簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

弥次・喜多の旅立ち(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-31 | Weblog

 「お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪」
昔の旅人は、今で言う午前4時ころ、まだ夜も明けやらぬ暗い中、提灯に明かりを
灯し、日本橋を渡り、東海道を歩き始めたそうだ。
そこから高輪の大木戸までは6キロ余り、ゆっくり歩いても二時間足らずの距離だ。



 東海道五十三次歩きを思い立ち、何かの参考にでもなればと出発前、改めて十
辺舎一九の「東海道中膝栗毛」を読み直してみた。
主人公・弥次さん喜多さんもてっきりそうしたものと思い込んでいたので、それを確
かめてみたかったのだ。ところが・・・。



 『神田の八丁堀に独住の弥次郎兵へといふのふらくもの、食客の喜多八もろとも、
朽木草鞋の足もと軽く、(中略) はやくも高なはの町に来かゝり、』
(日本古典文学全集49 「東海道中膝栗毛」 昭和50年12月 小学館)
ところが七つ立ちとも、提灯を灯したとも、そんなことはどこにも書かれてはいない。



 『百銅地腹をきつて、往来の切手をもらひ、大屋へ古借をすましたかわり、お関所
の手形をうけとり、(中略)酒屋と米やのはらひをせず、だしぬけにしたればさぞやう
らみん、』借金を踏み倒し旅立ったのは神田の八丁堀とあるから、日本橋を渡ったこ
とは確かなようだ。



 当時の江戸っ子にとってここ、高輪の木戸まではご府内で、これを潜るといよいよ
東海道、旅の始まりと言う感覚であったようだ。
ここで提灯の明かりを消して、改めて草鞋の紐を結びなおし、木戸が開けられる明
け六つ(凡そ現在の午前6時頃)を待ったのであろう。
この地に立つと、そんな姿が見えてくる。



 高輪の木戸を抜け、忠臣蔵で有名な赤穂藩縁の泉岳寺を右に見る。
久しぶりに浪士の墓でも詣でたいところだが、時間もないのでそこは我慢である。
先に進むと品川だ。(続)





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高輪の大木戸跡(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-29 | Weblog



 右手に「東京タワー」が見え隠れし始めている。
大門の交差点からは、芝増上寺であろうか、瓦屋根を被った山門らしき建物が窺
えるが、行きかう車や、駐車中の配送車両などに隠されて良く見えない。



 その先で金杉橋を渡る。
左手奥を流れる芝浦運河に通じる古川らしいが、殆ど高速道路が覆いかぶさって
いて、陽が当たらないし、魚も住めないだろうなどと、川がかわいそうに思えてくる。
そんな川にも漁船や釣り船に交じって、提灯を吊るした屋形舟が舫われている。
東京には、今でもこうして江戸の町人のように屋形舟で川遊びをする風流が残って
いるのであろう。このあたりが日本橋からは丁度4キロ地点である。



 田町のビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地」の碑が立っている。
隆盛の孫の西郷吉之助の力強い揮毫である。
この地には旧薩摩藩の屋敷が有り、明治維新の前夜、江戸を火の海から守るため、
江戸城の無血開城が話し合われた。
当時このあたりは海に面した砂浜に街道が沿っていたところで、江戸時代の海岸線
が最後まで残された場所でもあると言うがそんな面影は今どこにもない。



 その先に石垣と大木が茂る小公園のようなものが見えてきた。
「高輪の大木戸跡」である。
木戸と言うのは、治安の維持や交通機能を目的に、街道の両側に石垣を築き、そ
こに門を構えた場所のことで、開けられるのは明け六つから暮れ六つの間(凡そ現
在の午前6時頃から午後6時頃)で、夜間は閉めて通行止めにした。



 この高輪の木戸は、道幅約六間に造られたもので江戸の南の出入り口にあたり、
ここを出るといよいよ江戸とは別れることになる。(続)





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新橋(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-26 | Weblog



 京橋、銀座を抜け、新橋に掛かる辺りで「銀座柳の碑」を見る。
さすがにこのあたりまで来ると、銀座の喧騒は無くなり、人の流れの雰囲気は今ま
でのそれとは少し変わり、妙な落ち着きが感じられる。





 高速道路を潜り、新橋駅を見てその先で新幹線のガードを潜る。
不思議なことに、あちこちで「新橋」と言う文字を目にすると、知らず知らず鉄道唱
歌を口ずさんでいた。『汽笛一声新橋を・・・』が、どうも歩調にはよく合うようだ。



