簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

大元・宗忠神社 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-28 | Weblog
 都市計画事業により宇野線の付け替えが行われ、西側に新ルートが敷
かれ、「鹿田」駅に変る新駅「大元」が開業した。

 駅の800m程西に黑住教本部「宗忠神社」が有り、ここが教祖の生誕
の地という意味の「大元」から、駅名もこれに因むことになった。



 「江戸後期から幕末にかけて開教した民衆宗教の代表的な一つである
黒住教は、岡山城下はずれの御野郡上中野村の今村宮の禰宜・黒住宗忠
が文化11(1814)年に創唱・立教したもので有る」
(山陽カラーシリーズ別巻「黑住宗忠」昭和55年4月 山陽新聞社)



 「宗忠神社」は、教祖である黒住宗忠を祀る神社で、京都・神楽岡と
黒住教の本部のあった岡山市内の大元にある。
因みに現在では、市内の神道山に本部は移されている。

 岡山の「宗忠神社」は、宗忠の生地である岡山県岡山市北区上中野
(通称 大元)に、明治18(1885)年に創建された社だ。



 京都の神社と混同を避けるために岡山の方は、教祖の生まれた「大元」
と言う意味から「大元神社」とも呼ばれている。
地元岡山では、むしろこちらの方が知られ、通り名となっている。
因みに京都の方は、鎮座地から「神楽岡・宗忠神社」とも呼ばれている。



 正月の初詣や節分の豆まきでは多くの人々がお参りし賑わいを見せる。
又毎年4月には黒住教最大の行事である「宗忠神社御神幸」が行われる。
神体を載せた鳳輦を中心に、絢爛豪華な衣装を纏った千人余りの行列が、
岡山の街中を巡行して後楽園まで往復する時代絵巻を繰り広げる。



 折しも市内各所は、サクラの美しい季節である。
旭川さくら道から後楽園にかけて同時期に開催される「岡山さくらカー
ニバル」とも呼応して、今や「御神幸」はその中心行事なっている。
(岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く・完)



次回から「東海道歩き旅 伊勢の国編」が始ります



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大元駅 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-26 | Weblog
 臨港鉄道の廃線跡、歩行者・自転車専用の遊歩道「臨港グリーンアベ
ニュー」は、JR宇野線の高架下にやって来た。
右手に富士倉庫の建物が、更に先には私立認可保育園「大元ちどり保育
園」が建っている。



 この倉庫には、当時は大元駅から臨鉄の専用線が引かれていた。
又、旧岡南元町駅に近い姉妹園「ちどり保育園」の園庭には、園児達が
利用する「図書室・ミニ博物館」として、現役を退いた客車キハ7003が
今も置かれているらしい。



 これらの建物と高架橋に挟まれた遊歩道は、やがてJR宇野線大元駅前
の広場に繋がり、凡そ2kmの遊歩道は終わりだ。
宇野線は当時地上駅で、それに並び建っていたらしいが、臨鉄の駅がど
の辺りにあったのか、今ではその痕跡は何も無く全く見当も付かない。



 古い写真には、宇野線のホームに沿う小さな単式ホームが一面、そこ
に停まる一両の気動車と、奥に駅舎が映っている。
現駅前に立つ観光案内図には、この当時の駅舎の写真が載せられている。

 写真には、富士倉庫や岡山操車場(現JR貨物岡山貨物ターミナル駅)へ
の連絡線で有ろうか、脇には側線も映っている。



 明治43(1910)年に、岡山と宇野の間に官設鉄道宇野線が開通した。
当時の宇野線は、岡山駅を出ると直ぐにカーブして、現在のルートより
東寄りを南下し、現在の市役所辺りを通り、市水道局庁舎付近に「鹿田
駅」がつくられた。



 その後都市計画により、岡山と妹尾の間のルートの付替えが行われた
のは、大正14(1925)年のことだ。

 新線には「鹿田駅」に変る新駅が計画された。
当初は所在地に因み「西古松駅」が予定されたが、急遽「大元」に変更
され、現駅名が採用されている。
これには地元に鎮座する、大元教の影響も大きかったと言われている(続)



