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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

終点・玉遊園地前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-28 | Weblog


 玉野市電の走る「玉野」の地名は、玉比咩神社の巨大な「立岩」が、
玉のようであったため「玉石」と名付けられた。
これが由来となったとの説も有るらしい。
嘗て海の入り江に屹立していた御神体は、今では直接触れることが出来、
パワースポットとしても知られている。



 相変わらず線路跡は駐車場になっているが、滅多に車の出入りも無く
歩くには安心だ。玉比神咩社前駅から300m程の所に、神社前駅とは同
日開業した「玉小学校前駅」が有った。
小学校は右手に見えるが、駅がどの辺りに有ったのか、周辺が余りにも
変りすぎ今となっては特定出来ないらしい。
距離的にはお堂の辺りかと思うが、それらしき痕跡は何もない。



 この先から廃線跡の駐車場は終わり、道幅が少し狭まって歩行者自転
車の専用道路に変る。前方には、中国電力ネットワーク(株)日比変電
所の巨大な送電線の鉄塔が見えてくる。
線路跡の専用道路は、川幅の半分ほどを占め、変電所の塀に沿って少し
左にカーブしながら延びている。



 変電所を過ぎると、前方に小さな児童公園が見えてくる。
と言っても特別な遊具が有るわけでも無く、何本かの植木と、金網フェ
ンスに囲まれただけのごく普通のありふれた広場である。
玉小学校前駅からは240mしか離れていない場所で、この辺りが玉野市
電の終点であった。



 道路脇に、「すこやかセンター」入口を示す道路標識があり、終着駅
の玉遊園地前駅はこの少し手前辺りに有ったと言う。
駅名はこの北山児童公園の存在に由来しているが、とても駅名になるほ
どの大層な遊園地ではないが、玉野市条例ではこうした公園は「児童遊
園地」と言うのが正式名らしい。(続)





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玉比咩神社前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-25 | Weblog
 雑誌等では、「川の中を走る電車」等と紹介される事も有ったらしい。
玉の町中を流れる白砂川は、大聖寺駅辺りで海に注いでいて、玉野市電
は大聖寺前駅を過ぎるとこの川に沿って玉駅に向かっている。



 玉駅から玉遊園地前駅まで路線が延伸される事になったが、周辺は既
に市街地が形成されて線路を敷くスペースの確保が出来なかったようだ。
結局、川の上に橋脚を建て、線路はその上に敷かれることになった。



 玉駅から僅か430mで玉比咩(たまひめ)神社前駅に到着する。
昭和35(1960)年8月3日の開業で、文字通り神社の真ん前の駅である。
当時の駅は神社前の交差点、国道430号線を跨ぐ横断歩道橋の手前にあ
ったと言う。



 玉比咩神社の定かな創建年は不明だが、古くから児島郡に坐する神と
して知られていた。
御祭神は、豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)が祀られている。江戸時代には
歴代藩主の崇敬篤く庇護を受け、度々社殿の修復が行われて来た。
郷土の守護神として崇敬を集め、特に年末年始には地元民が多く詣でる
という。



 神社の境内に巨大な岩が奉られている。
堀を巡らせた中央に立つ岩は、高さは10.6m(ビル3階分の高さ)、周
囲の長さは29.4mもあり、立っている様子から「立石」と呼ばれ御神体
とされている。
嘗てこの辺り一帯がまだ海で入り江だった頃、そこに立っていたそうだ。



 神社は造船の町らしく「支え綱」で作成した「支綱(しこう)お守」
りが人気という。進水式で満船飾(軍艦の場合は満艦飾、一般の船舶の
場合はこう言うらしい)に飾られた新造船は、支え綱を斧で切断され初
めて海に浮ぶ。
その時使われた支綱を神社でご祈祷し、お守りにしたものらしい。(続)





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繁華街の玄関 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-23 | Weblog
 その後玉野市電になると、慢性赤字の経営を改善するため二度にわた
り路線を延長してきた。最初は終点だった三井造船所前駅(当初は玉駅)
から商店街のある玉橋(当初は玉駅)の区間である。



 延伸された鉄道は、三井造船場前駅を出ると、大きく右にカーブして
進路を北に向け、終着駅・玉橋駅(開業すると直ぐに玉駅に駅名変更)
に向かっていた。当時の駅は、現在両備バス・玉橋のバス停があり、玉
商店街のイベント広場に成っている場所にあったらしい。



 二度目は玉駅(計画時は玉橋駅)から更に先の玉遊園地前駅の区間で、
これはさらに先まで延伸する計画の布石だったと思われる。
 新たな終点までは、軌道を敷く場所がなかったのか、白砂川に沿って、
川の中に橋脚を設けてその上を列車が走ることに成った。
現在市営の駐車場になっている場所である。



