簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

艶やかな町並(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-10 | Weblog
 思わず、「おぉ~っ」と、声が漏れてしまう。
大谷川を渡り橋本の町に入り、郵便局を過ぎ突き当りを右に折れ、直ぐ
に左折すると、何とも華やかで艶やかな町並が目に飛び込んできた。



 これまで東海道に残された数多くの町並を見てきたが、このようなも
のは初めてだ。ここは昭和の名残を残す平入り二階建ての妓楼が軒を連
ねる「橋本遊廓街」の跡である。多くの建物は昭和初期のものらしい。



 玄関には一般とは異なった意匠を極め、格子が嵌り、壁には装飾が施
され、中には欄間を嵌めたところも有り、何よりもカラフルである。
通りに面した二階は全面が窓で、中には手摺を廻したいわゆる郭造りと
言われる建物もある。



 京都と大阪の中間に位置し、石清水八幡宮の門前町に近く、対岸の山
崎とは橋本の渡しで結ばれ、後には御幸橋も架かった。
東海道も通り抜けていたことから、廓は芸妓と娼妓が混在する遊処とし
て古くから繁昌し発展してきたという。



 三川の合流地点に有るので夏は涼しく、川には多数の網船が出漁して
風景もよく、川魚や松茸などの料理の提供もあり、夜間は不夜城のよう
な別世界が繰り広げられたという。
 最盛期は昭和初期の頃で、約90の貸座敷が並び、600人程度の娼妓が
働いていて、色街を象徴する歌舞練場もあったらしい。



 この遊郭の歴史は古く、江戸時代にまで遡り歴史の教科書に出て来る、
井原西鶴の代表作「好色一代男」の舞台ともなった場所と言われている。

 戊辰戦争の戦禍で衰退した町興しとして、明治20(1887)年、京都府
知事の正式な認可を受けた洛南唯一の花街は、昭和33(1958)年3月に
「売春防止法」が施行されるまで続いた。(続)





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旧道の要塞 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-07 | Weblog


 明治43(1910)年、山裾を削って京阪鉄道が開通すると同時に橋本
にも駅が設けられた。
すると山は、その後も少しずつ削られ後退し住宅が増えていったという。

 日本の高度経済成長期には大規模な住宅団地の造成も行なわれ、京阪
神のベッドタウンとして人口も倍増し鉄道利用者も大幅に増えたらしい。



 地図で確認すると、淀川の東側の丘陵地には、迷路のように道路が張
り巡らされ、広大な住宅地が拡がっていて、道路で区分けされた敷地に
は団地の集合住宅棟や個人住宅が整然と建ち並んでいる。
それは県境を越えて、隣の大阪府枚方市楠葉にまで広がっている。



 京阪線の線路に近いところに、「かもしか児童公園」というのが有る。
住宅開発が入るまでの男山の山系は完全な山で、当地から八幡宮までは、
獣道しか無かったらしいから、カモシカでも生息していたのかと思って
しまうネーミングだが、これは確証の無い想像でしかない。



 その線路を隔てた向かい側に鉄道会社の「橋本変電所」が有る。
街道筋から眺めると、左手少し高いところを京阪本線が走っていて、
この「橋本変電所」の建物を裏手から見る形だ。
 大正15(1926)年に竣工した鉄筋コンクリート造二階建ての建物三
棟で、かれこれ百年を迎えるレトロな建物である。



 外壁も既に色変わりし、汚れも目立ち、年代を感じるがそれだけの風
格も現われている。
あの「かもしか児童公園」からは正面から見ることが出来るらしい。



 古い町並には不釣り合いに異彩を放つ要塞のような建物は、八幡市で
は唯一、京都府の京阪電気鉄道関連遺産として、経済産業省の近代化産
業遺産(関西高速鉄道)に登録されている。(続)



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橋本の渡し (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-05 | Weblog

 僧・行基によって淀川右岸の山崎と、左岸の橋本との間に架けられた
「山崎橋」も洪水で度々流され、ついには元禄年間に架けられた橋が流
れると再架橋されることはなかった。しかしこれでは有名な天王山を控
えた要衝の地としての役割を果たすことが出来ない。



 そこで橋に変わり「橋本の渡し」と呼ばれる渡し舟が通うようになる。
西国街道・山崎宿と東海道間の宿・橋本を連絡する渡しは、二つの幹線
道路の重要な結節の役割を果たす事になった。
山崎側の渡し場は、現在の水無瀬川の河口辺りに有ったらしい。



 天王山と八幡の男山に挟まれた淀川は、山崎狭隘部と呼ばれる川幅が
狭められた地域である。この地形を利用して嘗てこの付近には、山崎の
渡しを始め、木津川と桂川との合流点木津根を渡る「きつねの渡し」、
「広瀬の渡し」と三つの渡船場があったと伝えられている。



 橋本も渡し場としても発展し、人々が集まると、町に遊廓が設けられ、
多くの人々が遊興に訪れ、大いに賑わったという。
 淀川の堤防下中の町の大谷川に架かる栄橋の袂には、「山さき あた
ご わたし場」「柳谷わたし」と刻まれた石碑が立っている。



 又西遊寺の前には、京都の豪商三宅保兵衛の遺志に基づき長男の清次
郎が建立した「橋本渡舟場三丁 山崎停車所 柳谷観音」等と記された
石碑も建てられている。実際の渡し場は、ここから北に100mで左折、
更に100m程行った淀川堤防と言われている。



 最後まで残った橋本の渡しは昭和37(1962)年まで続いた。
因みに、江戸期にはここより上流の淀の宇治川に「淀小橋」、木津川に
「淀大橋」が架けられていた。明治期以降、両川の流路が今の形に付け
替えられ、両橋は無くなったが、後に架けられたのが現在の二つの御幸
橋である。(続)





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山崎橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-03 | Weblog

 その昔の神亀2(725)年、僧・行基はこの地に「山崎橋」と呼ばれ
る橋を架けた。今日その場所に同名の橋は存在しないが、日本三古橋の
一つと言われた橋である。因みに三古橋の残り二橋は、宇治橋と瀬田の
唐橋で、何れも後継橋が現在まで残されている。



 宇治橋は、大化2(646)年、大和国・元興寺の僧・道登(どうと)
により宇治川に架けられた橋である。これまでに古今和歌集や源氏物語
等の文学作品にも登場する、宇治を象徴する橋とされている。
橋の袂には紫式部の像があり撮影スポットになっている。



 瀬田の唐橋は瀬田川に架かる橋で、1000年以上前から存在が知られ、
「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、京の都と東国を結ぶ
交通の要衝地に架かっている。唐金擬宝珠(からがねぎぼし)の美しい
欄干の橋で、その風光明媚は「瀬田の夕照」として広く知られている。



 「山崎橋」が結ぶ対岸の山崎は、現在の京都府の大山崎町から大阪府
の山崎町にまたがる辺りである。古くから北陸交通の要衝地で、丹波街
道の起点であり、西国街道も通り、京と芥川との間に位置する宿場町で
もあった。



 この山崎橋の左岸に出来た集落は橋の袂にあった事から、「橋本」と
呼ばれるようになる。この橋本には、東海道も通っていて所謂間の宿、
(五十七次の淀宿と枚方宿の中間に位置)、石清水八幡宮の門前町に
近く参拝者の宿泊場所としても賑わっていた。



 しかし橋は度々の増水で何度も流され、幾度も架け直しが行われた。
しかし、元禄年間に架けられた橋が流されて以降は、新たな橋は架けら
れなかったという。(続)



(写真:上三枚は順に宇治橋、瀬田の唐橋、西国街道山崎宿)




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堤防下の古い町(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-28 | Weblog

