簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

弥次・北の道中(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-30 | Weblog

 家財道具をたたき売り、僅かばかりの道具は隣近所に譲り、酒屋と米屋の借金を
踏み倒し『なにひとつ、取のこしたるものもなく、』神田の八丁堀の借家をたたみ、
東海道の膝栗毛へと繰り出した、のうらくものの弥次郎兵へとその居候の北八はと
言うと・・・。



 前泊が戸塚で、二泊目は小田原泊りのようである。
八丁堀からここまではおよそ21里、当時の旅人は一日10里を目途に歩いたと言われ
ているから、ほぼ平均的、まずまず順調な出だしと言えよう。



 それもそのはず、彼らは街道歩きの途中で、翳めて来たであろう有名な名所
旧跡神社仏閣などにはとんと興味を示さず、立ち寄った形跡はどこにもない。
川崎のお大師さんも、藤沢の遊行寺も江の島も、大磯の鴫立沢にもまるで興味
を示さない。



 しかし事食べることに関してはどん欲なまでの関りを見せている。
六郷の渡しを越え「万年屋」では、床の間の掛け軸の鯉の滝登りを『鮒がそうめん
をくふのかとおもった』などと言いながら、奈良茶飯をさらさらとすする。



 神奈川宿では客を引く店先の娘を茶化しながら、アジを肴に酒を飲みつつ一休み。
『北八みさつし、此さかなはちと、ござった(腐った)目もとだ、』と弥次郎兵へ。
『ござったと見ゆる目もとのさかなはさてはむすめがやきくさったか』と北八が切
り返す。
『味(うま)そふに見ゆるむすめに油断すなきやつが焼いたるあぢのわるさに』



 そして小田原のういろうである。
『ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じやと苦いかほする』
(『』内は日本古典文学全集49 東海道中膝栗毛 昭和50年12月 小学館)(続)



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小田原のういろう(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-28 | Weblog



 小田原に来て、シンボルの小田原城を見ずに通り過ぎるわけにはいかない。
とは言えゆっくり回るほどの時間はないので、せめて外回りの堀と石垣だけで
も見ていこうと立ち寄ってみた。江戸時代、稲葉氏や大久保氏の居城で、再建
された天守が聳える周りは市民憩いの公園になっている。



 街道を横道に入り、通りすがったと言う程度に慌ただしくお城公園を見て、
再び国道に戻り御幸の浜を過ぎ、箱根口の交差点まで来るとその手前にお城
のような建物を構える「ういろう」と言う店が有った。



 「ういろう」と言えば名古屋や山口の食べるお菓子の「ういろう」を思い浮か
べるが、ここ小田原の「ういろう」は、大陸から渡来した外郎家の作る中国伝来
の「透頂香(とうちんこう)」と言う万能薬だ。

 ういろう家で造るので「ういろう」と呼ばれたそうだが、先祖は薬をつくる傍
ら接待用に自ら菓子も考案したところ、こちらも評判を呼んだそうだ。
これが江戸時代の伝統を引き継ぐ「菓子のういろう」と言われるものである。



 この店では薬とお菓子の両方の「ういろう」が売られている。
薬はともかく、お菓子のういろうは大好物なので是非食べてみたいと、閉められた
ままの店の前で掃除をしていた女性の店員に尋ねると「あいにく今日は定休日です」
と言う。





 さきほどの「小田原宿なりわい交流館」では、開館時間にはまだ間があり入館
できなかった。今度は好物の店が店休日と言い希望が叶わない。
天気は昼頃から雨の予報である。
どうやら今日はツキには見放されているようだ。(続)

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小田原宿 (東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-25 | Weblog

 日本橋から83Km(国道1号線)、昔風に言えば凡そ20里、日本橋を出立した
当時の旅人は、天下の険・箱根を控えたこの地を二泊目の宿にしたと言う。
大した健脚に脱帽である。現代の旅人はここまで三泊を要してしまった。



 一里塚跡、江戸見附跡を見て新宿交差点に来た。直進すれば小田原城だ。
昭和35年に外観復元された天守閣は修理中で見られないと言う。
ここで左折し、100mほどの蹴上坂を上りすぐに右折すると、名物のかまぼこを
売る店が建ち並ぶ静かな通りに入って来た。このあたりがかつての宿場町の中心
的なところらしい。



 本陣・脇本陣が共に四軒もあり、旅篭の数は95軒と言い、町の人口も5000人を
はるかに超えていたというから大都会である。
中には飯盛り女や遊女などもいたと言うからこの宿の賑わいぶりが想像できる。



 天下一の難所を明日に控えた旅人はここで十分に英気を養い、また急峻な坂道を
転げるように駆け下りて来た旅人は無事に超えられ安堵する一時を、はたまた酒匂
川の渡しを控え、それぞれの思いを持ってここで過ごしたのであろう。



 町中には「清水金左衛門本陣跡」「「片岡本陣跡」「久保田本陣跡」などが有り
案内板が立てられている。これらと合わせ町の各場所に江戸期の町名とその簡単な
説明が刻み込まれた石柱も立てられていて、一つずつ読んで回るのも面白い。



 「小田原宿なりわい交流館」は旧網問屋を再整備した建物で、市民や観光客の
憩いの場として利用されている。
建物は小田原地方の典型的の商家の造りで、その最大の特徴は「出桁造り」と言う。
主屋より腕木を突出させ、そこに桁を乗せ屋根を被せ、軒天井を貼る工法らしいが、
軒先の造りを豪華に見せる視覚的な効果が大きいと言う。(続)



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酒匂川の渡し(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-23 | Weblog



 酒匂川に架かる酒匂橋の袂に「酒匂川の渡し」の石碑が立っている。
広重の東海道五十三次の小田原の図でも、この酒匂川の渡しの様子が描かれている。
そこには肩車でそのまま人を運び、何人かの人足が蓮台を担ぎ、その上に人や籠を
のせ川を渡渉する様子が描かれていて、当時の難儀を窺い知ることが出来る。





 当時の川は人が歩いて渡れる程度の深さであったと言うことになるが、これは
富士山の噴火の影響で大量の火山灰が川底に溜り、川が浅くなったからだそうだ。
しかし、一般的にはこの川では昔から舟渡しが行われていて、浅瀬だけは渡渉が
行われる併用であったと言う。



 今と異なって当時は川も幾筋にも分かれ複雑に流れていたのであろうから、深みは
舟で、舟の入らないところは人足渡しの世話になっていたようだ。
人足渡しともなれは、大雨や長雨の時期には渡れないなんていう日も少なからずあ
ったことであろうから、何れにしても江戸を発った旅人は、二日目の宿を目前にし
て難儀を強いられていたことは想像に難くない。
ここに仮橋ながら架かるのは幕末の頃で、今日の永代橋は昭和48年に架けられている。



 橋を渡り左手の旧道に入ると、住宅地の入り組んだ場所に「新田義貞公首塚」が有る。
建武の中興の立役者として転戦中、越前で討ち死にし、足利尊氏によりその首は京の都
で晒されていた。哀れに思いその首を奪い、東海道を下り、義貞の本国に葬ろうとした
家臣も、この酒匂川を前に病に倒れてしまった。
そこで止む無く葬ったのがこの地であったと言う。(続)



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相模湾を見ながら(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-21 | Weblog



 大磯城山公園の前で国道1号線と別れた東海道は、その先の大磯警察の有る辺り
で再び合流し、以後はほぼこの国道を歩くことになる。



 道は海岸から少し遠ざかり、山手側に近づくせいか、緩やかに上りそれが結構
長く続いていく。
そんな道の所々、町並みの隙間から青く輝く太平洋・相模湾が望まれる。



 二宮駅を過ぎた辺りで最高点を迎えた街道は、押切坂上の交差点辺りから下り
始めるが、ここでは左に向かう本来の旧道が有った。



 しかしこれを見逃してしまいそのまま国道の急坂を下ってきた。
下りきると押切橋で、旧道も合流してくる。
左手には中村川の河口が広がっていて、この橋を越えれば小田原市だ。



 ここからは浅間神社入口に向け、またまたちょっとした上り坂になり、その
サミットでは行く手正面に太平洋の広がりを見ることが出来る。
気持ちの良い景色に癒されるのか、道路が繰り返す上り下りのストレスをあまり
感じないのはありがたい。
途中の車坂は太田道灌や源実朝などの詩に謡われた場所である。
当時もこの辺りからは相模湾を見下ろす松並木の美しい道が続いていたのであろう。



 国府津の駅前を越え、親木橋を渡るころには道路標識にも「箱根」の文字を見る
ようになる。右手正面のどんよりと重く沈んだ雲の中に箱根の山が薄いシルエット
を見せている。

 江戸日本橋からは79Kmを超えている。
小田原が近づいたせいか、国道を行く交通量も心なしか増えているようだ。
バス停で一里塚を確認するあたりにも所々松並木が残されていて、そんな先に
酒匂川が近づいてきた(続)。

