簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

中尊寺金色堂

2016-11-30 | Weblog
 堂内に入ると、落ち着いて安定した冷気が体に纏りついてくる。
微かな空調の音以外は何もない室内は、温度や湿度が完全にコントロールされ
ているようだ。
そんな内部にはガラスケースで隔離された小部屋が有り、その中央には、黄金
色に輝く「金色堂」が端正で瀟洒な姿を見せて建っている。



 ため息が出るような煌びやかな美しさである。
鳳凰が、大きく優美に羽を広げたように、美しい反りを見せる仏堂の屋根。
宝形造りと言われる形式で、この反りは平安朝の特徴らしい。
屋根は南部檜の木瓦で葺かれている。



 梁も庇も、柱も扉も、何もかもすべてが黄金色に輝いている。
正面に三つの入り口を持つ建物の内部を覗くと、眩いばかりの黄金と煌びやかな
螺鈿、繊細を極める蒔絵が施された四本の柱に囲まれた須弥壇があり、その上の
格天井や長押までもが黄金色に輝いている。



 中央にはご本尊の阿弥陀如来像が、その周りには観音菩薩や勢至菩薩、地蔵
菩薩などの諸仏がこの極楽浄土を守護している。
ここは藤原四代が求めた極楽浄土で、須弥壇の中には藤原四代のご遺体が安置
されている。



 昭和25年に行われた学術調査では、須弥壇の下に安置されたご遺体も調べられ、
それによると清衡が脳溢血で長い間半身不随に悩まされていたことが判明した。
身長は160センチあまり、血液型はAB型で、その骨格は紛れも無く日本人のもので
あったという。



 建造物として国宝第一号の指定を受けた「金色堂」は、ガラス越しに眺めるだけで
カメラでの撮影も許されていない。
勿論中には入れないが、これは見学者だけに限ったことではなく寺関係者も同様で、
堂内に上がることが出来るのは僅かに中尊寺貫主のみが許されているという。(続)





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根本道場

2016-11-28 | Weblog
 「月見坂」を登りつめると、本坊に向かう山門が見えて来る。
十段ほどの石段があり、それを上がると広い境内の正面に「本堂」が建っている。



 何十年か前に初めてこの寺を訪れたとき、この山門をバックに記念写真を撮った
ことを俄かに思い出す。
昔と変わらぬ姿が、記憶にしっかりと刻み込まれていたようだ。



 『おもしろいことに、その屋根のかたちが、どことなく神社や京都御所に似ている。
(中略)隆盛する神道の影響を受けたのだろうか、寺院でありながら神社を思わせ
る建築物になっている。』
(「百寺巡礼 第七巻東北」 2004年12月 五木寛之 講談社)


 
 「本堂」を見て、その中に入り初めてお参りした作家の五木寛之は、ナショナリズ
ムの高揚、神道崇拝と言う再建された頃の背景から、建物にもその時代が微妙に
反映されていることを興味深く感じ取っている。

 中尊寺は金色堂・経蔵以外の伽藍が火災で焼失していて、殆どの建物は近代に
なって再建されたものだ。
この「本堂」も、日露戦争が終わった四年後の明治42年の再建である。



 ここには一丈六尺と言う釈迦如来座像が本尊として祀られ、本山延暦寺から分け
られたと言う「不滅の法灯」が燃え続ける一山の根本道場である。
その本堂には、付随する「中の坊」、「鐘楼」や「不動堂」「薬師堂」などがその周りを
取り巻く杉などの老木に囲まれて建っている。



 そこを抜けると見えて来るのが平成12年(2,000年)に建てられた「讃衡蔵(さんこ
うぞう)」と名付けられた宝物館だ。
寺に伝わる文化財・宝物など3000点余りを収蔵・展示する建物で、藤原三代“衡”
の業績を“讃”える意味から命名されたそうだ。(続)






