簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

石薬師の一里塚 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-31 | Weblog

「くたびれた やつが見付ける 一里塚」(江戸川柳)



 街道は旧高富村(旧石薬師村)から旧植野村(現上野町)に入ると、
この鈴鹿川の支流・蒲川には、土橋が架けられていた。
当時の道中案内には、この付近では「うなぎ」が捕れ、提供する茶店が
描かれている。当時うなぎは滋養強壮、疲労回復の特効薬であるらしい。
道なりに蒲川橋を渡ると、その左側に大きな石標と常夜燈が立っている。



 「ここは石薬師の一里塚があったところで、江戸時代には榎の木が植
えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまった」と案内板に
記されている。

 江戸日本橋から102番目(約401km)で、京都三条大橋からは23番目
(約96km)に位置する一里塚だ。昭和52年(1977)に新たに植えられ
た榎が、今は大木と成って街道の目印となり足元には日陰を広げている。



 実はこの辺りが出発前に「辿れるのか?」と、心配をした地域である。
本来の旧東海道は、JR関西本線の線路を斜めに横切るように突っ切って
いて、その先も道なりに鈴鹿川の流れに沿っていたものと思われる。
現在の道は国道1号線の開通等もあり消滅し、本来の道筋が大きく変わっ
てしまった。



 そんな失われた旧道だが、心配は取り越し苦労であった。
迂回ルートではあるが、要所には手作りと思われる簡素な道標が立てら
れ導いてくれる。



 一里塚跡から先は、緩やかな坂道を進み、その先のJR関西本線の線路
下のガードを潜る。 潜ると目の前は広々とした畑の農道で、右手の国
道1号線に沿うように進む。幾度も曲がりながら畦道を進み、宇名木川
を越えた上野町辺りで、国道1号線に出る。
ここから庄野宿の入口までは、1.4km程の距離である。(続)





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「蒲の冠者」ゆかりの地(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-29 | Weblog


 広重の描く「東海道五十三次石薬師 石薬師寺」には、街道に面して
建つ山門が、今と変わらぬ姿で描かれている。
背後に幾重にも重なる山々は鈴鹿山脈であろうか。
 門前には稲刈りの済んだ広大な田圃で作業する農夫の姿もが描かれて
いるので、やはりこの宿は、農業従事者が多かったようだ。



 石薬師寺の山門を出てまっすぐ(東方面) 行くと、左側に「蒲冠者範頼
之社(御曹司社)」と言う神社があるらしい。
 ここからも森の中に鳥居が見えているが、立寄る余裕は無い。
範頼は武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀ら
れてきた。地元では「御曹子社」と呼ばれることが多いらしい。



 伝説によると寿永年間(1182~1184)の源平合戦の頃、源頼朝は平家追
討のため、弟の源範頼を西に向かわせた。範頼は途中、石薬師寺に立ち
寄り戦勝を祈願した。
 その折、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに差したところ、芽を出し
てこの桜になったといわれている。地元の人が「蒲桜」と呼んで愛でる
桜の木(山桜の変種)らしく、神社の南約60mのところにある。



 石薬師寺宿を出て、国道を跨ぐ橋を渡ると道はなだらかな下り坂にな
っていたが、門前を過ぎる頃には坂は終わる。
道筋では古い家を散見することもあるが、極めて普通の町並である。
 蒲川の手前で道が二又になっているが、右の道筋へと進んで行くと蒲
川橋へとさしかかる。



 実はこの辺りから先は、ルートの確認に苦労し、心配の種を残したと
ころである。国道1号線、関西本線、直ぐ横を流れる鈴鹿川や蒲川、田
畑等が錯綜し、旧街道は完全に失われていて、出発前の計画時「大丈夫
だろうか?」と一抹の不安が残っていた。(続)





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高富山瑠璃光院石薬師寺(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-26 | Weblog

 佐々木信綱記念館から500mほど歩き、国道1号線を跨ぐ瑠璃光橋でこ
れを越える。やがて街道は右に曲がる下り坂となり、右手の鬱蒼と茂る
深い森が見えてくる。
 地名の謂れとなった「高富山瑠璃光院石薬師寺」の裏門で、ここらが
宿の外れとなるらしい。街道の坂を下りた右手に山門が見えてくる。



 この辺り嘗ては寺の山号ともなっている高富と称された村であった。
寺のあらたかな霊験が広く世間に知れ渡ると、俄に有名となり、やがて
宿場町は門前町としても栄え賑わうことになる。
何時しか村名も寺を賞じて石薬師と改められ、高富は寺の山号として残
ることになる。



 寺の縁起はこう伝えられている。
「山岳修験者がこの地の森の中で、地鳴りを伴って出現した霊光を放つ
巨石を見付けた。
それをお堂に祀りし、衆生の救済に当たったのが創建」という。



