簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

源平藤戸合戦 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-30 | Weblog
 一の谷、鵯越の合戦で源氏に敗れた平家は、数千の死者手負いを残した
まま、散々な姿で四国の屋島に集結した。
大打撃を受け呆然と成りながらもそこに本拠を構え、立て直しを図る。


 
 その頃平家の大将の平資盛(「吾妻鏡」では平行盛)は、備前の国の
藤戸海峡の西岸、児島から粒江・種松山に陣を敷き、源氏と対峙した。
対する源氏の源範頼は兵数千騎を従え、海峡を挟んで藤戸・日間山で相
対したのである。



 しかし兵舟を持たない源氏は、「うみのおもて五町ばかりへだて」と言
われる僅かな海峡が越えられず、平家から挑発されるも攻めあぐね、苦戦
を強いられていた。
平家は海底に「菱を植え蜘蛛手を結い」海に誘き出そうとする作戦である。



 この時、源氏の武将・佐々木盛綱が、有力な情報を掴む事に成功する。
小袖や白鞘巻などの褒美と引き換えに、地元の漁師から騎馬でも渡れる浅
瀬の存在を聞き出したのだ。



 先陣の功を焦る盛綱は、源氏の大将・源範頼の制止を振り切り、僅か
7騎の股肱を従えただけで、果敢に海に乗り出し教えられた浅瀬を騎馬
で渡り上陸し平家を攻め立てた。
馬で渡れると知った範頼は、全軍に進軍の命を出し、ここに藤戸合戦が
始まった。



 平家との間で激しい戦闘が加えられたが、結果破れた平家は、舟で屋
島への撤退を余儀なくされたのである。
安徳天皇を奉じ、内裏を置いた屋島であったが、平家にとってここも安
住の地とはならなかった。



 熊野水軍や摂津水軍を味方に付けた源義経の奇襲に遭い、敗れて海上
へ逃げ出し、四国屋島の内裏を失ってしまう。
更にその後壇ノ浦に追い詰められ、海戦で敗れた平家は、安徳幼帝を道
連れに、哀れ西海の藻屑となり滅亡することに成る。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛綱橋 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-28 | Weblog
 藤戸の町中を流れる倉敷川に、赤い欄干の印象的な橋が架けられている。
嘗てこの辺りは海で、古くから干拓として新田開発され、川は運河の役割
りを果たしていた。
その為ここ藤戸と対岸の天城の間は、徒渡りや舟渡しが行われていた。



 最初の橋は正保4(1647)年の架橋で、木橋は「藤戸大橋・小橋」と
呼ばれた。
以来当地は、四国往来の要衝、金毘羅・由加山両参りの参詣道として、
また倉敷川の川湊としても栄えることになる。
そんな名残の、瑜伽大権現の常夜灯が橋の袂には残されている。



 後に永代橋が架かるのは、大正15(1926)年の事だ。
当時はまだ舟運が盛んで、支障が無いように無橋脚のトラスドランガー
橋が架けられた。
 橋の名は源平藤戸合戦で先陣の名声を上げ、平家を屋島に追いやった
源氏の猛将・佐々木盛綱に因み、時の県知事・佐上信一により「盛綱橋」
と命名された。



 幾星霜の風雪に耐えた橋も老朽が進み、昭和のモータリゼーションの
時代が訪れると車が増え大型バスが行き交うには手狭となる。
加えて、重量制限6トンではさすがに心許なく、橋は架け替えられるこ
とになる。



 平成元(1989)年に、総工費1億円余りを投じて、赤い欄干の二代目の
「盛綱橋」が完成した。
橋には藤戸合戦の歴史を後世に伝えんと、盛綱が藤戸海峡を渡る馬上姿
の銅像が飾られた。
欄干の四隅には、戦の様子を描いた銅板も飾られている。



