簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

旧倉敷チボリ公園(水島臨海鉄道に乗る)

2022-07-29 | Weblog


 一方北口には、メルヘンチックで北欧風な雰囲気が漂っている。
アウトレット等の商業施設もあるが、南口とは対照的に長閑な佇まいだ。
それは嘗て、都市型テーマパーク「倉敷チボリ公園」が立地していた名
残の数々が、今なお残されているからである。



 アトラクション20、土産処13,レストラン14等で構成され、主にファ
ミリー向けとも言われた公園は、滞在型観光の拠点として大きな期待が
かけられ平成9(1997)年に開園した。

 「倉敷美観地区」が周遊型観光地と言われ、その短い滞在時間をここ
とセットにする事で引き延ばしたいとの思惑である。
敷いては、泊まり客を増やそうとの意気込みが、当時の関係者にはあった。



 開園当初は、年間三百万人近い入場者を誇ったが、その後年々減少し、
数々の立て直し策が行われるものの改善する事は無かった。
終には百万人を大きく下回るほどになり、11年後(2008年)の大晦日に
は営業の幕を下ろすことになる。



 この公園は当初、隣接する岡山市が市制施行100周年記念事業として、
岡山駅の西、旧岡山操車場の広大な遊休地に計画したものである。
 ところが計画が杜撰との批判が持ち上がり、地元の誘致反対運動まで
起きる始末で、終には計画は頓挫した。



 その後当時の県知事の斡旋で、倉敷への誘致話が進められた。
時を同じくして、当地で操業をしていたクラボウ倉敷工場(万寿工場)が
閉鎖される事となり、広大な遊休地が出現することが判明した。
 渡りに舟、美味くタイミングが合いその跡地開発として計画が進められ、
一気に開園にこぎ着けたものである。



 駅の北口を出るとペデストリアンデッキが延び、そこには当時イベントが
行われた小さなステージが残されている。
バス乗り場となったロータリーには、アンデルセン広場も残された。
 コペンハーゲン市庁舎のシンボル塔を模した「からくり時計」は、4人の
ヴァイキング像に守られながら今も変らず時を告げている。(続)




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JR倉敷駅(水島臨海鉄道に乗る)

2022-07-27 | Weblog
 昭和56(1981)年、三代目として竣工したJR倉敷駅舎は、町の玄関
のシンボルと言われ、地上8階建てのビル(高さ42m)であった。
ホテルや商業施設が入り、夏には屋上にビアガーデン等も開かれ、盛況
を見せていた。



 その駅ビルの3階から上部分が減築解体され、2階建て駅ビルに生まれ
変わったのは平成27(2015)年3月の事である。
竣工に合わせ構内には、商業施設である「さんすて倉敷」がオープンし、
再び駅ビルに賑わいが戻ってきた。



 駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、駅舎
は南北連絡通路である橋上に設けられている。
山陽本線の途中駅であり、また伯備線の起点駅でもある。
隣接したところに、水島臨海鉄道も乗り入れている。
利用客は岡山駅に次いで多く、観光で訪れる客が多いのも特徴だ。



 残念なことに、ここには新幹線の駅が併設されていない。
山陽新幹線の新倉敷駅は、当駅からは山陽本線で西方に二駅、10㎞ほど
離れた玉島駅に作られ、それを期に新倉敷と名を変えている。
 倉敷駅周辺の用地買収の手間を考慮したらしいが、観光都市を自負す
る倉敷にとっては、痛恨の極みと言ったところで有ろう。



 南口に出ると、駅前には中央部分を大きく開けた「コの字」型のペデ
ストリアンデッキが延びている。
両側を固める東西のシティプラザビルには、デパートやホテル、飲食店
などの商業施設等の入っている。



 デッキの下のロータリーの中央には、大きな花時計が造られている。
バスやタクシーの乗り場が整備され、駅前を通る国道429号線や倉敷の
メインストリートである、中央通りに向けて出入りが多い。
 周りには、白壁・蔵屋敷をイメージしたウエルカム看板なども有り、
「倉敷美観地区」観光地の玄関らしい賑わいを見せている。(続)




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倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

2022-07-25 | Weblog


 岡山県の南部に位置し、県下最大の政令指定都市・岡山市に隣接する
倉敷市は、人口48万人余りで、県下第二位を誇る都市である。
中国地方では広島市、岡山市に続く、第三位の人口を擁する町でもある。



 市域は主に四つの地域に分けられ、その中心が倉敷残りは水島、児島、
玉島の三地区で、何れも過去に編入合併により繰り入れられた町だ。
倉敷の人口が20万人余り、残りはその三地区でほぼ三分されている。



