簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

馬喰橋の「もちや」 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-30 | Weblog


 日坂から次の宿場・掛川までは、1里29丁(約7.1㎞)である。
この辺りの旧道は、殆どが県道を歩くが、所々で離れ、また合流する等
を繰り返しながら、元村橋で左の旧道に取り、成滝の集落を越え、逆川
(塩井川)に架かる馬喰橋を渡る。



 普段は土橋が架かっていたが、あの弥次さん喜多さんがこの地に着い
たとき、昨日の雨で橋が落ちていて、徒渡しを余儀なくされた。
たまたまここで、京上りの犬市・猿市と言う二人の座頭に遭遇する。
股引を取り、裾をまくり上げ、相方をおぶって渡ろうとする二人を目に
すると、ちゃっかり座頭の背中に負ぶさり渡ろうとするも、途中で気付
かれ川の中に落とされてしまう。



 橋を渡ると右側に、創業以来200年以上続くという「もちや」がある。
代々掛川宿入口にあり、馬を引いて行き交う旅人を相手に茶店を営なみ、
今日で8代目と言う老舗で、ここには名物の「振り袖餅」がある。



 近くにある観世音菩薩の、参詣の土産として売り出した細長い餅が、
何時しか評判を呼び、形が振り袖に似ていることからこう呼ばれるよう
になった。中に粒餡を入れ、柔らかなお餅で包んだもので、外側にはき
な粉か片栗粉がまぶしてある。
創業当時は五文で買えたので、「五文餅」とも呼ばれていたと言う。



 名物・振り袖餅の店の道路を隔てた反対側に、葛川一里塚がある。
嘗ては松が植えられていたと言うが、今は小公園風に整備された緑地に、
石碑が一本立つのみである。街道はそのまま掛川の町中を目指し、やが
て新町に至ると有名な「掛川の七つ曲がり」にさしかかる。(続)





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一里塚 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-28 | Weblog


 事任(ことのまま)八幡宮の本宮は、東海道を挟んだ右側の本宮山の
中にあり、両地は赤い橋で結ばれている。
本宮までは271段の階段を登るらしく、とてもこれから上る元気は無い。
同社は昔から「ことのままにかなう」と評判の神らしいので、街道筋か
ら歩き旅の安全を切にお願いした。



 左200mほど奥に道の駅「掛川」がありそれを望んで暫く県道を淡々
と歩く。掛川バイパスを越え、県道415号(旧国道1号線)の八坂橋の
歩道橋の有る辺りに、日本橋から223.3㎞の地点を示す距離札がガード
レールに掲げられていた。



 右にカーブする県道を外れ、左の旧道に入りそこから5分ほど歩くと、
57番目の伊達方一里塚がある。
江戸幕府は街道を整備する伝馬制を制定した後、江戸日本橋を起点に、
主な街道の一里ごとに塚を築くよう命じている。
旅人が行程の目安とし、休憩場所としても利用できるよう木陰を提供す
る木を植えた。
又この場所が、街道を行き来する人馬料金区切りの目安ともした。



 今日では一里は大凡3.92㎞とされている。
とすればこの地点は日本橋から223.4㎞となる。
先ほどの旧国道からは5分ほど歩いてきたから、この間に300m程進ん
だとすれば、この一里塚は223.7㎞の地点となる。



 単純比較で論じるのは早計かも知れないが、現在の距離と大差がない。
当時正確な測量地図があったのか歩測であった、どうやって計測したの
かは知らないが、土木技術は想像以上に優れていたのではと思えてくる。
宿内などに当り、意図的に位置をずらした例も少なからずあるようだが、
一里塚の位置も意外に正確な場所に置かれていたことが良く解る。(続)





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事任八幡宮 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-25 | Weblog
 派手な賑わいはないが落ち着きが有り、古の面影をそこかしこに
感じる良い宿場町で有った。
そんな日坂宿を後に、旧道を西に進み古宮と言う地にやってきた。

 中程に古民家があり、その前に「賜硯堂 成瀬大域 出生の地」の
石柱が立っている。





 当地で生まれ42歳の折に上京し、書を学び、後に宮内省に奉職した
書家で、ここが生家らしい。
明治天皇に書を献上し、お褒めの言葉と古い硯を賜わったと言う。
その硯と彼の書は、寄贈先の掛川市二の丸美術館に展示されている。

 更に進むと県道と合流する辺りの左側に、遠江の国の一宮「事任
(ことのまま)八幡宮」(古くは己等乃麻知(ことのまち)神社と
言い、誉田(こんだ)八幡宮とも呼ばれている)が深い森の中に鎮
座していた。





 公式ホームページによると創建時期は不明らしいが、平安時代に書
かれた枕草子や、鴨長明の「方丈記」などにも登場すると言う。
同社には、大同2(807)年、坂の上田村麻呂が勅命を奉じて、社を再
興したとの伝えがある事から、創建はそれよりもかなり前となり、相
当な古社らしい。





 境内には古木神木なども多く、今ではパワースポットとしても知ら
れているらしい。近頃では全国いたるところの神社仏閣がパワースポ
ットを謳い御朱印ブームと相まって社寺を訪れる人も随分多いという。

 忙しい日常の中に寸暇を見つけ、こうして神仏にふれ、心静かなひ
と時を持ち、パワーや御朱印を頂くことは、信心の場であることを弁
えれば決した悪くはないと思う。(続)





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宿場の備え(東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-23 | Weblog


 日坂宿の西の外れにも、秋葉の常夜灯が建っていた。
この宿場では度々火災の発生があることから、昔から根強い秋葉の火
防信仰があり、当時は宿内の三カ所に常夜灯が建てられていたと言う。



 幕府は江戸防備の観点から、街道筋には様々な施策を講じていた。
主要な街道の要所には関所を設け、通行人を改めていた。
街道筋の主要な大河には橋を架けず、舟で渡ることさえも禁じ、あえ
て手間のかかる人足渡しを行っていた。



 宿場の出入口である見附には、大木戸(宿場の出入り口を示す観音
開きの大きな戸)を設け、出入りの出来る時間を定めて、その宿場内
以外の場所での宿泊も原則禁じていた。
その場所にはそんなことを高札に書き留めた高札を掲げていた。



 また宿内の道路は、火災時の延焼防止の観点からやや広めの道路を
通していた。しかしそんな道も決して直線とはせず、敢て曲げ、曲尺
手と言われる意図的にクランク状の道を何カ所も設けるなどの対処を
行っていた。

 その為中には「○○宿の△曲がり」と言われるような、複雑に何回も
曲がりを繰り返す道もでき、是が宿場の名所としてみられるところま
であった。



 小さな宿場である日坂宿には、大木戸は無かったが小さな門が設け
られていたと言う。
横を流れる逆川には古宮橋と呼ばれる幅も狭く粗末な木橋がかけられ
ていて、非常時には簡単に落とす事の出来る構造であったらしい。



 お城で言えば丁度お堀のような役割を果たしていた川の流れそのも
のが、大木戸の役割をも果たしていたようだ。この場所が京方の見附
に当り、下木戸と呼ばれる高札場が有り、今は復元された高札が掲げ
られている。(続)




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問屋場 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-21 | Weblog
 日坂宿を西に進むと問屋場跡が有る。
幕府などの公の文書や品物などを、次の宿場に取り次ぐ業務を飛脚と
言い、その仕事を担うのが問屋でそれを司る役所を問屋場と言った。
また幕府公用の旅行者や大名などが利用する人馬を用意して、必要に
応じて次の宿場まで運ぶ重要な役割も担っていた。



 その為幕府は交通量の増加に伴い、寛永年間の記録によると、一宿
につき人足100人、馬100匹の設置を義務付け組織化していた。
慶長6(1601)年以来、幕府により定められた所謂「伝馬制」である。



 大きな宿場では複数の問屋場が置かれていたところもあるらしいが、
ここ日坂の宿場には一カ所置かれ、問屋、年寄り、請払、帳附、馬指、
人足割、人足割下役などがその業務に当たっていたと言う。



 昔から街道筋に一定間隔で置かれた場所を「駅」と言い、そこで文
や品物、人などを引き継いで先に送ることを「駅伝」と言っていた。
今日頻りに行われる「駅伝競走」は、この伝馬制からヒントを得て名
付けられたと言われている。



 ここ日坂宿には昔から「葛の粉にてつくり、豆の粉をまぶして旅人
にすすむる」と言われる「わらび餅」が名物として、旅人に持て囃さ
れていた。
ここに来るまでは楽しみに気に留めていたのだが「脇本陣黒田屋跡」
のサインに気を取られ、うっかりとして見落としてしまい、宿場の西
外れまでやってきてしまった。



 宿場には、今でも手造りに拘る山本屋商店と言う店があり、ワラビ粉
で造り中に餡が入っ餅が売られているらしいが、食べ損なってしまった。
大した距離ではないだろうが、歩きとなると引き返すのも癪でそのまま
宿場外れの秋葉灯籠の立つ辺りまでやってきた。(続)





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大旅籠 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-18 | Weblog


 宿場の西外れ近くには、江戸末期に建てられたという問屋場・藤文
とかえで屋(旅篭?)の建物が残されている。江戸末期から明治の始
めにかけて造られた建物だ。

 藤文は間口が五間、奥行き4間で、総畳数は38畳であった。
一方かえで屋は間口二間半、奥行き四間半、総畳数は16畳だという。



 更に街道を西に向かうとその先に、同年代に建てられた萬屋が有り、
間口4間半、総畳み数39畳の旅籠は、主に庶民が利用したと言う。
復元修理時の調査では、二階部分は4間あり、食事の提供が無かった
宿と考えられている。



 その向かい側に建つ川坂屋は、宿場の最も西に建つ旅籠だ。
当時の面影を良く残した間口6間、奥行き十三間、総畳数64.5畳堂々た
るの建物で、この時代には禁制材であった檜が使われていると言う。
江戸から棟梁を招いて造られた建物で、品格もあることから、主に上級
武士や公家などが利用したと考えられている。



 東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、雨の中小夜の中山の峠を下り、
この宿場に入ると有る旅篭の前で相客に巫子(いちこ:霊魂を呼び寄せ
る口寄せの女性)がいる事を知りそれが目当てで、思いもよらず早々と
宿泊を決めた。

 その後の二人の行動は、口寄せでいたぶられ、深夜に夜這いをかける
などで猥雑なドタバタはお馴染みの光景を繰り返す。



 彼らが泊まったのは、よもや萬屋ではあるまいか。
それとも川坂屋のような宿であった・・・などと想像を膨らませながら、
建物を見るのも一興である。
どの建物を眺めていても上機嫌な弥次さん喜多さんが、今にも二階から
顔を出して来そうな気がしてくるから不思議だ。(続)





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日坂(にっさか)の宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-16 | Weblog


 東海道三大難所の一つと言われる「小夜の中山」を下ると、厳しか
った峠道とは違って、そこは穏やかな家並みを見せる東海道25番目の
日坂(にっさか)の宿場である。
元々は西坂とも新坂とも言われ、小夜の中山の西の登り口に開けた宿
場町で、東の見附を抜ければ直ぐに急坂が待ち構えていたのであろう。



 宿場の東見附から西見附までの間はおよそ6町半(700m)と言い、
本陣、脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠の数は33軒、宿内の人口は750人と
云うからさほど大きな宿場ではなさそうだが、取り決め通り、伝馬100
疋、伝馬人足100人は置かれていたと言う。



 難所を控えた宿場にしては些か規模が小さいようにも思われる。
峠越を控えた旅人が英気を養い、下り終えた旅人が安堵の休息をした
であろう割には、旅籠の数が少ないような気もする。
大井川が川留めともなると、この宿にも影響が及び、大層な賑わいを見
せたというから尚更である。



 秋葉灯籠の先の幼稚園のある辺りが、宿場の中心の本陣・扇屋の跡地
である。敷地は320坪あり、建坪220坪の建物も幕末の頃の火災で焼失、
その後再建されたものの明治維新を迎え、廃業している。



 明治に入ると跡地に小学校が開設されたが、それも今は無く、復元さ
れた本陣の門が建ち、公園風な芝生の広場になっている。
明治天皇も休憩されたという、脇本陣「黒田屋」は、ここより西に少し
行ったところにあるが、今は跡地のみである。



 今日の町並は、人を見かけることも無く静かで落ち着いたものだ。
宿場内には格子戸など古い面影を残す家も幾らか残されている。
そんな通りの家並みには、昔の屋号を書いた木札が掲げられている。(続)





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常夜灯 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-14 | Weblog

 金谷坂、菊川坂、小夜の中山を上り下りして、ようやく最後の「七
曲がりの急坂」を10分ほどかけて慎重に下ると、突然目の前が開け、
国道1号線の高架道路が見えてくる。
その下を大きく迂回しながら潜れば、長く続いた急坂もようやく平坦
道に戻り、やがて次の宿場・日坂である。





 宿場の入り口に常夜灯が立っている。
常夜灯とは、街道等で夜道の安全のため、ローソクや菜種油を燃やし、
一晩中灯りとして灯しておく石柱や、自然石・加工石を組み合わせた
灯籠等のことで、東海道の街道筋では是までに何基も見てきた。

 街道の施設的なもので道中や追分けに、又集落の中、宿場の出入口、
特定の神社の参詣道等に設けられていて、かなりな年代物が残されてい
る事もある。それらは土地の篤志家や、神社への信仰心から建立される
もので、多くは燃料も含めての寄進であったそうだ。





 東海道が成立し庶民も街道を歩く様になったとは言え、灯りの乏し
い当時は、日の出と共に出発し、日没までには旅籠に入る事が当たり
前と言われていたが、何らかの事情で、日暮れて尚、心許ない提灯の
灯りで街道歩きを余儀なくさせられることもあったであろう。

 そんな折、月の輝く夜ならば兎も角、暗夜にやっと見付ける仄かな
灯りは、どんなにか心強く思った事か、それが宿場の入口に建てられ
たものなら一入で、そんな思いは想像に難くない。





 日坂宿入口に立つのは、「秋葉常夜灯」である。
駿河も遠江も、火防の神の秋葉信仰が強い土地柄らしく、至る所にお
灯明を捧げる灯籠が建てられている。ここには安政年間に献じられた
灯籠が建っていたらしいが老朽し、平成になってそのレプリカに建て
代えられている。(続)




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七曲がりの急坂 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-09-11 | Weblog
「小夜の中山」を日坂に向けて下る途中の大松の集落の辺りには、幅
が3mほどもある舗装された道なのに、国道1号線に通じる新道との分
岐部に「1.5㎞ 車両通行不可」の注意札が立てられていた。
訝かしく思いながらここまで来たが、その理由がこれで解った。



 茶畑が尽き、街道筋に人家(と言っても廃屋も有るようだ)が見える
辺りから、道幅は急に狭くなり、かなりの勾配で下る道が見えてきた。
この辺りを沓掛と言うらしい。



 この地名は峠の急な坂道に取りかかったところで、草鞋や馬の沓を
山の神に捧げ旅の安全を祈願した慣習から起こったと云われているが、
その急坂がこの先に待ち構えていた。
「七曲がりの急坂」と言われる坂である。



 国土地理院の提供する地図で調べてみると、僅か50mほどの間に110
mから91mまで標高を下げている。その先では多少緩やかとはいえ、
100mほどの間に20mほど下っている。前半の部分は正に梯子を下るよう
な坂、或は転げ落ちるように下る坂、とも言えるほどの急坂である。



 「最後の坂はきついよ、俺らの車でもきついンだから」
ここに来て小夜の中山の峠前で声をかけてくれた、茶畑の男性の言葉を
俄かに思い出した。地元の茶農家の軽トラックは、日ごろから慣れた道
で通っているけど、それでもかなりきついと言っているのだ。



 それだけに不慣れな観光客ともなると、この昼なお暗い羊腸の小径で、
急カーブ急勾配を繰り返す狭い下り道では通行が無理だと云う事らしい。
逆コースの東下りなら「小夜の中山」の峠に向け一気に駆け上る感じだ。

 因みに大松の集落から1号線の高架下まで1.4㎞の間に100m余り標高
を下げている。上りで無く下りで良かったとつくづく思う。(続)





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茶畑 (東海道歩き旅・遠江の国)(2020/09/09 投稿予定)

2020-09-09 | Weblog


 久延寺を過ぎると日坂に下る道はなだらかで、通る車も少なく快適で、
人と出会うことも殆ど無く、ただひたすら先を目指し歩くのみだ。
広々とした台地は、相変わらず一面の茶畑で、時折肌をなぜる涼風がほ
てった身体に気持ち良い。



 遠くに望む山並みの中に「茶」の字が描かれた、標高532mの粟が岳
の斜面の文字が見えている。茶処だから茶の木だと思っていたが、これ
では遠目では判別し辛いらしく、元々は松で描かれていたそうだ。
その松が松食い虫にやられ、変わって今では約1000本のヒノキが植えら
れているという。



 日本一の茶処、静岡県の茶畑の面積は全国のおよそ31%(令和元年)、
生産量(生茶葉)は39%(平成30年)を占めている。(静岡県公式HP)
古くから茶の栽培が盛んな当地を、全国一に押し上げたのは明治維新に
なって職を失った武士たちが、未開の地の牧の原台地を開墾し、茶を植
えたことが大きく寄与しているという。



 静岡の茶園は「茶草場農法」と言われる特徴を持ち、世界農業遺産に
認定されている。茶園に有機物として投入するササやススキなどを刈り
取る為の半自然農地を茶草場という。

 そこは多様な生物の生息する特別な場となり、ここから刈り取った草
を茶園に敷く事で、茶園では、「土壌の保湿・保温を保ち」「微生物の
繁殖を助け」「草は分解され堆肥となり」「土壌の流出を防ぎ」「雑草
の繁茂を抑制する」、その結果美味しいお茶が出来るという。



 広大で大規模な茶畑だけに 茶の木の作る畝の幅はほかの地域の茶畑
のそれに比べるとはるかに広いようで、これはほとんどが機械摘みされ
るかららしいく、今正に目の前では茶摘みの作業中で、静かな里山には、
茶芽を摘む乗用機のエンジン音だけが聞こえていた。(続)





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