 「その後弘法大師・空海が、一夜の内に自の爪で彫ったと言われる秘
仏の石仏・薬師如来立像が御本尊として安置された」
仏像の多くが木造で有るなか、花崗岩の石造は大変珍しいと言う。



 天正年間に織田軍による兵火で、諸堂は悉く焼失している。今日目に
する本堂は、神戸の城主、一柳監物の寄進により再建されたものだ。

 東海道に面していることから、街道を行き来する諸大名が、財物を寄
進して、道中の安全を祈願する寺としても知られていた。



 境内には、時折観光客も訪れるという。
今では本堂を中心に、鐘楼堂、お大師堂、地蔵堂、水子地蔵堂などが整
備され、観光客を迎え入れている。

 今は観光客の姿も無く、豊かな自然に包まれた境内は、静謐でひっそ
りと佇んでいる。よく手入れされた庭では、四季折々に草花が咲き乱れ
るが、特に秋の紅葉が美しいという。(続)





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信綱かるた道 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-24 | Weblog

 国道から離れ旧道に入り込むと、その分岐辺りに「石薬師宿」と刻ま
れた石柱が置かれていて、ここが江戸方の入口である。
旅人の安全を願い立てられた延命地蔵堂があり、「これより南 信綱か
るた道」と書かれた札が立てられていた。



 これは当地で生まれた歌人・佐々木信綱に因んだもので、街道筋1.8㎞
の間に、50首の短歌を掲示していると伝えるものだ。
ここには生家や「佐々木信綱記念館」、「佐々木信綱資料館」、寄贈に
より設けられたという「石薬師文庫」等所縁の施設が整備されている。



 信綱は明治から大正、昭和に渡り歌人、歌学者として、又万葉集の研
究に当った人物で、幸綱は彼の孫にあたる。
建物の右手には、昭和40年に地元の人達で行なわれた「信綱死後2年祭」
の折り建てられた記念碑がある。



 「これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために」
石薬師文庫を贈るにあたり、信綱が詠んだ歌である。



 石薬師文庫の左側にある連子格子の二階建ての家が信綱の生家である。
信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごした。
生家の前には信綱の歌碑があり、その隣には佐佐木信綱資料館がある。



 又宿の中程には、「天野記念館」と書かれた小さな民家がある。
説明板によると、タイムレコーダー製造会社の創業者である天野修一氏
寄贈とある。
 天野は当時の石薬師村で明治23(1890)年に生まれた実業家で、稀代
の発明家とも言われた人物だそうだ。(続)





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石薬師宿 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-22 | Weblog


 東海道44番目の宿場町、石薬師に入ってきた。
宿場内に真言宗の名刹・石薬師寺が有り、古くから門前町として開けた。
それがそのまま地名となった地である。
しかし宿は賑わいに欠け、伝馬制に定める人足や馬の数さえ揃えられず、
幕府は半減を認めていた。



 市中七町、宿内人口991人、家数241軒、本陣3軒、旅籠15軒の小さな
宿場町だ。宿としては賑わいの乏しい寂れたところで旅館以外商家は少
なく、人口の殆どは農業の従事者らしい。

 文化年間の記録では、その7割以上が百姓であったらしいが、それでも
旅籠には、飯盛り女がいたという。



 これに比べると、東の四日市宿は伊勢への追分けとして賑わい、泊まり
客も多かったらしい。
鈴鹿越えを控えた西の関や坂下の宿では、峠の上り下りに際し身体を休め
る場として利用したらしい。
従ってその間の石薬師は、泊りの場所としてさほど需要が無かったようだ。



 幕府にとって東海道は最重要な公道でも、当時の庶民の楽しみはお伊
勢参りで、日永の追分けからお伊勢参詣道に入る旅人が殆どで、東海道
のこの宿場を人は通らない。

 お参りを終えその後京を目指す旅が一般的であったが、参詣後も追分
けには戻らず、脇往還でショートカットし、そのまま伊勢別街道で関に
抜ける人が多かったという。



 宿内の中程にある一際大きな平屋建ての建物が、小沢本陣跡である。
今日の建物は明治に建て替えられたもので、当時は今よりも広い屋敷を
構えていた。赤穂藩主・浅野内匠頭や、伊勢山田奉行であった頃の大岡
越前守等は、「御休」として利用したと書かれた宿帳など、多数の資料
が残されていると言う。(続)





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甦る思い出 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-19 | Weblog
 石薬師宿に向かう道すがら、鈴鹿山脈を遠望し、微かに見える御在
所ロープウェイの白い鉄塔を眺めながら歩いていると、半世紀も前の
ことが頻りに懐かしく思い出されてくる。

