簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

御幸橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-17 | Weblog

 府道13号線(旧国道1号線)を左カーブで、宇治川に架かる淀川御
幸橋(266m)を渡る。何年か前、京都の羅城門跡を背に、東高野街道
を歩いてこの地までやって来た事があるが、その時もこの橋を渡った。
それ以来の再訪だ。



 既に正面にはどっかと居座る男山(鳩ケ峰143m)が見えている。
中腹のこんもりと茂る木立の間には、「石清水八幡宮」の大屋根も認め
られる。八幡の町はこの神社の門前町で、この男山の山頂には上院が、
麓に下院が鎮座している。



 左側には、京滋バイパスの石清水大橋が、やや上りながら左カーブで
通されている。更にその奥少し低い位置を、京阪本線が宇治川を跨いで
いて、時折電車がガードを渡る音が長閑に聞こえてくる。



 この先には、宇治川との背割り堤を挟んで、木津川にかかる木津川御
幸橋(355m)が続いている。
渡れば八幡科手の交差点で、下りながら八幡の町中へと入っていく。
先程の京滋バイパスの高架下からここまでは、凡そ1㎞の距離である。



 淀川では大洪水を受け、「淀川改良工事」が行われ、宇治川が現在の
流路に付け替えられ、桂川の改修、連続堤防の修築なども行われ、現在
の三川合流部が形成されている。

 この改良工事に伴い大正2(1913年)に初代の御幸橋が開通している。
その後近代的な永代橋架に替えられたのは、昭和5(1930)年(年)7
月の事である。



 幅員も広げられた現在の橋は、三代目という。
地図の上でこの橋を見た折は「みゆきばし」と読んでいたが、正式な呼
び名は「ごこうばし」である。
 石清水八幡宮への皇室の使者が、必ずここを渡ったことから「御幸」
の名が付けられたと言われている。(続)





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三川合流地帯へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-14 | Weblog

 予定よりも大幅に遅れたまま、淀宿跡と思われる地区を抜け、文相寺
の前で再び旧道に出て西を目指す。
 この辺り城下町時代の寺町の名残か、近くに大専寺がありこの先には、
長円寺、東雲寺、心鏡寺、西岸寺などが甍を連ねていてそんな町中を抜
けていく。



 やがて街道の右側には、京阪電鉄の淀車両基地が見えてくる。
敷地面積94,800㎡、車両収容能力は320両といい、同社の中では寝屋川
車庫に次ぐ規模の車両基地らしい。
 旧街道沿いに展開する「京阪淀ロジスティクスヤード(物流倉庫?)」
の敷地も、元々は基地拡張用地らしい。



 道筋から人家は乏しくなり、左に田畑を見て、右の金網フェンス越
しには車輌基地を見ながら進む。
 松ヶ崎記念病院の辺りでは、田圃越しの左手向こう側に宇治川の堤
防も見えている。

 その更に向こう側には木津川も近づいている筈だ。
線路の北側はここからは見えないが、桂川も寄り添って来て、いよいよ
三川の合流地点が近づいている。



 旧道は京阪本線の高架を少し下りながら潜り、車両基地の終端に沿う
ように右にカーブする。その先でファッションホテルに突き当ると左折
して、府道13号線の歩道に出る。
この道は高野山を目指した折に歩いた、懐かしい高野街道である。



 道なりに緩く坂を上ると、京都市伏見区から八幡市に入る。
京滋バイパスの高架を潜り、道なりに左にカーブすると、広々とした府
道の正面に緑濃い山並みが見えてきる。一般に男山と呼ばれる山だ。



 男山は正式には鳩ケ峰と言い、標高は143m程の山である。
ケーブルが通じていて、山上で降りれば石清水八幡宮が鎮座している。
嘗てこの神社は「男山八幡宮」とも呼ばれていた。(続)





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平行する二つの街道(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-12 | Weblog


 思わぬ遠回りを余儀なくされ、予定よりも1時間半ほども淀への到着
が遅れてしまった。
 京阪本線の淀駅近くで、昔ながらの喫茶店を見つけ、常連らしい客た
ちの紫煙にまみれながらようやく遅い昼食に有り付いて、早々に腹に流
し込み、再び旧街道を歩き始める。



 京阪本線淀駅のガード下を抜け、伏見消防署の前で道なりに右カーブ
し南に向う。郵便局の先の淀下津町の角を右折、住宅地に入り込み更に
100m程で左折、同じ距離を歩いて左折すると突き当りが文相寺でそこ
を右折すると元来た道に戻る。