 八幡を抜ける東海道は、本来は木津川の堤防上(現在の府道13号)
の道を西進するのが正しいようだ。

 そんな堤防上の道の途中左側に、樹齢千年という楠の木の大木があっ
たらしい。昔の街道は御幸橋北詰付近から、この楠の木の辺りまで真っ
直ぐな道で繋がっていたと言う。



 とはいえ、当時は川もまだ幾つかに分流し、流れも定まってはいず、
このような巨大で堅固な堤防ではなかった筈だ。
 僅かばかりの盛り土で、その上に街道が通され、それに沿って橋本の
町並みが続いていたのでは、などと当時の情景を思い描いてみる。 



 奥ノ町から西山本に入る辺りで府道13号から派生した道が一本、堤防
下に下りている。橋本の町に入ると大谷川を越え、狭い旧道へと続いて
いるので、これが本来の街道であろう。
大木は一里塚ではないそうだが、町の入り口の目印になっていたと言う。



 八幡の町を後にしてからは、通行量の多い府道を歩くには余りにも危
険が多く、車の少ない堤防下の道で橋本江尻から奥ノ町を抜けて来た。

 旧道は狭く細く緩くうねりながら抜けていて、道沿いには高層階の建
物はなく、民家は比較的古い「ザ、昭和感」の物ばかりで、どこか旧道
らしい趣があった。



 八幡から続く橋本も、対岸に西国街道の山崎宿を控えた要衝の地で、
町は古くから栄えていた。
 鳥羽伏見の戦いでは戦禍を受け焼けたようだが、先の大戦では難は逃
れたのか、町並に近代的な新しさは感じられない。


 
 そんな道沿いには、石清水八幡宮へ導く古い道標が残っている。
又文政5(1882)年に建立された常夜灯などもあり、すっかり町並に
溶け込んでいて、街道歩きとしては面白かった。



 ただ、堤防の上の道のことはノーマークで、気付くこともなく、この
木は見落としてしまったのが残念だ。(続)



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二宮忠八 所縁の地(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-26 | Weblog
 八幡には三大偉人と称えられる人物がいる。
一人は石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗で、四つ切り箱の「松花堂弁当」
でも知られる人物で、当地には松花堂庭園もある。



 二人目は発明王エジソンで、八幡の竹を世界に知らしめた恩人である。
三人目が世界で最も早く飛行原理を発明した二宮忠八だ。
彼は木津川の河川敷で飛行実験を計画した。



 街道が奥ノ町に入ると途中に「二宮忠八飛行器工作所跡」の案内板が
立っていた。忠八は、慶應2(1866)年、愛媛県の八幡浜市で、商家の
四男として誕生している。

 事業に失敗した父を12歳の時に亡くし、困窮した家計を助けるため、
様々な場所で働く傍ら、自らが考案した凧を売り、収入の足しにしてい
たと伝えられている。



 この時の経験が後の「飛行器造り」の原点と成り、後にはあのライト
兄弟よりも早く、世界中で一早い「飛行原理」の発見に繋がった。
 しかし、ライト兄弟の有人飛行実験成功のニュースを新聞で知ると、
快挙を逃した忠八は、制作を断念、飛行器造りから離れ製薬の仕事に移
ったと言われている。



 この地は忠八がゴム動力による「玉虫型飛行器」の制作に本格的に取
りかかった工房、二宮工作所があった地であるが、残念ながら完成には
至らなかった。

 生れ故郷の八幡浜とは、「八幡」繋がりで、この「八幡」の地はたい
そうなお気に入りであったと伝えられている。



 飛行機の草創期に、多くの人が事故による不慮の死を遂げた事を悼み、
八幡の町中の石清水八幡宮に近い土井に私財を投じ、招魂社として「飛
行神社」を創建し、自らが神主と成り弔ったという。

 大正4(1915)年の事で、今では宇宙開発や航空関係の事業者や関係
者の安全祈願参拝が多いらしい。(続)





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石清水八幡宮  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-24 | Weblog
  八幡科手の交差点をそのまま真っ直ぐに進むと京阪本線の「石清水八
幡宮」駅である。駅には男山にある八幡宮上院に向かうケーブル駅が併
設されていて、多くの参拝客はこれを利用するという。



 しかし一の鳥居が立つ麓の「頓宮」から、二の鳥居を潜り、男山の登
山道を上るのが表参道で、これが正式な参詣道とされている。



 八幡宮は、古は「男山八幡宮」とも呼ばれ、桂川、宇治川、木津川の
三川が合流し淀川となる地に鎮座し日本三大八幡宮の一つとされ、伊勢
神宮に次ぐ国家第二の宗廟と言われる。

 八幡は京と難波を結び、天王山と対峙する交通の要衝地で、男山は平
安京の裏鬼門に当り、この八幡宮は都を守る神社として知られている。



 参道ケーブルは3分ほどで、山上駅に到着する。そこから参道を5分
ほど歩いたところに上院はあり、広大な境内を構えている。
荘厳な社殿形式を維持する本殿は、現存する八幡造りの本殿の中では最
古で、最大規模を誇り、本社10棟、 附(つけたり)棟札3枚と共に国宝
に指定されている。



 右に電車駅と一の鳥居が立ち「頓宮」の有る八幡宮下院を見て南下し、
八幡の町を抜けて行くのが高野街道で、何年か前に辿った道だ。

 一方東海道は八幡科手の交差点の先の旧道を右に折れ、左は大谷川と
京阪線、右に木津川の巨大な堤防とに挟まれた狭隘の地を川の流れに沿
って進む。



 その堤防上の道が旧京阪国道で、今でも当地の幹線道らしく、多くの
車が行き交っている。旧道は科手から尻江の集落を抜けて行くが、この
道に車が入り込むことはなく、通りは静かで、落ち着いた家並みが続い
ていて、車どころか人の姿を見るのさえ稀である。(続)





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はちまんさんの門前町  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-21 | Weblog
 八幡(やわた)は、京都府の南部に位置する人口7万人ほどの小さな
市である。昔から北側には桂川、宇治川、木津川の三川が流れ、水害の
生じやすい低湿地で有ったが、近年川の付け替え工事、護岸堤防、背割
り堤防等の工事により対策がすすんだ。



 三川はこの地で大きく湾曲し、市の西側で合流し、淀川と名を変えて
南に下っていく。このため八幡は三川合流の町としても知られている。

 その川に架かる淀川御幸橋を渡り、背割り堤防にある「さくらであい
館」で小休止をし、更に木津川御幸橋を渡って坂を下る。



 旧京阪国道八幡科手交差点の角に、ポケットパークが整備されている。
「茶文化薫るはちまんさんの門前町 八幡市へ ようこそ」の大きな看
板が見える。京阪国道の改修記念碑なども立ち、休憩スペースには災害
時用のかまどベンチなどが整備されている。



 更に「石清水八幡宮」の永代常夜灯(石灯籠)や「石清水八幡宮鳥居
通御幸道」の大きな石碑が立っている。
 ここは日本三大八幡宮の一つと称される八幡宮、地元では親しみを込
めて「はちまんさん」と呼ぶ神社の門前町でもある。



 神社の鎮座する男山は、良質な真竹が知られていて、あの発明王エジ
ソンが、白熱電球のフィラメントの改良に男山の竹を使い、1000時間の
点灯に成功し実用化させた話はよく知られている。
京阪の駅前にはエジソン像が、男山の山上には記念碑もある。



 茶は木津川河川敷の砂地を利用して栽培されているらしく、碾茶(て
んちゃ:抹茶の原料となる茶)は、地元で「浜茶(はまちゃ)」と呼ばれ、
品質がよく、色が美しいのが特徴で八幡の名産品と言う。