 その昔行なわれた、「鈴鹿セブンマウンテン」のキャンペーンでは、
休日の度に何度も訪れたのがこの「湯の山温泉」だ。
温泉街を抜け、表登山道を上ると近鉄山の家があり、ここを拠点とし
て御在所岳を中心に山歩きを随分と楽しんだ。





 御在所岳は他にも裏道、中道が整備されていて、四季折々、変化に富
んだ登山が楽しめた。時には峠を越え、滋賀県側に下りたこともあった。
石榑峠から愛知川の源流域に沿って川を下り、永源寺に出た記憶が微かに
残っている。恐らく中世以前の鈴鹿越道であったと思われるルートを歩い
ているが、当時はそんな認識はまるで無かった。





 些かの感傷に浸りながら、西に向かい国道1号線の小谷で左の旧道に
入る。ここには伊勢国分寺の跡があるらしいが、旧道からは直線でも数
百m程離れている。旧道に沿って残される家並みを見ながら、800m程
歩くと再び国道に合流する。

 交通量の激しい国道1号線では、横断歩道は乏しく多くは歩道橋や地
下道でそれを越える。ここも地下通路で横断すると、正面は「自由が丘
という大きな団地が広がっている。





 暫く国道を歩き、その団地が切れる当りで左にカーブすると、浪瀬川
を越える。嘗て長さ八、九間ばかりの土橋が架けられていたらしい。
広々とした国道橋は道と同化して、それとは知れない内に通り過ぎる。
その先で国道とは分かれ、右の旧道に入って行く。(続)




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湯の山温泉(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-17 | Weblog


 「湯の山温泉」の歴史は古く、養老2(718)年に浄薫和尚が薬師如
来のお告げにより発見されたと伝えられている。
昔から傷ついた鹿が谷川で傷を癒した伝説が有り、別名を「鹿の湯」と
も言う。泉質はアルカリ性ラジウム泉で、神経痛、胃腸病、外傷に効果
が有り、美肌の特効薬、美人の湯として女性には特に人気らしい。



 四日市からは近鉄湯の山線で、終点の湯の山温泉駅まで行き、連絡バ
スに10分程乗れば温泉街だ。終点が御在所ロープウェイの麓駅前である。

 標高差780m、全長2161mの空中散歩は、12分程で御在所岳(1212m)
に上り、山頂までは、更にリフトに乗換えること8分余りだ。



 観光リフトの頂上駅を出ると、一等三角点が有りここが山頂で、山口
誓子の句碑等もある。
 眺望は絶景で、眼下に温泉街が、さらに四日市の市街地や伊勢平野は
勿論のこと、遠く伊勢湾から知多半島までもが一望出来る。



 温泉街の一帯は鈴鹿国定公園で、御在所岳の東麓に位置し、街の中程
を三滝川が流れ、河畔の渓谷に20軒ほどのホテル、旅館等がひしめき合
い建っている。

 中京圏や関西圏からのアクセスも良く、歓楽的な要素は少ないが気軽
な温泉地・観光地として人気で、日帰りの入浴客も多いという。



 温泉街の三嶽寺は、「恋結び折鶴伝説」が知られていて、永遠の愛と
幸せに結ばれることを願い、折鶴を奉納する恋人たちに人気のパワース
ポットとして知られている。

 又、大石公園には日本一大きいと言われる御影石があり、大石内蔵助
が訪れた際に思わずたたずんでしまったと伝えられている。(続)





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ロープウェイの白い鉄塔 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-15 | Weblog
 真正面に入道ケ岳(905m)、その奥一際高く尖って見える山が鎌ケ
岳(1,161m)で有ろうか?
その稜線を下った底が武平峠のようで、今ではここを鈴鹿スカイライン
が横切っている。
その右に見える丸みを帯びた山頂が御在所岳(1,212m)のようだ。



 北には釈迦ヶ岳(1092m)が連なり、下れば石榑峠を経て、竜ヶ岳
(1099m)に到る稜線が連なっているがここからは微かに霞むだけだ。
反対に南に下がると東海道の鈴鹿峠、更に南の加太をJR関西本線が越
えているが、ここからはそれらを望む術もない。



 かつて昭和40年代頃であったと記憶しているが、鉄道会社等が主催
して「鈴鹿セブンマウンテン登山大会」キャンペーンが展開された。
御在所岳を中心に、藤原、竜、釈迦、雨乞、鎌、入道の七岳の登山を
楽しもうと言うもので、不特定多数の人が自由気ままに参加できると
あって、一時期爆発的な人気を得ていた。