 ガイド本や資料によっては、この辺りを淀宿の中心として表記してい
るものが有ったが、通りは閑静な住宅地で、旧宿場町の面影はどこにも
残されていない。
 何か無いかと、この辺りではルートを外れ、住宅地の中を当てもなく
暫く歩いてみたが、史跡遺構の類いには気付かず何も見付けられないま
ま元の道に戻り淀新町を抜ける。



 東海道が抜ける道筋の今は、住宅の密集地であるが、嘗ての城下町
で有ろうか。狭くて不規則に入り組んだ道が複雑に絡み合っていて、
うっかり入り込んでしまうと、自分の居所がわからなくなってしまい
そうなところで有った。



 北側には京阪本線が走り、丁度この辺りの線路を隔てて向こう側に、
淀城址公園(淀城跡)が有る。

 何年か前、高野山を目指し京都・羅城門から鳥羽街道を歩いた折り
には、左に城跡公園を見ながら、府道13号線を歩いている。



 今回歩いている東海道はそれよりは少し南の、桂川と宇治川に挟ま
れた地だ。京阪本線を挟んで、その時の道筋とほぼ平行しながら八幡
の町を目指している事になる。(続)




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山城国・淀藩(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-10 | Weblog


 京街道や鳥羽街道の結節点でもあり、川湊が開かれた淀の納所は京の
南の玄関口である。古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城)
が築かれていて、重要な場所との位置づけである。
本能寺の変後、山崎の戦いでは一時明智光秀側が砦として使用している。



 秀吉の時代には、宇治川右岸に淀古城が築かれ淀殿(浅井茶々)が入
城している。更に徳川家康・秀忠の時代には、廃藩となった伏見藩に変
わり、山城国・淀藩が立藩され、松平定綱により宇治川と木津川の合流
地に淀新城が造られ、以後永井家、石川家、戸田家、松平家と藩主は代
変わりをしてきた。



 享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると以降幕末まで続く事になる。
稲葉氏は石高10.2万石、幕府成立後に取り立てられた城主クラスの譜代
大名で、江戸城での控えの間は「雁之間(かりのま)」である。
 序列としては、上から五番目、下から三番目の中堅処と言った扱いで
はあるが、最後の藩主・正邦は老中職を拝命している。



 宝暦年間には落雷があり焼失で建物の大半を失うが、その後再建され
ることもなかった。
 鳥羽伏見の戦いでは、敗走し領内に逃げ込もうとした幕府軍を拒んで
入れず、幕府とは距離を置く立場を取った。
新淀城は、明治の廃城令により廃城となっている。



 淀城公園は駅の西側にあり、石垣が残されている。
近くには興杼(よど)神社も鎮座し、鳥居が立っている。
 神社は、応和年間に僧の千観内供が、肥前国河上村の興止日女大神
(よどひめおおかみ)を勧請したことに始まり、豊玉姫命、高皇産霊神、
速秋津姫命が祀られている。(続)





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東海道・淀宿(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-07 | Weblog
 淀は城下町であり川舟の寄港地としても栄え、元和5(1619)年に
は淀宿が成立している。ただ宿場町としての規模は左程のものはなく、
江戸期の家の数800軒余、人口2800人余りで旅籠の数も16軒と少なく、
本陣・脇本陣は置かれていなかった。



 明治を向かえると人口は7.3万人余りで、町の規模も江戸期に比べる
と拡大している。美豆村と淀村を編入した淀町が京都市に編入されるの
は、昭和32(1957)年のことだ。
納所村は、淀町よりも早い昭和6(1931)年に編入されている。



 納所は昔から淀の中心的な所で、町中には「納所村道路元標」が有る。
河川の付け替えで、遺構が殆ど失われたとはいえ、桂川河畔には、朝鮮
通信使が上陸した船着き場の跡「唐人雁木旧跡」の碑、更に戊辰戦争に
関連する記念碑等も多い。



 駅前の府道124号に面した場所にも、「淀小橋旧址」碑がある。
嘗てここには淀城下と城外の納所を繫ぐ、長さ七一間(129m)、幅は
四間(約7.3m)の橋が架かっていたらしいが、現在では埋め立てられ
橋は無く、川も流れていない。



 北東面に「東南 淀川渡場径」と彫られ下に小さい字で「 渡舟場十丁
一口村十四丁 中島十丁 相島十八丁 森十九丁 野村廿三丁坊池廿丁 巨
椋湖十五丁」とある。

 更に南東面には「十一面観世音尊像 安養寺」と彫られ、小さい字で
「弥陀次郎開基 一口村 是南十五丁」とある。



 昭和3年に遺志で建立されたと言う道標が、京阪本線の高架下に立
っていた。

 東海道五十七次(京街道)の宿場町でもある淀の城下町は、京・羅
城門から南下し桂川左岸を来る鳥羽街道の終点でもある。
この道はその先高野街道から高野山へと続いている。(続)





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陸と川の結節点(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-05 | Weblog
 「淀(よど)」は、京都市伏見区の南西部に位置する地域である。
競馬ファンの間では、「京都競馬場」がある場所としての知名度が高く、
今では「淀」という地名がそのまま競馬場の通称になっている。



 元々この辺りは淀川水系の桂川、宇治川、木津川の三川が合流する標
高10m程という低い三角州で、流れはいつも澱んでいたことから「淀」
呼ばれるようになった。

 明治に入ると初期の頃に木津川が、後期には宇治川がそれぞれ付け替
えられているので、この辺りの地形は大きく変化している。



 淀の「納所」は、京の南玄関口として古くから軍事的な要衝であった。
又川湊が開かれ、陸路の街道も通り、物流的にも人事的にも重要な場所
とされていた。
 ところが川の付け替えで嘗ての淀城の城下町や、淀宿当時の遺構は殆
ど失われ、何も残ってはい無いという。
見附の場所や宿場の中心が何所なのかも良く分かっていないらしい。



 「納所」は「のうそ」と読む。
昔当地では、淀の川湊に水揚げされ、その後平安京へ運ぶ様々な物資が
収められ倉庫が立ち並んでいた。この物を「納」める倉庫が立ち並んで
いた「所」という意味である。



 因みに、季節に先駆け出始めた野菜や魚などを「はしり」と言うが、
その昔は、三十石舟で運ばれた生鮮食品は、淀の川湊に陸揚げされると
鮮度を落とさないよう、都まで走って運ばれたという。
このことが、この「はしり」の語源とされている。



 クリーンセンターの施設内に迷い込み、思わぬ回り道で正午を大きく
過ぎたにも関わらず、昼食も食べそこねてしまった。
 食事場所を探しに、「納所」の交差点から京阪本線の「淀駅」の高架
を潜り、その競馬場が見える場所にやってきた。(続)





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思わぬ遠回り(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-03 | Weblog
 高瀬川の橋が通れず、思わぬ遠回りをし、おまけにクリーンセンター
内に迷い込み、時間だけが押し、これまで随分と歩いているのに一向に
前に進めない。行き止まりでは、先ほどの若い女性の言う通り国道1号
線まで戻るより仕方が無い。



 国道まで戻り手前を左に曲がり、下の側道に出てそれに沿って歩く。
先程のサラリーマン氏が教えてくれたとおり、国道に上がる階段はなく、
北に向け300m程行くと交差する道路があり、これまで歩いてきた道は、
その先で国道に吸収される。



 ここでUターンし、坂を上れば宇治川大橋の北詰に出るので、右に曲
がれば街道歩きの本来のルートに乗れる。
 素直に向かえば良かったものを、偶然道路脇に立つ「淀競馬場」への
案内板が目に付いたものだから、ついその標識に誘われてしまった。



 こちらからでも行かれるなら、大路の方が解りやすくて安心だ、それ
にどこかで昼食もとりたい。堤防道に食事処はない。
 そんな思いから、そのまま先に進み横大路交差点に出てそこを左折、
京都外環状線道路を歩く事になった。
しかしこの判断がとんでもない間違いを犯すことになる。



 確かに道は解りやすかった。その先の外環横大路をバス停で確認しこ
こを左折すれば、後は一本道で安心して歩くことが出来る。しかしこれ
が何とも単調で途轍もなく遠かった。後で距離を測ってみると、3.5㎞
余もあった。



 素直に堤防道を歩いていれば、2㎞足らずで済んだものを、とんだ遠
回りをしてしまった。来た以上途中から引き返すことも癪で、味気ない
都会の幹線道路を、写真も撮らず、昼食も先延ばしにし、ただただ歩き、
疲れ果てて、ようやくにして淀納所交差点に出た。(続)





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クリーンセンターにて(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-01-31 | Weblog
 国道下を潜ったものの、川に沿って京阪本線の線路が通り、道路との
境には金網のフェンスが続いているので、目の前に見えている堤防道へ
は上がれない。踏切か堤防への登り口でもないものかと、直進し500m
程歩いて来たが、道はその先で行き止まりになっていた。



 「テロ防止・・・」と書かれた看板が建ち、バリケードで封鎖され、
道は右にカーブし、クリーンセンターに向かっていて「この先部外者
進入禁止」と書かれている。

 水環境保全センターから上がる白い蒸気を見ながら歩き続け、何時し
かその隣のクリーンセンターの敷地内に入り込んでいたらしい。



 道なりに来たが、おかしいとは思っていた。
途中には門扉のようなものが有ったし、道路ではゴミ清掃車しか出会わ
なかった。線路側は歩道のような形状だが、道路との段差が埋められ、
斜めに白線が引かれ駐車場になっていた。



 立ち止まってうろたえていると、怪訝な顔でこちらを見ている若い女
性と目が合った。
仕事を終えたところらしい女性は、東南アジア系の外国人のようだ。



 「これ行き止まりだね。本当はあの道で淀に向かいたいけど、どこか
らも上がれなくて・・・」と線路の向こうを指差して訴えると、「ここ、
道路違うよ。ホラあそこ。左曲がってその道上がるネ」と、指差したの
は横断出来ず下を潜ってきた国道である。



 引き返すより仕方無く、今来た道をとぼとぼと歩いていると、車が側
に寄ってきて助手席の窓が開き、「そこ、曲がるね、」と先程の女性が、
帰り際に念を押してくれる。

 「了解。そこだね。ありがとう」、と礼を言うと「ハイ! いいよ!」
と明るい声を残し、黄色の軽自動車はふかしたエンジン音だけを残し去
って行った。(続)





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国道1号線越え (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-01-29 | Weblog


 東高瀬川の堤防上を道なりに、京阪線に沿って進み、第二京阪道路の
高架を潜る。昼時だからか、何台もの車が高架橋の下の日陰に停まり、
ドライバーが休憩をしていた。さらに進むと片側二車線歩道付きの交通
量の激しい広々とした国道1号線に突き当る。



 中央分離帯には切れ目があり、向こう側にも堤防道が続いているので、
渡れそうではある。しかし、なんとか渡ろうとするのだが、流石の国道1
号線だ。交通量が激しく車が間断無くやって来るので怖くて渡れない。
車もここでは直進・右折は出来ず、左折の道路標識が掲げられている。



 実はここに来る直前の堤防で、昼休み散歩中のサラリーマン氏に出会
いその折り、「この道は国道を越え、道路の向こうまでいけるのか?」と
聞いていた。

 「行けるけど、道路を渡るのは自殺行為、危ないからそこでは渡らない
方が良い」とアドバイスをくれていた。



 「右に曲がり、少し下れば階段があり、それを下り、右に曲がれば国
道の下は潜られるが、潜っても向こう側には上がる階段は無い」とも教
えてくれていた。道路の横断が出来ない以上、ここでは素直にアドバイ
スを受け入れるしか仕方が無い。



 国道の横断を諦め、歩道を少し下り右の階段で下る。降りて直ぐに右
折して、更に右に折れて国道を潜り反対側に出てみたが国道に上がる階
段はない。さあ、どうしたものか?



 見れば国道に沿って北に300m程行き、そこでUターンすれば国道には
上がれそうだ。そうして橋の手前で右折をすれば、堤防上の府道124号に
戻ることは出来る。
しかしそれだとその後同じ距離のこの坂を、延々と上らねば成らない。(続)



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堤防道  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-01-27 | Weblog
 「この土手を行って、線路の手前で河原に下りれば道がある。
それを行けばあの橋出られる」
 ご婦人に言われた通り東高瀬川の土手を北上すると、堤防道は京阪
本線が金網で通せんぼしていて行き止まりだ。



 これまでは堤防にも土手にも一面草が生い茂っていたが、線路の手前
のここだけは、堤防の一部分がコンクリート護岸壁になっている。
先ほどのご婦人は、これを伝って河原に下りろと言っていたのだ。
かなり急なブロックの斜面を慎重に下り、河原に出て京阪線を潜る。



 河原には草の中に一本、踏み固められた道が出来ている。
そこを歩き、竹田街道外環道路の下を潜り、三栖橋の手前のところで、
ようやく堤防上に上がり左に折れてこの橋を渡る。



 何のことはない、この道は京橋を出て京阪本線の中書島駅手前で右折
した、東浜南町の三叉路から続く道である。
 街道歩きは肥後橋を渡り左折してきたが、そのまま直進して200mも歩
けばここに到るのだ。
それを延々と一キロ以上も堤防道を迂回し、遠回りしてきたことになる。



 とはいえ街道歩きでは、こうした川越では、嘗ての渡し場や旧橋跡に
橋が架かっているケースはまれで、多くは上流か下流の近い方の橋を見
極めてそれを渡り、再び街道筋に戻ってくる。

 あらかじめ解っていればこうするのだが、橋が有ると思って行って見
たら渡れず、それで迂回するのは何とも辛い。



 橋を渡って直ぐに左折、土手に上がると100m程で竹田街道外環道路
を潜る。
と右側に京都土産「千寿せんべい」で知られる「鼓月」の工場があった。

 思わぬ遠回りで歩き疲れ、直売店でもあれば立寄りたいところだ。
ところが店舗らしいものは見当たらず、残念ながらここは製造ラインだ
けらしい。10年ほど前に建設された新工場だそうだ。(続)





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