津山駅前のビジネスホテルに宿を取った翌日、前日暗闇の中で目に
することが出来なかった坪井宿を再び訪ねてみる。

坪井駅前を通る国道181号線から外れ久米川に架かる大渡橋を渡り、
緩やかに上る川沿いの旧道を少し進むと右手に坪井の一里塚跡が見え
てくる。
幕府による官道整備の政令により津山藩が設けたもので、明治の初め
ころまで周囲8尺余りの大松が植えられていたと言う。

坪井宿は、津山からおよそ三里半の距離にある。
宿場が整備されたのは慶長8(1603)年以降と言われていて当時は
近くを流れる七森川から引いた水が流れる水路が中央を貫いていた。
その北側の道路には旅籠や茶屋が建ち並び、反対の南側の道路は郷
道で、川を挟んで旅人用と住人用を使い分けていたらしい。
そんな岸辺には柳が植えられ、常夜灯も建てられていたと言う。

ここはかつて明治の時代に二度の大火を経験している。
そのことが有ったからであろう、大正期に宿場跡の大規模な道路の
改修が行われている。中央を流れていた小川は片側に寄せられ水路
となり、道幅が随分と広く取られているように感じられる。

町中には本陣跡と比定されるところもあるようだが、当時を彷彿
させる建物などは殆ど残されてはいない。すっかり住宅地となった
街道筋ではあるが、それでも古い宿場町の雰囲気が随所で感じられ
るのは、緩やかに上る広々とした道と、落ち着いた佇まいを見せる
低い屋並みのせいかも知れない。

およそ600mの宿場を抜けるとそこは西の木戸で、昨夜暗がりの中
で見つけた宿場入口の案内板が立っている。(続)


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することが出来なかった坪井宿を再び訪ねてみる。

坪井駅前を通る国道181号線から外れ久米川に架かる大渡橋を渡り、
緩やかに上る川沿いの旧道を少し進むと右手に坪井の一里塚跡が見え
てくる。
幕府による官道整備の政令により津山藩が設けたもので、明治の初め
ころまで周囲8尺余りの大松が植えられていたと言う。

坪井宿は、津山からおよそ三里半の距離にある。
宿場が整備されたのは慶長8(1603)年以降と言われていて当時は
近くを流れる七森川から引いた水が流れる水路が中央を貫いていた。
その北側の道路には旅籠や茶屋が建ち並び、反対の南側の道路は郷
道で、川を挟んで旅人用と住人用を使い分けていたらしい。
そんな岸辺には柳が植えられ、常夜灯も建てられていたと言う。

ここはかつて明治の時代に二度の大火を経験している。
そのことが有ったからであろう、大正期に宿場跡の大規模な道路の
改修が行われている。中央を流れていた小川は片側に寄せられ水路
となり、道幅が随分と広く取られているように感じられる。

町中には本陣跡と比定されるところもあるようだが、当時を彷彿
させる建物などは殆ど残されてはいない。すっかり住宅地となった
街道筋ではあるが、それでも古い宿場町の雰囲気が随所で感じられ
るのは、緩やかに上る広々とした道と、落ち着いた佇まいを見せる
低い屋並みのせいかも知れない。

およそ600mの宿場を抜けるとそこは西の木戸で、昨夜暗がりの中
で見つけた宿場入口の案内板が立っている。(続)


