簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鬼ノ城(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-31 | Weblog
 大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江(はくすきのえ)の海
戦で大敗を喫した後を期に、西日本各地に12か所もの朝鮮式山城が築城された
ことは「日本書紀」や「続日本紀」などの史書で明らかにされている。



 しかしこうした文献には記載されてはいないが、当時の東アジア情勢に敏感に反
映し築かれた古代山城らしき遺構が、岡山県下では二ヵ所知られていて、その一つ
「鬼ノ城」は今日俄かに注目されている。



 近年発掘調査が進み標高約400メートルの鬼城山に築かれたこの古代山城は、
壮大で堅固な城塞で有ったことが知られるようになった。

 

 山内の遊歩道はよく整備されているので、散策には入り口のビジターセンターに立
ち寄り、まず資料館等で基礎知識を仕入れるのがいいだろう。

 散策路の途中で少し脇道に逸れると、そこには展望台が造られている。
ここからは眼下に総社平野が一望で、晴れた日には遠く瀬戸大橋まで見通せる。



 そんな山頂の谷を隔てた向山の傾斜地に張り出すように立つ門が西門で、再建
されたものとは言え迫力がある。ここはそれらを見通すベストポジションだ。



 復元された西門は、固めた土に張り付けた花崗岩の上に立てられている。
城はこうした土塁で囲われて、その総延長2.8キロメートルに及び、鉢巻き状に回ら
されていて各方角にこのような門を構えていたと考えられている。



 城内の広さは約30ヘクタールと言われ、これまでに建物跡の礎石、水汲み場、土
取り場などが見つかっている。
まだまだ調査段階の古代山城は、新たな発見も期待され、限りない古代ロマンを感
じる場所でもある。(続)






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吉備の穴海(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-29 | Weblog


 岡山自動車道と絡むように進む桃太郎線の左手に、瀟洒な建物群が見えて来る。
岡山県立大学のキャンバスで、その校地が過ぎたあたり、周りに住宅が建て込んで
くると列車は服部駅に到着する。周囲には田畑が広がり、そんな中に所々住宅が身
を寄せあっている長閑なところである。





 ここから遠方に目をやれば、岡山県中部を構成する吉備高原が、緑の塊となって
せり出しているのが望まれる。今日総社平野と呼ばれるこの地域は太古の昔、この
吉備高原のすぐ南まで瀬戸内海が入り込み、「吉備の穴海」と呼ばれる多数の島々
が点在する風景が広がっていたと言われているので、この辺りにも海岸線が入り込
んでいたのであろうか。



 当時この吉備の地には、役所や寺院などが造営され賑わっていた。
また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への陸・海交通の
要衝でもあり、政治・経済の要地であった。吉備高原は、そんな地を眼下に見下ろ
すところに位置している。



 その後海岸線は次第に南に後退し、総社平野から岡山平野にかけての原型が
縄文時代には形成されたと言われているが、それでも海岸線は今よりかなり内陸
部に入り込んでいたらしい。(現在の岡山平野が出来たのは、江戸時代以降の大
規模な干拓に負うところが大きい)



 そんな吉備高原の頂上付近に目を凝らすと、緑の山塊を欠き崩したように土色
をさらけ出す山肌が認められる。
岡山県下に2か所あるとされる古代山城の一つ、「鬼ノ城」である。(続)






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陣屋町のひな祭り(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-26 | Weblog
 陣屋町・足守の町歩きは国道429号を外れ足守川に架かる葵橋を渡り、「足守
歴史 ふれあい通り」の入り口にある「足守歴史庭園」から始まる。



 町の中ほどには観光センターの役割を果たす「備中足守まちなか館」が有り、そ
こには観光パンフレットが置かれ、ボランティアの観光ガイド(無料)も常駐している。



 またその近くに位置する足守プラザは、情報発信基地、文化交流、安らぎの場と
して親しまれている施設で、陶芸や木工などの体験教室出来る工房を備えている。
ここではレンタサイクルの貸し出しも行われている。