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温暖な別荘地 (東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-18 | Weblog

 大磯は別荘の町として知られている。
温暖な気候に恵まれたこの町には、明治になると伊藤博文など8人の歴代総理
大臣が邸宅を構えたのをはじめ、各界名士たちの別荘や邸宅が立ち、多い時に
はその数が150戸にも及んだと言う。



 明治18年にはこの町の海岸に、日本最初の海水浴場も開設されている。
当初は健康増進、病気療養には海水を浴びることが良いとのことからだそうだ。
そんな海のある風景が、中国湖南省の洞庭湖のほとり湘南に似ていることから、
この地を「湘南」と呼ぶようになったその発祥の地でもある。



 カギの手に曲がる街道を先に進む。
そこに小さな川が流れ、趣のある建物の「鴫立庵」がひっそりと建っていた。
木造平屋の伝統的技法を用いて造られた建物で、町の有形文化財に指定されて
いる。

 「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
平安時代の歌人西行がこの地で詠んだことに因み、江戸時代に結ばれた草庵で、
国内有数の徘徊道場として知られたところだそうだ。



 その先町役場を過ぎた辺りに上方見附が有り、見事な松並木が残されている。
そんななかに伊藤博文の旧宅であった「滄浪閣」が立っている。
戦後はホテルの別館として利用され、その後は結婚式場や中華料理店として使わ
れた時期もあったらしいが、今は使われてはいないように見受けられる。





 このあたりの「こゆるぎの浜」には各界名士の邸宅や別荘が建ち並び、そんな
外れに吉田茂の旧邸も建っている。
目の前は大磯城山公園で、ここから小田原まで四里の道のりが待っている。(続)



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大磯宿 (東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-16 | Weblog



 大磯に向かう国道沿いの右側に茅葺屋根の建物が一軒だけ取り残されるように
建っていた。昔の街道筋にはこんな民家が点在していたのであろう。
古いものはどんどん壊されていく中で、ここだけでもせめて生き残ってほしいと
願わずにはいられない。





 道縁に小さな祠が有った。
高麗寺村と大磯宿の境に立つ虚空蔵堂で、むかしはここに高麗寺の寺領を示す
大きな傍示杭が立てられていたと言う。

 高麗寺は朝鮮半島の高句麗に由来する神社で、この付近には渡来したその一
族が住みついていた。ここには東照権現も併祀されていることから門前では大
名も下馬をして街道を進んだと言われている。
現在この地には高麗山を背に、高来神社が鎮座している。



 その先で左にカーブする国道とは別れ、化粧坂と呼ばれる松並木の残る旧道を
緩やかに上っていく。ここは当時の雰囲気が良く残された気持ちの良い道である。
坂の途中には、虎御前(仇討ちで有名な曽我兄弟の兄・十郎の恋人)ゆかりの
化粧井戸や、一里塚跡、江戸見附跡などの案内看板が立てられている。



 化粧坂を下り、山陽本線を地下道で潜り国道1号線に合流するあたりがかつて
の宿場町の入り口で、その先の照ケ崎海岸入口辺りがその中心であったらしい。
ここには本陣が3軒、旅篭66軒あり、人口は3000人余りいたと言う。



 どこの宿場にも人馬を差配する問屋場が置かれていた。
ここから四里先の小田原宿までのお定め賃金は、人足一人なら九拾文(荷は五貫
まで)、軽尻馬(客一人と荷が五貫まで)なら壱百弐拾四文、乗掛(客一人と荷
が弐拾貫まで)なら壱百八拾三文などと細かく取り決めがされていたようだ。(続)

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平塚宿(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-14 | Weblog



 馬入の交差点で国道と離れ、平塚の町に入ってきた。
丁度このあたりが、江戸から数えて15番目の一里塚があったところで、当時馬入
川の渡し場が有り、周辺には川会所や高札場が設けられていたようだがその跡を
見落としてしまった。



 左手にJR平塚駅を見通す賑やかな辻にやって来た。
周りは銀行やオフィスビル、ホテル、商業施設や様々な店舗が立ち並ぶ町の中心
的な繁華街であるが、昔の戸塚宿の中心はもう少し西に進んだあたりから始まる。



 屋根の有る商店街が尽きた市民プラザの前辺りに江戸見附跡の碑が立っている。
宿場町はここから上方見附跡まで凡そ1.1Km続き、道幅は4間1尺(およそ7m)、
そこに本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅篭の数は54軒あったそうだ。
人口も2000人程度と言うからさほど規模が大きかったと言うものではなさそうだ。



