東海道24番目の宿場町・金谷宿は往還橋を渡った辺りから始まる。
行く手正面に見える牧ノ原台地に向け緩やかに上り始める道で、予期
せぬ川留めに備えるためか、当時本陣は3軒、脇本陣も1軒あった。
宿内の人口は4,000人余りで、家数も対岸の島田よりは少ないが、旅
籠の数は島田宿をしのぐ51軒もあった。
川を無事渡り終えた旅人は、旅籠や茶店で寛ぎ、箱根の山の「山祝い」
と同様、「川祝い」で無事を喜び合ったと言うからその需要を見込んで
いたのであろう。
佐塚本陣は建坪263坪あり、玄関付きの門の屋根には一対の鯱が飾ら
れ、「鯱のご門」と呼ばれる豪華なものであったらしい。
徳川御三家の尾張藩や紀州藩の定宿であった一番本陣・柏屋も同じよ
うな規模を誇っていたが、嘉永年間に起きた東海大地震のため壊滅し、
本陣を廃業したと言う。他にも問屋場跡などが有るが、これらは何れ
も跡かたも無く、詳細な説明版により往時を偲ぶのみである。
茶業の盛んなところだけに街道筋にも茶屋が軒を並べているのかと
も思っていたが見かけることが無かったのは意外であった。
JR金谷駅の手前の交差点線路下に道標があり、江戸から五十三里と
言う一里塚跡があり、ここにも榎が植えられていた。
左に折れJR東海道線のガードを潜り、直ぐに右に折れ駅の裏に出て
西進すると、急坂の石畳道で知られる金谷坂に向けた厳しい登り道が
待ち構えている。
左手奥にある長光寺には芭蕉の句碑が残されているらしいが、この
先の急坂上りを思うと寄り道をする気にはなれず、そのままやり過ご
し西進し、その先で、小さな橋を渡る。
「西入口土橋」と呼ばれた、金谷宿の出口に当たる橋である。(続)
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