 玉橋駅の右側には、玉商店街が延びている。
造船業が活気を呈していた時代は大いに賑わったらしいが、昭和50年
代以降の造船不況をまともに受けて、未だにそこから抜け出せなかっ
たのか、シャッター商店街と化している。



 アーケードには、「歓迎 海上自衛隊」とかかれた看板も掲げられて
いて、三井造船場では自衛艦を製造し、メンテナンス等で海上自衛隊
との交流があり、繁盛した時期もあったことを覗わせている。



 商店街のアーケードは、開閉式であったようだ。
今では開け放たれた通りの上に、山形の錆びた鉄骨が立ち並び、中央に
下げられたランプ型の街灯が、見事な造形美をみせており、レトロ感が
溢れている。皮肉なもので、近頃ではその寂れたレトロ感が「映える」
と言われ、人気だそうだ。(続)





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企業城下町 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-21 | Weblog
 大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡るが、今日の専用道路
の橋脚は、列車が走っていた当時のものがそのまま使われているそうだ。
ここから線路跡は造船所と白砂川に挟まれた場所を、開業当初の終着駅
に向かっていく。



 川越しの右側、道路沿いに見えるのが玉野市の「総合体育館と児童館」
である。ここは造船所創業時に、工場と供に建設された玉社宅が有った場
所で、廃止になった跡地に、昭和58(1983)年に建てられた施設である。



 左前方には、企業立病院として大正8(1919)年に設立された玉野三
井病院が見えている。近年宇野地区に拠点を置く玉野市民病院と経営統
合し、「地方独立行政法人 玉野医療センター」となっている。



 大聖寺駅からは200m、右手に商業施設が見える辺りに創業当初の終
着駅・玉駅が有った。当時は車庫や鉄道会社の事務所などがあったらし
いが、跡地は三井造船の敷地となった。昭和30(1955)年に、鉄道が
玉の繁華街まで延伸すると、三井造船前駅と改名されている。



 玉野市は、創業時は玉造船所といった三井造船の創業の地で、企業城
下町である。造船所では、大型の旅客船を製造する他、戦時中には日本
海軍の艦船、現在では自衛隊の使う自衛艦等を手がける大規模な工場で、
市内には造船所の下請けなど中小の関連会社が多くあったらしい。



 工場前に広がるこの辺りが玉地区の中心的な場所で、周辺には社宅が
あり下宿屋があり、近くには繁華な商店街や各種商店が集積されていた。
慢性的な赤字を抱える鉄道は、この繁華な町に着目し、開通から2年後、
僅か170m程の延伸ではあるが、人々で賑わう玉橋に終着駅を移すこと
になる。(続)





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大聖寺前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-18 | Weblog


 藤井海岸駅の向こうに、大仙山トンネルが見えている。
大仙山(104.0m)の僅かばかりの山裾に、やっとの思いで穿いたよう
なトンネルだ。沿線では三つ目で、一番短くて全長は60mであるから、
これくらいなら切り通しでも良かったのにと思えてくる。



 馬蹄形の入口を入ると、出口の方が明るく見えていて、歩いていても
すぐに出てしまう。出て振り返ると、その口は補修されたのか四角くな
っていて、入り口は丸なのに出口は四角、不思議なトンネルである。
抜けるといきなり目の前に、異様な光景が展開する。



 赤い壁の建物。その奥に厳めしい護岸壁。その上に建つ巨大な黒瓦の
建物。更にそれに覆い被さるように聳える赤白に塗り分けられた巨大な
クレーン。
 実はこの三つの建造物は、全く独立して離れてあるのだが、ここから
眺めると重なって、まるで要塞のような不思議な景色に見えてくる。



 廃線跡はここで広い海岸通りを越し、その先三井造船の敷地に沿って
西進して行く。工場に向かう引込線はどの辺りに有ったのか、痕跡でも
有るかと思ったが何も無い。
この道路の辺りが、玉野保健所前駅から260m離れた大聖寺駅らしい。



 寺は、「日蓮宗 身延別院・大聖寺」が正式な名称である。
その寺名が刻まれた石柱があり、ホームは石柱のすぐ左に有ったという。
駅は昭和33(1958)年7月20の開業で、寺への参道入口となっていた。


 
 寺の創立は昭和21(1946)年だから、鉄道の開通の7年前で比較的
新しい寺院である。長い階段を上がった小高い山の上にあり、眼下に
玉地区の工場などを見下ろす絶景のスポットらしい。
 毎日夕方6時に打ち鳴らされる「寺の鐘」は、今や地区の風物詩に
なっているという。(続)




