簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

古町 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-30 | Weblog


 鈴鹿峠に向かう本来の旧道の入口は、とうとう見付けられなかった。
そのまま国道に出て600m程歩くと前方に片山神社の参道が見えてきた。
するとその少し前に、右側の山から国道脇に降りてくる石段があった。



 そこには道標も有り、直進すれば片山神社まで0.2㎞、山に入ればバ
ス停坂下まで1.1㎞と書かれているので、距離的にもこれが本来の旧道
のようだ。岩屋観音前から本来の旧道に入れば、山裾を経て、どうやら
ここに下りてくるらしい。



 しかし10段ほど登る石段の先を覗うと、雑草が生い茂り、樹木が生い
茂ったトンネル状態で、とても歩ける環境には無いようだ。
 関駅の案内所で貰った「東海道ぶらいマップ」にも、「岩屋観音から
片山神社入口までは国道1号線の側道を通ります」と書かれていた。
どうやら旧道は廃れていて、国道を歩いてきたのが正解のようだ。



 その先で道標に従い、右の片山神社の参道に入り込む。
少し行くと、杉木立の中の道がやや広がり、そこに案内板が建てられて
いた。
 この辺り左側が「古町」と云い、嘗て峠の直下にあり、神社門前であ
り又、宿場町であった場所である。
鈴鹿の山の麓、坂の直下にあるから「阪之下」と言ったらしい。



 慶安3(1650)年9月2日に大洪水に見舞われ、111軒の人家が有っ
た宿場は、「山川田畑民屋ことごとく頽廃す」有様で壊滅した。
人的な被害も大きく、再建は諦め、十丁ばかり東の現在地に移転され
新たの坂下宿が定められた。



 今では森の中の叢に、民家や寺跡が残されていると言うが、最早苔む
して定かには判別が出来ない。
地元では、最近寛永年間の検地帳が発見され、これによる検証が行なわ
れているという。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本来の旧道 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-28 | Weblog


 大名行列を横切った子供の身代わりとなった「身代わり地蔵」の小さ
な祠、金蔵院跡を見て進むと、やがて旧道は中橋を渡り国道に接する。
 その少し手前に「岩屋観音(清滝の観音)」が有る。
高さ18mの巨岩に掘られた岩窟に、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵
の三体の石仏が安置されているという。



 「岩屋観音」が有る辺りが凡1㎞続いた坂下宿の、西の出口にあたる
場所だ。
この先のルートを国土地理院の地図を確認すると、宿出口が国道に接す
る手前に、右に入る道らしい筋が「鎖線」で描かれていて、どうやらこ
れが本来の旧道らしい。
ところがこの道が歩けるのか・・・となると、確たる証しが無い。



 調べてみると或る本には、「杉林の中、せせらぎの音を聞きながら行
くと片山神社がある」と簡単に書かれている。又「国道を600m程歩き
、片山神社の参道を入る。杉木立の中・・・。」と書かれたものもある。

 「この杉木立の中・・」が片山神社の参道なのか、その手前の三子山
(556m)の山裾を抜ける「鎖線」で描かれた道なのかが判然としない。



 廃屋のような家があり、その辺りかと思ってはみたが、結局旧道の入
口らしきものも見付けられず、無難に国道に出て側道を歩くことにした。
この道は旧国道の嘗ての下り車線だけに、側道とは言え広々としていて、
融雪装置のパイプラインもそのまま残されている。



 鈴鹿峠を越える現在の国道1号線は、麓の沓掛辺りから峠のトンネル
を抜け出る辺りまで上下車線が分離され、全く別ルートで通されている。
その為いたるところに「逆走注意」の看板が立てられていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂れた宿場 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-25 | Weblog
 鈴鹿の難所を控えた坂下宿が、多くの旅人で賑わったのは、遠い日の
ことである。やや上り気味の宿内の通りを歩いていても、広々とした道
路を行き交う車を見るのは稀で、人の姿さえ殆ど目にすることが無い。



 宿場には松屋、大竹屋、梅屋の三軒の本陣や小竹脇本陣もあり、豪華
な布陣であったが今に残る遺構は何も無い。
ただ石碑が建つのみで、広々とした跡地は茶畑野菜畑に転用されている。



 「大竹、小竹とておおきなる旅舎あり」
広大さを誇り、鈴鹿馬子唄にも謳われ、東海道名所図会でも細かに紹介さ
れた旅人の憧れの宿、大竹屋は取り壊され、畑に変わり今は見る影も無い。



 宿の中程には、石工・近国作と伝わる庚申像で知られた「法安寺」と
云う禅宗の寺が有る。寺の門は、嘗て本陣であった松屋の玄関を、昭和
35(1960)年に移したものだという。豪華すぎる庫裏玄関が、この宿場
に残る唯一本陣の遺構と云う。



 関駅前を中心に、宿場町の観光スポットを巡り、その後西の追分けを
経て、国道や旧道を抜け、坂下公民館前まで、市のコミュニティバスが
一日4本運行されている。坂下からの折り返し便であろうか、途中の旧
道でそのバスとすれ違ったが、そこには乗客の姿は無かった。



 嘗ての宿場町に、この路線バスで観光に訪れる人は、極めて稀という。
旧宿場町には、これといった観光施設もなく、それどころかコンビニも、
食事処どころも、スーパーさえも無いのだから致し方ないのか。

 難所の峠を控え大名達や、峠越えの旅人の疲れを癒やし、繁華を誇った
宿場町だけに、この寂れようは余りにも悲しい。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂下宿(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-23 | Weblog

 そこから、数百メートルほど緩やかに坂を登って河原谷橋を渡る。
嘗ては亀山橋という名の長さ六間の橋が架けられ、渡ると東亀山領・坂
下宿の入口であった。
領境石が建てられていたらしいが、何所にあるのか見付けられなかった。



 これまでの街道筋の鬱蒼とした杉林が嘘のように、宿内の道路は広々
として開放感に溢れ、平入りの家並みが嘗ての宿場の大きさを伺わせて
いる。
 宿内の戸数は153軒、本陣は三軒、脇本陣が一軒だが、旅籠は関宿より
も多い48軒も有ったと言う。人口564人ばかりの小さな集落だが、人口比
では女性が多かったようだ。



 東海道48番目の鈴鹿山中の宿場町としては小さいのに、堂々とした陣
容で有る。面白いのは、当時の旅の情報誌「旅枕」では、「めしもりお
んななし」と伝えている。庶民にとっての旅の楽しみも、峠越えを前に
して体力は温存しておけとの事であろう。



 鈴鹿という難所を控えているだけに、諸物価は相当に高かったようだ。
人足一人を雇うと111文もかかり、関宿が56文というからほぼ倍である。
馬一疋の借り賃は関宿なら73文で済んだが、ここでは146文もかかった。



 因みに東の難所・箱根では、人足が238文、馬は312文と言われている。
次の宿場までの距離が四里と長い事もあるが(坂下と土山の間は二里半)、
鈴鹿の倍以上を必要とした。庶民にとっては、体力以上に懐の負担も結構
大きかったようだ。



 明治に成り、現在の国道1号線が旧街道を避けて整備された。
更に23(1890)年には、関西鉄道(現在のJR関西本線)が、関から南の
加太峠を越え、柘植に到るルートで敷設される。
これにより交通の動脈は国道1号線と鉄道に移り、旧宿場町の役割は終え
ることになる。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉林の森(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-21 | Weblog


 鈴鹿馬子唄会館の前の坂を登ると「鈴鹿峠自然の家」がある。
昭和13(1938)年に建てられた坂下尋常小学校の跡地に建つ青少年向け
の宿泊研修施設である。旧校舎が残されていて、切り妻瓦葺屋根を持つ
平屋建築で、校庭に向けた平入りで、正面中央付近には、妻入りの洋風
車寄せが作られている。



 外壁は洋風下見板張りで、ペンキが塗られモダンな作りだ。
歴史的な景観に寄与するとして、平成11(1999)年国の登録有形文化財
に登録されている。
ここには、民具や寺子屋資料を展示した民芸館も有るらしい。



 各宿場名の書かれた石柱が立ち並ぶ坂を少し下り、再び旧道に戻る。
その合流地点に、「鈴鹿馬子唄発祥の地」の大きな石碑が建っていた。
ここからが鈴鹿を目指す本格的な上りのようで、先ずは杉林に挟まれた
道が延びている。今のところ坂はたいしたことも無く、少しずつ高度を
稼ぎながら次の宿場を目指している。



 両側は鬱蒼とした森で、途中には「AGF ブレンディの森 入口」
と書かれた、極めて目立つ大きな看板が道路脇に立てられていた。
水の源で有る鈴鹿川流域の森を整備する一環で始められた活動の拠点で、
AGFが取引先と共同で一般客を招待し、イベント開催等を企画してい
るらしい。



 看板下側には小さな文字で、「関係者以外は立ち入らないでください」
とも書かれている。企業の社会貢献活動の一環であろうが、ならば「こん
な大きな看板出すなよ・・」と思わず突っ込んでしまう。
そんな悪態も、聞き咎める者がいないのは一人歩きの気楽さである。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事処(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-18 | Weblog