 水島は、倉敷から車で20分ほど、高梁川河口域近くに位置している。
明治以降、干拓で埋め立てられた新しい地に、コンビナートで代表され
る重工業地帯が広がっている。
始まりは第二次世界大戦中のことで、瀬戸内海に臨む総面積約2500㏊の
広大な地に、220を越える事業所が集積され、全国でも有数な工業地帯が
形成された。



 児島は嘗て「吉備の穴海」と言う瀬戸内海が深く入り込む地であった。
古くからの湊町として知られ、瀬戸内海の各地、取分け四国との重要な拠
点であったが、今日でも瀬戸大橋で結ばれている。
国産ジーンズ発祥の地として注目を集め、学生服や作業服と共に主要な産
業となっている。



 玉島も、江戸時代以降の干拓により造成された地で、堤防付近には湊
が作られ、物資の集散地として栄えた当時を偲ばす町並が残されている。
新幹線の新倉敷駅が有るのはこの町だ。



 これらの町は、高梁川の下流域の沖積平野に発達した地だ。
室町時代以降は度重なる干拓などが行われ、瀬戸内海に向け陸地が押し
広げられていった。
市域に「島」の付く地名が多く存在するのは、当時の瀬戸内海に浮かぶ
島々の名残でもある。(続)




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宮の渡し公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-22 | Weblog


 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」

 熱田の地を度々訪れた松尾芭蕉は門人達と、七里の渡しからあゆち潟
(「愛知」の地名の語源とされている伊勢湾の干潟)を舟で遊び、幾つ
かの俳句を残している。



 七里の渡し場跡は、「宮の渡し公園」として整備されている。
今日の姿からは、当時の海岸線を想像することは全く難しい。
辺りはすっかり埋め立てられ、海は後退し、運河のような水際はコンク
リート壁で固められ、その間近まで民家やマンションの建て並ぶ賑やか
な町になっている。



 寛永2(1625)年に建てられた常夜灯は、その後風水害で破損した。
その後位置を少しずらし再建されたが、それも火事で焼失何時しか荒廃
した。今目にするものは、昭和30年に復元・再建されたものだ。
この常夜灯に火が灯ると、翌日まで舟は出る事が無かったと言う。



 再現された鐘楼が建っている。
かつて熱田神宮の南にある蔵福寺の境内に有ったもので、是は戦災で焼
失している。
ただ旅人に舟出を、町人に時を告げたその鐘は、延宝(1676)4年尾張
藩主の命により鋳造されたものが、戦災を免れ今も寺に残されている。



 先の戦災で全て失い、旧宿場町に当たるこの地には、当時を思い起こ
すものは何もない。
本陣や脇本陣の位置も、定かには解らないらしい。
200軒以上有った旅籠の痕跡も、曲尺手や見附も何もかも解らない。



 そんな中、旧船着き場に面して建つ嘗ての料亭「魚半」(現在は老人
向けグループホーム)の建物は、建築時期こそ明治29(1896)年と新し
いが、江戸当時の町屋の面影を良く残していると言われている。

 この建物は市の有形文化財の指定を受けていて、七里の渡し場に残り、
当時を伺い知る唯一の手掛りとなっている。
(東海道歩き旅 尾張の国 前編・完)




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七里の渡し賃 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-20 | Weblog

 
 東海道では唯一の海路で、宮宿と桑名宿を結ぶのが七里の渡しである。
渡し賃は、時代によりかなりの変遷があるが、細かく定められていた。

 それによると将軍や公家など高貴な身分の人は無賃、幕府などの公用
旅行者は賃銭が定めにより決められていた。
一般庶民は、幕府公用者の凡三倍であったそうだ。



 江戸時代の一般的な通貨に、「両」「分」「朱」という金銀貨単位が
有り、更にその下に銅貨としての「文」があった。
一両が四分、一分が四朱だから一両は十六朱となり、更に一両は四千文
とされていたから、言い換えると一分は千文、一朱は二百五十文になる。

 更に銀貨としての「匁」が有り、金一両は銀六十匁とされていた。
当時は銀相場が立っていて、これらは日常的に変化していたという。
(「大江戸生活事情」石川英輔 1997年講談社)



 当時の通貨がややこしい四進法であるのは、日常的な野菜等の買い物
には「一文銭」や「四文銭」が多く使われていたからだそうだ。
ただ、高級品や薬などは「銀○匁」の扱で、更に高い物になると「○両」
表示になっていたと言うから更にややこしい。



 東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、45文の船賃を払っている。
時代にもよるが、一文は今で言う12円程度と言うから、540円ほどの船
賃となるが、随分と安かったような感じもする。



 後に舟賃も上がり200文程になったと言うが、それでも2500円程度だ。
人力と風向きと潮の流れに頼る、名古屋から桑名まで三四時間の舟旅が、
この程度の料金なら、今日の感覚では意外に安かったと思えるが、当時の
庶民にとっては、この値上がりは大変なことであったようだ。(続)





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七里の渡し (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-18 | Weblog

 慶長6(1601)年江戸に幕府が開かれると、家康は江戸と京都の情
報伝達の迅速化を目指した。
伝馬の定めにより、「道筋」を定め、「宿」を整備し、宿に馬36疋を
置き運輸伝達に責任を持つことを命じている。



 この折発した『伝馬定・伝馬朱印状は写しを含めかなり確認できるが、
(中略)桑名宛の伝馬定には「上口者四日市、下ハ宮へ船路之事」と明
記されている』(「中世の東海道を行く」榎原雅治 2008年・中央公論
新社)ので、これにより熱田の宮から四日市までの舟渡しが東海道の正
式なルートとして定められた事が解る。



 その後七里の渡しは宮宿と桑名宿を結ぶ東海道で唯一の海路となった。
距離が凡七里有りこう呼ばれているが、実際の航路は、潮の干満により
大きく異なり、干潮による外回りのコースを取ると距離は十里にも及ん
だと言う。



 標準的な所要時間は4時間と言われている。
しかし干満による距離の相違、潮の流れ、風の具合にも作用され2時間と
も、或は7時間も要したとも伝えられている。



 宮宿の七里の渡し渡船場には、大きな常夜灯が立ち、舟番所や浜御殿、
本陣、舟奉行所などが軒を連ねていた。
湊には大名向けの豪華な御座船から、庶民の乗る帆掛け船まで、大小様々
な渡し船が75艘用意されていて、渡船は夜明けから日没前(午後4時頃と
いう)にかけて運行されていたと言う。



 嘗ては、「何時でも舟を出しければ・・・」であったが、由井正雪の
乱以降は幕府のお触れにより夜間の運航は禁止された。
 又、舟番所では桑名へ渡る乗客の名を控えていたと言うから、関所改
めの役割と同時に、今日で言う乗船名簿を扱っていて、これが日本で最
初のことでは(「海上交通」愛知県史)と言われている。(続)





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宮(熱田)宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-15 | Weblog
 「此の宿大に繁花なり 家並みも美々しく遊女も海道第一にして
少しく江戸の風まねぶ」



 精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、
ここから宮宿に入る。この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場
の発展はこの神社に負うところが大きい。
その為熱田宿とも呼ばれる宮宿は熱田神宮の門前町で、宿場町でもあり、
七里の渡しを控えた湊町でもあった。



 当時は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、
人口は10,000人を越す東海道でも最大規模の町であった。
伝馬町の通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家が立ち並びその間に、本陣・
脇本陣や問屋場が入り交じり、賑やかに連なっていた。



 伝馬町の西の外れは三叉路である。
ここを右に取れば熱田神宮前を経由し、名古屋城下へは1里半の道程だ。
又途中今日の金山辺りから西に向かうと岩塚、万場、神守、佐屋の宿を経
る6里の佐屋街道で、佐屋から桑名迄は3里の木曽三川を下る舟渡しだ。

 船酔いを避ける者や、船内の治安を気にする女性などが、七里の渡しの
迂回路として利用した陸路だが、ここも最後は船渡しが待っている。



 伝馬町の通りの突き当りに源大夫社があった。
源大夫は、ヤマトタケルが東征の折家に泊め、我が娘である宮簀姫を娶
らした地主神である。
後に東海道の守護神として、熱田の摂社に祀られることになる。



 そこを左に折れると神戸町で、宿場の町並は七里の渡し場へと続き、
その一番先に熱田神宮の一の鳥居が立っていた。
これは広重の描く五十三次の天保版の宮宿図の通りである。
この通りには飛脚問屋、奉行屋敷、尾州藩の西御殿や東御殿が威容を
誇り、舟会所、高札場があり、行き止まりが波止場であった。(続)





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白い町  (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-13 | Weblog


 旧東海道は古い道標の立つ三叉路で、その先を国道に遮られている。
地図で確認すると左に曲がれば真っ直ぐに七里の渡し跡に向かう道があ
るようだが、片側5車線もある国道247号線を斜めに横切ることになる。
ここは無難に右に回り国道に出て、神宮南歩道橋を渡り向こうに越える。



 橋の上からは右手に、二町余り先の熱田神宮の濃い緑の森が望まれる。
尾張名古屋の城下町は、「ここから北に五十町なり」と言われている。
当時も町並みは、神宮前を経て熱田台地(名古屋台地)の北端に築かれた
名古屋城下まで続いていたと言う。



 名古屋は先の大戦で戦災を受け、市域の1/4が焦土と化し跡形もな
く燃えて消滅してしまった。
当時人口は60万人足らずであったが、将来の200万人を目標に据え、いち
早く先進的な都市計画で復興を図ることになる。
その基盤となったのが防災目的の100m道路で有り、全市を四つの用途地
域に整然と区分する計画であった。



 計画が進むにつれ、整然と区画整理された町並を見て、人々はここを
緑の乏しい「白い町」と蔑んだ。
広々とした都市計画道路が町中を貫くと、滑走路でも造っているのか、
と揶揄し、当初は批判の声も多かったと言う。



 しかし今日ではこうした幹線道路は、防災のみならず公園としての機
能も合わせ持つパークウェイと成っている。

 又この計画では市内に点在した279寺の19万基の墓を一カ所に集めた。
平和公園と名付けお墓のある公園を作り上げ、今では墓苑などと呼ばれ、
市民の憩いの場、桜の名所となっている。



 この戦後の都市計画は数少ない成功例として、今日では大いに評価され
ている。とかく東京・大阪に後れを取り、第三の都市などと自虐的な名古
屋人も多いようだが、もっと誇りを持てば良いと思う。(続)



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古い道標 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-11 | Weblog


 裁断橋を越えると旧東海道のその先は、行き当たりでT字路だ。
目の前の南北に流れる国道247号線に遮られ、旧道が消滅しているのだ。
ここは宮宿の伝馬町から左折して神戸町への通りで、その先の七里の渡
しの湊を目指す中心的な場所であったが、今その面影は全く何もない。



 そのT字路に寛政2(1790)年に建てられた、東海道と各方面に向かう
追分けを示す道標が残されている。
東は今来た東海道で江戸に向かい、南に取れば「京いせ七里の渡し」で、
北に向かえば、「なごやきそ道」「みの道」「さやつしま道」である。



 尾張名古屋城下に向かう美濃街道は、名古屋の先岐阜県の垂井宿まで
行けばそこから中山道が分かれている。
木曽を抜け江戸に向かうか、京迄は関ヶ原を抜けるルートが出来ていた。
 佐屋・津島道はここから暫く北上し途中金山辺りから西に進路を変え、
佐屋津島を経由して桑名に向かうルートで、七里の渡しの舟を避けた旅人
が陸路を辿る道である。



 又その地には「ほうろく地蔵」がある。
嘗てこの地には「上知我麻(かみちかま)神社」があった。
桶狭間の合戦の折進軍中の信長は、熱田神宮に戦勝祈願をし、桶狭間に
向けて通った道で、ここで東方に上がる狼煙を確認した場所と言う。



 今この道は、信長の天下布武に向け大きく飛躍した武運にあやかり、
パワースポットと史跡を巡る「信長攻略 人生大逆転街道」として道
標の整備が進められている。
ルートは、揚羽道(出世勝運ルート)、木瓜道(大願豪運ルート)、
永楽道(恋愛勝運ルート)の三つがある。(続)





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裁断橋(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-08 | Weblog


 熱田伝馬町の姥堂に「裁断橋跡」の案内板が建てられている。
小田原の陣に参戦し、陣中で病死した堀尾金助とその母の逸話に所縁の
地である。

 説明によると「十八歳のわが子を亡くした母親は、菩提を弔うため、
この地の橋の架け替えを行った。そして三十三回忌にあたり、再び橋
の架け替えを発願した。しかしその願いも叶わぬまま、母親は亡くなっ
てしまったが、その養子が意志を引き継ぎ、新たな橋を完成させた。」



 その橋の擬宝珠には、子を思う母の心情が刻まれていたと言う。
「ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、またふためと
も見ざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成り、ははの身に
はらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ。」



 「後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念仏申給へや。」
と続き、この仮名書き銘文は多くの人々の感動を呼び、小学校の教科書に
取り上げられた事もあり、精進川に架かる橋は全国にその名を知られるよ
うになった。
川は昭和元年に埋め立てられ消滅したが橋は1/3に縮小しここに移された。



 姥堂には「都々逸発祥地」の碑も建てられている。
江戸は寛政12(1800)年に、宮宿の茶屋・鶏飯屋の女中、お亀とお仲
が潮来節を「ドドイツ・ドドイツ」(「どいつじゃどいつじ」と言う説
も有)と言う独特の節回しにアレンジして唄ったのが評判を呼び、広く
江戸でも知られるようになり、この地がルーツとされている。



 都々逸は七七七五調を定型とする短詩である。
元々は三味線を伴奏にお座敷や寄席などで唄われる俗曲で、男女の情愛
を表現した物が多いそうだ。(続)





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