 『汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友
として』こう歌いだす鉄道唱歌の第一集(東海道編)が発売されたのは明治33年5月
のことであった。
その後、評判の良いことに気を良くし、立て続けに第二集(山陽・九州編)、第三集
(奥州・磐城遍)、第四集(北陸編)、第五集(関西・参宮・南海編)が売りに出された
と言う。



 当時の歌集の表題には「地理教育」と言う文字が書き込まれていて、小学生など
低学年への地理や歴史を教える教育的な面もあったそうだ。
これらは歌いやすいメロディと、その土地の名物、名所、歴史などを織り込んだ親し
みやすい歌詞が受けたのか、ベストセラーとなり、亜流が出たりしながら、それでも
今日まで歌い継がれている。



 その新橋と横浜の間に鉄道が開通したのは明治5年の事である。
当時の新橋駅は、後に貨物駅となりその後廃止となった汐留駅に造られた。
木造石張りのモダンな駅舎が建てられたが、このあたりはまだ雨が降るとぬかるむ
ような広大な空き地が広がっていたそうだ。(続)

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中央通り(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-24 | Weblog
 橋の袂の交番前で、国道1号線の道路標識を確認し、中央通りを歩き始める。
とは言え1号線はその先の交差点で右に逸れてしまうので、そこからは国道15号
線と呼ばれる幹線道を行くことになる。



 日本を代表する通りである。テレビや新聞・雑誌などでお目にかかる企業や銀行、
商店、飲食店、老舗のデパートなどが軒ならぬ巨大なビルを並べていて、さしずめ
そのビルの谷間を歩くイメージだ。


 
 そんな中京橋に差し掛かると「警察博物館」と書かれた5階建てのビルが有った。
警視庁の広報施設らしい。
その先で高速道路を潜ると、そこはもう日本一の繁華街・銀座の入口である。
ここにはかつて京橋で使われていた親柱が残されている。



 銀座は江戸時代徳川幕府を支えた銀貨幣が鋳造された役所が置かれた場所で、
その町名発祥の碑が2丁目の路上に立っている。



 とにかく人が多い。横切る道路が多い。信号が多い。気になる店も多い。
ついついショーウインドウや、食べ物屋さんのメニューに見入ってしまうので、なか
なか前に進めない。買い物や食事をしょうともするわけではないのだが、何を見て
も珍しいお上りさんそのものである。



 通りはサラリーマンやOLに交じり、観光客らしき姿もあるが、大きな塊で行動す
る一団は爆買いでもするのか、外国人が圧倒的に多い。
しかし一方で、観光バスなどで乗り付ける客への対応であろう、店の前で「大型車
の駐停車はお断り」と書かれた紙を掲げる人が見受けられる。



 今日爆買いは多少収まったと言われているが、それでも悲喜交々・丁々発止の
やり取りが、店だけではなく路上でも繰り広げられているようだ。
銀座通りの外れ7丁目から8丁目あたりの路上には、客を待つ大型の観光バスが
何台も停まっていた。(続)

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日本国道路元標(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-22 | Weblog
 広重描く「日本橋朝之景」では橋の袂に高札場が見受けられるが、丁度そのあ
たりになるのであろうか、現在の高札場になっている。



 木や花が植えられ、数々のモニュメントが並び、重厚な瓦屋根の高札には橋の
謂れや歴史などが刻まれている。
そんな中に江戸幕府最後の将軍・慶喜の筆による「にほんばし」と刻まれた橋柱
などもあり、それらを眺め、説明文を呼んでいると時間がどんどん過ぎていく。



 今回の旅はこの橋を見に来たわけではなく、ここをスタートに東海道五十三次を、
弥次さん喜多さんのように膝栗毛しようと言うものである。



 二人は途中から伊勢神宮へ向かいその後京・大阪を巡っているが、今回の歩き
旅のゴールはあくまでも京・三条大橋である。
余力が有ればその先の五十七次・大阪まで向かいたい。
とはいえ、500キロ近い距離を一気に歩くだけの健脚を持ち合わせていない身には
何回かに分けて歩くしか術はなく、小刻みな気楽な旅である。



 昔の旅人は朝暗いうちに宿を出て、日の出に追いかけられるように歩き、日中日
差しの厳しくなる時間帯には休み休み行き、そして日が暮れる前には宿に入ってい
たらしい。



 こうして一日10里の道のりを歩き、東海道なら2週間前後で踏破したと言う。
途中には山越えや川越えなどもあり、毎日連続で40キロを歩き続けるわけではない
だろうが、それにしても驚異的な脚力である。



 ここにだけ時間を過ごすわけにはいかない。
車の行きかう橋の中央をふと見やると、そこには「日本国道路元標」が埋め込まれ
ている。ここが「東海道」のスタートライン、いよいよ歩き旅の始まりだ。(続)

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お江戸日本橋(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-19 | Weblog
 その「東海道」の出発点が、当時の日本の中心お江戸の「日本橋」であった。
江戸幕府は整備した五街道(東海道、日光道、奥州道、中山道、甲州道)の起点
を全てここに定めている。



 その当時から重要な水運の航路であった日本橋川と交差する地に、橋が架けら
れたのは慶長8年(1603年)のことだ。
川岸には高札場が有り魚河岸が有り、当時の町の中心であるばかりでなく、経済
活動の中心的な場所であったらしい。



 広重が描く有名な「東海道五十三次の内日本橋朝之景」には、朝焼けの空の下、
丸く反った太鼓橋のような木橋を渡る大名行列や、橋の袂の高札場、天秤棒に桶
をぶら下げて担ぐ町民(魚屋)などの姿が描かれていて、当時の賑わいぶりを窺い
知ることが出来る。



 橋は有名な明暦の大火(1657年)で全焼するなど、幾度となく火災などで焼け落
ちている。燃えやすい木造橋から石造りに代わるのは明治に入って間のない頃で、
現在の橋は明治44年4月に完成したもので、19代目と言う。



 日本橋は今では地名としても残り、日本の金融・経済や商業の中心的な場所と
して、その賑わいは江戸の開府以来変わることなく続いている。
当時とは比べ物にならないほど広げられた橋の上を車が激しく行きかい、その上
を覆う首都高速道路では車が駆け抜けている。
川面に船が行き来し、陸の通りも慌ただしく、人の往来も多い。





 国の重要文化財に指定された優美な石造り二連のアーチを見せる橋、とりわけ
麒麟や獅子が飾られた親柱を背に記念撮影する観光客らしき姿も多く、ここは東
京観光のスポットでもあるらしい。(続)

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旧東海道(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-17 | Weblog
 関ヶ原の合戦で勝利し江戸に幕府を開いた徳川家康は、その翌年東海道に伝
馬制を制定した。これは宿場ごとに人馬を置きそれを交代しながら引継ぎ、幕府
の公用のための書状や荷物などを目的地まで円滑に運ぶための制度であったが、
その整備には20年以上を要したと言われている。



 江戸・日本橋から、京・三条大橋までの間に五十三の宿駅を定めた。
しかしこの道の成立当初は、各地に関所を設け、川に橋を架けることを禁じたり、
あえて道を曲げたりするなど、軍事上の道路としての機能が優先されていたそうだ。



 やがて三代将軍・家光の時代になって参勤交代が制度化され、大名などの行き
来が始まると庶民の間でも各地の社寺への参拝、物見遊山などの旅が流行りだし、
次第に通行量が増えていった。



 それに伴って街道沿いには大名などが泊まる本陣や脇本陣、行先を示す道標、
一里塚や松並木などが整備され、当初の定めで36疋とされた伝馬の数も大幅に
増やされ、更に庶民も泊まれる旅籠や休憩のための茶店などが現れ、道は軍事
目的から誰もが行き来できる公道として変貌していったと言う。



 とはいえ、当時は庶民にとってまだまだ気軽に歩き回れると言うものではなかっ
たようだが、兎にも角にもこうして日本随一の幹線道路である近世「東海道」が整備
されたのである。



 『大江戸の中央にして、かつて、諸方への行程ここより定。京三条の橋までの道
のり百二十四里二十四丁、駅宿五十三次、これを東海道と言う。』
(「新東海道五十三次」 井上ひさし 文芸春秋社 昭和51年)(続)





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東京駅(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-05-15 | Weblog



 久しぶりの東京である。
鉄道の乗り潰し旅では何度も訪れている東京ではあるが、乗換に利用するだけで、
中々降りる機会には恵まれてはいなかったので久々と言うことだ。



 現役時代には東京駅で下車しても、殆どが八重洲口に降り立って用向きに真っ直
ぐで、滅多に丸の内口に出ることは無かった。
この日も新幹線を降り、一旦は八重洲口に向かいかけたものの、途中で踵を返して
みた。駅舎が綺麗になったとの、随分前の報道を俄かに思い出し、この機会に見て
おこうと思ったのだ。



 世界で最初の高速鉄道として東海道新幹線が開通したのは、東京オリンピック
が始まる直前の昭和39年10月1日のことであった。
その後国内には順次新幹線網が整備され、半世紀余りの間に北海道から九州ま
でが標準軌の鉄路で繋がっている。
便利になり、国内が随分と狭くなった印象だ。岡山・東京間が僅か200分程である。