 この日は亀山のビジネスホテルで泊まり、6時過ぎに朝食を摂り、7時
過ぎには宿を出て、関宿までやって来た。宿内の前田製菓店にオープン
を待って立ち寄り、名物の「志ら玉」を二つほど口にし、「深川屋」の
「関の戸」も頂きたかったが我慢し、先を急いでここまで来た。



 途中の沓掛の集落で、そろそろ小腹も空いてきたので、たまたま玄関
先で花の手入れをするご婦人に、「食事をするところは?」と尋ねると、
「昔はドライブインも有ったけど、今はコンビニすら無い」とつれない
返事が返ってきた。



 ここまで「志ら玉」以外は何も口にすることも無く、食事の出来そう
な場所でも有ればと注意深く道中を窺いながら歩いて来たが、国道沿い
に廃墟を晒す施設を目にすることは出来たが、スーパーもコンビニも見
付けることは出来なかった。



 鈴鹿馬子唄会館まで来ればどうにかなるだろう、一軒ぐらい食事処が
あっても良さそうと、淡い期待を掛けながらやって来た。
 館内で談笑中のご婦人方に問うてみたが「何も有りませんよ」、更に
「この先の坂下宿にも、鈴鹿峠にも食べるところは何も無い」と、絶望
宣告をされる始末だ。



 おにぎりか弁当でも持ち歩けば良いのだが、大層な山奥に行くわけで
も無く、何時もどうにかなるだろうと楽観して予めの準備はしない。
 今時のことでコンビニやスーパーの一軒ぐらいと思うが、それがどう
にもならぬ事は結構多い。無いところには、本当に何も無い。



 いい加減学習すれば良さそうのものだが、「歩き旅の荷は極力軽く」
が信条で、重い荷は我慢が出来ないから仕方ない。
 結局、何時ものように非常用として持ち歩いている、カロリーメイト
とチョコレート菓子を、断りを得てここで食べることになる。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿馬子唄会館(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-16 | Weblog

 『♪♪ 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよというた
坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし
馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨』



 沓掛の集落を抜け、道なりに暫く行くと、地域の文化創造施設として
建てられた「鈴鹿馬子唄会館」が有る。
地域の集会所を兼ねた建物で、内部では鈴鹿馬子唄や鈴鹿峠の歴史文化
を伝える展示をすると共に、無料で入館できる休憩施設ともなっている。



 それに併設された天文台のある「鈴鹿峠自然の家」が目の前に見える。
嘗ての小学校で、廃校になり転用した施設で、青少年のための自然研修
設として、キャンプ場やグランドが用意されている。



 東海道、東の難所が箱根なら、西の難所は鈴鹿峠である。
特に伊勢側からの上りは急峻で、旅人達を大いに苦しめたという。
そんな峠を越える人々の、荷物運びの手助けを駄賃付けでするのが馬子だ。
当然足腰の弱い旅人のため、馬に人を乗せることもあったらしい。

 「鈴鹿馬子唄」は彼らが良く口にする労働歌であるが、更には「関の小
萬」に纏わる当時の流行歌だとも言われている。



 小萬は関宿の旅籠・山田屋で生まれた。
成人すると、良人の敵を討とうと当地で行倒れた母に代わってその志を
引き継いだ。
 亀山での武術修行に明け暮れ、幾多の困難に耐え修行を積み、18歳の
折見事亀山城下で敵討ちの本懐を遂げた。
小萬は36歳の若さで死んだが、関の福蔵寺に埋葬されている。



 関宿との縁も深く、馬子唄にも小萬は再三登場する。
敵討ちの女性として伝えられているが、一方でそうでは無く遊女の話だ
という説も有るらしく、伝説には諸説が入り交じっている。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沓掛の集落 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-14 | Weblog


 集落とも言えぬ程に人家の乏しい筆捨を後に、弁天橋を渡るとまた二
三の民家があり、その先で国道を外れ右の旧道に入り込む。
その分岐点の左側、道路向こう側の土手上に「市瀬一里塚跡」の石柱が
建っていた。



 江戸日本橋から数えて107里目の塚で、嘗ては榎が植えられていたと
言うが、今は何も無く石碑だけが段上に立てられている。
向こう側に行きたいいところだが、可成りの高速で車が行き交うこの国
道を横断するのは流石に恐ろしい。
国道は信号も横断歩道も無い道が続いていて、車が快走している。



 旧道に入ると、そこには車の喧噪とは全く無縁の世界が広がっていた。
行く手は鈴鹿山脈が塞ぎ、東には筆捨山が、西の山は何という名なのか、
山塊の切り立った崖が国道の直ぐ脇まで迫っている。

 鈴鹿川が流れ下り、町並が沿うように続いている。
嘗ては山越えの意味がある「おこし」と呼ばれた沓掛の集落は、坂下宿
の助郷村である。



 集落の中を狭い道幅の旧道が伸び、両側には落ち着いた切妻造り平入
りの家並みが続いている。軒が低く正面に格子が残された平屋、伊勢地
方の特徴である幕板を巡らせた中二階建ての町屋、焼き板張りの土蔵等、
年代を感じさせる建物を随所で見ることが出来る。



 集落の中程に沓掛公民館がある。その奥に真宗大谷派の超泉寺が建っ
ている。更に行くと郵便局が、その先には右手奥の一段と高いところに
庚申堂も有り、ごく普通の山里の様相だ。
街道は川の流れには逆らうように、やや登り気味の道に成ってきた。 



 殆ど人にも、車にも出会うことも無く集落を抜けると、その辺りでは
その坂も心なし勾配を増しながら次の坂下宿に向けて延びている。
正面に居座る鈴鹿の山並みも、より鮮明に見えてきた。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筆捨山(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-11 | Weblog

 東海道は西の追分けを右に取り進路を北に向け暫く国道1号線を歩く。
次の坂下宿へは一里半六丁(6.5㎞)、鈴鹿峠に向けた緩やかな上り坂が
待っている。

 ガイドブックにはこの辺りに、「転び石」が記載されているが、見落
としてしまった。右側の駐車場の敷地の中にあったらしい。



 鈴鹿川が一ノ瀬川と名前を変える辺りで、右の旧道に入ると市瀬の集
落に入る。とは言え人家が密集している訳でもなく、人も車も殆ど通ら
ない長閑な里山だ。この辺りまでは、所々で旧道が残されているものの、
多くは国道1号線を歩く。



 峠に向かう、或は峠を下る多くの車が、信号や溶断歩道の少ないのを
良いことに、恐ろしいほどの勢いで行き交っている。
歩道のガードレールが無ければとても怖くて歩けない。



 関と坂下の中間辺りに位置する、筆捨の集落に入ると、右手に筆捨山
(285m)が見えてくる、とガイドブックにはある。
 江戸時代から知られた名勝で、立場があり、峠を上り下りする旅人は、
筆捨茶屋で身体を休め、鈴鹿川と対岸の山を眺め、四季折々の景色を楽
しんだという。



 説明によれば、室町期の画家・狩野元信がこの山を描こうとしたが、
雲や霞が立ちこめ、日々刻々山の姿が変わってしまい、とても画けなく
てとうとう絵筆を捨ててしまったとの言い伝えから、岩根山がこのよう
に呼ばれるようになったと言う。



 今はそんな茶屋も無い農家だけの集落で、あれが・・と思える山は、
嘗ては山頭まで巌が見られたと云うが、木々が生い茂ったのか、取り
立てての景観でも無い。

 恐らく・・とは思うが、実際にどの山が筆捨山なのか分からないし、
聞こうにも人の姿さえ見えない寂しいところだ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西の追分け(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-09 | Weblog

 やや上り気味に、街道は古い家並みの続く「新所」地区を抜けていく。
ここには、火縄を名物特産品として扱う火縄屋が数十軒軒を連ねていた。
「若竹をけづりて打やわらげ、火縄につくりて売也」と伝えられている。
主に大名には火縄銃用として需要が有り、旅人には道中で使う煙草の火種
として人気を博していた。



 町並越しに左に見えるのは新所城跡のある城山(153m)で、右に見え
るのが観音山(224m)で、旧鈴鹿の関所はこの麓にあったらしい。
近年、奈良時代の軒丸瓦や城壁とみられる築地跡が出土し、新たに国の史
跡に指定されている。



 家並みが途切れると、やがて国道1号線の合流が近づいてくる。
その少し手前に、「西の追分け休憩所」があり、ポケットパークにお題
目塔の石標が立っている。この石碑は元禄4(1691)年に谷口長右衛門
が建立した題目塔と呼ばれるものだ。
「ひだりハいが やまとみち」と刻まれており、道標ともなっている。



 ここは、加太峠を越え奈良に向かう「加太越奈良道」との追分けだ。
この道は、明治以降は大和街道と呼ばれるようになるが、古くは「加太
越え奈良道」とか「伊賀大和道」などと呼ばれていた。



 当時は西追分から西に進み、次の宿場・加太までは一里二十三丁(約
6.4㎞)の道程で、その先で伊勢国と伊賀国を分かつ、標高300m余りの
加太峠を越え伊賀地方(三重県伊賀市)を経て大和国(奈良県)に至る。



 加太峠は、鈴鹿に劣らぬ難所として知られている。
後に開通する鉄道もこの峠越えでは、機関車を三重連で臨む程で、鉄道
写真マニアに人気の撮影ポイントとして知られることになる。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする