簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

日本のデンマーク(東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-28 | Weblog

 
 陽気の穏やかな時期を選んで、旧街道歩きを続けている。
しかし気候は気ままで、時に予期せず気温が上がることがある。
季節外れの夏を思わせる日差しの中、アスファルトの道は、思いのほか
暑く余計に汗をかき、それだけにこまめな水分補給は欠かせない。



 近頃では歩く時は「MEDALIST」顆粒一袋を、500㎖の水に溶かし、
折に触れそれを一口ずつ含み、1日に3本は飲むように心がけている。
歩く上でやはりこの水分補給は欠かせない。
 今ではそんな水は、コンビニやスーパー、自動販売機などで簡単に調
達する事が出来、これまでもこれで困ったことはない。



 東海道筋の岡崎から安城、豊田に掛かる岡崎平野一帯は、大正末期か
ら昭和初期にかけて、「日本のデンマーク」と言われた時期があった。
 農業や酪農が盛んで、気候や風土も似ていることから、農業先進国の
デンマークになぞらえそう呼ばれた。
その基になったのが、明治用水の開通による水の供給と大規模な開墾だ。



 永安寺から暫く先に進むと左側に明治川神社があり、その角に明治用
水の碑が立っている。
神社には明治用水の開設に関わった4人の功労者も祀られている。
用水は西三河地方の農業や工業に必要な水を供給するためで、江戸天明
年間に計画され、その後も土地の有力者に代々引き継がれ、百年近い歳
月を掛けて完成したものだ。



 これにより約1万町歩の灌漑に成功し、農業の多角化に寄与した。
この明治用水と安城市の日本のデンマークは、成功事例として小学校か中
学校の教科書で習った記憶がある。
今日の教科書でも紹介されているのであろうか?

 当時は掘り割りの用水であったらしいが、今ではその水路は地下に潜り、
強化プラスチックの管となりこの道路の下を流れている。(続)





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助郷制度(東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-25 | Weblog


 「村社 熊野神社」の境内前には、「鎌倉街道遺跡」、「尾崎の一里
塚」などの案内板も建てられている。

 鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に63駅を定めた鎌倉街道が
設置され、その古道がこの神社の森を通り抜けていたという。



 そこから数百メートルほど西進した宇頭町は、嘗て大浜茶屋村と呼ば
れた地で、昔上り下りの立場が有った所だ。
江戸(東京)行幸される明治天皇も、ここで休憩された。

 その先に、永安寺と言う寺院があり、境内に見事な松が見えたので、
見学がてら、ここで水分補給の一休みをさせて頂くことにした。



 この村の庄屋であった柴田助太夫の旧宅跡に、草庵として建立され、
彼の死後、本人とその妻の戒名から、「本然山 永安寺」と名付けられ、
曹洞宗に属したのがこのお寺だそうだ。

 松は県の天然記念物に指定された、樹齢350年の「雲龍の松」である。
珍しい事に、幹が垂直に延びず背丈ほどのところから、地面に沿うよう
に枝を伸ばしている。



 その昔当地では、「助郷制度」が民の生活を苦しめていた。
見かねた庄屋の助太夫は、農民の窮状を訴え、制度の免除を願い出たが、
藩はお上にたてつくは不届きとして彼を死罪とした。

 やがて村の助郷役は免除になり、救済される事になったので、領主の
交替毎に助太夫の一件を説明し、幕末期まで免除を続ける事が出来た。
農民がそんな庄屋の厚恩に感謝し、建立したのがこの草庵と言われている。



 この「助郷制度」というのは、大名などの対応で多くの人馬を必要とする
場合、宿場だけでは不足することが有り、周辺の村から基準数に満たない不
足分を雇い入れる制度である。

 雇い入れると言えば体は良いが、支払われる賃銀は安かった。
助郷の村々に取っては、使役ばかりが負担と成り、宿場の困窮を転嫁される
だけの制度と思われ、不評であったと伝えられている。(続)





