などで愛用されたことから
「大手まんじゅう」の名称を賜ったとされている。



 店は一時不遇の時代が有ったようだが若くして亡くなった二代目の未亡人・梅は、
女手一つで家業を引き継ぎ守り抜いて、今日大手饅頭の中興の祖と言われている。
その思いは饅頭が入れられた巾着様の梅柄パッケージに今も生き続けている。(続)


  

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きびだんご(はれのくに)

2016-02-17 | Weblog
 昔から岡山土産の定番として知られているのが「きびだんご」だ。
もうずいぶんと昔の話ではあるが、ある雑誌の「わがふるさとをかたる」と言う企画
の中で、岡山出身の作家・吉行淳之介はこんな風に語っていた。

『岡山名産と言えばキビ団子だが、あれはそううまいものでない。大手饅頭のほう
がよいが、昔の圧倒的な旨さはない』





 岡山地方は古代、吉備の国として栄えたところであるが、元々この地は五穀の
一つである黍(きび)の産地でもあったことからこの名が付いたと言う。



 その昔吉備の国に派遣された吉備津彦命に、土地の老人が黍入りの団子を差し
出したのがきびだんごのルーツとされ、その後江戸時代になって、お茶席でも食べ
られる様に求肥製に作り変えられたものが今日土産物として知られる「きびだんご」
である。



 もともと「きびだんご」は、黍(キビ)を粉にして形を整え蒸したもので、どこでも日
常的に食べられていたが、このままでは美味しくないので、餡を付けたり、味の付
いた汁をかけて食べていた。
それが次第に味付けの工夫がされ、お菓子に変化を遂げ、更に日持ちを良くする
改良が加えられてきた。





 最近のキビ団子は、その原料のほとんどはもち米らしく、それに水飴や砂糖で
味付けしキビ粉を塗すのが主流のようで、昔のそれと比べれば美味しさは格段に
向上していて、本当においしくなっている。

 更に黒糖を使ったり、色々なシロップを包み込んだり、きな粉を塗したりと様々な
工夫もこらされていて、お土産としての品揃えも豊富だ。
そんな「きびだんご」は今も昔も岡山を代表する定番土産として、不動の地位を築い
ていることに間違いはない。(続)


  

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旭川と京橋界隈(はれのくに)

2016-02-15 | Weblog


 後楽園や岡山城の有る辺りから、旭川の堤防に設けられた遊歩道を南に下る。
ここらあたりは岡山城内の武家の郭から、町人町である三の曲輪へ通じる要衝の
地に当たり堤防沿いにも当時の石積みの遺構や門の跡が残されている。





 更に南下すれば大正時代に建てられた「火の見櫓」、「岡山県里程元標」、延宝
九年との刻印の有る「旧京橋の橋脚」、世界で初めて空を飛んだ「表具師・幸吉の
碑」などもある。ここらあたりが京橋界隈と言われるところで、江戸から明治の中頃
まで岡山城下の中心的な場所であった。



 この地は山陽道と旭川、陸路と川湊、その結節点として水陸交通が栄えたとこ
ろで、江戸時代にはここに城下最大の「京橋」が架かっていた。
その弘化4(1847)年の渡り初めの様子を描いた木版画が橋の袂に置かれている。



 京橋が跨ぐ東中島と西中島の周辺は、昭和の中ごろまで一大歓楽街として大い
に名を馳せていたところだ。サーカスや芝居小屋、幻灯写真や手品・剣舞を見せる
店、氷屋や飲食店が立ち並び、娼家が50軒余り、抱える遊女が200人余りと言う賑
わいを見せていたらしい。



 夏目漱石は、松山に帰省する途中一か月ほど、この付近にあった次兄の妻の実
家に逗留し、ここから松山にいる正岡子規に手紙を出している。

 『東南に京橋を望み、夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ、・・・』
更に『宛然たる小不夜城』と、納涼の小舟や町を行きかう人々の様子を伝えている。
今京橋界隈にその面影を残すものは殆ど残されていない。(続)


  

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タンチョウと金烏城(はれのくに)

2016-02-12 | Weblog
 「留学時代が懐かしい後楽園も戦災で城を失った今の眺めは寂しい限り、せめ
て鶴を立たせて良き伴侶としたい」こんな意味の漢詩の、直筆で書かれた石碑が、
岡山後楽園の片隅に建っている。



 園の南に建つ岡山城は戦前には国宝に指定されていた名城だが、残念ながら
昭和20年6月29日の岡山大空襲で、市街地と共に焼け落ちてしまった。
また園では築園当初から鶴が飼育されていたとされるが、これも大戦の後絶滅し
ていなくなってしまった。





 そんな状況を見兼ねた郭沫若(かく・まつじゃく:岡山の旧制第六校で学び、後に
中国科学院院長になった)氏のこんな思いと計らいで、昭和31年、中国から2羽の
丹頂鶴が贈られた。それを元に釧路市などの協力を得て飼育・繁殖させたものが、
現在では8羽ほどになっている。



 「タンチョウ」は、国の特別天然記念物に指定されている鳥だ。
その飛ぶ姿、立居も優雅で、そんな姿から瑞鳥とされていて、園では毎年正月に
この放鳥があり、大勢の人々で賑わう。



 郭沫若氏が「戦災で失った・・・」と寂しがった岡山城は、昭和41年に鉄筋コンク
リート造りで再建された。更に天守屋根の鯱は、金色に輝いていたと伝わる史料
に基づいて、築城400年を記念した平成8年に金箔が施された。



 黒漆塗りの下見板が特徴的な岡山城は、その色から「烏城(うじょう)」と呼ばれ
ていたが、今では「金烏城」と呼ばれるようになった。

 今年のお正月もそんな城を背に「タンチョウ」は、冬枯れの芝生の上を、池の上を、
そして人々の目の前を優美に優雅に舞っていた。(続)


  

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岡山後楽園(はれのくに)

2016-02-10 | Weblog
 日本三名園の一つ「岡山後楽園」は今から凡そ300年前、14年の歳月をかけ、
岡山城が見下ろす旭川の岸辺に誕生した。



 藩主池田綱政公は、その当時全国の大名家の間で流行していた庭園造りを思
い立ち、家臣の津田永忠に命じたのがその始まりとされている。



 門を入るとまず目を引くのが、ほぼ全面に植えられた広大な芝生の広場である。
その中に大小さまざまな池が掘られ、それを640mにも及ぶ曲水が結び、そんな中
を巡るように園路が縦横に張り巡らされている。



 園の中央には小山が築かれ、亭舎や茶室、祠等が各所に散りばめられている。
更に深山を思わす滝、四季の移ろいを感じさせる森や梅林、桜林などが彩りを添え
ている。ここは歩きながら移り変わる景色を眺め楽しむことが出来る「林泉回遊式」
と呼ばれる大名庭園である。



 開園当初の園は今のように全面芝では無く、この姿になったのは明治に入って
からである。春になると鮮やかな緑色の絨毯を広げたように美しい芝も、秋になる
と次第に枯れ、落ち着いた茶色に変っていく。



 そして2月には新芽の息吹きを促し、害虫駆除のため芝焼が行われると一面
真っ黒にその装いを変える。
後楽園を明るく彩る芝は、日本古来の「ノシバ」で、四季折々違う顔を見せてくれ
るのもこの園の特徴となっている。

 園内には田圃や茶畑もある。
元々お城近くの田畑の場所に造られた園であったため、当初園内には広い田んぼ
や畑がそのまま残されていたとされ、それはその名残を今に伝えるものである。(続)


  

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表町と奉還町(はれのくに)

2016-02-08 | Weblog
 「岡山カルチャーゾーン」と呼ばれる地域の近くにあるのが「表町商店街」だ。
戦国時代末期から始まった岡山城下の商人町で、その昔は舟運で栄えた京橋辺り
を中心にひろがっていたようだが、鉄道の開通と共に舟運が衰退すると、その中心
は次第に西に広がり今日みられるような形に変遷した。

 





 その歴史は400年にも上り、アーケードで覆われた通りの総延長は、1Kmにも
及ぶ県下を代表する繁華街で、その中心が老舗デパートの「天満屋」である。
西大寺に興った小間物商が、呉服商として市の中心部に進出したのは、大正元
年のことだと言う。

 明治の末頃から次第に増えて行った映画館や演劇場などが犇めく地域もあり、
岡山一の娯楽街と呼ばれた時期もあったが、今日ではこれらは全て撤退した。

 「表町」がチョットお洒落で気取った商店街なら、庶民の味方、飾らない商店街
が「奉還町商店街」であろう。
岡山駅の西口近くから西に約1キロ延びる商店街で、明治維新の折り、職を失い
藩から与えられた奉還金を元手に旧藩士が商売を始めたのが起こりだと言う。







 「表町」がファッション系の店が多いため、休日を中心に賑わいを見せるのに対し、
こちらは平日の人通りが多い。
それは通りの商店が八百屋や果物屋、菓子屋・パン屋・花屋・仏具屋、おもちゃ屋
など日常生活に密着した店舗が多いためである。

 しかし近くに大学や高校が立地していることや、近年ではサッカーJ2「ファジアー
ノ岡山」、女子バレーボール「シーガルズ」の本拠地の運動公園への通り道であるこ
となどから、若者向けの店舗も増え、一昔前とは様相を変えつつある。(続)


  

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