 当時の建物で現存するものは何もなく、本陣や脇本陣、高札場、問屋場の跡地
には石碑と説明文が立てられているだけだ。
一旦分かれた国道と再び合流するあたりに、上方見附跡の碑が立てられているが、
これも推測の地であるらしい。



 左手に貨物駅を見て、花水川に架かる花水川を渡ればそこはもう大磯だ。
右手遠く、曇り空に霞むのは大山か、或いは遥か丹沢あたりであろうか。
この川の源流域と思われる山並みが灰色に見えている。



 橋のすぐ向こうには広重も描いた高麓山(標高168m)が、こんもりと盛り上が
った優美な姿で見えてくる。その美しさは今も昔も変わらないと言う。
ここから大磯宿まではおよそ27町と近い。(続)

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旧相模川橋脚(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-11 | Weblog

 鳥井戸橋を渡ると右手に赤い鳥居が立っている。鶴嶺神社の入り口で、その
下から見事な松並木の参道が伸びている。その長さは1キロにも及ぶそうだ。



 日本橋から60キロ余り、国道脇に「国指定史跡 旧相模川橋脚」の石碑が立て
られている。関東大震災の折、この付近の液状化現象により突然田畑から姿を現
した杭で、年代調査の結果鎌倉時代のものだと言われている。
史跡であると同時に、震災により現出した事で天然記念物の指定も受けている。



 直径60Cm余りのヒノキの丸材が使われていて、年輪から1126~1260年頃の間
に切り出されたものと判明している。
2m間隔で三本からなる一列の橋脚が、10m間隔で四列配置されていて、発掘
調査では10本確認されたと言う。
この事から橋の規模は橋巾7~9m、長さ40m余りと推測されているそうだ。



 ここで見られるものはそのレプリカで、本物は劣化が進まないように隠されて
いると言う。当時これだけの丸太を何本も切り出して、橋を架けると言うことは
どれほどの難儀が伴ったのか、そんな苦労が大いに偲ばれる遺跡である。
またここは桜の美しい公園としても知られているそうだ。



 相変わらず国道1号線を歩き、新湘南バイパスやその先の産業道路を越える。
寄り添ってきた東海道本線の向こうには、賑やかな町並みのビル群が見え始め、
相模川に架かる馬入橋にさしかっかった。



 かつて源頼朝が橋の落成式に出席後、平家の亡霊に驚いた馬が川へ落ち、その
落馬が元で翌月亡くなったと言う伝説から馬入川と呼ばれるようになったとか。
そこに架かる橋を越えれば平塚宿だ。(続)



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東海道と富士山 (東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-09 | Weblog

 街道に残る見事な松並木に感心しながら茅ヶ崎市に入ってきた。
道路脇に「牡丹餅立場跡」の案内板が立っている。
立場と言うのは、宿場と宿場の間に設けられた旅人の休憩施設のことで、飲食
できる茶店などが設けられていた。
ここでは名物の牡丹餅が売られていたと言う。



 牡丹餅と聞いては黙ってもいられず、車道の向こうや周りをキョロキョロと
見回してみるが、残念ながら今日の名物として伝える店はなさそうだ。
さらに進めばそのあたり、地名が松林と言うだけあって街道には松並木がたく
さん残されている。



 第六天神社のところに「距 日本橋十五里二町六間」と書かれた真新しい木柱
が立っていた。
この半端の距離にどういった意味があり建てられたものなのかは良く解らない。



 千の川に架かる鳥井戸橋の袂に「南湖の左富士の碑」が立っている。
広重の描く五十三次で、この辺りから見た風景には左側に富士が描かれている。
東海道で左手に富士山が見えるのは、ここと吉原付近の二ヵ所しかないそうだ。



 広重はこれまでにも「六郷の渡し」や「平塚」などで富士山を描き込んでいる。
五十三次全体では55点の絵の中に、富士山は7点ほど描かれていると言う。
武蔵から相模、伊豆、駿河と至る道のりでは、当時はいたるところから望むことが
出来たのではないかと思うと、些か少ないようにも感じられる。



 ここまでにも、権太坂や大坂などの峠では富士を望むことが出来たと言う。
重い足取りで辿り着いた旅人を、その秀麗な姿で迎えてくれたことだろう。
道中で見る富士の山は、人々の疲れをいやす特効薬であったと思えてくる。(続)



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