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予科練の地(東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-23 | Weblog
 矢作橋を渡り暫く旧街道を歩いた後は、国道1号線に出て単調な国道
歩きを続ける。左側を走る名鉄の宇頭駅を過ぎた先の尾崎東で、国道1
号線を外れ右の旧道に入りこむ。
道なりに暫く行くと右手に「村社 熊野神社」の緑濃い森が見えてくる。



 街道沿いに常夜灯が立ち、それと並んで「予科練の碑」、「元第一岡
崎海軍航空隊配置図」と書かれた案内板等が建っていた。

 それによると、戦局の芳しくない昭和19年2月、戦力の画期的な増強
を目論見、海軍はこの地に練習航空隊を設置し、飛行予科訓練生の即戦
力養成を行っていたと言う。



 訓練生の数はおよそ六千名に上った。
全国各地から選別し集められた若者は、日夜の別なく厳しい訓練を受け
た結果、各地の航空隊へ実務練習生として派遣されて行った。
恐らく彼らはその地から、勝ち目のない戦の、特攻隊として玉砕すべく
飛び立って行ったことであろう。



 現在当地の三菱自動車の工場がある辺りにも、東西に長大な滑走路が
貫いていたらしい。
この岡崎から安城、豊田の各市に跨がるこれら航空隊の広大な平地も、
元々は開墾された田畑等が転用されたものである。



 昭和20年、日本はポツタム宣言を受け無条件降伏した。
戦争は終結し、同隊は直ちに解体され、施設は閉鎖される事になった。
跡地は元の美田に戻され、再開発され今日に到っている。



 飛行予科訓練生の事は、鹿児島の知覧を訪ねた折詳しく知り、胸に痛
く突き刺さるのを覚えたが、この地の予科練の存在はここに来るまで全
く知らなかった。

 今日の平和が、このような戦禍犠牲の元に成り立っていることを改め
て思い知らされ、頭を垂れずにはいられなかった。(続)





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小六と日吉の出合い (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-21 | Weblog
 岡崎の宿場を外れ国道1号線に出て、そこに架かる矢作橋を渡る。
流石に東海道ベルト地帯の幹線道、国道1号線を通る車は引っ切り無しだ。
東海道本線や、東海道新幹線は遙か南を抜けていて、橋の上からは見通す
ことは出来ない。
しかし、左手の名鉄の鉄橋では、時折赤と白の電車が「ガァーガァー」と
騒々しい音を立てながら通り過ぎている。



 橋の西詰め右側に、「出合之像」と名付けられた大きな石造が見える。
この付近を荒らし回っていた野武士の頭領、蜂須賀小六正勝が、日吉丸
(後の豊臣秀吉)とこの橋で出会ったとの伝承に因んだものだ。



 物語などでは日吉丸が橋の上で寝ていると、そこを通り掛かった小六が、
邪魔だと言って頭を蹴った事を、侘びろ、侘びないで押し問答になった。
しかしこの説には異論もあるようだ。



 『天文二十一年の夏の頃には、まだまだこの地は、乱世乱麻の合戦の
真ッただ中。矢作の大河は、どうとうと押し流れてはいたが、矢作の大
橋はなかった・・』(「新書太閤記 吉川英治 昭和42年 講談社」)
と書いていて、この時に橋は無く、それは作り話と述べている。



 同書に寄れば、日吉丸この時十七歳、『木綿針や絹針を小さなたとう
に包み、それを行商しながら、甲州、北越の方まで売り歩いてきた・』
そしてこの地で腹を壊し、『黄昏、この矢作川の畔に辿りつくと、その
痛む腹をかかえたまま、舟の中で寝入ってしまった』
そして渡舟をよこせ、と詰め寄る小六との諍いが起きたのである。



 本家本元、現場に立つ像に、どのような謂れが書かれているのか読ん
でみたいところが、国道には中央に分離フェンスが立ち塞がっている。
横断歩道もかなり先まで行かないと無く、向こうに渡れない。
知っていれば、橋の手前で渡っておくのだったと悔やむのである。(続)





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矢作橋 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-18 | Weblog
「豊川矢矧川おほや川(男川)とて三つの川有れば三河の国というなん」



 これが「三河」の国名の由来とも言われているが、定説にはなっていな
いそうだ。
しかしこのように名前が挙げられている事から考えても、岡崎宿の西を流
れる矢作川は、古来より三河を代表する川であることに違いは無いようだ。



 江戸幕府は街道の整備を進める一方、治安上の理由から東海道筋の大
川に橋を架けることを厳しく制限していた。
僅かに「六ごうの橋、よしだの大橋、やはぎの橋、せたのから橋」位で、
その他の川は、基本は人力による徒渡しである。
ただ小さな川には、粗末な木橋や土橋は架けられていたようだ。



 しかし「神君家康公」の生誕地岡崎は例外らしく、慶長6(1601)年に
は土橋が架けられている。長さ二百八間(凡そ380m)、橋杭70柱と言う、
堂々とした作りで、当時は日本一の長さを誇り、街道筋では名の知れた橋
であった。その後何度も大水で流されているが、その都度改修され、橋が
維持されて来た。



 広重の「東海道五十三次之内 岡崎」では、この「矢矧之橋」が描かれ
ている。
御油では、旅籠の前で客を引く留め女を描き、次の赤坂では旅籠で寛ぐ旅
人の姿と、化粧に余念が無い宿場女郎の姿を描いている。
これらの一連の画は、その連続性を匂わせているので、次の場面としては、
岡崎女郎衆が描かれても良いように思うが違っている。



 代々譜代大名が治める「おかざきさま」を憚っての忖度か、と思いたく
もなるが、大名行列が渡る矢矧橋の図である。
是は女郎衆以上に当時の矢矧之橋の存在が大きかったからであろう。

 岡崎城下を出れば、ここから三河の国最後の宿場・知立まで、3里半
11町22間(およそ15㎞)の長丁場が待っている。(続)





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八丁味噌の郷 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-16 | Weblog


 いい加減、うんざりする程に曲折を重ねて来た「岡崎二十七曲がり」の、
ようやくの終点が八丁の交差点である。
岡崎城から八丁(およそ870m)離れていて、それが地名の由来だという。
そこは「八丁味噌の郷」と言われる地で、八丁味噌の老舗、「カクキュー」
と「まるや」が旧街道沿いに蔵を並べている。



 ここでは土鍋で生麺から煮込む「味噌煮込みうどん」が食べられるが、
残念ながら営業時間が終わっている。
懐かしい味を期待してきたが、今日は悉く食べ物にも見放されている。

 老舗の味噌蔵が幾つも並ぶ通りは、そんな味噌の良い香りを漂わせな
がら、旧道らしい雰囲気を醸し出している。



 八丁味噌は矢作川の伏流水により大豆と塩のみを使い、大きな木桶に
仕込み、長年使い続ける川石を重しにし、大豆の旨味を凝縮させるため、
二夏二冬以上じっくりと人の手を入れることなく熟成させる。
その分酸味と渋みが残り、苦みのある濃厚な旨味と香りが特徴だという。



 豆味噌文化の東海地方で生まれ育った身には、味噌カツ、味噌おでん、
味噌煮込みうどん、土手煮、味噌田楽など、濃厚な赤味噌料理はいつまで
経っても忘れられない味である。

 そんな地を離れ、はや半世紀になるのに、未だに味噌汁は「赤だし」に
拘り、赤みそ料理のためにも毎年当地の蔵元から取り寄せている。



 蔵元の立ち並ぶ細い路地を抜けると、国道1号線に行き当たる。
その少し手前の道路脇には、味噌仕込みの重しに使われる玉石(川石)が、
山のように積み上げられていた。

 そこを左折するとやや上り道となり、やがて矢作川に架かる橋を渡る。
矢作橋で、長さ300m程の今橋は、数えて16代目だそうだ。(続)





