簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

水基の町(高千穂ドライブ旅)

2017-07-31 | Weblog
 阿蘇神社の門前には、どこか懐かしい雰囲気の良い町並みが残されている。
阿蘇の風を受け、濃い緑を感じながら小鳥たちのさえずりを聞き、通りをゆっくりと
歩くと、あちこちから水のこぼれる心地よい音が聞こえてくる。
ここは水が出る基(水基)、水基巡りが楽しめる町としても知られている。



 車で通り抜けてしまえばほんの瞬間だが、やはりここでは車を降りて、ゆっくり時
間をかけて歩き、見て、楽しみたい、そんな町の通である。



 この地は古くから湧き水に恵まれたところで(阿蘇の伏流水)、それを飲料水や生
活用水として利用してきた歴史が有る。
そんな水を道行く人にも飲んでもらおうと造られたのが、水基である。
阿蘇神社の参道から続く仲町通りの商店街には、様々な形をした水基が数十基も
あり、これが魅力となり多くの旅人を引き付けている。



 以前、鉄道でその待ち時間を利用して訪れた時は、足早に水基を見て回り、帰り
際に名物の「馬ロッケ」と「田舎いなり」を買い込んで駅に戻り、車内でそれを広げ
車窓から阿蘇の雄大な景色を見ながら味わった。
そんな味を懐かしんでの再訪である。



 「馬(バ)ロッケ」とは、創業が昭和30年と言う老舗肉屋が作る馬肉の入ったコロッ
ケである。注文を聞いてから揚げてくれるので、アツアツで食べるのが特に美味い。



 馬肉は多少の癖があり、冷めるとその匂いが気になることもあるらしいので、兎に
角揚げたてのカリカリを頬張るのが良い。
少しのにんにくが、そのくさみを和らげているのか、ほくほくのじゃがいもは甘みも有
り、何とも言えない美味しさである。
また「田舎いなり」は、兎に角でかい懐かしい古里の味がする稲荷すしである。(続)





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阿蘇神社(高千穂ドライブ旅)

2017-07-28 | Weblog
 飯田高原を経て途中から県道11号線を走り、豊肥本線の宮地駅にやってきた。
以前鉄道でこの地に来たときはここから歩いて肥後一宮・阿蘇神社を訪ねている。
駅からは1.5Kmほど離れていて、20分余りを要したと覚えている。



 阿蘇神社は阿蘇の国造りの主など十二神を祀る、肥後の一宮として古代から重
要な位置を占めてきた古社である。



 三つの神殿と楼門、脇門は天保から嘉永年間にかけて、細川藩が十数年に及ん
で、巨額の費用を費やして再建したもので、それらの建造物は平成19年6月に国の
重要文化財の指定を受けている。



 特に欅材を用いて造られた楼門は、豪壮にして優美な外観を持ち、繊細な彫刻
が施されていて、鹿島神宮(茨城県)、筥崎宮(福島県)と共に日本三大楼門の一
つと言われている。



 高さは70尺(およそ21m)有るそうで、その屋根は元々杮葺きであったが、大正年
間には檜皮葺に、昭和に入ると銅板葺に変えられている。
二層楼山門式と言われる建築様式で全国的に見ても珍しいものだそうだ。



 そんな貴重な楼門やその先の拝殿は、あの「熊本地震」で無残にも崩れ落ち全
壊した。更にその奥に鎮座する国の重要文化財である三つの神殿も大きな被害を
受け、あの荘厳な境内は一瞬のうちに悲惨な姿を曝すことになった。



 数年前には鉄道で、そしてつい近年ではドライブで訪ね、馴染んでいただけにそ
んなテレビや新聞の報道には本当に言葉を失い、唖然とした。
幸復興事業は既に動いているらしく、重文は国庫による補助事業で、その他の建
造物は寄付金制度により平成35年を目途に再建を目指すと言う。
一日も早い復興を願わずにはいられない。(続)



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熊本地震(高千穂ドライブ旅)

2017-07-26 | Weblog
 何時ものことながら旅行から帰って暫くは、その思い出に耽っていると言う訳でも
ないが、何もせず悪戯に時を過ごしている。
そしてある日突然「あっ、まとめなきゃ」と思い立ち、やたら撮りまくって来た写真を
取捨整理し、持ち帰ったパンフレットや入場券などをスキャナーで取り込んで保存
する。昔から身についた習性だ。



 それらを時系列的に眺め、己の記憶と照らし合わせながら、ようやくパソコンに向
かいブログの記事を書き始める。そんな準備を得て本稿をアップしようとしていた矢
先、あの忌まわしい出来事が降ってわいた。