 そんな時代に何を血迷うたのか、東海道を歩いてみようと思い立った。
四国八十八カ所を歩き、その後京都羅城門から古の人々が目指した高野路を歩き、
高野山詣でを終え、その後は腑抜け状態になっていた。



 人の歩くスピードでは200分ならせいぜい十数キロに過ぎないが、新幹線は700
キロもの距離を駆け抜ける。
こんな時代だからこそ、ゆっくりのんびり歩いてみたい、などとしかつめらしい話で
はないが、格段の理由もなく唯々歩いてみたいだけである。



 この日は、旧東海道歩きの第一日目、スタート地点である日本橋に向かう前に、
東京駅の丸の内口に降り立ってみた。(続)



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阪和線から桜島線(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-05-12 | Weblog
 和歌山からは阪和線で天王寺に向かうが、ここからは大阪環状線に乗り入れる
紀州路快速が出ているので、ことさら阪和線を意識することは無い。
阪和線は、和歌山と大阪の天王寺を結ぶ路線で、63.0Kmを36の駅で結んでいる。



 阪和線の途中駅日根野は、関西国際空港への玄関口で、ここからは11.1Kmの
関西空港線が接続している。
日根野を出ると次がりんくうタウン駅で、南海電鉄の空港線も乗り入れている。



 空港は大阪湾の沖合5㎞の場所に造られた人工島にあるので、そこには全長
3750mの連絡橋が架けられていて、ここはJRと南海が共用しているので、途中
ですれ違う他社の電車も見ることもある。
関西空港自動車道と寄り添いながら橋を渡り終えると、電車は地下に潜り関西空
港駅に到着する。ここまで10分ほどだ。





 阪和線途中の鳳からは東羽衣に向かう羽衣線(本線の支線)が出ている。
僅か1.7Km、乗車時間にして3分ほどの短い路線で、ワンマン車両が折り返し運転
で運行している。これも忘れず乗り潰すことになる。



 大阪市内に戻り西九条駅で途中下車し、ここから桜島線を乗り潰す。
桜島線には、「JRゆめ咲線」の愛称が付けられている。
ここと桜島を4駅で結ぶ4.1Kmほどの路線で、途中には平成13年にオープンした、
ユニバーサルスタジジャパン(USJ)の最寄り駅となるユニバーサルシティ駅がある。



 多くのカップルや家族連れが楽しそうにシティ駅で降りて行った。
工業地帯でもある終着駅には、朝晩大勢の利用が有るのかもしれないが、今は
閑散としている。ここまで来れば、今回の旅の目的は終わることになる。
(JR乗り潰しの旅・紀勢本線 完)



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終点・和歌山(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)(2017年05月10日)

2017-05-10 | Weblog
 紀伊田辺から出る電車の多くは御坊行だが、中には和歌山まで行くものもある。
御坊では0番線で、紀州鉄道と接続する。この鉄道、営業キロ数が僅か2.7キロと
言うミニ鉄道で、駅の数は5つ、平均時速は20キロと言う市内電車並みの速度で、
終点の西御坊までを約8分で結んでいる。



 古い鉄道地図で調べると、かつては更に数百メートルほど先の、日高川が太平
洋に流れ込む河口辺りの港に終着駅が有ったようだが、廃止になっている
JR駅と市街地を結ぶ生活路線は、日本最短のローカル私鉄として、鉄道フアンも
多いらしい。





 紀勢本線の終点は和歌山駅ではなく、そこから更に3.3Kmほど西に向かった先の
和歌山市駅である。紀勢本線の電車の中には、ここから先の阪和線にそのまま乗り
入れるものもあるが、多くはこの駅止まりで、本線の終点の和歌山市駅に行くにはこ
こで乗り換えることになり、その本数は1時間に2本程度である。
僅か6分程度の乗車で終点に到着すれば、384.2Kmにも渡る紀勢本線の乗り潰し
は終わる。



 私鉄の南海本線も乗り入れる和歌山市は、和歌山県の県庁所在地で人口はお
よそ36万人、紀ノ川左岸に開けた町で、その中心市街地はどちらの駅からも少し
距離がある様だ。



 江戸時代には徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町で、和歌山城を始め近隣
には雑賀衆ゆかりの場所や名所・旧跡も多いようだが、例によってゆっくりする暇
もなく、折り返しの便で慌ただしく和歌山駅に戻るのである。(続)



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