十字路の角に、鬱蒼とした森に赤い柵を巡らした稲荷神社が鎮座して
いた。境内の街道に面した場所には、石碑や石柱、手型のモニュメント
等が所狭しと列を成している。

ここは「厚進学校跡」地らしく、明治8年に創設されて以降の学校沿
革が記され、傍らに往時を偲ぶ門柱が立てられている。
更にその先には、「明治天皇手原御小休所」の石柱も見られる、その横
に手の形をした「手孕ベンチ」が置かれて居る。

『伝説が歌舞伎「源平布引滝」に・・・子供を守るため産んだのは手
だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な 後の木曽義仲)子どもを
守り育てるベンチ(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)』と刻ま
れている。

嘗て村の何某が若妻を友人に預け旅に出たところ、その友人は「夜は
女の腹の上に手を置きて守りしに、女孕みて十月と言うに、手一つ生み
けり」との話が伝わり、それによりこの村を「てばらみ」と言ったが、
後に略して「てばら」となった。

さらに稲荷神社(里中大明神)」の由緒書きもある。
それによると「稲荷神社の祠有り、老松ありて傘の如しなり笠松の宮と
いう」と書かれている。江戸時代の名所記にはこのような紹介があり、
笠松が世に知られていたらしい。

栗太八景詩碑の内の一つで、「手原行人(手原の稲荷神社)」の詩碑
も建っている。
「雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年
々」とあり、その意訳の書かれた碑もあるが、心得の無い身には何の事
かちんぷんかんぷんで、理解の出来るはずも無い。

この角を右手に取れば奥がJR草津線の手原駅である。
街道は直進し、国道に突き当たる手前で線路を離れ、左に大きく曲がる。(続)