 そんな鈴鹿の山々の中心的な存在が御在所岳である。
四日市からは近鉄の湯の山線が温泉駅まで伸び、そこから連絡バスに乗
れば終点が湯の山温泉街だ。
麓の温泉街からは、山頂までロープウェイが通じていて、気軽に千メー
トルを超える山にも登れると人気の場所で、山頂はスキー場で、ニホン
カモシカを飼育するセンターがあった。



 東海道は、次の宿場・石薬師を目指す道すがらである。
遙か彼方に鈴鹿山脈を望ながら歩いている。

 あの山肌に白く細く見える塔は、御在所ロープウェイの6号支柱だ。
標高943m地点に立つ支柱で、高さは61m有り、その基礎部分の広さは
何と畳み85畳分もあると言う巨大なものだ。



 昭和39年迄は他の鉄塔と同じ環境に配慮した緑色であった。
後に白く塗り替えられた事により遠くからもよく目立ち、シンボル的な
存在に変貌した。ここからでも微かにそれが確認出来る。(続)





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鈴鹿山脈 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-12 | Weblog
 鈴鹿山脈は三重県と滋賀県の県境を構成する山脈で、一般的には北は
関ヶ原から、南は鈴鹿峠辺りまでの範囲と言われている。最高峰は御池
岳の1,247mで、それに続くのが雨乞岳の1,237mで、千メートル級の山
が10座以上連なっている。



 昔から伊勢と近江の行き来には重要なルートで、その山々の間には幾
つもの峠がある。例えば八風峠や武平峠、千草峠に直接登り、向こう側
の滋賀県に下るリートは、中世以前では東海道の一ルートとして使われ
た時期もあり、これらは時代と共に変遷した。



 江戸に幕府が開かれると、情報伝達の迅速化を図る為、直ちに伝馬制
が定められた。街道の整備も急ぎ、鈴鹿峠越えが正式な東海道のルート
に決まるのはこの時期の事だ。
急峻だが、他のルートより行程が短くて済む事を何よりとしたのだ。



 時は江戸から明治に入ると、旧東海道は国道1号線と成った。
杖衝坂も主要道となったものの、道幅は狭く、名うての急坂は、歩行者
は勿論、人力車も苦労したらしい。
やがて発達した自動車にとっても、難所である事に変わりは無かった。



 昭和に入るとようやくにして、丘陵を削り、北側の中腹に緩やかな新道
の建設工事が始まった。
これが現在の国道1号線で、この坂を「昭和坂」と称していた。
 今日片側2車線の昭和坂は、幹線道路らしく交通量も多く、傍らを大形
のトラックが風を乱しながら通り過ぎている。



 杖衝坂を登り切り「采女の一里塚跡」を過ぎると旧道は、再び国道1号
線に合流し、ほぼ西に向け進路をとる。
 これまでの低坦地から一段高い丘の上に出たようで、周囲の視界が開け、
右手から正面にかけて、鈴鹿山脈の遠望が楽しめる様になってきた。(続)





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日本武尊御血塚(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-10 | Weblog
 采女地域に入ると、国道の分岐辺りの標高は13m、金刀比羅宮の辺り
で20m程であった。「うつべ町角博物館」前迄に4m程上り、「史跡 
杖衝坂」の石柱前では37m余りだ。標高としては大して登っている訳で
はない。



 その先僅かな距離で坂を上り詰め、サミットを迎えるが、それでも最
高地は50mには届かない。しかしこの坂が、東海道でも名うての急坂と
言われるのは、距離を稼ぐこと無く急激に坂を登るからである。



 古風な家並みの続く坂を登り切ると、山裾を背後に控えた左側に小さ
な祠があり、その奥に「日本武尊御血塚」の碑が建っている。

 日本武尊はこの坂を、「小さな井戸の水で疲れを癒やしながら・・」、
「剣を杖代わりにして登った」が、ほとほと疲れ「吾が足は三重の勾が
りの如くして、はなはだ疲れたり」と嘆かれたそうだ。



 気が付けば怪我をしていて、足から血がながれ出ていたのでこの場で
血を洗い、止血した所と地元には伝えられている。
因みに三重県の県名は、この故事に因むとの説もあるそうだ。



 ようやく平坦となった坂の上は、時代から取り残されたように風情の
ある通りだ。嘗てこの辺りは杖つき村立場(休憩所)で、茶店では名物
の饅頭を売っていたという。

 商いは止めたその店が今でも残されているらしいが、どのお宅なのか、
面影も無く判別が付かなかった。
そんな街道を500m程進むと、やがて右に国道1号線が見えてくる。



 合流の手前に、江戸から数えて101番目の「采女の一里塚跡」がある。
戦後まで土塁様の塚が残されていたらしいが、今は案内標識のみである。
昭和40年代に入り、国道の拡幅工事などで消滅したという。(続)





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