簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

半田山植物園(津山線・乗り潰しの旅)

2019-05-31 | Weblog


 法界院の西、山続きの半田山の南斜面を利用した丘陵地に、市立の「半田山
植物園」が有る。
敷地は凡そ11万平方メートルと広大で、そこには153科、628属、3200種、約
15万本もの植物が植えられている。



 元々この地には明治時代に造られた市水道局の配水池が有り、そこを利用して
植物園が造られ、昭和39年5月に開園した。
今でも園内には、明治から大正にかけて造ら円形配水池三基、大正時代に造られ
た矩形配水池二基などの他、昭和に造られた配水池などがそのまま残されていて、
それらを取り巻く場所が「半田山水道広場」として整備されている。



 梅林、紅葉園、椿園、ツツジ園、ハーブ園などが整備されていて、園内の花木
草花は四季を通じて楽しめる。
入り口付近には中国の洛陽から導入した30品種350株もの「花の王」と言われる
牡丹が植えられた「洛陽牡丹園」もあり、大輪の花の咲くころは見事だ。



 そんな中でもやはり桜の花の咲く、三月下旬から四月下旬にかけての頃の園内は
見応えが有る。桜林を中心に、園の遊歩道沿いに植えられた桜は45品種約1000本で、
その内ソメイヨシノは800本を数え、中にはシダレザクラの巨木や、樹齢100年を超
える古木も有る。



 開花のシーズンには桜まつりが開催され、夜間のライトアップも行われる、特別
に夜間入園が出来る。この時期に限り、園内での火気の使用が許され、花見の宴の
市民も多くなる。そんな園内の遊歩道からは、明かりの煌めく岡山市街地が一望だ。



 また満開で全山がピンク色に染まる半田山の姿は、津山線や山陽本線、山陽新
幹線の車窓からも眺められ、旅行く人々を楽しませてくれる。(続)



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金剛山 遍照寺 法界院(津山線・乗り潰しの旅)

2019-05-29 | Weblog

 山門近くにあった仮停車場が廃止され、一キロほど離れた地に新駅「法界院」
が出来た。駅名の由来になっている真言宗のお寺「金剛山 遍照寺 法界院」は、
今では駅前から線路に沿って北東に1.3Km,20分ほど歩く事になる。

 市街地に近い標高80m程の小高い山の中腹に有る寺は、天平年間に報恩大師の
開創と伝わる古刹で有る。地元では、「三野の観音さん」と慕われる、中国観音
霊場第五番札所であり、百八観音霊場第七番札所だ。





 入母屋瓦葺の重層八脚の山門(仁王門)は、県下でも屈指の規模を誇り、その
姿は勇壮・重厚で、風格を滲ませている。
天井には、クジャクや、鳳凰、竜などが見事に描かれていて、見応えが有る。

 門を潜ると石の階が延び、それを登った先には簡素な作りの二天門が建っていて、
豪華な山門との対比が面白い。境内からさらに石段を登った正面に、安政二年建立
の本堂が、その右にお大師堂、更に立派な石垣の上に一際高く鐘楼が建っている。
左に書院・客殿が有る。
市街地にあるのに広い境内を持ち、樹木なども多く、よく手入れが行き届いている。





 本尊は秘仏とされる桧の一木一体造り、高さは103.7センチの聖観世音菩薩で、
これは聖徳太子作とも伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
その脇を固める多聞天と持国天は、元々は二天門に祀られていたものらしく、何
れも平安時代の藤原中期の作と伝えられている。





 本堂の石段下に建つ高さ2.22mの石灯籠は、慶長年間の建立で、地元の豊島
凝灰岩石で作られたもので、完存する貴重な作例として県の文化財に指定され
ている。(続)



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神宮寺山古墳(津山線・乗り潰しの旅)

2019-05-27 | Weblog


 法界院の駅を出て踏切を渡り、車の行き交う県道を越え、500m程行くと市街
地の住宅街のど真ん中に、国の史跡に指定された「神宮寺山古墳」がある。
標高20mに満たないこんもりとした丘に築かれた前方後円墳で、全長約150m、
後円部の高さ13m、径は70mの三段築成、前方部の長は75mの二段築成である。



 現在では前方部の大部分は開発され墓地に転用され、真新しい現代人の墓が
林立している。後円部の頂付近には天計(あまはかり)神社が建立されていて、
全容を伺い知ることは出来ないが、丁度その辺りが中心埋葬地に当り竪穴式石
室が有ったといいその蓋石と思われる石が露出していて観察することが出来る。