 馬を踊らせ、藤戸海峡を渡り、その名を歴史に留めた盛綱は、後に戦
功として備前国児島の地を領する事になる。
その盛綱も戦を巡る幾多の恩讐を超え、今では橋にその名を留め、町民
からも愛され続けているという。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児島湖と倉敷川 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-25 | Weblog


 岡山市南部に広がる平野は、その昔は「吉備の穴海」と呼ばれ、島々
が点在する美しく穏やかな海で、藤戸の町にも嘗ては海が広がっていた。
海には、古くから岡山県下三大河川と言われる旭川、吉井川、高梁川が
運び込む大量の土砂により広大な干潟が形成されていた。



 それらは干拓に適した地として、安土桃山時代から江戸時代にかけ、
しきりに干拓をし、新田開発が行われてきた。
本格的な大規模干拓は明治期に入ってからの事で、戦前は民営の事業と
して、戦後は農林省による国営として行われた。
工事が竣工するのは昭和38(1963)年のことだ。



 しかし干拓が進むにつれ、慢性的な水不足や、新田の塩害や高潮の
被害は深刻になった。
その問題を解決するために、児島湾を堤防で締め切る工事が行われる
ことになった。結果誕生したのが、児島湖である。



 藤戸の町中を流れる倉敷川は、上流が倉敷美観地区にある大原美術館
前辺りだ。今では忽然とその姿を現すが、嘗てはこの辺りで新川に繋が
っていたらしい。
 近年になって川の水質が悪化し、浄化のため、高梁川から流れる倉敷
用水と地下水路で繋がっている。
いわゆる源流を持たない川で、下流は児島湖(児島湾)にそそいでいる。



 川は天領である倉敷と、児島湾を経て瀬戸内海、更に上方などとを結ぶ
物資交流の重要なルートであった。また明治に入り倉敷紡績が操業を始め
ると、原料となる原綿などを運ぶ運河として頻りに利用されてきた。
 しかしその児島湾は締め切られ、倉敷川は児島湖には流れ込むものの、
瀬戸内海からは遮断され、運河としての機能は無くなってしまった。(続)



最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤戸の町 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-23 | Weblog


 一時間に一本程度しかない本四備讃線の普通列車は、茶屋町を出てそ
の先で宇野線と別れると、次の停車駅は植松である。
開通に際し、地元の強い要望を受け設けられた、高架の無人駅だ。
この駅から北西に2キロ余り離れたところに、藤戸と言う集落が有る。



 かつては小さな島が点在する海であったところだ。
江戸期以降の大規模な干拓工事で新田が造成され、藤戸海峡と呼ばれた
海が消え、海峡に浮かんでいた藤戸・天城の島々は山丘となり、そんな
緑に囲まれた静かな町だ。



 町中を藤戸海峡の名残を留める倉敷川が流れている。
川は天領である倉敷と、児島湾を経て瀬戸内海に出て、上方などとを結
ぶ物資交流の重要なルートで、倉敷紡績の原綿などを運ぶ運河として頻
りに利用されてきた。
この為藤戸は川湊として、又物資の集散地として大層な賑わいを見せて
いたと言う。



 加えてこの地は、岡山城下から早島を経て、児島田の口や下津井等へ
向かう「四国往来」の途中町としても栄えていた。
江戸時代には、児島の由加山に立ち寄り、その後舟で四国に渡り金比羅
さんに詣でる両参りが大流行し、行き交う旅人が多かったようだ。
その為、当初は徒渡りであった倉敷川にも、正保年間にはいち早く藤戸
大橋・小橋の二橋が架けられている。



 町は入り組んだ細い道が多く、往時の街道の面影を良く残している。
町並みの中にはさして古くは無さそうだが、倉のある家や、白壁や海鼠
壁の屋敷等切妻造平入りの重厚な家並みも有り、往時の繁栄を偲ばせる。
そんな道筋には、思わぬところに古い道標なども残されている。(続)



