簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

アニメの聖地 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-31 | Weblog



 2017年3月長編アニメ映画「ひるね姫~知らないワタシの物語~」が全国ロード
ショーされた。その物語の舞台になったのがここ下津井である。
この地に暮らす平凡な高校三年生の森川ココネが主人公の物語で、次から次と浮
かび上がる謎を解決しようと、幼馴染みの大学生と不思議な冒険を繰り広げる姿
を描いている。



 「港があり、その向こうに瀬戸大橋が有って。町も素敵だし海がキラキラしていた。
また日本昔話みたいな島がぷかぷか浮かんでいる感じが、時がゆったりと流れていて
癒やされる」とこの地を舞台に選んだ監督が語っていたそうだ。



 岡山県や倉敷市などもこの機会を逃さじと、映画とタイアップし、様々なキャン
ペーンを仕掛けていた。玄関口であるJR児島駅や、舞台となった下津井の各場所
には等身大のパネルを置き、説明のポスターを貼るなどし、それらの場所に置かれ
たスタンプを集めれば限定グッズが当たるラリーなどが行われた。



 近頃では、映画やドラマ等物語の舞台(撮影場所)などは、フアンなどが聖地と
崇め巡礼と称して訪れることも多いと聞く。
そんな時代を反映しての事か、ここはファン投票などで、二年連続「訪れてみたい
日本のアニメ聖地88」(「アニメツーリズム協会」選定)として選定されている。



 廃線跡歩きや、聖地巡りで疲れたら下津井名物の「タコ料理」を食しながらの
休憩が良いだろう。
港周辺には新鮮な瀬戸内産を使った魚料理や、タコ料理を食べさせる店も多い。



 またこの地区には明治43年創業という老舗和菓子屋もある。そこが作る「磯乃
羊羹」は、ミネラル天然水を使い、保存料は一切使わない昔ながらの手作りである。
透き通るような緑色が鮮やかな羊羹で、口に含むと青のりの独特の風味が口いっぱ
いに広がり、正に下津井の磯の香りである。(下津井電鉄廃線跡を歩く・完)


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下津井節 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-28 | Weblog

 「下津井港はヨー 入りよて 出よてヨー まとも巻きよて まぎりよてヨー♪
 トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ♪」



 「まとも巻き」とは舟が追い風を受け、帆を巻き上げる事で、「まぎり」とは
向かい風で、帆が風を斜めに受けて進むことだそうだ。
下津井の港は入るにも出るにも具合が良く、追い風でも向かい風でも不自由しな
いとても良港だと唄う「下津井節」の古里が倉敷市南部に位置する下津井である。



 下津井は古くから「潮待ち・風待ちの湊」として栄えた歴史を持っている。
江戸時代には北前船の寄港地として、又香川県の金毘羅宮とこの地の背後に控
える瑜伽山との両参り参詣道の舟を渡す場としても賑わったと伝えられている。



 湊に舟が出入りし、街道を人々が往来するこの地には古くから遊郭が有った。
「下津井節」の囃子言葉である「トコハイ」とは床を這うことで、「トノエ」と
は馴染客、「ナノエ」とはその相手をするお女郎さんで、元々この歌はお女郎さ
んとその馴染客の床の中の秘め事を唄ったものだと言う。



 多くのお女郎さんが住みつき、艶っぽい話も幾つか残されているらしい。
特に北前船が入港すると船乗りたちの上陸を、今か今かと待ちわびるお女郎さ
んが「まだかな、まだかな」と橋の袂から声を掛けたと言いその橋は何時しか
「まだかな橋」と呼ばれるようになった。



 当時の海岸線は埋め立てられ、今橋の存在を示すものは現地跡付近に僅かに
残された歴史を伝える石柱と、2006年8月に発表された演歌歌手・中村美津子が
歌う「下津井・お滝・まだかな橋」位である。(続)



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下津井駅跡 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-26 | Weblog

 緩やかに坂を下り、前方の大向山(111m)に突き当たる辺りで大きく左に
カーブし、さらに下れば左手に下津井の集落が広がり、それを見ながら暫く行
けば終着駅の「下津井駅跡」である。



 駅跡は公園としてよく整備されそこにはホームが有りその前には線路床もあり、
一部には線路も当時のままに残されている。2面2線の立派な行き止まり駅である。
こんな駅の姿を見ていると、今にも列車が入線してきそうな錯覚さえ起こす。