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表参道・月見坂

2016-11-25 | Weblog
 「関山 中尊寺」の月見坂を登っている。
中尊寺は標高130m程の関山と呼ばれる東西に長い丘陵地に位置しているため、
この坂が寺への表参道となっている。



 結構な急坂でただひたすら前をむき、時折足元に目を落とし黙々とこの坂を上る。
道の両側には江戸時代伊達藩により植えられたという、樹齢300年を超える巨大杉
の並木が鬱蒼と続いている。



 喧騒の国道を離れると、この杉並木により隔離され、静寂に包まれた参道では、
凛とした早朝の冷気が肌を差し、吐く息も白く、身がキリリと引き締まり、心を洗わ
れるひと時が静かに過ぎていく。静けさの中で、ここでは足音だけが付いてくる。



 「月見坂」の途中には、源氏の氏神として広く信仰された八幡大菩薩を祀る「八幡
堂」が、冬枯れた木立の中に、静かに佇んでいる。



 更に上ると、かつては仁王尊を安置していたという総門跡が有り、その先に入母
屋屋根・総ケヤキ造りの「弁慶堂」が建っている。
本尊の愛宕尊と共に、弁慶衣川立ち往生の等身生木像が祀られていることから、
こう呼ばれていて、当山の中では特に人気の高いお堂らしい。



 その先で右手の木立が途絶え大きく視界が開けている。「東物見台」だ。
正面には束稲山、その足元を北上川が悠然と流れる南部平野が眺望でき、何とも
雄大で見事な眺めである。傍らに「西行の歌碑」も立っている。



 『ききもせず 束稲やまの桜かな よし野のほかにかかるべし』
当時、束稲山は「桜山」とも呼ばれ、全山に桜樹が植えられていたという。
奈良吉野山と比べても遜色がない程美しい桜を見せていたのであろう。

 さらに「地蔵堂」や「薬師堂」などの堂宇を過ぎると、その先は中尊寺の中心とな
る根本道場に至る。(続)




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関山 中尊寺

2016-11-23 | Weblog


 『黄金花咲く陸奥の山野を北から南へ悠々と流れる北上川は、北上山脈に連亘
し漸く南部平野の南端に達するあたり束稲山の山容を映し、西から注流する衣川
の合流地点に近く、鬱蒼たる関山が望見される。
その丘陵に衣が関が有った。(中略)
その頃、この地方に足を踏み入れた有徳の僧が有った。(中略)
関山の地相を見て此所を霊地なりとして一宇の堂を建て、自ら石に仏陀の尊像を
刻んだ。』



 作家であり天台宗の僧侶であり、後に中尊寺の貫主にもなった「今東光」は、その
著書「平泉 中尊寺」(昭和42年3月 淡交社)の中で、寺の開山とそれに関わる円仁
法師・慈覚大師をこんな風に紹介している。



 「関山 中尊寺」は天台宗の東北大本山である。
創建は850年と言う古刹で、その寺号は清和帝から賜ったとされている。
その後1,100年代に奥州を治めた藤原氏初代・清衡が寺の中興に着手し、多宝塔
を建立し多宝如来・薬師如来を安置した歴史を持ちこれが実質的な寺の開基とも
言われている。



 以後藤原氏四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)に渡り、平泉文化と共に栄華を極め、
その規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」といわれた。
しかし平家を打倒した源義経が兄頼朝と対立し、この地に落ち延びてきたことで
歴史が動く。
頼りとした三代・秀衡が死ぬと頼朝は、四代・泰衡に圧力をかけこれにより義経は
自害、泰衡も滅ぼされここに奥州藤原氏の約100年に及ぶ栄華は儚く消えるので
ある。



 中尊寺は平泉では毛越寺に次ぐ規模を誇ったとされている。
寺は再興から900年以上を経て、毛越寺などと共に「平泉の文化遺産」として世界
文化遺産に登録された。平成23年のことである。(続)





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中国山脈越え(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-21 | Weblog


 やけに長くて、幅の狭いホームに降り立ったのは、たったの二人である。
そのうちの一人、おばあちゃんは荷物を抱えいそいそと、その足で駅前に
待つマイクロバスに乗り込んでいった。

 その運転手がしきりにこちらを窺ってくるので、顔の前で腕をクロスさせ、
バツ印をつくり、乗らないと意思表示すると納得したのか軽く手をあげ返し
てきた。



 こんなところで降り、一人とり残されて何をするのだろ・・とでも思っている
風である。
そんなバスがクラクションを小さく鳴らし出発し、そのエンジン音が遠ざかる
と、辺りから物音が全くしなくなりホームは静寂に包まれる。



 時刻表を見ると、新見を出た特急がそろそろ通過する時刻である。
この駅の構内とその前後では、線路が右に左に僅かな曲線を描いているの
で、そこを巨体をくねらせながら駆け抜けて行く躍動感あふれる列車の姿が
楽しめそうだ。



 そんなことを考えていると、駅前に軽自動車が停まった。
降り立ったのは父子らしく、二人とも大きく立派なカメラを抱えている。
どうやら轟音を轟かせながらこの駅を通過する、貨物列車や特急電車を狙
うようだ。



 この日、新見発11時19分の米子行ワンマンカーに乗車した。
18キップが発売されている期間と言うこともあり、車内は思ったより乗客が
多い。小さなバッグを担いでいる客が多いので、明らかにそれと想像がつく。



 伯備線を行く列車だから当然布原は通過し、新見からは25分ほどでここ
「新郷」に到着した。
ここを出てこの先25‰の急坂を重ね、県境の谷田峠トンネル(1146m)を抜
ければそこはもう山陰、鳥取はすぐそこだ。
 
 カメラを持った父子が慌ただしく車で出ていくと、人の気配は全く無くなって
しまった。
今回の旅はここが終着駅だ。新見に戻る列車は凡そ50分後にやってくる。
それまでは何もないこのホームで、たった一人、寂しく待つのである。
(JR乗り潰しの旅 伯備線・完)

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難読駅名(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-18 | Weblog
 伯備線は新見を出ると布原、備中神代、足立、新郷と駅を重ねて県境に
向かう。
ここら辺りまで来ると乗客の乗り降りは殆どなくなり、岡山県下でも名うての
過疎化が進む地域であることが実感できる。
かと言って、車内がガラガラかと言えばそれが意外とそうでもない。



 乗車した当日が、18キップの使用可能な期間中であったせいかもしれな
いが、座席は半分以上が埋まっていた。

 伯備線は陰陽連絡の幹線であり、特急の便は悪くはない。
しかしその停車駅は限られているので、煩わしい乗り換えを避け、こうして
普通列車に身を委ねながら、のんびりと行き来する乗客も結構多いと言う
ことであろう。





 次の足立も山間の寂しい駅である。
背後に山が迫り、前には深く切れ込んだ渓流が流れ、駅の周りには僅かな
人家が有るものの、商店の姿は見えない。
時折川向こうの県道を車が通る以外、聞こえるのは鳥の鳴き声と川のせせ
らぎ、風が揺らす葉音くらいで、生活音は何も聞こえてこない。

 そんな静寂を破るように、時折轟音をとどろかせながら特急・やくも号が
通り過ぎて行く。



 ここには粗末で小さな駅舎とトイレ、線路を跨ぐ跨線橋があるだけだ。
広場にはコンクリートを打った基礎の跡がそのまま残されているので、かつ
てはこの場所に駅務室か何かが建っていたのであろう。

 駅前に自家用車の放置は無いが、駐輪場に置かれた僅か数台の自転車
になぜか人の営みを感じ、ホッとするのである。



 この駅は「足立」と書いて「あだち」とは読まず、「あしだち」と読ます。
次の駅「新郷」も「しんごう」ではなく「にいざと」と読む。
そういえば「備中神代」の「神代」も、「こうじろ」とはなかなかに読み辛い漢
字かもしれない。

 さらに言えば、「美袋」などは中々「みなぎ」とは読めないし、「石蟹」だって
「いしが」とは読みにくい。
このように難読駅名が続く路線は、案外珍しいのかもしれない。(続)



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備中神代(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-16 | Weblog
 布原から備中神代に向かう沿線は、高梁川の支流・西川が蛇行しなが
ら流れ下る「阿哲峡」と呼ばれる景勝の地である。
このあたりでは川は大きく曲がりくねり、そこに絡みつくように鉄路が沿い、
何度も橋梁で川を超え、列車は坂を上って行く。



 備中神代は、伯備線の途中駅であると同時に芸備線の起点駅である。
とは言え列車はすべて新見まで乗り入れているので途中駅のようでもある。
したがってここの時刻表は伯備線と芸備線の二本立てであるが、その本数
は何れも極めて少なく、芸備線が数往復で、伯備線がそれよりも多少多いと
言った程度だ。





 駅自体はこの沿線にあっては比較的大きく、ここには島式のホームと単式
ホームが有り、合わせて二面三線と言うことになる。
したがってこのあたりの駅にしては珍しい跨線橋が線路を跨いでいる。



 駅舎は取り壊され、それらしき建物は何もない。
門のような建物と僅かにホームを覆う大屋根、その下に小さな待合室が設
けられている。この門構えは解体した駅舎の再利用らしい。
そんな建屋と、前に立つ赤丸ポストの共演は、レトロ感が有りなんともいい
味を出している。



 このあたりにあっては珍しく、駅前に民家を見ることが出来、バス停もある。
しかしバスやタクシーが客待ちをしているわけでもなく、ローカル線の駅前ら
しく広場は静まり返っていた。



 この駅では昭和52年に公開された映画「八つ墓村」のロケが行われた。
40年も前の出来事であるが、おそらくこの取り壊された駅舎を除いた景色は
何も変わってはいないだろう。そんな気がする駅である。(続)



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秘境駅・布原(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-14 | Weblog
 新見の市街地を離れるとこの間車窓から見えるのは山と川の流ればか
りだ。そんな山間に僅かばかりの畑を開き、そこに数えられるほどの民家
が建ち、細やかな生活を営む日本の原風景ともいえる静かな里が展開す
る。





 そうかと思うと、車窓には、要塞のような大きな工場が突然姿を現す。
この地域には石灰岩の台地が広がっていて、それを採掘し加工する工場
である。

 嘗て三重連のSLが引いた貨車にもこれが満載されていたのであろうが、
今では工場に引き込み線は無く、トラック輸送が主流らしい。



 布原は信号所かられっきとした伯備線の駅になったにもかかわらず、面白
いことに、ここには同線の列車は普通さえも通過する。
中には停車もあるようだがあくまでも信号停車で旅客の扱いはせず、僅かに
新見まで乗り入れる芸備線の列車が一日数本停まるのみである。
したがって伯備線なのに、まるで芸備線のような扱いで、駅には芸備線の時
刻表しか掲げられてはいない。



 それなのにここでは、伯備線を行く特急やくもが停車する。
電車一両分ほどの長さしかない粗末なホームに、長い編成を窮屈そうに屈
めている。それは行き違いのための停車で、この駅には今なお信号所とし
ての機能が色濃く残されているのだ。



 ここではホームが、上り下り線で少しずれた位置に設けられている。
列車が停まると丁度先頭を突き合わせるような位置になり、これはかつてこ
の駅で行われたタブレット交換の名残らしい。



 駅周辺は山また山で何もなく、せせらぎが静かに聞こえ、僅かな畑では飼
牛が草を食み、時々モーとなく。
そんな長閑なこの駅をのんびりと眺めていると、特急が停車している光景が
なんとも不思議で面白い。(続)



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旧布原信号所(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-11 | Weblog


 新見を出ると伯備線は、25‰で吉備高原を上り次の布原に向かう。
ここは嘗て新見と備中神代の間に新しく設けられた信号所が有ったところ。

 信号所とは単線区間に有って旅客の扱いをせず列車を停車させ、行き違
いなどをするための信号が設けられた場所のことで、現在でも、特急・やくも
などが行き違いのための停車をしている。





 当時の駅は仮設扱いであったが、ここには駅舎もあり、駅員もいたと言う。
一部では主に写真の撮影で訪れる客旅の取り扱いも行われていたようだ。
駅になったのは比較的新しく昭和62年のことである。



 その昔この地では、SLが三重連で活躍していた。
深い山と渓谷、急勾配の鉄路、黒煙をモクモクと吐き出し悪戦苦闘する蒸
気機関車をカメラにおさめる撮影のポイントとして多くのファンで賑わった。



 写真家の中村由信氏は自身の写真集「汽車」の後書きにこんなことを書
き残している。
『伯備線はD51の三重連で大変に有名になって、(中略)休みの日に写しに
行こうものなら、二、三百人のファンが群がってどうにもならない有様』
と述べている。(写真集「汽車」昭和46年7月 写真評論社)



 当然今では無人駅で駅舎も取り壊され、痕跡は何も残されていない。
一般に地方の駅前でよく見る乱雑に停められた自転車も、自動車も見当た
らず、勿論人の姿など見ることもさえもなく閑散としている。
それもそのはず周囲に人家は殆どなく、一日の乗客数も極めてゼロに近い
少なさで、近頃では秘境駅としての知名度だけが上がっている。(続)



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サバ寿司・千屋牛・ゆずりは餅(JR乗り潰し・伯備線)

2016-11-09 | Weblog
 久しぶりに新見駅で降り、昼食にサバ寿司でも買おうかと思ったら、駅構
内のキオスクがなくなっていた。駅員に聞けばもう3年ほどになると言う。
昨今、駅の売店がコンビニに置き換えられていくなか、ここには新たな店が
入ることもなく、ぽっかりとスペースは開いたままになっていた。



 弁当を求めて駅を出て、駅前を眺めれば、左手にあったはずの食料品店
も閉めている。駅構内の売店もなくなっている今、弁当が手に入らない。

 そんななか駅前ロータリー右側の土産物屋さんはまだ健在のようだ。
この店を訪ねてみる。
「店がなくなってしまって弁当が買えない・・・」と話しかけると、店番の女性が
「新見は山のほうが儲かるから、皆そっちに行ってしまう・・・」と、こんなことを
言っていた。



 この地に広く伝わるサバ寿司が好きで、昼食にと思ってきただけに残念だ。
そう言えば何年か前に来た時も手に入れられず、駅前の食料品店で買い求
めた菓子パンでお昼を済ませていたことを俄かに思い出した。
ちなみに新見のサバ寿司は、このお土産さんの店頭でも時間帯によっては
買うことも出来るらしいが今日は生憎と売り切れ、今回もまた外れてしまった。





 仕方なく駅前の千屋牛の食べられる食堂で、手っ取り早く昼食を済ます。 
千屋牛は高級ブランドとして知られる松坂牛や神戸牛のルーツとされる、
岡山が誇る食肉牛で県下ではよく知られている。





 余談だが新見のお菓子なら市内にある「さつき屋のゆずりは餅」が好きだ。
これはくだんの土産物屋さんの店先にも置かれていたが、残念ながら知名
度はあまり高くないようだ。
何の変哲もない小さな練り餅ではあるが、練り込まれている地元産の天然
柚のほのかな風味がなんとも言えない懐かしさを感じさせる和菓子で、食べ
始めるとついいくつでも手が出てしまう。(続)



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