 2016年4月14日夜、熊本県と大分県で震度7の地震が発生した。
地震はこれで終わることもなく、翌々日の16日未明、再びこの地方を震度7の地震
が襲い、マグニチュードが前震を上回ったことなどからこれが本震とされた。
あの「熊本地震」である。



 その後も震度6程度の地震が何度も続き、結果M3.5以上の回数は内陸型の地震
では過去最多を記録したと言う。
その結果大勢の死者・けが人が出て、建物や施設などに甚大な被害をもたらした。
そんな災害から一年以上が立ったのに、いまだに避難を強いられている人が4万人
を超えていると言う。



 つい半年前、このドライブ旅行の最後に立ち寄った熊本城の無残な姿は、衝撃以
外の何物でもなかった。また途中でその名物が食べたくて、訪ねた町にある肥後の
一宮・阿蘇神社が屋根から崩れ落ちている報道映像には言葉を失った。



 さすがに直後に書けるわけもなく、また今この時期に・・・と思わぬでもない。
しかし元気なあの時の姿が少しでも励みになるのではとの思いもある。
そんな訳で一日も早い復興を願いながら、この旅行記を書いている。(続)





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九重“夢”大吊り橋(高千穂ドライブ旅)

2017-07-24 | Weblog


 久しぶりのドライブで、山陽道から関門橋を渡り、九州道、大分道と乗り継いで、
九重ICで高速を降りた。この日は、「高千穂」を目指す道すがら、ここから国道210
号線を経て県道40号線に入り、少し寄り道をする。



 重く鈍よりとした曇が低く垂れ込め、昼前だと言うのに辺りが夕方のように薄暗い
陰鬱な日であったが、雨が落ちてくることは無かった。
そんな天候とは裏腹に、沿道の山々では所々で木々が既に紅葉をはじめ、緑の中
に赤や黄の素晴らしいグラデーションを見せてくれ、思わぬ景色に感嘆の声を上げ
ながらのドライブとなった。



 インターから30分ほど、山深い地に突然広大な駐車場が広がった。
その先を見れば、曇り空に霞むように高さ43mと言う主塔が見える。
周りを山々に囲まれた標高777mの地に、威容を誇って聳える「九重“夢”大吊り橋」
である。平成18年10月に完成し、その名は公募で決められたと言う。



 深くV字形に切れ込んだ渓谷に架かるこのつり橋は、長さが390m、高さは173m、
巾1.5mで、人道吊り橋としては日本一高く長いと言う規模を誇っている。



 橋の上からは日本の滝百選にも選ばれた震動の滝の雄滝や雌滝が望め、眼下
には九酔渓の絶景が広がり、天気のいい日には九重連山の壮大な景観も見られ
ると言う。
歩道には二か所ほど足元にグレーチングをはめ込んだところがある。
恐る恐るその隙間から覗いてみると、白く糸を引くような鳴子川の流れが、遥か真
下に透けて見える。



 そんな景観に見ほれていると、いつの間にか谷から湧きあがった白いもので、瞬
く間に辺が覆い隠され消えてしまった。(続)



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もう一つの「高千穂」(高千穂ドライブ旅)

2017-07-21 | Weblog
 天照大神が統治する高天原から、その命を受けたニニギノミコト(天孫)が下りて
きて(天降り)、日本国を治めるようになった。



 その子孫が歴代天皇で、「日本書紀」では、神武天皇が2月11日に即位したと伝
え、その日は国民の祝日の一つである建国記念の日となっている。
一昔前は、紀元節と言われた日である。



 その紀元節世代の人々の多くは、この天孫降臨を「日向の高千穂」、宮崎県南部
に位置する高原町の「高千穂の峰」だと思い込んでいると言う。
かつての小学校などではそう教えたからだそうだ。



 ところが戦後に成って、比較的自由にものが言えるようになったころから、じつは
そうではない、本当の「高千穂」は別にあると言う説も囁かれるようになった。



 その「もう一つの高千穂」「本当の高千穂」が、同じ県内の北部に位置する「高千
穂町」で、何れも本家本元を名乗っているが、どちらが比定されるかはいまだに定
説がない。



 「高千穂町」は、九州のほぼ中央、宮崎県の北端部、熊本県と大分県に県境を接
する位置にある。ここは周りを標高1000mクラスの山々に取り囲まれた山間の小さ
な町で、人口は1.2万人ほどである。



 かつて高千穂郷には500余りの神社があったと言われ、神々の里と言われた。
又町内にはアマテラスオオミカミが籠ったとされる天岩戸(比定された地では無い)
が有り、伝説の里でもある。
その天岩戸伝説は「岩戸神楽」として、代々受け継ぎ伝承されている。(続)


『東海道歩き旅 武蔵の国』写真満載でホームページにアップしました。




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二つの「高千穂」(高千穂ドライブ旅)

2017-07-19 | Weblog
 宮崎県には「高千穂」が二か所ある。
一つは県の南部(日向)、鹿児島と県境を接する霧島連峰の第二峰、標高1573m
の「高千穂の峰」であり、その中腹には「高千穂河原」もある。



 四十数年前の大晦日、当時霧島神宮前にあった霧島高原Y.H.に泊まったことが
あったが、その日は「ペアレントと共に、宿泊者全員で年越しを祝った」と自身の旅
の記録には書き残している。



 深夜3時に宿を出て、約3時間の徒歩行で「高千穂河原」を目指している。
その地には、かつての霧島神宮の所在地である古宮跡があり、そこを詣でたのか、
或はその地から「高千穂の峰」を遥拝したのであろうが、そのあたりの記憶はすっ
かり薄らいでいる。
ここから「高千穂の峰」には登山道も整備され、1時間半ほどで山頂に行けるらしい
が、その日はここから引き返している。



 「高千穂の峰」は、天孫降臨の伝説の地とされ、山頂にはニニギノミコトが降臨し
たとき突き立てたとされる青銅製の天逆鉾が立っている。
一説では既に奈良時代には現存していたらしいが、後々の火山噴火で折れてしま
い現在のものはレプリカらしい。
その後、折れた刃の部分は行方不明になっているとか。



 都城と吉松を結ぶ吉都線の途中に高原と言う駅があり、そのホームには「ひむか
神話街道 天孫降臨の地 高原町」と書かれた看板が立っている。
ここ「高原」は「たかはる」と読み、その町名は天つ神が住まう「高天原(たかまがは
ら)」に由来するとか。





 ここら辺りが『南 日向の高千穂』で、周辺には数多くの伝承地があると言い、もう
一つの『北の高千穂』は、熊本と大分に接するあたりにある。(続)


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パワースポット(高千穂ドライブ旅)

2017-07-17 | Weblog
 近頃矢鱈と「パワースポット」と言う言葉を耳にする。
これは霊的な特別な力(パワー)が溢れ大地のエネルギーが頂ける場所のことで、
昔から地球上には数多く存在しているとされてきた。



 国内でも古くは「熊野詣で」や「お伊勢参り」、霊峰と敬われてきた「富士登山」等
が知られているようで、それらは神聖な霊地として昔から信仰の対象とされた場所
である。



 しかし最近では信仰とは係わりも無く、「パワースポット」をスタンプラリーのように
巡る旅行がブームを通りこし、一つのジャンルとして確立されそうな様相を呈してい
るようで、その火付けがどうやらテレビなどのメディアや女性雑誌だと言う。



 「パワースポット」と言っては、古くから伝わる山岳信仰のある山や格式ある神社
仏閣などをその対象とし、その地に存在するご神体や石や岩、樹木(神木・古木)、
池や泉なども特別に“気”が来るともてはやしているようだ。



 一部には何の根拠も無く人集め金集めの為、ただ観光地化を目論んでいるケー
スも有るなどと批判も出ているようで、そのことはそれだけ世の中が、「パワースポ
ット」ブームに沸いていることを裏付けてもいるようだ。



 最近妙に気になり、是非行ってみたいと思っていてやっと念願がかない尋ねた場
所がある。
それはそんな「パワースポット」の一つとされる場所で、「た・か・ち・ほ」と言う心地い
い響きが誘う、宮崎県の神話の里だ。(続)




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武蔵の国境(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-07-14 | Weblog
 地蔵尊が鎮座しているこのあたりが、武蔵と相模の国境付近に当たっていた。
かつてはここにはそれを示す木製の傍示杭(ぼうじぐい)立てられていた。
国の境に木杭が建てられていたことがこの地の地名の謂れとなっている。
今日では「武蔵国境の木」と書かれた角柱のモニュメントがその代役を務めている。



 またこの地は、境木立場の跡である。
立場と言うのは宿場と宿場の間に、馬子や人足などの休息のために設けられた場
所で、ここにはたくさんの茶屋などが置かれていた。



 当時からこの地は見晴らしの良い高台で、西を見れば富士山が、東を望めば東
京湾の青い海が望め、その素晴らしい景観から旅人が必ず足を止める名所で有っ
たらしい。
今では周りにマンションらしい鉄筋の建物が幾つも建てられていて、そんな視界を
妨げていて、昔を偲ぶことは出来ない。



ここに立ち並ぶ茶店では、名物の「牡丹餅」や「焼餅」が供せられている。
昔から描かれてきた浮世絵にも、富士山を望む急坂に構える茶店で、しばし体を
休める旅人の姿が幾つも描かれている。



 東海道最初の難所に向かう保土ヶ谷宿から、ここ境木まではおよそ一里といい、
その半分ほどが権太坂の厳しい上り道であった。
更にここから下って戸塚宿までは、凡そ一里九町と言われている。



 権太坂に次ぐ相模に下るこの坂道は、峠の茶店で名物の「牡丹餅」や「焼餅」が
売られていたことから、何時しか「焼餅坂」(別名 牡丹餅坂)と呼ぶようになった。
その坂はおよそ1町半(約160m)の道のりである。(東海道歩き旅・武蔵編・完)





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境木の地蔵尊(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-07-12 | Weblog


 境木中学校前のバス停で旧街道は右に曲がる。
ここを左に160mほど取れば、街道で行き倒れた人馬を葬ったと言う跡に、供養の
投げ込み塚の碑が立っている。



 旧街道の権太坂もここまで来ると上りもあと僅かで、ほぼ平坦に見える道を暫く
進む。やがて前方に緑濃い森のようなところが見えてくる。
標高で言えば72mほどのサミットで、そこが武蔵の国と相模の国の境である。



 ここには地元の信仰が厚いと言う地蔵尊が鎮座している。
又権太坂の難儀な峠道を行き来する旅人に取っては、旅の無病息災、安全を祈願
したところでもあるらしいが、現在の旅人に取っても格好の休憩場所になっている。



 ここのお地蔵さんは、東海道が整備されて間もないころに祀られたと言い、そこに
はこんな面白い伝説も残されている。



 『昔鎌倉・腰越浜に打ち上げられたお地蔵さんが、地元の漁師の夢の中で「江戸
に連れて行ってほしい。もし途中動かなくなったらそこに置いて行けばいい。」と頼ん
だのだそうだ。
漁師たちはそんなお地蔵さんを牛車に乗せて運んだが、どう言う訳かこの地に差
し掛かると動かなくなり、困り果てた漁師はこの地に置き去りにして帰ったそうだ。



 困ったのは境木の村人たちだ。どうするべきか悩んでいると、今度は村人の夢枕
にたち、「粗末なものでいいからお堂を建ててくれ。」と懇願されたと言う。
村人たちはお堂を造り、そこにお地蔵様をお祀りすると、夢のお告げの通り村には
お参りの人々が大勢押し掛けて、名物のボタ餅を売る店も出来るなど大層賑やか
になったと言う。』(続)



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坂とスカート(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-07-10 | Weblog


 上り坂は本当に苦手である。すぐに息が上がってしまう。
前屈みでゆっくり、ゆっくり、一歩また一歩と進めていると、女子高生が二人談笑し
ながら軽快な足取りで追い越していった。
すぐ下に県立の高等学校が有ったので、そこの学生であろうか。



 前に出たとたん「見ないで!!」とでも言っているかのように、しきりに短いスカート
の裾を後ろ手で押さえている。「そんなつもりはないぞ~」と叫びたいところだが、女
子高生の後ろを追うように、俯いてとぼとぼ歩いていたのでは、助平ジジイにされか
ねない。



 ここは間を開けるのが無難である。しばし立ち止まり、水分の補給をするのだが、
それにしても今どきの女子高生、スカート丈が短すぎやしませんか。



 そんな短いスカートの裾をヒラヒラさせながら、女子高生の朗らかな話し声が遠の
いていった。彼女たちにとってはいつもの通いなれた通学路であろうか、足取りは羨
ましいほどに実に軽やかである。



 団地や住宅の立ち並ぶ道の坂を登っていると、突然左側の眺望が開け、市中心
部の高層ビル群が見えてきた。晴れていればここから、富士山を望むことが出来る
そうだが、あいにくと今日は無理なようだ。



 かなり登って来た。
元町ガードを越えた辺りが標高20mほどで、横横道路を越えた県立高校の辺りが
50mほどとなるが、この間距離にすると500m程であるからこの登りは結構きつい。
この先道は更に70mほどの高さまで上るが、その境木小学校前までは、距離にし
て1キロ程だから、勾配は随分と緩くなる。
ここまで来れば頂上まではあと少しの辛抱だ。(続)



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