 駅跡のフェンスの向こうの広場が車庫の跡のようだ。
屋根や側壁が壊れ無残な姿を曝す建屋の下に、カラフルに塗装のされた幾つか
の車両が残されている。既に車輪が外された貨車などが、ブロックの上に置か
れるなどしている姿は哀れを感じてしまう。
どれもこれも実際に使われていたものらしいく、古くて貴重なもののようだが、
これら車両のことは残念ながら詳しくは知らない。





 あちこちウロウロしながら写真を撮っていると、通り掛かったご婦人が、
「昨日だったら良かったのにねえ。随分とにぎやかだったのよ」と声を掛け
てくれた。聞けば保存会による「みなと電車まつり」が行われたと言う。



 駅前には何軒かの民家もあり、かつては商屋であったであろう店先は表戸を
閉じている。そんな一角には小さな公園風の植え込みの場所が有り、その中央
に銅像が立っている。
電鉄の開通に尽力し、下津井電鉄の初代社長を務めた白川友一翁である。
その視線の先は電車の来ない駅を見ているようで、さぞかし無念であったろう
と思わずにはいられない。(続)


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列車の後押し (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-24 | Weblog


 廃線跡の道は、ここからは下りに転じ、ひたすら終着の下津井漁港前を目指す。
暫く下ると県道393号に合流し、その先でこれを横断しさらに下れば、「東下津井
駅跡」で、ここまで500mほどである。



 右手を見上げれば大きなリゾートホテルの建物や、ブラジリアンパーク・鷲
羽山ハイランドの遊具が林立しているのが見える。
垂直落下するターボドロップや、世界一怖いと言われるスカイサイクルに乗る
人々のの悲鳴が今にも聞こえてきそうな近さである。



 旧下津井電鉄は、沿線の最高所である林~福田~稗田あたりの駅間が比較的
長いものの、それ以外の駅間は随分と狭く、天城~藤戸に至っては400mしか離
れてはいない。ここの500mはそれに次ぐもので備前赤崎~阿津間も同じである。
この事は電鉄が地域の利便性を考慮して、市内電車並に市民の足としての役割を
十分に果たしていたのであろうと思われる。



 そんな電鉄が、この先では延々と2Kmも擁しながら徐々に下り終着駅を目指して
いる。「東下津井駅跡」を過ぎた辺りですぐに南下し、そこから海岸線を進めば近
そうなものをあえて下津井城址の有る城山(89m)を回り込むように下っている。



 これは当時導入したドイツ製の蒸気機関車でも、勾配がきつくて上りに無理
が有ったからだと思える。当時の燃料は低カロリーの泥炭で満載して出発して
も途中燃料切れになることが有ったらしい。ここ鷲羽山の坂でも乗客が降りて、
列車の後押しをしたと言うエピソードも残されていると言う。(続)



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瀬戸内海国立公園 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-21 | Weblog

 昭和6(1931)年国立公園法が施行され、その三年後の昭和9年3月に我国
最初の国立公園の一つとして指定されたのが瀬戸内海国立公園である。
多島海景観と人文景観が一体をなす独特の自然風景が評価されての事だ。
今では、東は和歌山県の加太・友が島・新和歌浦から、西は北九州市の関門
海峡辺りまで11府県にまたがっている。





 岡山県内の公園区域は広範囲で、日生諸島、笠岡諸島などの島々と、沿岸の
夕立受山、牛窓、貝殻山、金甲山、渋川海岸、王子が岳、由加山、鷲羽山など
が含まれている。児島半島南部に位置する鷲羽山は、その中心的な景勝地で公
園設置当初から指定されていた地域の一つである。





 文豪・徳富蘇峰が来遊した折、「瀬戸内海の美景をすべてここに集める」と
言う意味で山頂を「鐘秀峰(しょうしゅうほう)」と命名した。
景観の特徴は花崗岩質の荒れ地で、そんな地でもよく育つマツが多い事だ。
花崗岩の多くは風化によりボロボロと崩れているが、風化の原因は、かつて鷲
羽山が海底に沈んでいた時代の海水中の塩分によるものも多分にあるそうだ。





 また眼前の瀬戸内海の海底からは、ナウマン象など時代を異にした二種類の
ゾウの化石が見つかっている。これは昔日本列島が大陸とは陸地続きであった
こと、瀬戸内海が幾度か陸地になっていたことを物語っている。
鷲羽山には数万年前から人類が住み着いていて、その遺跡も多い。
サヌカイトも発掘されていて、魚や獣を捕る生活をしていたらしい。(続)

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鷲羽山 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-19 | Weblog


 切通の道を抜けると前方は明るく開け、標高45mの地点沿線では福林湖越え
の60mに次ぐ高所にある「鷲羽山駅跡」に到着だ。よく整備された駅跡には、
この沿線では珍しいトイレも併設されている。



 絶景のビュースポットである。目の下に下津井田ノ浦漁港の密集した民家群
が見え、その先はもう瀬戸内海の青い海が広がっている。
左手には、海峡への第一歩となる吊り橋「下津井瀬戸大橋(1447m)」の高さ
146mの主塔が聳え立っている。
橋の先は櫃石島、香川県の坂出市で、この橋の中央辺りが県境になっている。



 普通吊り橋には、主塔の両側に橋げたを吊る太いケーブルを固定する橋台が
有るが、ここでは鷲羽山トンネルの両側に埋め込まれている。世界的にも珍し
い工法だそうで、これは瀬戸内の素晴らしい景観に配慮してのことだそうだ。



 鷲羽山(133.5m)は、瀬戸内海国立公園の一翼を担っている。
瀬戸内海に突き出た姿が、丁度鷲が羽を広げたように見えることから名付けら
れている。
ここからの瀬戸大橋の連なりの眺望は素晴らしい。橋とその下を行きかう大型
小型の船舶が青海に白い波跡を引きながら進む様は正に一幅の絵を見るようだ。



 特に夕暮れ時の、刻一刻と夕日が沈み、島や海が茜色に染まり、大橋がシル
エットのように浮かび上がってくる光景は、息をのむほどに美しく、県下でも
唯一「日本の夕日百選」に選ばれている。
そんな鷲羽山の山頂までこの駅跡からなら600mほどで、その近くには鷲羽山
のことが楽しく学べるビジターセンターもある。(続)



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切通の道 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-17 | Weblog


 左手の視界は良く開けていて、目の下は大畠漁港の様で、左手が児島ボート
レース場だ。
大きな大会が開かれているようで、観戦するファンの姿も見て取れる。
その先瀬戸内海の海を隔てて向うに見える陸地は、かつて四国・坂出との連絡
を担った湊が有った田ノ口から、県下では最大の海水浴場の有る渋川海岸辺り
であろう。



 やがて標高も40mほどに達すると道は視界が遮られる切通の道へと転じていく。
丁度この辺り右手ではでJR瀬戸大橋線が、瀬戸中央自動車道に潜り込むように
下に入り込み、これから先は二階建てのまま瀬戸大橋を渡る準備に入っている。
高速道路上には「この先 瀬戸大橋」の案内標識も窺える。



 そんな高架橋を潜り振り返ると、世界的にも珍しい二階建て四つ目の鷲羽山
トンネル(230m)の入口を見上げることが出来る。
このトンネルの上下は2.2m間隔で、横は壁一枚で隣り合っているが、残念なが
らここからは四つの入口すべてが見えるわけではない。



 この前後の辺りが鉄道敷設時に岩盤の掘削工事で難儀を強いられた処なのか、
と推察をしてみる切通の道が暫く続く。
この辺り一帯は地質が風化花崗岩と言う極め付きの悪条件で、これは瀬戸大橋
工事の鷲羽山トンネルの掘削でも手を焼いたほどだと言われている。



 両側は山肌が迫り、樹木が秩序もなく鬱蒼と生い茂る、陰湿な道である。
削り取られた岩盤の所々には、落石防止のネットが被せられたり、コンクリー
トが吹き付けられたりしていて、こんなことからも地勢の厳しさは窺い知るこ
とが出来る。(続)



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緑の風の道 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-14 | Weblog

 赤崎はかつて武左衛門が、味野と共に開発した塩田が広がる土地であった。
塩田王とまで言われた武左衛門は、開発した地名から一文字ずつを取ってこの地
を野崎浜と呼び、自らは名字帯刀を許され野崎武左衛門と名乗るようになった。
そんな備前赤崎駅の手前辺りから沿線の標高は少しずつ高くなる。





 この先で車の往来の激しい国道430号を横切るが、ここでは緑の風の道も中断
されているので迂回路を行くことになる。
再び廃線跡道に戻り暫くして「阿津駅跡」だがこの駅間は僅かに500m程である。
町内会なのかボランティアなのか良く解らないが、沿道は花の会により植えられ
た沢山の草花で彩られていて気持ちがいい。
「この先で水仙が見ごろだ」と散歩中の男性が教えてくれた通り、足元には帯状
に植えられた水仙が満開を向かえていた。





 左手の天祥禅寺辺りで右に大きくカーブすると、左手にはJR瀬戸大橋線の高
架が近づいて来て、その先で高架を潜ると視界が開け、児島ボートレース場の喧
騒が聞こえてくる。
更に視線を先に送れば瀬戸内の青い海がキラキラと輝いて見える。
右手は神道山(144m)の山肌が迫っていて、緑の中を歩くようで、ここまで来る
と標高も20mほどまで上っている。





 「旧琴海駅跡」付近は、公園の広場のようによく整備され、周囲には何本も
の河津桜が植えられていて、それが見ごろを迎えていた。
地元の人々の散歩コースになっているのか、これまでに比べると俄然人が多く
なってきた。駅跡では孫を連れた老夫婦も散歩途中なのか休んでいる。(続)


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旧備前赤崎駅跡 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-12 | Weblog


 廃線跡の道は沿線の民家の軒先を翳めるように1.3Km先の「旧備前赤崎駅」に
向かう。住宅地により近いこのあたりの線路脇には、住民の手によるものなのか、
四季の草花や、花木が沢山植えられていて、道行く人々の目を楽しませている。



 さらにここから先は、廃線後まだ二十数年と間もないせいなのか、鉄道の遺
構がいたるところに残されているので、鉄道ファンのみならず、鉄道のことが
良く解らないと言う人などでも古いものを見つける喜びを楽しめよう。



 その代表的なものが、沿線のいたるところに残されている架線を支えた鉄製の
架線柱だ。並走する市道に建つ電柱とその高さを競うように立ち残されている姿
は、今にも向こうから電車がやってくるのではないかと錯覚させるに十分である。



 前方の小高い山の上に、ブラジリアンパーク・鷲羽山ハイランドの遊具群が見
えてきた。同テーマパークは、1971年に開園しその後年を経ながら様々な遊具が
導入されているのでこの路線の営業時期とはかぶっている。
だとすれば、ナロゲージの可愛らしい電車の車窓からも同じような光景が展開さ
れていたのであろう。



 そんなことを思いながら先に進むと、「備前赤崎駅跡」である。
現役時代は相対式の2面2線の列車交換が出来る駅で有ったらしいが、そんなかつ
ての姿を彷彿させるように両側に一段と高くなったホームが残されている。
片側のホームの先も広々とした広場が残されているので、おそらくここに駅舎が
有り、駅前広場が広がっていたことであろう。(続)



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旧児島駅舎 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-12-10 | Weblog

 旧下津井電鉄は、茶屋町と児島間が昭和47年に廃止され、さらに平成2年には
残っていた児島下津井間が廃止され、完全に電鉄事業から撤退することとなった。
その廃線跡の殆どは倉敷市に払い下げられ、市はその廃線跡を自転車・歩行者専用
道路として、茶屋町と児島の間は「花の風の道」、ここ児島から下津井の間は「緑
の風の道」として整備をして来た。
その「緑の風の道」の起点となるのが「旧児島駅」である。





 元々は大正橋近くに造られた味野町駅としてスタートしその後味野に改称され、
児島を名乗るのは昭和31年以降のことで、この間駅は何度も移転し、現在の地に
駅舎が完成したのは昭和63年のことだと言う。





 駅舎は明り取りの有る大きな蒲鉾状の屋根を持ち、正面外壁はガラスなどを
多用した明るい外見が印象的な建物である。
廃線後は一時旅行センターの営業所が有り、構内がギャラリースペースとして
利用されていたこともあり、プラットホームとは別に、木製のデッキが作られ
ていて、丁度それが、残された道床やプラットホームを見下ろす展望所的な役
割を果たしているようだ。





 旧下津井電鉄で唯一駅舎が残されているのはこの駅だけである。
内部には駅名標や時刻表、運賃表など当時の備品などが廃止当時のまま残され
ている。貴重な駅舎である「旧児島駅」は普段はシャッターが占められている。
開放され内部の見学ができ、駅舎内の通り抜けが出来るのは、金・土・日曜日
および祝祭日の午前8時30分から午後5時までである。それ以外はすぐ北側の市
道を通ることになる。(続)

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