最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸大橋線(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-21 | Weblog
 本四備讃線は、岡山県の茶屋町と香川県の宇多津の間を、6駅で結ぶ
31.0Kmの路線である。
しかし、現地でも「本四備讃線」と言う路線名を聞くことは余りなく、
多くは「瀬戸大橋線」と言う愛称を耳にすることに成る。



 宇野線の岡山から茶屋町、そして本四備讃線の茶屋町から宇多津、更
に香川県に渡り予讃線の宇多津から高松をあわせた間を総称してこのよ
うに呼んでいる。



 「瀬戸大橋線」と言えばその代名詞とも言える列車が「快速・マリン
ライナー」である。
岡山から途中、茶屋町、児島を経て香川県の坂出、高松を結ぶ71.8Kmの
間で運行され、一時間に二本程度有り、その所要時間は凡そ60分である。
これは、JR西日本とJR四国が共同で運行する列車で、瀬戸大橋を前にし
た児島駅で乗務員が交代する。



 平成15年の改正では、130㎞/hでの走行が可能な二階建て新型車両が
導入された。
岡山から四国に向かう先頭車両には、パノラマグリーン席が設けられて、
瀬戸大橋を見通す眺望が売り物になっている。



 ダイヤは岡山を発着する山陽新幹線との接続が考慮されていて、高松
からは岡山発の始発に、また岡山着の最終は高松行への連絡が有る。
特急並みの高速走行をするが快速なので特別な料金は不要(グリーンは
別途料金が必要)で、風光明媚な沿線の風景と合わせ、乗り応えが有り
お得感一杯の列車である。



 この路線は快速や四国連絡の特急列車が頻発するが、瀬戸大橋を渡る
普通列車は少ない。
又JR西日本管内の児島までは、岡山から一時間に一本程度の各駅停車が
運行されているに過ぎない。(続)



最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

評価のわけ(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-18 | Weblog


 「京都」「沖縄」「北海道」が「ブランド力のある観光地」として多
くの人々から認知されていることは、なるほどと理解できる。
しかし、トップテンの中に古都「奈良」が入っていないことが些か以外
で腑に落ちない。



 奈良にも東大寺、興福寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺、法隆寺など
なうての寺院群や、春日山の原始林や、平城京跡など名だたる観光地が
有り、それらは世界遺産の指定も受けている。
なのに何故・・・と言う気がしてならない。



 「ブランド力のある観光地」と評価するその理由で最も支持を集めた
のは、「旅行の満足度が高いところ」であった。
以下、「観光サービスの水準が高いところ」「リピーターが多いところ」
「観光資源のレベルが高いところ」「独自の世界観を持っているところ」
と続いている。



 これらの判断基準に当てはめてみても、「奈良」が観光資源のレベル
が低いとも思えないし、仏教文化の栄えた日本人の古里ともいえる古都
に独自の世界観が無いとも思えない。

 学生時代に修学旅行で訪ね、その後も何回も行ったと言う人も決して
少なくはない筈だ。
だとすると、つまるところは満足度の低さは、「観光サービスの水準の
低さ」との差と言うことになってしまう。



 そんな風に考えると、我が岡山県が誇る「瀬戸大橋」と言う超一級の
観光資源も、それが有るからだけでは人を呼べない時代だと知れる。
待っているだけでは駄目で、様々な仕掛けで多様化するニーズにきめ細
かく対応し、地域ぐるみで観光に力を入れ、観光のまちつくりに精進す
ることがそのブランド力を高めていくのであろう。(続)


                      (写真は奈良・法隆寺)

最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブランド力のある観光地(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-03-16 | Weblog


 ある調査で、「ブランド力のある観光地」を聞いたところ、回答個数
が最も多かったのは「京都」で、以下沖縄、北海道、湯布院、箱根、東
京ディズニーリゾート、屋久島、黒川温泉、軽井沢、そして東京と続い
たそうだ。



 一位となった「京都」の人気は、女性層に置いて相対的に男性層より
も高く、特に50代、60代以上が京都をブランド力のある観光地として評
価しているらしい。
 沖縄は20代~40代の比較的若い年代において、又北海道は60代以上の
年配層においてブランド力が高いと言う傾向が見られたと言う。



 ここで面白いのは上位の「京都」「沖縄」「北海道」と十位の「東京」
は都道府県名で、個別の観光地ではないと言う事だ。
例えば京都なら嵐山・嵯峨野や金閣寺・清水寺、北海道なら旭山動物園・
知床・ニセコ・富良野や小樽など、(残念ながら沖縄にはまだ行ったこと
が無いのでイメージできない)個別の有名な観光地が思い浮かぶ。



 しかしこれらの地域では、様々な個別の魅力ある観光地よりも、その
市街、あるいは県(都・府)全域が「ブランド力のある観光地」として
認知されている。
 このことは逆に言えば、これらの地域のイメージが強すぎて、個別の
魅力が埋もれて想定出来ないか、あるいは魅力的な場所が多すぎて絞り
切れないと言う事ではあるまいか。



 もっとも、湯布院、箱根、屋久島、軽井沢も個別の観光地と言うより
も狭い範囲の地域イメージなのかもしれないが、その点東京ディズニー
リゾートや黒川温泉は、そのものズバリがブランドとして定着し、ラン
クインしている点が中々興味深くておもしろい。(続)


                     (写真は京都・伏見稲荷)

最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

投稿2000回を迎えて

2022-03-14 | Weblog
 我ながら良く続いたものだと感心する。
誰かの言ではないが、自分で自分を褒めてやりたい気分だ。



 平成20年10月19日(日)、大安吉日から始めたブログが、凡そ13年
5ヶ月の今日、投稿2000回を迎えた。
当初は週1・2回、その後予約投稿が可能となり週3回に増やし現在に
到っている。毎回リアルタイムに投稿する根気の無い身には、この仕組
みは大いに助けとなった。

 長年勤めた会社を早期退職し、この先連続する休日をどう過ごすのか。
人様に「私の趣味です・・・」等と、自信を持って言えるものが何一つ
無い情けない身では話にならず、何か継続的に出来るものを・・・、と
思案の日々であった。



 昔から休日だからといって、日がな一日テレビは見ない。
特に日中のテレビは殆ど見ず、夕食から寝るまでの間のみだ。
リアルで連ドラを見るのは、NHKのものだけで、後は全てビデオで見る。
CMを飛ばして見れば、2割ほどは時間が短縮できるから。

 「コマーシャルでやってるアレよ!」と家人に言われても、「なに?」
としか答えられない、つまらない男なのだ。
だから退職しても、テレビは暇潰しには成らない。



 本は読む方だと自負はしているが、専ら娯楽性の高い本の乱読である。
日がな一日、来る日も来る日も読書三昧とは到底考えられない。
晴耕雨読とは言うが、雨の日に本は読めても、晴れの日に耕す畑はない。
幸い小さな庭は有るが、草抜きと剪定も毎日は続かない。

 夢は持っていた。
珈琲が好きで、将来はサイフォン珈琲の小さな喫茶店を開く。
自ら買い集めた本に囲まれて、名曲が静に流れる中、柔らかなソファで
ゆっくり寛ぎながら読書と美味しい珈琲を楽しむ「読書喫茶」。
夢は何時しか消えて無くなった。



 そもそも、何を今頃になって。この泥縄からして情けない。
高校で始めたハンドボール(当時屋外11人制)は、1年半でやめた。
夏休みに旅行を計画したが、合宿参加を強要され旅を優先したから。

 社会人になり、新たに発足したチームのメンバーが足らず、補充で誘
われてサッカーを始めた。
ボールを蹴った事も無く、ルールさえ知らない身では有ったが、前に蹴
って兎に角走れば良い、と言われてその気になり走り回った。
県の下部リーグはナイターで、仕事帰りの若い女性陣が結構応援に来て
くれるのが嬉しくて・・・。