 
 これまでの道中では、殆ど茶畑を見ることがなかったので、当地が茶の
名産地であることは実感できていない。
まぁ、それ以前に、茶のことは知識も乏しく、よく解らないが・・。(続)



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さくらであい館 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-19 | Weblog

 淀川御幸橋の上からも、見慣れない塔と黒瓦葺きの大きな建物がよく
見えていた。何だろうと訝かりながら橋を渡ると、宇治川と木津川との
中間、背割り堤の左側に「さくらであい館」と言う新しい施設が出来て
いた。以前来た時には見られなかったものだ。



 「宇治川・木津川・桂川が合流する三川合流地域の地域間交流や地域
振興、観光周遊の拠点として人・物・情報が出会う、活気あふれるスペ
ース」(HPより)として、平成29(2017)年春にオープンした。



 数ある淀川河川公園の内の一つで、地域のランドマークである。正確
には「淀川公園 背割堤サービスセンター さくらであい館」と言う。
年末年始以外は無休で、9時から17時の間開かれる。ショップ、情報発
信コーナー、イベント広場、学習・会議室、トイレなど等を揃えていて、
殆どの施設が無料で利用できる。



 館の目玉は、地上約25mを誇る展望塔(9:00~16:30)である。
長さ1.4㎞にも及ぶ背割り堤に植えられた桜の花が咲く頃には、360度
の展望が人気のビューポイントとなり、大勢の人が訪れるらしい。
 周辺で桜祭りが開かれる時期は有料らしいが、それ以外は無料で上
がれるようだ。



 淀で思わぬ回り道をした遅れは、ここに来ても取り返えせてはない。
返す返すも勿体ない時間を費やした。今日予定した橋本の町まではあと
少し、何としても行っておきたいが、時間もだいぶ押し迫っている。



 展望塔にも上ってみたいが我慢して、ここでは少しの休憩に立ち寄る
のみとした。館内でこの時期だけらしい「桜餅ソフト」を頂いて、甘味
で疲れを癒やし、早々に腰を上げ、八幡の町中に向かった。(続)





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御幸橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-17 | Weblog

 府道13号線(旧国道1号線)を左カーブで、宇治川に架かる淀川御
幸橋(266m)を渡る。何年か前、京都の羅城門跡を背に、東高野街道
を歩いてこの地までやって来た事があるが、その時もこの橋を渡った。
それ以来の再訪だ。



 既に正面にはどっかと居座る男山(鳩ケ峰143m)が見えている。
中腹のこんもりと茂る木立の間には、「石清水八幡宮」の大屋根も認め
られる。八幡の町はこの神社の門前町で、この男山の山頂には上院が、
麓に下院が鎮座している。



 左側には、京滋バイパスの石清水大橋が、やや上りながら左カーブで
通されている。更にその奥少し低い位置を、京阪本線が宇治川を跨いで
いて、時折電車がガードを渡る音が長閑に聞こえてくる。



 この先には、宇治川との背割り堤を挟んで、木津川にかかる木津川御
幸橋(355m)が続いている。
渡れば八幡科手の交差点で、下りながら八幡の町中へと入っていく。
先程の京滋バイパスの高架下からここまでは、凡そ1㎞の距離である。



 淀川では大洪水を受け、「淀川改良工事」が行われ、宇治川が現在の
流路に付け替えられ、桂川の改修、連続堤防の修築なども行われ、現在
の三川合流部が形成されている。

 この改良工事に伴い大正2(1913年)に初代の御幸橋が開通している。
その後近代的な永代橋架に替えられたのは、昭和5(1930)年(年)7
月の事である。



 幅員も広げられた現在の橋は、三代目という。
地図の上でこの橋を見た折は「みゆきばし」と読んでいたが、正式な呼
び名は「ごこうばし」である。
 石清水八幡宮への皇室の使者が、必ずここを渡ったことから「御幸」
の名が付けられたと言われている。(続)





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