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JR宇野線連続立体交差事業 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-24 | Weblog
 都市計画道路の建設により寸断された「臨港グリーンアベニュー」は、
新たに架けられた「新保遊歩橋」で是を超えて行く。橋の上からは、大
元駅前から中心部にかけて建つ高層マンション等が間近に見えている。

 岡南新保駅から続いてきた廃線跡の遊歩道も、左からJR宇野線の高架
橋が近づいてくると、そろそろ終わりだ。





 昭和63(1988)年瀬戸大橋の完成に合わせ、本四備讃線(瀬戸大橋線)
が開業した。同線の列車が通る宇野線は本州と市国を結ぶ幹線で、大幅
に列車本数が増えることになる。

 このため市中心部で、線路と平面交差する各踏切では、道路で慢性的な
渋滞が発生するようになった。また線路は既成市街地と、発展を続ける新
市街地を分断し、市街地の一体的な開発の妨げとなっていた。





 その弊害を解消するため、大元駅付近の3270m区間に於ける高架化が
決まった。この間に交差する道路は、大小合わせて23路線有るが、その
内の「中環状線(下中野平井線)」等、主要幹線道路6路線の踏切を除
去する事となった。

 岡山県主体の事業、平成8(1996)年度から行った「JR宇野線大元駅
付近連続立体交差事業」で、工事は平成13(2001)年12月に完成した。





 宇野線は岡山駅構内を抜けると、西に向かう山陽本線を超えるため築
堤に登り、左にカーブしながら進路を南に向け、大元駅を目指している。
嘗ては大元駅を出ると、当駅が始発の岡山臨港鉄道とは500m程並走して
いたらしい。

 しかし廃業後は線路跡の遊歩道化や、その後の連続高架化事業等が行
なわれ、臨港鉄道時代の遺構は、ほぼ失われてしまった。(続)

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さまざまなオブジェ (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-21 | Weblog


 「臨港グリーンアベニュー」のレストエリア、「岡南新保駅」跡の近
くには「手づくり郷土賞」の石碑が建てられている。
平成6(1995)年に、国土交通大臣により「臨港鉄道跡地整備」(ふる
さとを紹介する道)として選出され、それを記念した物だ。



 市民に愛され親しまれる緑の並木道らしく、沿道にはサクラ、ウメ、
アクラ、モミジ、カイズカ、モクレン、ユキヤナギ、ツツジ・・、等々
植栽も豊富で四季折々に楽しめそうだ。

 またフェンスや橋の欄干などには様々なオブジェも埋め込まれている。
緑道には、鉄道の遺構らしき物も所々に残されているようで、そんな物
を捜しながらの散歩も楽しそうだ。



 線路かと思ったが、何なのか良く解らないが、H鋼のような物が芝生
に埋め込まれていた。

 岡山の鳥と書かれたホトトギスのオブジェもあった。
今日では「県民の鳥」は、平成6(1994)年4月に行われた県民投票の
結果、桃太郎伝説でお馴染みの「キジ」と決まった。
それまでは「ホトトギス」が県を代表する鳥であったようだ。


 
 因みに県の木は、県内に広く分布している「あかまつ」である。
平成8(1966)年9月に制定された。
又県の花は、代表する果物の「ももの花」で、これは確として定められ
たものでは無く、慣用的に使われているそうだ。



 アベニューのほぼ中間地点に、都市計画道路が横切ることになった。
市内の円滑な交通を確保するため、市が計画する三つの環状道路の内、
「中環状線」を構成する道路、下中野平井線(3.2㎞)で、広々とした
片側三車線の道路(六車線道路)である。

 このためアベニューは分断され、行き止まりに成っている。
そこには道路を横切る歩行者用の歩道橋「新保遊歩橋」が架けられた。(続)



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岡南新保駅(岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-19 | Weblog
 国道2号線岡山バイパスの高架を潜り、500m程歩くと「臨港グリー
ンアベニュー」のレストエリア、「岡南新保駅」の跡がある。
 嘗ては、単式ホーム1面1線の無人駅だが、貨物用の側線が引かれて
いた。岡南泉田駅からは0.9㎞、大元駅から南に約1.4km地点の駅である。



 この駅は開業当時の昭和26(1951)年8月にはまだ無かった。
始発の大元駅から次の駅・岡南泉田駅までの間が2.3kmと長かったため、
地区住民の強い要望を受け同年10月臨港新保駅として新たに開設された。

 その後の昭和35(1960)年8月に他の駅と同様、「臨港」を「岡南」
に改め、「岡南新保駅」に改称されている。



 線路跡が市道を横切る場所には、踏切が有ったらしく、傍らに警報器
が残されている。
その先が駅跡で、レンが造りのプラットホーム一面が有り、上にはレト
ロ感溢れる上屋が残り、屋根の下からは駅名標が吊り下げら、下に木製
のベンチを置いて休憩所に転用している。



 ホーム下のブロックが敷き詰められた通路には、二本のレールが埋め
込まれている。
当時の臨鉄は、国鉄と同じ狭軌(1067mm)を採用していたが、是は少
し狭いようにも見えるので本物ではなくオブジェとして置かれたようだ。



 近くには、信号機や標示板をデザインした、「カラクリ時計」のオブ
ジェも置かれて居る。
歩道の両側に植えられた桜は、既に大木の風格を見せていて、花の咲く
頃には見事な桜並木を見せるのであろうか。



 市の中心部に近く、周りは住宅の密集地である。
ベンチで休んでいると、時折自転車が駆け抜け、散歩やランニングをす
る人、犬を連れた人も多く見かける。
往復しても4㎞程で、起伏のない遊歩道は、ゆっくり歩いても1時間程
度あれば充分で、散歩には丁度手頃な距離である。(続)





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臨港グリーンアベニュー (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-17 | Weblog
 岡山臨港鉄道は、元々は岡南地帯の産業開発の為の貨物輸送が主たる
目的で、沿線の各工場には専用鉄道線(側線)が縦横に巡らされていた。
開通から十数年までの間に、貨物の取扱量は順調に推移し、昭和30年代
には全収入の凡そ7割を稼ぎ出していたそうだ。



 臨港泉田駅付近にも専用線が引かれた自社倉庫が有り、近くの踏切で
の深刻な交通渋滞が発生していた。
解消するために、国道30号線の高架化が計画された。

 是により付近の踏切での交通渋滞も緩和されることになるが、肝心の
鉄道は昭和59(1984)年に廃止になっている。



 第一次、第二次オイルショックから端を発し、国鉄の分割・民営化に
よる「ヤード方式」全廃で、貨物取扱量が減少した事が決定的なダメー
ジと成ったようだ。
 臨鉄にとって旅客の輸送は言わば付帯サービスみたいなもので、安定
した貨物での稼が生命線であっただけに痛手は大きかったようだ。



 加えて最大のライバル、バスの路線網拡大が痛手となった。
「福島循環線」(昭和28年)、「あけぼの線」(昭和29年)、「青江・
新保線」(昭和32年)、「当新田線」(昭和34年)等である。
小回りのきくバスに多くの乗客を奪われ、これも廃線の一因となった。



 臨港鉄道の廃線後、同社から跡地の一部譲渡を受けた岡山市は、平成
6(1994)年に同区間2kmを幅員2.5m~16.0mの緑道として整備した。
緑地にレストエリアを整備し、モニュメントを設け、歩行者・自転車専
用の遊歩道「臨港グリーンアベニュー」としたのだ。



 国道30号線の高架下を抜けると、その遊歩道があり、その先で国道2
号線岡山バイパスの高架を潜ると、本格的な緑道が始まる。
市街中心地に於ける市民の憩いの場として親しまれる「緑の並木道」だ。
快適な遊歩道が、終点の大元駅に向け延びている。(続)





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岡南泉田駅 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-14 | Weblog
 市中心部に近づくにつれ町並みも商業施設が多くなり、賑やかになっ
てきた。そんな通りの前方に国道30号線の高架橋が見えている。

 臨港福田の駅からは2.1㎞、大元からは2.3㎞離れた、国道30号線と交
わる「泉田」という地で、当初は「臨港泉田駅」と言った「岡南泉田駅」
がここにはあった。



 芳泉高校の創設で最寄り駅となり、学生などの利用客が急増した。
臨鉄は、旅客扱い便をこれまでの4往復から一気に12往復まで増やした。

 暫くして市内のバス網の整備が進み、学校前にも路線が開かれバスの
運行が始まる事になる。
目の前のバス停では、700m離れた鉄道の駅は太刀打ちも出来ず、増便
は僅か4年で元の本数に戻された。



 昭和43(1968)年に貨物取扱駅となり、自社倉庫も建設し、駅付近に
は多くの専用線が引かれていたという。

 一方、国道30号線はこの頃既に(昭和36年に)開通している。
巷間ではモータリゼーションで急速に交通量が増加し、その影響もあり、
泉田駅付近の踏切では深刻な渋滞が発生していた。



 その解消策として国道の高架化が決定した。
計画から11年後の昭和54(1979)年に下り線(玉野方面)が、その翌年
には上り線(岡山方面)が竣工している。
結果、泉田の駅はこの高架橋の下に潜り込む形となった。



 今その高架下には何の痕跡も残されてはいない。
モニュメントが有るらしいとの情報も有り、高架の下辺りを探してみた
が何も見つけられなかった。
 
 岡山港駅から並木町の遊技場までの線路跡は、ほとんどが宅地や用地
に転換されている。その為鉄道が走っていた痕跡は、全くと言って良い
ほどに、何も残されてはいない。



 しかし、市道を超えた福成3丁目から国道30号線南側、泉田駅が有っ
た辺りに至る3.4㎞の間は、市道泉田福成線に転用され、僅かに道路の形
状が線路跡を彷彿させている。
 更にその先の国道30号線の高架を潜ると、線路跡は、遺物こそ無いも
のの、趣も新たな遊歩道として整備されている。(続)





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南ふれあいセンター (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-12 | Weblog


 広大な農地の広がり中に、近くの送電線の鉄柱と並び立つようにに聳
える建物が見えてきた。公益財団法人岡山ふれあいセンターが運営する
市民の為の福祉施設「南ふれあいセンター」で、平成11(1999)年4月
に開館したものだ。



 館内には200席程のホールや、各種研修室、和室、調理実習室、プレイ
ルーム、児童館などがあり各種講座イベントが開催されている。
 正面を入るとすぐ横に、カフェも併設されていて、日替わり定食や軽食、
ドリンクが福祉施設らしく、安価に提供されている。



 空調のよく聞いた「南ふれあいセンター」で、しばらく休憩し、再び
終点の大元に向けて歩き始める。線路跡は大きなカーブで進路を北向き
に変えると、やがて右手に芳泉高校が見えてくる。
 昭和49(1974)年に創立された比較的新しい県立の高等学校で、県下
では進学校として良く知られている。



 学校の創立で鉄道は、これまで一日4往復であった旅客便を、12往復
に増やしている。結果旅客収入は、2倍以上に増加したという。
最寄り駅は学校の北にあった「岡南泉田駅」で、ほぼ直線で700m余り、
学生の足なら10分もあれば歩けたのであろう。

 因みにJR(国鉄)の最寄り駅は、宇野線の備前西市駅である。
距離にして1.8㎞余り、歩けば30分程はかかるので、臨鉄の利便性は際立
って優位であった。



 しかしその後市内のバス網が整備され、学校前等にバス停が設けられ
ると乗客は激減した。
その対策として計画されたのが、鉄道の岡山駅への乗り入れである。
しかしこれは、通信施設や信号システムなどを国鉄仕様に変える必要が
あり、資金難から投資もできず頓挫した。(続)





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土手上の線路 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-10 | Weblog


 岡南福田駅を出た臨港鉄道の廃線跡は、浦安本町の交差点を越えると
遊歩道風に整備された道となる。
北側は田畑の中に所々に細かく区画された住宅地が有り密集している。

 反対の南側は沿道に民家などが建つものの、その奥は干拓地らしく、
整然と大きく直線的に区画された地で、所々に民家が点在している。



 周辺には十番川や相生川を始め、大小様々な用水路が縦横に何本も引
かれ、用水が交差する場所には、樋門が設けられていて、それらは廃線
跡からも見る事が出来る。
塩分の多い干拓地を、新田に変えようと腐心した先人達の苦労の跡だ。



 岡山県の南部にはこうした干拓地が広がり、用水路が多く橋の多い県
として知られている。橋長2m以上の橋は、全国に凡そ70万橋有るが、
県内では約3万橋をかぞえると言う。

 市内には約9,600の橋があり全国第一位、倉敷市も約5,900の橋があり
第三位に着けている。そんな橋の一つ「第三福田橋」を越えると、周囲
の視界が開け、広大な農地の広がりが見えてくる。



 その先の臨港鉄道線は、「岡南福田駅」から1㎞程進んだ辺りで大き
く右に曲がり北に進路を変える。丁度この辺りまでが江戸時代に笹ヶ瀬
川東岸の当新田から、旭川西岸の福島にかけて築かれた土手の跡地で、
線路は国有地であるその上に敷設されていた。



 北側は元々の古地で、昔からの集落も点在していた地である。
南側は明治から昭和にかけて干拓された新地で、幾本もの用水路が縦横に
走り、それにより広大に区画されている。

 今では農地のみならず、所々に新しい住宅地も開かれている。
線路跡を隔てた北側と南側では、明らかに住宅の分布状況が異なっている
のがよく解る。(続)





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弾丸列車構想(岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-07 | Weblog


 臨港鉄道の線路は、市道に面して建つ遊技場の敷地を貫いて、市道を
越えていたらしい。その先は狭い用水路に沿って設けられた遊歩道にな
っていて、これがどうやら線路跡のようだ。
市道を横断し、振り返ると遊技場の店舗駐車場に遮られているのが解る。



 線路跡の転用道路・泉田福成線は、依然として住宅街の中を行く。
とは言え、浦安本町に入ると道沿いの家並みは所々で途切れはするが依
然続いていて、切れ目からはその奥(南側)の干拓地らしい広大な田畑
の広がりを目にすることが出来る。



 並木町駅から歩く事1.7㎞程の地点、浦安本町の交差点付近に「岡南
福田駅」があった。
現在物流倉庫になっている辺りで、開業当初は「臨港福田駅」と言った。
単式ホーム2面2線の行違いが出来る駅で、自社の倉庫や近くにある生
コンクリート工場への専用線を持っていた。今もその会社が交差点の先
に見えている。



 戦時中に政府が計画していた、東京から下関間の「弾丸列車構想」は、
戦況が悪化して頓挫したが、岡山県内では、是に連動して旅客列車として
実現しょうとの動きがあったらしい。

 現在の大元駅辺りに「新岡山駅」を建設し、新たな交通の拠点にとする
ものである。岡山市役所が大元駅に近い地に立てられたのも、将来の中心
地を見据えた、この構想の一環であったとも言われている。



 その大元駅を起点とする臨港鉄道も、児島湾で締め切り堤防の工事が
始まった機会を捉え、締め切り堤防上に線路を建設し、児島湾を横断し、
瀬戸内海に面した港町・宇野まで路線を延伸し、四国連絡とするルート
が検討された。

 国鉄宇野線は、干拓以前の旧海岸線に沿って迂回し、距離も長いので、
臨鉄の路線で短絡しょうとするものであった。
しかしこの計画は、後に四国連絡が、現在の瀬戸大橋のルートに決定し
たため、取りやめとなっている。(続)





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