 又、バドミントンに興じた時期も有った。
体育館に響く、黄色い歓声が楽しそうに見えたから。
仲間に入ればもしかして・・・、そんな下心は隠して興じていた。

 しかし、神様はこんな邪な心を見逃し、許してはてはくれなかった。
プレー中に相次いで、左右のアキレス腱を断裂するアクシデントにみま
われ、プレーは出来なくなり、今は両方とも、縁までもが切れている。



 20代半ばから始めたゴルフは、40歳の折大病を患い、リハビリに手間
取った事を理由に止めたが、本音は一向に上達しない技量と、センスの
無さを痛感して見切りを付けたのだ。

 一時、鉄道模型や帆船模型にも手を出し、可成り入れ込んだ。
将来はジオラマを造り、列車を走らせ、海には帆船を浮かべ・・・。
これは経済的負担が大きすぎ、子達の成長と共に消滅した。


 
 広角や望遠も用意し、一眼レフも構えてみたが、身軽な旅には馴染ま
ず専ら小型カメラが、後にはポケットに入るデジカメが旅の友と成った。

 社会人に成り貯めたボーナスで念願のオーディオセットを手に入れた。
レコードを、或はラジオのFM番組をオープンリールに録音し、珈琲片
手に・・・、優雅を気取ってみたが、こんな生活は結婚・子供の誕生と
共に霧散し、その後は子供のおもちゃ然となり壊れていった。

 これらのカメラやオーディオセット、鉄道模型などは、近年終活で全
て売り払ったが、大した金額にはならなかった。



 生まれ落ちてこの方喫煙習慣がなく、付き合いとは言え、紫煙の煙る
雀荘や個室での麻雀は耐えられないし、知人友人と金品を賭け合うのも
肌に合わない。
 ゴルフで握るのも、ずーっと嫌で、これもゴルフ断ちの理由の一つだ。
競馬や競輪や競艇等の賭け事にも興味はなく、殆どしたこともない。 

 職場で流行っていた魚釣りも、誘われて行きはするが、海も川も池も、
のめり込むほど好きにはなれなかった。 



 定年前後当時の暇潰しと言えば、近所のパチンコホールが全館禁煙と
なったのを幸いに、長年止めていた物が月1・2度ながら復活した位だ。
とは言え、始めて2時間もいれば飽いてくるので暇潰しにも成らない。

 いろんなものに手は出すが続かない、何事にも飽きっぽく、のめり込
む程の情熱もない、典型的な凡庸な人間。
人様に媚びて、安易な同調はしたくない、我の強い偏屈。
こんな生き様を、「協調性が足りない」と指摘した上司もいた。
一人でコツコツタイプを自負し、ドクターX程ではないが、群れるのは
余り好きではないが、かと言って毛嫌いしているわけでも無い。



 それが証拠に定年後は何かボランティアを、と早くから決めていた。
市公益団体のイベント開催時のスタッフとしてのお手伝いは、そろそろ
潮時かと思いながらも今も続いて(現在はコロナ休止中)いる。
(しかしこれは、余りブログネタにはならなかった。)



 こんな己を見つめ直せば、光明は仄かながら灯っていた。
どう言う訳か、鉄道に乗る旅は昔から好きだった。
名所・旧跡・温泉などを訪れるのは、唯一と言って言い楽しみであった。
ハイキングや何所かを歩いて巡るのは、10代後半より連綿と続いている。
それならば、旅行記位なら書けそうだ、撮り溜めた写真も一杯有るし。



 毎日続くお休みを、退屈せずに過ごすには、何をしたらいいもんか。
何か継続できる暇潰しは・・・、悶々と過ごす日々が早4年。
散々思い悩んだ挙げ句の一念発起。
 拙い文章と、下手な写真で、厚かましくも、日記感覚でブログを始め
てみれば2000回。



 我ながら良く続いたものだと、改めて感心する。
            
 それも是も、こんな拙文にお付合い頂ける皆様が有ればこそ。
「ありがとうございます。今後とも宜しくお願いします」と、
感謝の言葉しか言いようがない。
           (写真:大塚国際美術館 本文とは無関係)