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岡崎城・遠望 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-14 | Weblog


 何十年振りかの岡崎城下であるが、足の痛さもあり寄り道は出来ず、
それでも道中の写真だけは何とか撮り続けて来た。
案内柱の「いろは」ばかりに気を取られ、今となってはどんな町並で、
何があったのか、殆ど印象に残っていない。
宿場の名物、淡雪豆腐(あんかけ豆腐)を模した、銘菓すら味わうこ
と無くやり過ごしてきた。 



 城下を抜ける二十七曲街道で、うんざりする程幾つかの曲がりを重ね、
ようやく伊賀川に架かる三清橋にさしかかる。
この辺りまで来ると、前方の緑の森の中に岡崎城を見通す事が出来る。
「いろは」の案内柱は「る」となっている。 



 折角のお城だが、手前のビルや深い緑の森に阻まれて、全貌を伺い知
ることは出来ない。
ここは江戸幕府の譜代の臣が代々城主を務め、権威を誇った城であるが、
明治維新により建物は全てが取り壊されている。 




 戦後になった昭和34年に三層五重の天守閣、井戸櫓、付櫓などが再建
され、お城を含めた一帯が岡崎公園となり、茶室や能楽堂日本庭園など
が整備されている。
一角には、三河武士に纏わる「三河武士のやかた家康館」や、「岡崎城
資料館」もあるらしい。 



 またこの辺りの南側一帯は、乙川の河川緑地公園で、嘗てはここに船
着き場が有ったと言う。
「五万石でも 岡崎様は 御城下まで船が着く」
このようにうたわれた川湊が有り、帆掛け船が上り下りしていた。 



 国道248号の八帖の交差点まで来ると、前方に矢作川が見えてくる。
これでようやく複雑な街道「岡崎二十七曲がり」も終わりが近い。

 確かに城下を隈なく歩き回ったような感覚はあるが、結局終わって
みれば、案内の標柱ばかりに気を取らここまで来たような気がする。
ただ歩き続けただけで、何とも罪作りな曲がり道であった。(続)



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懐かしい町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-11 | Weblog


 岡崎は名古屋に住んでいた折、小学校の頃の遠足や子供会の行事など
で何度も訪れた懐かしい町である。
とは言っても、知っているのは岡崎公園とお城ぐらいのごく限られた一
画だけで、記憶としても殆ど何も残ってはいない。
二十七曲がりと言われる街道筋を歩くのもこれが初めてである。



 岡崎の銘菓と言えば、創業が天明二年の備前屋「岡崎名物 あわ雪」だ。
当地を訪れた際の定番土産は、これと赤だし味噌である。

 その店舗を町中で目にしたが、珍しく立寄ることも無くやり過ごした。
理由は簡単で、肉刺が潰れた足が痛み、回り道も寄り道もする気にはなれず、
早く宿に入りたい一心で、只ひたすら前に進み続けてきたからだ。



 吉良道の追分けを示す石柱等を見ながら、お城を遠巻きに、何度も曲
がりを重ねる街道を、些か食傷気味に歩いて来た。
途中には気になるところも沢山有ったが、足が痛くてルートを外れるの
も億劫で、「いろは」の案内標柱ばかりを気にして歩いていた。 



 そんな町中で一際目を引いたのが、街道筋に有った大正6年に建てら
れた岡崎銀行本店の建物だ。
現存する大正時代の数少ない建物の一つである。
 赤煉瓦造と御影石(だと思うが)を複雑に組み合わせた手の込んだ作
りは、ルネッサンス様式の建物で、内部は資料館として公開されている。



 「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし、いそぐべからず 
不自由を常と思えば不足なし・・・」この先は忘れてしまった。

 岡崎城下では、何だかこの遺訓を背負って歩いている様な気がした。
お城には、それを刻んだ東照公の石碑があるらしい。(続)





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宿場町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-09 | Weblog
 岡崎城主・田中吉政による城下の整備と「岡崎二十七曲がり」と言わ
れる街道の付け替えで、宿場は整備され家屋や人口も増え、町は繁栄し
大層な賑わいを見せるようになった。

 それは「その賑わい、駿府に次ぐべし」と言われる程の繁栄ぶりが伝
えられている。
宿場は本陣と脇本陣が各3軒あり、旅籠の数は112軒を数え、城下の戸数
は1,565軒もあり、人口は6,500人ほどの規模であったと言う。





 当地は「家康と三河武士のふるさと」と言われるように、神君家康公
出生の地であり、家康が浜松城に移るまでの本拠地であり、無骨な三河
武士の故郷である城下町だ。

 しかし昔から「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われ、「昔より、遊女
の名高く・・・」と言い、「妓百余人有り」と当時の道中案内では伝え
られている様に、「岡崎女郎衆」がとみに知られた土地でもある。





 家康所縁の城下町と女郎衆が名高い宿場町では、何となくそぐわない
ように思われる。
しかし宿内に住む男が3,000人余りに対し、女は3400人余りと言うから、
女の方が多く住んでいたことが解る。
その中に女郎衆が100人以上いてもおかしくはなく、街道の評判を得て
いた事も肯ける。





 古い町並は戦災で焼失し、往時の面影を残す建物は殆ど残ってはいない。
街道筋には、東本陣跡、脇本陣跡、西本陣跡、御馳走屋敷跡、籠田惣門跡、
対面所跡などがあるが、何れも案内表示で知るのみだ。

 しかし伝馬通り、連尺通りや、魚町、材木町など、旧町を彷彿とさせる
地名だけは至る所に残されていて、通りも活気ある賑やかな町並である。
それなのに、古の城下町・宿場町の風情を感じさせる不思議な感覚の町で
もある。(続)



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城下町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-07 | Weblog
 「五万石でも岡崎様は、御城下まで舟がつく」
岡崎城下は、昔から俗謡でこのように謳われている。
徳川家康が生まれた地、神君出生の地であり、その後の度重なる苦難と
忍従を重ねた地でもある。



 徳川幕府発祥の礎の地であり、更に東海道の要衝の地でも有った。
石高こそ低いものの、代々徳川譜代大名が城主を務め、その藩主の多
くが幕閣の要職を務めるほどの勢威を振るっていた。



 岡崎には中世の頃から、竜ケ城と言う城が築かれている。
時を経て後世、家康が浜松城に移るまでの間の本拠でもあるが、岡崎発
展の礎を築いたのは、岡崎五万七千石の城主となった田中吉政である。

 天正18(1590)年、徳川家康が駿府城から江戸に入った時を同じく
してここに入城し、ただちに城下の整備に着手している。



 城を近世城郭に整備すると同時に、城下を七つの町割りの整備を進め、
町を囲む田中堀を作り、その内側に10年掛けて街道の付け替えを行った。
これが「岡崎二十七曲がり」、およそ一里で城下を抜ける宿場道である。
この間、社寺の領地の没収や、移転も強引に進めている。
またこの時矢作川に、江戸時代では最長と言われた木橋を架けている。



 幾ら家康公のお膝元とは言え、また豊臣に対する西上への備えと言え、
些か度が過ぎているようにも思われた。
主たる目的が防御であるとは言え、城下を通り抜ける街道筋を、二十七
回も道を曲がらせるのは、尋常ではない。



 しかし政情が安定した頃には、長い街道筋にも民家や商家が建ち並び、
是により人口も増え、人々も行き交い城下は賑わったらしい。
加えて街道の付け替えにより旅人は増え、旅籠の泊まりも多く、益々繁
栄を来したと言うから、吉政の先見性を認めざるを得ない。(続)





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