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藤井海岸駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-16 | Weblog
 鉄道廃線跡は、玉野市民病院前駅を出て古塩浜信号場にやって来る。
玉遊園地行きの電車は左の行違い線に入り一旦停車、宇野駅行きの電車
を待ち、ここでタブレットを交換し行違う。
 再び動き始めた電車は、やや上り勾配に成りながら正面に見える小さ
な山・中山(60.2m)に向かう。



 暫く進むと、右側に宇野保育園と宇野小学校があり、その先で中山ト
ンネルに入る。
長さは157m、沿線では二つ目のトンネルで、二番目に長いトンネルだ。
緩く左カーブしながらトンネルを抜け、次の藤井海岸駅を目指す。



 駅は古塩浜信号所から700m程離れている。
併走してきた道路は直進し、線路は右にカーブするが、その分かれて行
く辺りに有ったと思われる。道路を見ると遙か先に、海に面して建つ桂
スチール工場の大きなクレーンが見えている。



 海岸駅とは言っても、現在ではここから海岸までは直線で300m程離
れている。昔はこの駅の先に見える交差点辺りまで海が入りこみ、海岸
だったと言い、鉄道は右に聳える大仙山(104.0m)の山裾の、固い地
盤の上に敷かれていたようだ。



 この辺りは埋め立てられた地であろうか、標高で言えば2.5m前後の
平地に住宅が密集している。
廃線跡は山裾に沿うように右にカーブしながら進む。
 正面の民家越しには、三井造船所(現・三井E&S造船)の巨大なク
レーンも見えてくるが、それは如何にも玉野らしい光景だ。



 前方に、線路跡を斜めに横断する道路が見えてくると、この辺りが藤
井海岸駅から460m離れた玉野保健所前駅跡である。 
近年までホームと繋がったアパートの階段が残されていたらしいが、今
建物は取り壊されている。(続)





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古塩浜信号所 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-14 | Weblog


 大正6(1917)年、児島郡日比町の玉地区に三井物産造船部(三井
造船の前身)が創業し、工場建設に合わせ、玉、和田地区に社宅が建
設された。その後も工場拡張に伴い、奥玉、深井、渋川、利生にも社
宅が造られ、玉地区の人口は急増したが、造船業は昭和50年代に入る
と深刻な不況に陥っている。



 一方宇野地区は、明治末期の宇野線の開通、宇野港の開港、宇高連絡
船の就航以来、本州と四国を結ぶ玄関口として足元を固め、着実な発展
を遂げている。備南鉄道から玉野市電に引き継がれたとは言え、こうし
た背景の中鉄道は、二大地区を結ぶ市民の足として期待されてきた。



 ところが鉄道が開通した時代、街の中心は既に玉地区から、宇野地区
に移りつつあった。その繁華になった町中には、線路を通せなかったの
である。町を避けるように大きく北に迂回し南下するルートで開通した。
しかも社宅のある和田地区とは(計画は有ったが)結ばれていなかった。



 市は移管された後、乗客増を狙い、幾つか駅を開業させてきた。
又列車の行き違いのため昭和31(1956)年に、古塩浜に信号所を開設
した。単線軌道にあって電車の行違いをスムーズに行うための場所で、
乗客の取扱いは無く、列車同志のタブレット交換が行われていた。



 古塩浜信号所は、玉野市役所前駅から100m程離れた場所にあった。
今その痕跡は、廃線跡に立てられた白い蔵が、線路跡に対し斜めに建て
られていることで知ることが出来る。



 駅数を増やし、安定運行のため信号所を設け、僅かながら路線も延伸
させてきた。それでも乗客は伸び悩み、営業収支は赤字続きで、黒字に
転じることは無かったという。中心市街地を通せない鉄道の経路を考え
れば、伸び悩みも仕方無かったのであろう。(続)




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宇野地区の中心地 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-11 | Weblog
 天狗山トンネルを抜け標高を下げながら100m程行くと、左側にベン
チが置かれた休憩スペースがあった。
 起点から1400m地点に置かれ、昭和34(1959)年6月15日に開業し
た西小浦駅跡である。玉野高校前駅からは440mしか離れていない。



 剪定されているので木の種類は分からないが、線路跡は並木道だ。
廃線跡の両側には住宅が建ち並び、線路跡との間には生活道路が通され、
それに挟まれるように延びている。



 途中で町中を貫く国道30号線を越えるが、この辺りが宇野地区の中
心市街地に近く、大型の商業施設や市役所などが立地している。
 左に向かえば800m程で、宇野駅前、宇野港前の港エリアだ。



 国道を越え150m程行くと右側に、玉野市民病院の船形をした建物が
見えてくる。その前に左右に走る狭い道路が通り、その手前に市役所前
駅があったらしい。西小浦駅からは390mしか離れていないと言うから、
丁度住宅団地前の小公園の辺りらしい。



 ここまで廃線跡を辿ってくると、一寸した疑問が持ち上がってくる。
人口の多い中心市街地を通過すれば良さそうなものを、そうでもなさそ
うな所を大回りしている。



 宇野駅から北に向かった線路跡は、宇野中の辺りで大きく半円を描き
カーブして、この辺りでやや南寄りに進路を変え進むようになる。
 しかし元々は造船所の引込線で、駅ホームへの乗り入れは必要無いの
だから、駅手前で南進しながら本線と分かれ分岐して、国道30号線に沿
って西進すればここに到る筈だ。


 
 そこからカーブして南に向かえば、距離にすれば半分ほどで済むのに、
なぜこんな大回をする軌跡なのか、何とも不思議に思えてくる。
しかし、そこには訳がありそうだ。(続)




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天狗山トンネル (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-09 | Weblog
 線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を、左にカーブしながら続い
ている。前方に同線では最初の、「天狗山トンネル」の馬蹄形の入口が
見えてきた。



 宇野港の背後に聳える天狗山(162.0m)の南裾辺りに穿たれたトン
ネルで、玉野高校前駅からは僅かに上り、標高も若干上がって4m程の
場所にある。



 トンネルの長さは179mあり、玉野市電に3つあったトンネルの中で
は最長だ。入口上部に、錆びついて赤茶け僅かに残る金属片が見られる
が、電車時代の架線を支えたパーツのようだ。
 鉄道は経営の合理化、燃費の低減を狙って途中から電車をやめ、気動
車に変更されているが、その折にも撤去されず残されたものらしい。



 右側に山裾が迫り、左は住宅が有るものの高いコンクリート壁、上部
も草木が生い茂る入口付近は、小さな口が何となく不気味な雰囲気を醸
し出している。ただ内部には蛍光灯が灯されているので意外に明るいが、
単線軌道のトンネルらしく圧迫感を感じるほどに狭い。



 トンネルはやや右にカーブして通されていて、短いながらも入口から
は出口は望めない。内部の所々には、現在では意味をなさないような金
属パーツや金網で覆われた部分が見えるがこれらは鉄道の名残のようだ。



 住宅地にある鉄道のトンネル跡では、自転車や散歩する幾人かの市民
ともすれ違い、専用道路らしく市民に便利に使われている様子だ。



 トンネルを出て振り返ると、入口の薄汚れた様に比べると、こちらは
コンクリートが白くて新しく見える。近年補修工事が施された様子で、
その経緯は、傍らに張られた銘板で知ることが出来る。(続)



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玉野高校前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-07 | Weblog
 「この道は市民の健康増進を図るため造られたジョギングロードです。
コルクを混入させた柔らかい材料で鋪装されている。」
入口付近に古びて文字が消えかかり、辛うじて判読できる利用者に呼び
かける看板が立てられていた。



 県道22号を越える横断歩道橋を下りた辺りから自転車・歩行者専用道
路が始まった。しかしここまで歩いてきたが、普通の路面のようで、特
別な柔らかさなど感じられない。

 年月を経て、堅く固まってしまったのかも知れない。
その赤く舗装された道を、左の宇野中学校のフェンスに沿って歩いて行く。



 学校を過ぎ、道路を越えて小さな川を渡ると、その先右側に傾斜のあ
る道路が見えてくる。ここが二つ目の駅、「玉野高校前駅」の跡だ。
 傾斜のある道路は、駅のホームそのもので、その跡が残されそのまま
舗装道路になったらしい。



 広潟駅からは200m程離れた場所で、起点の宇野駅からも900mしか
離れていない。この先も駅間は可成り短いところが多い。
住民の利便性が考慮され、足になるべく至近に駅がつくられた様が窺
い知れるが、駅間はまるで路面電車の様相である。



 玉野高校は、戦前の昭和14(1939)年に創立された「岡山県日比高
等女学校(旧制)」が前身で、同校は後に「岡山県立日比高等学校(新
制)」になった。



 その2年後に創立されたのが「岡山県玉野中学校(旧制)」で、こち
らは後に「岡山県立玉野高等学校(新制)」と成り、この両校が昭和24
(1949)年に統合され、現在の男女共学普通科単独校「岡山県立玉野
高等学校」として誕生している。



 この辺りは小・中学校も立地し、文教地区となっていて、玉野市電が
開通すると、高校生を始め、生徒達の足として重宝されたようだ。(続)



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