簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

第46回・想い出の記録

2009-05-29 | Weblog
子供たちがまだ小さかった頃は、重い一眼レフとこれまた重い望遠レンズ、三脚がセットになってどこに行くにもお供に付いて廻った。
当然のことながら写真の数も相当数に上り、その結果、結構な時間を割いて「アルバムに整理する」事になり、それが又子供たちの成長と合わせ楽しくも有った。

それが子供たちの親離れで、次第に距離が開き始めるに従い、共に行動する機会も減ってくると当然のことながら写真の数も激変する。
合わせて、デジカメが我が家の旅の友となってからは、あの重いカメラたちはタンスに入ったまま、最近では手にすることさえ無くなってしまった。

その結果、デジカメで取った写真を紙に焼く事は殆ど無いから、当然アルバムを買うことも皆無になった。
こうしてデジカメの写真だけが増え、その殆どがパソコンの中のフォルダーに仕舞われるからどんどんと増殖を始めていた。

ところで、近頃はネット上には便利なソフトが溢れている。
しかもそれらの多くが無料で使えるのだから有りがたい。
色々捜していると、本当にタダで使っていいの?と思えるような優れものソフトに出会う事が有る。
そんなとき、これを使わない手は無いだろう・・とダウンロードする。
だから最近では「アルバムに整理する」より、これらのソフトを使って、CDに焼いて保存することが多くなった。

旅先から持って帰った入場券、説明書、パンフレット、駅弁の包装紙、箸の袋、使い終わったJRのキップなどはすべてスキャナーでデジタル化し、写真と合わせ、これらを時系列に並べ、“スライドショー”の出来るソフトを入れてCDに焼くと立派な「デジタルフォトアルバム」が出来上がる。
これらの写真にテロップやBGMを合わせて流す事も出来るので、“旅の思い出を纏める”ツールとして、今では手放せなくなり、便利に使わせて貰っている。

【写真:旅の想い出(本文とは無関係)】
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第45回・旅のたのしみ

2009-05-26 | Weblog
旅は、その楽しさを三度も味わうことが出来る。

第一は、“旅の計画をたてる”ときだ。
今は、ネットで居ながらにして簡単にあらゆる情報が手に入る。
列車やバスの時刻、遊覧船の出発時刻さえネットで簡単に調べることが出来る。
ガイドブックや時刻表を買う必要も無いほどに情報は、詳細に溢れている。

昔はガイドブックや雑誌、時刻表を購入し、その記事や広告を見て、直接現地に問い合わせたり、資料を請求したりした。
分厚い封筒に、写真が満載でカラフルなパンフレットが送られてくると、むさぼるように読みあさった。
そんなことが旅先へ思いを馳せ、夢を膨らませ、それだけでも結構楽しかった。

第二は、“旅の道中を楽しむ”ときだ。
初めて訪れる街には心が躍る。
二度目に訪れる街なら、その季節を変えれば新たな趣に心が洗われる。
何度も馴染んだ街なら、故郷に帰ったようにホッとし、心が安らぐ。
どこへ行こうが、いつ行こうが、旅はやはりその道中が一番楽しい。

第三は、“旅の思い出を纏める”ときだ。
旅先での入場券、説明書、パンフレット、駅弁の包装紙、箸の袋、使い終わったJRのキップまであらゆるものを持って帰って、べたべたとアルバムに貼る。
貼りながら、その余白に気付いたこと、見たことを書き込んでいく。
思わず写真に見とれてしまい、しばしばその手が止まると楽しかった思い出が再び甦ってくる。
アルバムの整理にはこんな楽しさが有った。

しかし今では「アルバムに整理する」なんて事はトンと無くなってしまった。
従って、「アルバムを整理する」なんて言う、こんな楽しみは殆どなくなってしまったような気がする。
なぜ?なンだろう・・・。

【写真:店先にて】
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第44回・次の旅への原動力

2009-05-22 | Weblog
今のJRでは「準急」は死語になっている。
マニアではないのでよくは分からないし、全てを把握しているわけではないが恐らく今準急は全国でも走ってはいないと思う。
急行も減った。
北海道では函館本線を走る「はまなす」、北陸線の「能登」「きたぐに」、津山線の「つやま」は廃止になったようだし、他にはまだ有るのかも知れないが、もう走ってはいないのかも知れない。

今では、特急や区間快速などの優等列車は益々進化する一方で、採算の取れないローカル線などは容赦なく切り捨てられ、ダイヤも貧弱になっている。
それに比べると、採算度外視の“国鉄時代”は旅人には優しかった。
周遊券も、仕組みが分かりやすくその数も多かったように思う。
今人気の「青春18キップ」では普通列車しか利用出来ない。
(最も利用できたとしても今「準急」も「急行」も殆ど走ってはいないが・・。)

だからこんな楽しい思い出の残るたびを体験できたと思う。
それに何よりは、そんな旅を共に楽しむ素晴らしい友に恵まれたことだ。
半世紀近くも前のこんな旅を、今も鮮明に思い出す。
そして時々その当時のことが無性に懐かしくなる。
そんな時古いアルバムを引っ張り出し、一枚一枚ゆっくりとページを繰って見る。

歳を取った性なのか・・・・。懐かしさに浸る時間が多くなった。
楽しかった旅の思い出が、次の旅への原動力となり、また旅に出る。
その後の旅好きは、この旅がトリガーになった。

【写真:大沼公園 昭和39年】
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第43回・夜行列車

2009-05-19 | Weblog
“北海道周遊乗車券”では普通急行列車、準急行列車、自動車線が自由に利用できた。
アルバムから当時利用した普通列車以外の列車を拾って見ると、
上野から青森へは、夜行の「急行・岩手」
函館から大沼公園や洞爺湖へは、「急行・オホーツク」
苫小牧から札幌へは、「急行・アカシア」
札幌から稚内へは、夜行の「準急・利尻」
稚内から旭川へは、「急行・天北」
旭川から上川へは、「急行・大雪」
網走から川湯へは、「準急・第二わこと」
釧路から根室へは、「準急・第二ノサップ」
川湯から釧路へは、「準急・知床」
苫小牧から登別へは、「準急・第四ちとせ」
青森から上野へは、夜行の「急行・十和田」

こうして見ると鉄道全盛をマジマジと彷彿させる時代であったことが窺える。
これだけ充実しているから、広い北海道の移動も大して苦にはならなかった。
当時の時刻表が手元に残っているわけでは無いので推測でしかないが、便数も多かったように思う。
それが証拠に、駅での乗換も実にスムーズに行われている。
乗り継ぎも苦になる待ち時間を要していない。
今のローカル線とは随分違う。
駅前から観光地に向うバスも、結構良く連絡が取れていた。

夜行列車も結構走っていたようだ。
だから、夜泊るところが見付からなかったら夜行列車に飛び乗る手が有った。
それも旅の大きな楽しみ、思い出となるのである。
札幌から稚内への移動、夜行の「準急・利尻」利用は正にそれであった。

【写真:昭和新山 昭和39年】
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第42回・青函連絡船・津軽丸

2009-05-15 | Weblog
今では、上野を発った寝台特急は、16時間ほどで札幌に到着するので青森までは凡そ9時間ほどの所要で深夜に通過することになる。
当時利用した“急行・岩手”は、上野を22時00分に発って、青森には約14時間かけ翌日の11時55分に到着した。
随分とかかったものだが、このような夜行列車は結構な本数が有ったように記憶している。

列車が青森に近づくにしたがい、乗客はぞろぞろと出口に向って動き出す。
ホームに着くと同時に誰よりも早くダッシュできるポジションを確保するためだ。
青函連絡船の待つ桟橋までは通称「200メートル桟橋マラソン」と呼ばれていた。
連絡船内で少しでも良い席を確保するために(特に夜行便では横になるだけのスペースを確保するために)、又積み残しに遭わないために人々は重い荷物を抱え、乗り場まで競って駆け出すのだ。

乗り込んだ連絡船は津軽丸、3ケ月前に就航したばかりの大型高速新造船だ。
12時20分に青森桟橋を離れ、約4時間半かけて函館桟橋に着岸する。
この船は後に「青森-函館間を3時間50分で結び「海の新幹線」と呼ばれたらしいが、1982年に運行が終了し、その後数奇な運命をたどり係留中に起こした火災を機に10年ほど前、解体された」と物の本に出ていた。

青函連絡船は、1988年青函トンネルの開通に伴い廃止された。
今では、この海底トンネルを快速列車や寝台特急等が轟音を響かせて通り過ぎているが、残念ながらこれらの列車にはまだ乗る機会が訪れていない。

【写真:津軽丸船内のスタンプ】
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第41回・カニ族

2009-05-12 | Weblog
“カニ族”と言われる通り大きな荷物を担いでの旅だった。
荷の中には一応、寝袋と簡易テントは持参していた。
が、安物の簡易テントは北海道初日の大沼公園の強風に煽られ、あえなく壊れ、使い物にならなくなってしまった。

お金を出して旅館に泊ると言う発想は元々無かったから、日が暮れての宿探しも、大変だったが今になって思うと、苦労を結構楽しんでいたようだ。
今では考えられないが、知らない民家やお寺に泊めて貰ったことも有った。
泊めて貰えるところが見付からず、仕方なく駅の待合室や公園で、寝袋に包まって寝ることもしばしば有った。

函館では、深夜興行中の映画館で映画を見ながら一夜を過ごしたことを覚えている。

夜遅く到着した根室では、暴風雨に見舞われ、宿捜しもままならぬまま待合室に寝袋を広げていると「そこは寒いからこっちに来い」と、多分駅員の官舎だと思うところへ連れて行き「ここを使え」と戸を明けてくれた。
何も無い部屋だったがお陰で畳の上で寝袋に包まることが出来た。

広尾では、たまたま通りかかった駅前(当時は、帯広から約2時間、広尾までJR広尾線が通っていた)のごく普通の民家に泊めてもらった。

今では芸能人が民泊するテレビ番組が放送されているが、民間人ならどうなのだろう?
そうは簡単には泊めてもらえないと思う。
しかし、当時は誰もが旅人に親切だった。

【写真:ノサップ埼灯台 昭和39年】
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第40回・網走湖畔クラブ・バンガロー

2009-05-08 | Weblog
そういえば・・
当時、同級生が3グループ、ほぼ同じ時期に北海道旅行を楽しんでいた。
廻るルートは皆違っているが出発前、○日の×時に網走の駅に集合しようと話が付いていた。
本当に集まれるかは誰もが半信半疑で有ったが何とか都合を付けて集まろうと。

当日、胸をわくわくさせながら網走駅の改札を通ると、友は既に着いていた。
どうやら我々が一番遅かったらしい。
約束通り3グループ、7人が集まった。

網走駅前発17時05分のバスの料金は30円、およそ20分で網走湖畔クラブに到着する。
湖畔に立つ一棟のバンガローを借りた。
決して広いとはいえないバンガローに旅装を解いた7人が、その夜は遅くまで飲めや(?)歌えと大いに盛り上がった事は言うまでも無い。

翌日は、起床が6時30分、朝食8時、出発10時15分とアルバムに記録が残っている。
朝こんなに時間をかけて何を食べたのであろうか?今それを思い出すことが出来ない。

出発前、バンガロー前での記念写真。
ワインの空ボトルを提げた悪童らの写真が1枚残されている。懐かしい・・・。

バスで網走駅に戻った7人は、2グループが合流し、以後は行動を共にする事になった。
残る2人のグループとは駅で別れ、それぞれのルートに散っていった。

我々は、川湯温泉に向けて、12時03分発の“準急第2わこと”に5人で乗り込んだ。

【写真:北海道土産(イメージ)】
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第39回・北海道均一周遊券

2009-05-05 | Weblog
高校三年生の夏、北海道を周った。
大きなリュックと寝袋を担いで“北海道周遊乗車券”を手に。
大流行した所謂“カニ族”の一人である。

当時、学内では卒業までに北海道旅行を、と言うのが学生の共通の目標で有った。
その為、休みに入ると多くの者がアルバイトに精を出した。
ところが正式には、特別な事由が無い限り学則でアルバイトは禁止されていた。
しかし、皆アルバイトで旅費を稼いでいた。
これは、学校が目的の明らかなアルバイトだからと黙認していてくれたからであろう。

この北海道均一周遊券では、当時住んでいた名古屋市内発着で、20日間有効、
北海道国鉄全線の2等車の乗車が可能で8000円。
これが学割で5980円になっている。
普通急行列車、準急行列車、自動車線が自由に利用できた。

名古屋を発って青函連絡船で北海道に渡り、
函館→札幌→旭川→稚内→網走→根室→釧路→襟裳→函館を廻り
名古屋へ帰る。20日間でほぼ北海道を全周した。

雄大な北海道の景色は、見るもの全てが新鮮であった。
列車に乗るだけでも楽しかった。
列車の本数も多く、バス路線も充実していて不便を感じなかった。
食べるもの全てが珍しく、美味かった。
札幌の羊が丘では、初めて成吉思汗料理を食べた。記録には300円とある。
網走では、今まで見たことも無かった毛ガニを食べた。
根室では、花咲ガニを食べた。何れも70円と記録に残されている。

そういえば・・

【写真:北海道均一周遊券】
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