最新記事アップしました こちらをクリック
         


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

境橋(東海道歩き旅・三河の国)

2022-03-11 | Weblog


 知立宿を目指す街道で、知立が近づくにつれ、街道筋の「大あんまき」
を売る店を気にかけてここまでやって来たが、残念ながら見付けることは
出来なかった。
 国道1号線まで足を延ばせば「大あんまきの藤田屋」の本店が有る。
名鉄知立駅の近くに売店もあるらしいが、流石にそこまで足を延ばす元気
は残っていない。



 知立神社の参道にも、「小松屋本家」の店がある事を後から知ったが、
神社には立ち寄らなかったので見逃してしまった。
ここは明治22(1889)年頃から販売を初め、元祖を名乗っている。



 懐かしい味を食べ損ね、後ろ髪引かれながら、町並を抜ける。
国道を越え逢妻川に行き当たり、「出口池鯉鮒大橋、土橋七間斗」と言
われた逢妻橋を渡る。
ここら辺りが知立宿の西出口に当たる場所であろう。

 その先が一里山で、嘗て一里塚があったが今では開発も進み、場所の
特定が出来ていないという。



 所々で国道1号線を歩き、今川町の交差点を過ぎ右の旧道に入り込み、
敷島製パンの刈谷工場の前を通り過ぎる。

 その先で、少し坂を上り境川に架かる「境橋」を渡る。
当時は川に中州が有り、それを挟んで東側には土橋が、西側には板橋が
かけられていたが、洪水の度に流され、やがてこの継ぎ橋は一続きの土
橋に修復されたと言う。



 「うち渡す尾張の国の境橋 これやにわかの 継ぎ目なるらん」
                         (藤原朝臣光廣)

 川は今でも刈谷市と豊明市の境で、三河の国はこれで終わり、橋を渡れ
ば尾張の国へと入っていく。
最初の宿場・鳴海へは、二里半十二町(凡そ11.1㎞)の長丁場だ。
(東海道歩き旅・三河の国 完)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知立の大あんまき(東海道歩き旅・三河の国)

2022-03-09 | Weblog


 知立名物と言えば、鸚鵡返しに「大あんまき」と答えたくなる。
江戸の頃からこの辺りでは麦の栽培が盛んで、その小麦粉を溶いて延ば
して焼き、それに畑で取れた小豆で作った塩あんを乗せ、二つ折りにし
て食べていたのが始まりだという。
後には、知立神社の参拝客の休憩時のお茶請けや土産として出していた。



 今ではバリエーションも豊富で、黒あん、白あんから、カスタード、
栗あん、抹茶あんなど多彩で、若い人向けなのか、衣を付けて油で揚げ
たものまで出ている。
しかし、食べるなら、やはり昔ながらの黒あん、白あんが一番良い。



 「大あんまき」には、思い出もある。
遠い記憶で、もう消えかかる程微かなものだが、昔親父の自転車の荷台
に乗せられ、名古屋市内からここ迄来て、食べさせて貰ったことがある。

 途中どこであったのか、多分国道辺りだと思うが、広い砂利道に大き
な看板が有り、「大あんまき」の絵が描かれていたのが衝撃で、その残
像が今も僅かに残っている。



 最もそれは、もしかしたらその時ここで見た記憶ではなくて、その後の
両親による思い出話が擦り込まれたものかも知れない。
或は後年車で何度も訪れたので、その記憶と混同しているのかも知れない。
何れにしても知立に来れば、条件反射的に「大あんまき」の事を思い出す。



 近頃では、東海道線豊橋駅の改札口近くに出店も有り、時間にも依る
が手に入る。
旅行の折、この駅で下車する機会でもあれば入手が楽しみになっている。

 幼い頃擦り込まれた記憶は、いつまで経っても忘れることがない。
大人になっても「大あんまき」は、思い出の味である事に変わりない。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする