簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

哀愁列車(JR乗り潰しの旅)

2019-12-30 | Weblog

 『♪♪惚~れ~て~ 惚れ~て~ 惚れていながら 行く俺に 旅を
せかせるベルの音 つ~らいホームに 来は来たが 未練心に つま
づいて 落とす涙の 哀愁~列車~~♪』

 艶のある伸びやかな高音で歌い出し、独特な節回しで、転がすよう
に情感たっぷりに歌い上げる三橋美智也の名曲「哀愁列車」である。
これは昭和31(1956)年に発表された全盛時代の代表曲で、ミリオン
セラーでもあるが、お正月が近づくと、何時もこの歌を思い出す。





 小学生時代に聴いた歌であるが、両親からは当時良く口にしていたと
聞かされている。勿論その後も何度も耳にしてきた歌で、当時はその意
味も分からず歌っていたのであろうが、不思議なものだが未だにこの歌
の歌詞だけは良く覚えている。

 この頃毎日は貧乏な生活ながら、正月が来るとどう言う訳か一念発起、
仲の良かった友達家族と二家族で行く信州旅行が恒例であった。
一年にたった一回の旅行である。





 何年位続いていたのか、今となっては知る術もないが、目的地は何時
も一緒で、上諏訪温泉なら「吉田屋別館(旅館)」、下諏訪温泉なら
「亀屋旅館」だったと微かな記憶が残っている。
ただ旅館の名前は記憶違いかも知れないし、諏訪湖でスケートをしたのか
も定かでは無いが、霧ヶ峰でスキーをした事だけは今も鮮明に覚えている。





 その旅行の行き帰りSLに揺られながら良く歌っていたのがこの曲だと、
今はいない両親から散々に聞かされたものだ。
その性か今も旅に出て、クロスシートの列車に出会ったりすると何だか
とてつもなく懐かしく嬉しくなる。このシートが、古い記憶を呼び覚ま
す依代になっているようだ。(続)(写真:上諏訪と霧ヶ峰)



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捨てられないモノ(JR乗り潰しの旅)

2019-12-27 | Weblog

 いくら「断捨離」の時代とは言え、旅に関連するモノはなかなか捨て
られない。高校生の頃、旅先で食べた駅弁の包装紙と容器、茶瓶(昔は
陶器製が多かった)は全て持ち帰り、集めていた時期があった。

 駅弁容器は綺麗に水洗いし、乾いたら包装紙をかけ、ひもで結わい直
せば出来あがりだ。幾つぐらい有ったのか記憶は定かでは無いが、かな
りの数を段ボールにため込んでいた。
しかし洗いが完全でないのか、カビが来たりシミになったり、或は壊れ
たりで、流石にこれは引っ越しの折思い切って始末した。





 切符も捨てられないモノの一つかも知れない。
折角お金を出して買った切符をJRに取られてしまうのか・・・等と
思っているわけではないが、一緒に旅を終えた仲間を自動改札機に飲
み込まれてしまうのも忍びなく、駅員に「無効印」を押してもらい持
ち帰っている。





 しかしこれらはどれも代わり映えのしない切符で、一部は残してはい
るが、どうしょうかと言う考えもなく、結局の所は記念や企画物の切符
以外は殆ど捨ててしまう。
それでも高三の夏休み、北海道へ行った折使った「均一周遊券」だけは
捨てられず、今でも大切に保管している。無数の途中下車印が押された
切符を手にすれば、当時の記憶が次々と浮かび、至福の時を過ごすこと
が出来、これは絶対に捨てられない。





 使わないのに捨てられない物に、キーホルダーがある。
元々は、社内旅行や出張の折、子供達への土産として買い始めた物だが、
その後も家族旅行などでも行った先々で買い求め、今ではその数も三百
個を優に超えている。
今は殆ど買うこともなく吊され埃を被った儘だが、やはりこれも捨てら
れない旅の物の一つである。(続)(写真:旧大社駅 本文とは無関係)



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断捨離(JR乗り潰しの旅)

2019-12-25 | Weblog

 『古い時計だとか、椅子だとか、コーヒーカップとか、昔の服とか、
旅の土産とか・・あるモノを見て、普段忘れていた記憶がよみがえる
というのは、よくあることである。』

 作家の五木寛之さんは、身近のガラクタを手にすると一瞬のうちに
過去の思い出が蘇ってくると言い、こうした回想の世界の逍遙はアル
ツハイマー病の予防にもなるので、思い出を磨くことは大切だと説い
ている。また『ゴミ屋敷になっても、私は古いモノを捨てないと決め
ている。断捨離はしない。』と言い切っている。







 一頃「断捨離」という言葉を良く耳にした。
「不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れる・・・。
そして身軽で快適な人生を手に入れよう」と言う趣旨のことらしい。
テレビや雑誌、新聞等でも特集され、関連本まで出て、話題になったあ
げく流行語にまでなる騒ぎとなったが、最近では少し落ち着いたようだ。

 ただ捨てるだけ、捨ててすっきりと片付ける等と捉えがちであるが、
その本質はあくまでも何を残し何を捨てるかをよくよく吟味して、物を
通して自身を縛る執着や観念を捨てることが大切という。
実践はあくまでも自分のモノで、夫婦や親子など家族間にまで及べばト
ラブルも起きると警鐘を鳴らしている。







 しかし、モノには心の奥底に眠っているものを引っぱりだす、依代
に成り得るものも有る。
「使わなくなったモノ、将来使うはずのないモノ」でも、捨てられない
ものは有り、闇雲に捨てれば良いという話でもない。
目にし手にしたとき、回想のトリガーとなるかも知れないモノもあり、
やはりこれらは捨てられない。(続)
(写真:トヨタテクノミュージアム 本文とは無関係)




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上信電鉄(上信電鉄・上信線)

2019-12-23 | Weblog



 上信電鉄沿線の吉井や富岡等は古くからの商都だと言うから、当時
から鉄道を必要とする産業があり、人数的にも利用者が見込まれてい
たのであろうか。
又ここは貨車も保有していたようだから、当然貨物輸送も担っていた。



 江戸時代の吉井は、火打金(火打石と打合わせ火をおこす)の一大
産地として、全国に知られていたという。当時善光寺参りには、取り
調べの厳しい碓氷峠を避け裏ルートを通行する旅人も多かったらしく、
その通過点であった吉井で実用的な土産物として持て囃されたと言う。
明治8(1875)年、日本で最初のマッチが製造され、その後全国的に広
がると、急速に衰退したらしい。



 この鉄道は、高崎駅から下仁田駅を結ぶ私鉄の路線であるが、その
歴史を調べてみると開業は古く、明治30(1897)年5月に前身の上野
(こうずけ)鉄道が、高崎と上州福島(当時は福島)の間で営業を始
めたのが始まりだ。
その後延伸を重ね、同年の9月までに現在の路線が開通している。



 将来的には下仁田から予知峠を越えて、信州を走る佐久鉄道(現J
R小海線)と結ぶ計画があり、上州と信州を結ぶ鉄道としてこの社名
が決められたのだそうだ。
特筆すべきは、現存する私鉄の中では、明治21(1888)年に運行を
始めた愛媛県を走る伊予鉄道に次ぐ古さだということだ。



 そんなに古くから営業を始めた背景は何であったのか。
絹関連の産物や、下仁田名産のネギやこんにゃく、或は富岡製糸場の
製造品など、沿線の産業が鉄道とどう関わっていたのか、上信電鉄の
歴史に興味は尽きない。(上信電鉄・上信線 完)





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国宝の建物群(上信電鉄・上信線)

2019-12-20 | Weblog

 明治5(1872)年に開設された富岡製糸場は、日本の近代化に大い
に貢献すると同時に、元々零細な存在であった絹産業を、工場で大量
に生産する技術革新に大きく寄与した。そんな歴史有る工場の建物群
は、5.5万平米という広大な敷地に多く残されている。





 東西二箇所の置繭所が向かい合わせに建ち、それを「コ」の字形に
結ぶ位置には、巨大な木造の繰り糸工場が配されていて、その間には
乾燥場があり、シンボルの煙突も立っている。
これらは何れも工場の中心となる建物で、国宝に指定されている。
木骨レンガ造り2階建ての建物は、見た目も美しく、その外観だけで
も美術的価値が高いが、内部の木組みも美しく見事で見応えがある。





 それを取り巻くように大小の建物群がある。
首長館(ブリュナ館)は指導者であったブリュナが家族と暮らした家、
検査人館はフランス人の男性技術者の住居、女工館はフランス人の女
性教師の住居である。
これらは床が高く建物の四方に回り廊下(ベランダ)を巡らせ、窓に
は鎧戸を付けた作りで、コロニアル様式と言うらしい。
何れも桟瓦葺の寄棟造で、派手さはないがモダンで落ち着いた作りだ。





 こうした建物群を見るだけでも充分に、楽しめるが、ここではやは
り当時の日本政府の意気込み、工場関係者の心意気に合わせ、産業と
しての製糸に思いを馳せて見たい。
その為には有料(一人200円)だが、場内に駐在するガイドに一周40分
ほどの案内をお願いするか、音声ガイド機(1台200円)を借りるのが
お勧めである。(続)



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工女達の生活(上信電鉄・上信線)

2019-12-18 | Weblog

 当初200名余しか集まらなかった工女は、操業の翌年には目標の500名
を越えた。こうして集められた工女達は、1日8時間労働の日曜休み。
年末年始とお盆には長期休暇も与えられたという。

 その生活は女子の身だしなみとして髪をすかし、おしろいを塗り紅を
さすなど化粧が許され、風呂は毎日入ることが出来た。
場内には診療所も設けられ、外国人医師が駐在した。
質素ながら食事も「賄い所」でとっていたと言うから、医薬品と同様に
官費であったと思われ、待遇面では当時としては画期的な優遇であった。





 しかしその仕事環境となると、蒸気で蒸した繭から糸を取り出すには、
風通しの悪い煉瓦造の建物は決して良い環境では無く、おまけに独特な
匂いにむせ返る毎日であったようだ。
しかしそんな環境が工女達を女として磨き上げていた側面もあるという。





 日頃から日に当たらない室内作業で、日焼けをした工女はいなかった
と言い、おまけに何時も蒸気を帯びたシルクを扱い、絶えず湿気を浴び
ているとあって、髪のつやも顔色も、町の娘とは比べものにならない美
人揃いであったと言うから興味深い。





 そんな状況で努力すれば、仕事内容も変わり、「一等工女」への昇
進も待っていた。工女達の給料は、その腕前により細分化した等級で
支払われていて、1等は一ヶ月1円75銭、2等が1円50銭、3等になると
1円であったと言う。

 旧信州松代藩の士族の娘・横田英の回想「富岡日記」には、当時の
工女の生活が様々に綴られていて、その生活を知る上では貴重な資料
となっているのだそうだ。(続)



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工女の募集 (上信電鉄・上信線)

2019-12-16 | Weblog

 後年になり自動化された繰糸作業であるが、当初はフランスから輸入
された機械を使って手作業で行われていたと言う。
その作業の担い手が若い女性達である。
工場の操業当初は、ここで働く工女を全国で募集したらしいが、その人
集めは難航を極めたそうだ。
その大きな理由が「外国人に生き血を取られる・・・」であったという。





 赤いワインを好んで飲む外国人の姿を見て、当時の人々が奇異の目で
見ていたのである。政府が招いた技士がワイン好きであったことが窺わ
れるが、実際に工場内の発掘調査では、その頃のワインボトルらしき瓶
の欠片も見つかっているという。

 根拠の無い噂話を払拭するため、日本側の責任者・尾高惇忠は自分の
娘、当時14歳の尾高勇(ゆう)を工女第一号として入場させるなどで、
ようやく予定の半分ほどを集め操業にこぎ着けている。
翌年には主に旧士族等の娘を中心に更に人集めが行われた。





 その当時、同様な製糸工場を計画中の長野県は、富岡で学ぶ工女を募
集していた。そんな中に16歳の少女が工女に行くと、自ら父に願い出た。
旧信州松代藩の士族の娘・横田(和田)英(えい)である。
彼女の決意はその後十数名の娘達を誘ったと言う。





 このようにして集められた15歳から25歳までの若い工女達は、フランス
人教婦から技術を学び、熟練度により分けられていた等級を上がり、やが
ては最高位の「一等工女」を目指して日々研鑽した。

 そんな工女達は、やがて日本全国に作られる工場で、指導に当たるため
散らばっていくことになる。こうして彼女たちは、絹産業、強いては日本
の近代化に大きく貢献したのである。(続)




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繰糸所(上信電鉄・上信線)

2019-12-13 | Weblog

 繭から糸を取る作業を繰糸(そうし)と言い、その作業が行われた
場所が繰糸工場である。置繭所を更に一回り大きくしたような建物で、
木骨の瓦葺き煉瓦造り、長さは140m、幅12.3m、高さ12.1mもあり、
明治5(1872)年に作られた建造物は国宝に指定されている。





 屋根には蒸気を抜くための越屋根が設けられている。
建物には大きな明かり取りのガラス窓が二段に嵌められているので、
一見すると二階建てに見えるが平屋造りである。
建物内部は従来日本には無かった「トラス構造」と言う工法で組上げ
ている為、工場らしい柱の無い広い空間を確保している。





 室内に入ると十分に明るいことが感じられる。
作業の性格上、大きなガラス窓が多用されているが、当時日本には平板
で大きな板ガラスを作る技術が無かったため、フランスから輸入したも
のが使われているという。
その明るさは、窓のせいもあるが、白く塗られた組木も助けている。
東京銀座に日本初のアーク灯が灯ったのが明治15(1882)年と言うから、
当然当時の工場には電灯は無かったのであろうが、晴れた日であればこ
れで十分な明るさだ。
因みに工場が電化されるのは大正9(1920)年の事だそうだ。





 工場内には自動繰糸機が保存されている。
この機械は煮た繭から目的の太さの糸を繰り出す工程を自動化したも
ので、これにより人の作業は全体の監視調整や、トラブル時などに限
られ相当な省力がはかれたという。
今ここには、長さが32m、幅が2.1m、高さが1.8mと言う巨大なもの
が10セット残されている。
それは昭和41(1966)年頃から順次導入され、操業停止まで使われた
ものだという。(続)




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置繭所(上信電鉄・上信線)

2019-12-11 | Weblog

 富岡製糸場の見所の一つは、保存良く残されている建物群である。
幕末期にフランス海軍の協力で作られ、横須賀製鉄所に導入された技
術で木で構造をくみ上げ外壁を煉瓦で覆う木骨煉瓦造で作られている。



 正門を入ると左手に券売所がある。見学料は大人が1000円である。
チケットを購入し入場すると正面の巨大な煉瓦造りの建物に圧倒される。
これは東置繭所と呼ばれる、長さ凡そ104m、幅12m、高さ12mの建物で
国宝である。



 木骨煉瓦造二階建て、屋根は瓦葺き東洋と西洋の融合が図られた建物だ。
外壁に規則正しく配置された窓には、蝶番の付いた観音開きの窓がはめ込
れていて、単調になりがちな壁に力強いアクセントを加えている。



 礎石も近くの山から切り出し、使われた杉や松などの用材は妙義山など
から調達し、当時まだ一般的ではなかった煉瓦は近くに釜を築きフランス
人技術者の指導の下瓦職人が作ったと言う。
フランス積みされた煉瓦を繫ぐのに漆喰がセメント代わり使われたそうだ。



 アーチ状に開けられた入口を入ると内部は実験や体験の出来るスペース、
お土産品や絹製品の販売所、製糸場の様子を紹介スペース、イベントの出
来る広場等になっている。
訪れたこの日は、手回し式の座繰り器での実演が行われていた。
当時はこの建物の一階は作業場、二階に乾燥繭が保管されていたという。
沢山の窓は風通しを良くして乾燥を完成させるための工夫だそうだ。



 東置繭所をそのまま抜けると広場があり、左に工場のシンボル的な煙
突が立つ繰糸所、その向こうが西置繭所の巨大な建物が「コ」の字型に
配置されている。(続)





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官営富岡製糸場 (上信電鉄・上信線)

2019-12-09 | Weblog

 富岡製糸場は、明治5(1872)年に明治政府が日本の富国強兵・近代
化のために設立した日本で最初の大規模な工場である。当時小さな工場
は国内にも存在したが、これほどの規模を誇る工場は、世界でも初めて
で日本の近代化の礎となった。



 群馬県では古くから養蚕が行われていて、絹の製糸や織物に関する
産業があり、原料繭の確保がし易かった。また農地としては不向きな
広大な用地も有り、豊富な用水が確保でき、燃料となる石炭も近場で
調達できる等地の利が良かった。



 また明治になると日本では生糸などの輸出量が大幅に増えた。
更なる外貨獲得のためには大量生産が必要で、新政府の中には大規模
工場建設の機運が高まった。
そんな背景が有りこの地に製糸場は作られることになる。



 当初はフランスの技術を導入した官営工場として開業し、全国から
女工が集められたが、多くは旧士族の娘達であったという。
その後日本独自の湿気を加味した工夫で技術革新が次々と行われると
同時に、このような工場が全国各地に造られるようになると、そうし
た工場で技術を伝えたのは、ここで学んだ女工達であった。



 この間工場は民間に払い下げられ、何社かが経営に関わり、昭和62
(1987)年の操業停止まで、115年間にわたり高品質な生糸を大量に生
産し絹産業発展に貢献した。



 操業停止後も建造物は保存良く残され、建屋の中には操業停止まで
使われた自動繰糸機がそのまま保存されていて、そんなことも平成26
(2014)年に「世界遺産」に登録される要因で、その年の暮れには施
設の一部が国宝にも指定されている。(続)





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