 葺石が施され、埴輪が建てられた墓からは、刀や剣などの武器の他、鍬や鎌、
斧、鋸の鉄製工具など多くの副葬品が出土しているらしい。
全国に数多ある古墳の墳丘は盛り土によって築かれているが、その盛り土の様子
を伝える資料はほぼ無いに等しいそうだ。僅かに「人々を連ね立てで、川の礫を
運び 伝え上げて墓山を造った」という記述が播磨風土記に有るそうで、これは
墳墓の外側を覆う葺石の様子を伝えるものだと言われている。



 一帯はすぐ横を県下三大河川の一つ旭川が流れ、その川の西岸にあたる高低差
のない平坦な沖積平野である。この墳墓の葺石も旭川から人を連ねて運び上げた
ものなのか、興味は尽きない。墳丘からはその旭川など岡山市街地が一望できる。



 巨大な古墳が数多く知られる吉備地方に有って、この墓の規模は十指に入る。
そのことからも4世紀後半から、5世紀前半にかけて、大きな力を持って実り
多い平野を統治した大首長の墓ではと考えられている。(続)



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法界院駅(津山線・乗り潰しの旅)

2019-05-24 | Weblog


 津山線の前身、中国鉄道本線の開通から5年後、この寺の山門近くに設けら
れた仮停車場はその5年後に1㎞ほど離れた現在の場所に、現駅が簡易停車場
扱いで開業すると閉鎖された。
その簡易停車場が駅に昇格するのは明治41(1908)年9月の事である。



 岡山駅を出た列車は駅前の喧噪を抜け、やがて山陽新幹線の高架や山陽本線
と別れを告げると賑やかな市街地の中にある最初の駅・法界院に停車する。
古の面影をとどめる木造瓦葺きの駅舎が有り、1面2線島式の広いホームを持
っている。それはかつてこの付近に駐屯した旧日本陸軍第17師団の兵員や物資
移送の為の引き込み線があった名残だ。





 この師団が置かれたのは明治40年の事で、歩兵第三十三旅団司令部も置かれ
ていた。翌年三月に行われた開庁祝賀会は「師団に通じる各街路には余興の催
し物もあり付近の見学客は、毎列車満員で、市内は群衆の山をなした。」
(「ふるさとの想い出 写真集岡山 昭和53年 国書刊行社)
当時の地元新聞は、簡易駅の賑わいをこのように伝えている。



 現在では自衛隊が駅の北方2㎞ほどの所に三軒家駐屯地を構えている。
その駅近くの旧陸軍の跡地には岡山大学津島キャンパスが開かれていて、構内
には多数の旧陸軍施設が残されているらしいが、残念ながら未だ目にする機会
に恵まれていない。



 またそのほかにも岡山商科大学や岡山理科大学、その付属中学・高校、市立
中学校などが多く立地し、朝夕は通学利用の多い学生の町でもある。
その為津山線を走る数少ない快速の停車駅であると同時に朝の通学時間帯には、
岡山から僅か2.3㎞しかないこの駅止まりの列車も運行されている。(続)

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岡山エクスプレスつやま号(津山線・乗り潰しの旅)

2019-05-22 | Weblog

 岡山市と県北部の津山市とを結ぶJR津山線には競合する強力なライバル
が存在する。
津山線は岡山を出るとほぼ旭川に沿って北上する。
そんな沿線途中の野々口辺りから、それらに絡みつくように国道53号線も寄
り添ってくる。この国道53号線は、岡山市の中心部から中国山地を突き抜け、
鳥取県庁付近に至る延長140Kmほどの陰陽連絡道路の一つである。
岡山県内では県の北部と県都岡山市を結ぶ路線として、津山線が重要な位置
づけにあるのと同様に、この道路もまた連絡線として交通量の多い重要な道
路である。







 この道路を走る路線バスの運行が2013年12月から始まった。
中鉄北部バス、中国JRバス、両備バスの三社共同運行による「岡山エクス
プレスつやま号」である。
元々ここには中鉄バスが路線を持っていたが、乗客減で廃止されていた。
しかし近年岡山駅前に大型商業施設がオープンしたこともあり、利用増が見
込めるとして再開されたものだが、期待されるほどでもなく、運行会社が相
次いで撤退し、現在は両備バス1社による単独運行に後退した。







 高速道路を通らない高速路線バスで、一日4往復毎日運行され、最短1時
間35分と言う。これはJRが対抗して走らせている快速「ことぶき」の1時間
10分にはかなわないものの、普通列車とは何らそん色がない。
運賃はJRが片道1140円(往復2280円)なのに対し、片道800円だ。

 乗り心地から言えばバスの方が断然優れているが、ノンストップバスの為、
乗降場所が限られていることや、実際の乗車時間が岡山市内の渋滞の影響を
受けているようで、こんなことが伸び悩みの基らしい。(続)

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津山線

2019-05-20 | Weblog

 津山線は岡山市と県北部に位置する津山市との間、58.7Kmを15の駅で結ぶ
路線である。開業は古く、中国鉄道として明治31年に岡山から津山口が開通し、
現在の形で全通したのが大正12年のことである。





 かつては山陽と山陰を結ぶ連絡線として、直通の急行「砂丘」も運転され
ていたが、山陽本線から智頭急行線経由で鳥取に向かう「スーパーいなば」
や「スーパーはくと」にその座を奪われた。
今では快速「ことぶき」が、凡そ2時間おきに走っているだけのローカル線
に成り下がっている。





 とはいえ、一時期この線には急行「つやま」も運行していた。
その頃走っていた快速「ことぶき」とは、停車駅も所要時間もあまり変わらず、
急行料金だけ余分に必要とあって評判が頗る悪かったことを記憶している。
そんな急行も、2009年には廃止された。

 沿線は岡山駅を出て山陽本線と別れると、市街地を離れやがて旭川に出あい、
暫くはその本流に沿うように蛇行しながら進み、次第に山間の地に向かう。





 途中福渡を過ぎる辺りで旭川の本流と別れ、こんどはその支流の誕生寺川に
沿って北上し、やがて津山盆地に近づくと、今度は吉井川に沿いながら津山に
向かう。
このように津山線は、岡山を代表する三大河川の内、旭川と吉井川の二つの大
河と関わりながら、旧出雲街道ルートを行く国道53号線と、絡むように中国山
地の懐に入り込んでいく。
終点の津山は、町中を旧出雲街道が抜ける人口10万人の城下町で、通りには古
い町並みも残り、小京都と言われる観光地でもある。(続)

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黄瀬川の対面(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-17 | Weblog

 その先で国道1号線を越えしばらく行くと、右手奥の林の中に長沢の八幡
神社が建っている。ここは「対面石」で知られたところだ。



 伊豆を平定した源頼朝は、平家との富士川の合戦の為、この黄瀬川八幡に
本陣を構えた。そこに駆け付けたのが、奥州平泉で藤原氏の保護の元、機が
熟すのを今か今かと待ち焦がれていた腹違いの弟・源義経である。



 二人はこの地で、これまでの辛苦と打倒平氏・源氏再興を語り合い、共に
懐旧の涙にくれたと言う場所だ。少し高さと大きさの違う石が二つ向かい合
うように置かれていて、これに二人が腰かけて対面を果たしたと言う記念の
石だ。



 その後義経は源氏の最前線で戦い、壇ノ浦で平家を追い込み、終には海の
藻屑と葬った、いわば源氏勝利の立役者となる。しかしどこで釦が掛け違っ
たのか、その後の兄の冷たい仕打ちは兄弟の確執に変わり、追い詰められた
義経は劇的な最後を平泉で迎えるのである。



 そんな末路は、この時の光景からはとても想像できないものである。
しかしここに残された、高さの違う大小の石を見ていると、その後の二人を
既に暗示していたのかも知れないと思えてくる。

 実は、この大きさも高さも違う二つの石の存在が、悲劇の序章を伝えてい
たとは考えられないだろうか。兄は歓待するふりを演じながら、弟を見下し
ていたのだと思う。その証が、この石の形に込められている。
そんな風に考えると、何かしら感慨深いものがある。



 その先で黄瀬川を越える。
右手に潮音禅寺を見れば、街道は旧木瀬川村から下石田戸村へ入って行く。
丁度この辺りに「従 是西沼津領」と書かれた傍示杭が立てられていたようで、
東海道はいよいよ伊豆の国から駿河の国へと入って行く。
(東海道歩き旅・伊豆の国編 完)



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西の見附(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-15 | Weblog

 しばらく行くと左側に火除けの神として崇められる秋葉神社があり、江戸・
弘化年間に建立されたと言う常夜灯が残されている。
両側に冨士浅間宮、秋葉大権現と彫り込まれていて、村人が大火の災害から宿
場を守ろうとの願いを込めて建立したものらしい。



 丁度このあたりが西の見附跡だ。
見附というのは石塁で築いた枡形の門のことで、枡形には大木戸(出入りする
ための扉)が付けられていた。宿場町を挟んで東西に有り、東を江戸口、西を
京口等とも呼んでいる。こうした場所は今日では殆どその姿を残してはいない
が、地名として残っているところもある。



 大木戸は原則的には、明け六つ(日の出の明るくなる頃)に開けられ、暮れ
六つ(日の入りの暗くなる頃)には閉じられていた。
当時は灯りの乏しい時代であったため、太陽の明かりがある時間帯が昼、それ
が沈み暗くなれば夜としていた。



 宿場町の治安維持を目的とした出入り口の役割を果たしていた場所だから、
明るい時間帯だけ通行が認められていたのだ。旅人はこの間を縫って出入り
をしていた。



 この辺りには小田原北条氏ゆかりの千貫樋の疎水が流れている。
池の水を駿河の国に引いたもので、関東大震災で壊れるまでは木製のものが
残っていたそうだ。千貫樋の疎水を後に、さらに先に進むとその道の両側に
江戸から29里を示す一里塚がある。



 宝池寺一里塚は復元されたものだが、右側の玉井寺のものは良く原形をと
どめていて史跡に指定されている。その玉井寺には、江戸中期の禅僧・白隠
の「三界萬霊等」と肉太の筆跡で雄渾に書かれた遺墨が残されているという。(続)



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農兵節(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-13 | Weblog

 その先で伊豆箱根鉄道線の踏切を渡る。
右側が三島広小路の駅である。この路線はこの先韮山、長岡を経て修善寺に
向かっている。しばらく行くと、町中の道路脇に聞き慣れた文言の書かれた
大きな看板が立っていた。



 「富士の白雪 朝日にとける とけて流れて 三嶋にそそぐ 三嶋女郎衆の 
深情け」静岡県の民謡「農兵節」をもじったものである。



 江戸時代末期、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門は国防を訴え、外敵から
国を守るため反射炉を築き大砲を制作していた。
その傍ら若い農夫を集め訓練をする調練所を開いた。
その跡地は今の市役所がある辺りと言い今そこには記念碑が建てられている。



 その教練で行進曲として使われたのがこの元歌で、その故事にあやかり街道
筋で流行したのがしりとり歌である「ノーエ節」、それを基に今の「農兵節」
が作られレコード化されたことも有り全国に広まったのだそうだ。
今では三島夏祭りでは欠かせないものになっているという。



 「富士の白雪ノ~エ 富士の白雪ノ~エ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける♪
とけて流れてノ~エ とけて流れてノ~エ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ♪
三島女郎衆はノ~エ 三島女郎衆はノ~エ 三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い♪」



 単調で軽快なリズムは行進曲には打って付けで、小さな声を出し思わず口ず
さめば、疲れた足取りも軽くなる。
歌いながら歩けばいつの間にか、箸で皿を叩きながら蛮声を張り上げていた何
十年も前の職場の懇親会と言う名の宴会のドンチャン騒ぎを思い出していた。(続)


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伏流水の流れる町(東海道歩き旅・伊豆の国)

2019-05-10 | Weblog

 三島は湧水の町である。
「三島水辺の文学碑」には、このように刻まれた碑も立っている。
「町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛のすのやうに縦横無尽に
残る隅なく駆け巡り、(中略)三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯
ができるのでした。(「老(アルト) ハイデルベルヒ」太宰治 昭和15年)





 「むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの
三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。(中略)融けた雪は山
体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の縁辺であ
る三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。
(「裾野の水」 司馬遼太郎 昭和61年)」





 街道を歩けば、御殿川や源兵衛川を越えるが、これらは川と言うよりも用
水で何れも源は富士の伏流水のようで、豊富な町であることが窺い知れる。
地図で確認すれば池・川・用水など、水色で表示される流れが随分と多いこ
とが見て取れる。この源兵衛川も伏流水をためる楽寿園の小浜池から引かれ
た人工的な農業用水で、河川工事に関わった人物の名に由来する。





 源兵衛川を渡るとすぐのところに三石神社と言うお社が有り、その境内に
時の鐘が有る。
コンクリート製の台座の上に建てられた鐘楼のような姿をしている。
これは江戸・寛永年間から宿場の人々に時を知らせた鐘らしく、今の鐘は第
二次大戦後復興されたもので、年末の除夜の鐘として撞かれると言う。
境内は川の流れに沿った公園のように整備された場所で、蛍の幼虫の放流も
行われていると言い、市民の憩いの場になっている。(続)

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