 この通りで代表的な建物が「藤田千年冶邸」である。
これは江戸時代末に建てられた建物で、入母屋の本瓦葺、壁は漆喰塗で、この地
では多く見られた商家の造りだそうだ。
代々醤油製造を営む豪商の建物は一般に公開されている。





 足守ではこれらの施設を中心に23カ所にお雛様を飾り、「陣屋町足守町並み雛
めぐり」が行われている。
近年岡山県下では各地で町おこしのひな祭りが開催されているが、ここ足守のひ
な祭りは県下のトップを切って毎年2月の初めころからおよそ2か月間にわたって
開かれる。期間中には夜間のライトアップも企画されているようだ。



 商家や武家屋敷の残る陣屋町の町並みを散策しながら、楽しんでもらおうと言う
もので、大正から昭和初期にかけて使われ各家庭に残された貴重なものや、陶器
や組み木細工、掛け軸に描かれた雛などが家々に飾られ訪れる人々の目を楽しま
せている。(続)





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名勝近水(おみず)園(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-24 | Weblog
 足守藩侍屋敷から100mほど行くと、小さな川に沿った「利玄みち」が始まる。



 左手に宮路山がそびえ、その南東山麓に広がるのが「旧足守陣屋跡」の遺構で
ある。城郭を持たない小藩の藩主の居館や、藩庁や侍屋敷などが整備されたとこ
ろで、木下家13代の藩主による治世が行われたところだ。



 屋形廃止後は文教施設の場として使われていたが、今は広々とした芝生広場の
公園として町民の憩いの場になっている。
そこに隣接して白樺派の歌人として知られる木下利玄の生家が残されている。
明治19年に生まれ、幼少期を過ごしたのがこの地であった。



 その先にあるのが、県指定名勝の「近水(おみず)園」である。
小堀遠州流と言われる回遊式池泉庭園で、江戸時代初期に造られてものだ。 
一角に立つ吟風閣は、京都の仙洞御所造営時の残材で造られたと言う建物で、
池を望む高台に池を見下ろすように建っている。



 すぐ横を流れる足守川の水を引き入れた池に浮かぶのが鶴島・亀島で、周囲に
はカエデや桜が多く紅葉や花見の名所としても知られている。
湖畔には隠れキリシタンのマリア燈籠が立っているが、なぜこの地に有るのかは
良く解ってはいないと言う不思議な石柱である。



 この地には藩主や秀吉、北政所ゆかりの貴重な古文書などの資料がたくさん残
されていて、昭和57年に新たに発見された豊臣家関連古文書と共に「岡山市立歴
史資料館足守文庫」として園の一角に建てられた施設で管理されている。
(事前申込制・入館無料)(続)








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武家屋敷(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-22 | Weblog
 江戸時代の面影を残す町人町がここの顔なら、武家屋敷もまたここの顔である。
この地では陣屋町が形成され街道が整備されると、その道沿いには商家が次々と
築かれ、結果今日に見られるような武家屋敷の一帯と町屋の一帯が見事に残され
てきた。



「足守歴史 ふれあい通り」から少し入ったところに残る武家屋敷は、江戸時代中頃
に築かれた足守藩家老職・杉原家の旧宅だ。
ここには長屋門、母屋、御成門、内蔵、土蔵などがほぼ完全な形で残されている。



 白壁・なまこ模様の長屋門を潜ると前庭の向こうに堂々とした母屋が建っている。
茅葺・寄棟総平屋造りは伝統的な武家書院造り構造で、これは今日の和風建築の
原型とも言われている。



 唐破風の玄関は広く、式台の先には幾つかの広間が連なり、所謂表向きの書院
と言われるところで、その前には遠州流の庭園も有り藩主用の御成門を構えている。
裏手には内蔵や湯殿も残されていると言う。
これら凛として佇む屋敷は堂々たるもので、家老職の威厳さえ感じられる。



 武家屋敷近くの小学校には、「北木下家屋敷の表門」(北木門)も残されている。
これは足守藩政時代の貴重な遺構で、建物の骨格や正面外部の物見窓、下見板
など当時の旧状を良く保っているそうだ。



 一時は足守小学校の正門としても使われていたらしく、今ではその校庭の片隅に
忘れられたように置かれ、倉庫として使われている。(続)








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足守町並み保存地区(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-19 | Weblog
 JR足守駅から4キロメートルほど足守川に沿って北に向かうと、木下家二万五
千石の陣屋町が有る。吉備路の北東に位置し、足守川と岡山平野に育まれた豊
かな地で、昔から経済・交通の要衝として知られている足守の町だ。



 関ケ原の合戦の後、豊臣秀吉の北政所(ねね)の実兄・木下家定が姫路から移
封されたのがはじまりで、以後約250年間にわたり城郭を持たない小藩大名の居
所のある町(陣屋町)として栄えてきたこの地には、かつての建築様式を伝える武
家屋敷や古い町屋などが100戸余り残されている。



 それは明治以降各地で急速に失われた城下町の、特に町人町の風情を今なお
色濃く残すもので、江戸時代の伝統的な間口の広い平入りの家屋が立ち並ぶ町
並み保存地区「足守歴史 ふれあい通り」などで目にする事が出来る。



 重厚な瓦屋根漆喰のなまこ壁などの町屋が立ち並ぶさまは見事で、中でも町屋
の表格子は良好に保存されていると言う。建物の一階部分には、千本格子、切子
格子などと言われる端正な格子がはめこまれ、二階部分に目をやると格子窓、虫
籠窓などと多彩だ。



 町中には武家屋敷の遺構や当時を伝える陣屋の区画割りなど多く残されていて、
当時の侍の生活と町屋の暮らしぶりと言う二つの表情を垣間見ることが出来る。



 またこの地は江戸末期の蘭学者、適塾を開いた緒方洪庵や、明治から大正にか
けて活躍した白樺派の歌人・木下利玄の生誕地としても知られていて、縁の場所
も多く残されている。(続)



  

   

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陣屋町・足守(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-17 | Weblog
 遠くに見える吉備高原の山並み。その麓に広がる田畑の中に高速道路が延び、
所々に集落や無機質な工場らしい建屋が点在する長閑な車窓風景が展開する。
ここまで来ると岡山市も外れで、岡山平野から総社平野へと変わる辺りに足守駅
が有る。



 空のマッチ箱を置いたような、簡素な駅舎がポッンとあるだけの小さな無人駅で、
駅前に通勤通学のバイクや自転車が雑然と置かれている様はいかにもローカル
駅を思わせる。



 豊臣秀吉が高松城攻めの折り、軍師・黒田官兵衛の献策により堰き止めて水攻
めにしたとされる足守川がすぐ横を流れている。



 秀吉はこの足守駅の裏手辺り(旧門前村)から、丁度このJR桃太郎線に沿うよう
に備中高松駅の東秀吉が本陣を置いた石井山の南麓まで、高さ8メートルもある堤
を僅か12日間で築いたとされている。その距離は3キロメートルほどだ。
多くはその後の開発で削り取られてしまったが、一部がまだ残されていて国の史跡
に指定されている。



 ここ足守はその秀吉所縁の地である。
杉原家定は織田信長の家臣であったが、妹・ねねが秀吉の正室・北の政所となっ
たことで木下姓を許された。
その後関ヶ原の戦いの折りには中立を取り、その合戦ののち播磨姫路城からここ
備中に領地を移され、二万五千石を領したのがこの地の始まりである。



 その後この地に本陣が置かれ、陣屋町として町の整備が行われ、足守藩木下家
は明治維新まで13代に渡り藩主として治めてきた。
そんな江戸の面影を感じさせる町人町が、ここには色濃く残されている。(続)







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高松城の水攻め(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-15 | Weblog
 備中高松駅から歩いても10分とはかからないところに「備中高松城址」はある。
この地は北に吉備高原のなだらかな山並みが迫っているとは言え、辺りは僅か
ばかりの小高い丘があるのみの平地で、一面田畑が広がり小さな沼が点在する
見るからに低湿地帯である。



 当時の城はこんな地を巧みに天然の堀として利用した典型的な平城で有あった
ようで、よくお城に見るシンボルとも言える石垣は無く、多くは土塁によって固めら
れていた。



 こんな地に着目した秀吉の軍師・黒田官兵衛は、城を囲むように12日間でおよそ
3キロメートルの堰堤を築き、近くを流れる足守川を堰き止め城を水攻めにした。
元々水量も多くは無い川であったが、折しも梅雨時で増水し城は水中に孤立した。



 1か月にも及ぶ攻防の結果、城主・清水宗治が城兵の命と引き換えに自刃、城は
落城した。折しも京の本能寺では信長が明智光秀の謀反に倒れ、それを隠しての
講和であった。
その後の中国大返しにより歴史が大きく動いたその端緒となった舞台である。



 城跡は今、「高松城址公園」として整備されている。
入口近くには資料館があり、模型やパンフレットなどと合わせボランティアガイドに
よる説明を受けることも出来る。



 広場には芝が張られ、その中央には広大な堀池が有る。
それらを巡るようにつけられた遊歩道を歩いてみてもほとんど起伏のない平坦道で、
このお城の特性がよく読み取れる。本丸跡には清水宗治の首塚があり、近くには自
刃の地や胴塚、築堤跡など見所も多い。(続)







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宗治饅頭(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-12 | Weblog
 店先のの張り紙に心惹かれ、ガラス戸を押し開いてその店を訪ねてみた。
「箱だけですか?」「いえ、一つからだいじょうぶですよ」「じゃぁ、一つ」「普通のと、
白いのが有りますが・・・」「ああ、それなら両方を・・・」



 こんな会話で買い求めた「宗治饅頭」を、その店先を借りて頂いてみる。
お茶を入れてくれた女将さんに「官兵衛の頃は賑わったのでは?」と話を向けると、
「おかげさまで、すごかったです。・・・あれが続くといいのですが・・・」



 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映された時期は、ここ備中高松にもさすがに
休日ともなると観光客が押しかけ、今までにない賑わいを見せ、そのお蔭をこの店も
味わったと言う。



 然し残念なことにどこの所縁の地もそれらは一過性で、放送が終わると途端に水
が引いたように静けさを取り戻し、中々賑わいを持続すると言う事は難しいようだ。
件の女将さんもそんなことを言ったようで、話す声音に期待を込めながらも心なし
力が無い。



 備中高松城の本丸跡の前に店を構える「清鏡庵(せいきょうあん)」は、老舗の小
さな和菓子屋で、「宗治饅頭」は城主清水宗治に因んだ店の名物の一つである。





 やや小ぶりで白あんと、小豆あんの二種類有り、何れも「添加物は一切使ってい
ない」と言う。
ほんのりと栗色に焼かれた皮は薄く、甘さ控えめの餡がぎっしりと詰まっている。
素材の風味をそのまま生かした饅頭で、その飾らない素朴さがよくとても美味しい。

 この店には、漉し餡を透明な薄皮で包んだ「水攻め饅頭」もある。
夏の暑い時期なら、治水に生き、水に逝った城主を偲び、これを味わうのも良いだ
ろう。(続)






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参詣道の廃線跡(JR乗り潰し・桃太郎線)

2016-08-10 | Weblog
 備中高松駅の裏辺りから最上稲荷に向け、県道と並走するように自転車道が
通っている。曲線の少ない道で田畑の中にあっては異彩を放っていて、何となく
気になる道である。



 これは鉄道の廃線跡で有る。
現吉備線は明治37年に中国鉄道の吉備線として開通した。
その7年後当時稲荷駅と称していた今の備中高松駅から、「最上稲荷」のある稲荷
山までの2.4Kmで中国鉄道の稲荷山線が開業している。当時の人々は稲荷駅でこ
の線に乗り換え、「お稲荷さん」の参詣に向かっていたようだ。





 その終着駅は現在麓に広がる大駐車場の辺りで、そこから仁王門に到る参道が
続いている。参道は緩やかに登る600mほどの坂道に成っていて、両側には旅館
や土産物屋や食事処など凡そ50軒が犇めき合い昔ながらの門前町の風情を色
濃く残している。



 当時は境内からさらに山上の奥の院に向けて、ケーブルも運行していたようだ。
旧本殿の建つあたりに麓の山下駅が有ったらしい。
僅か15年の営業運転で「幻の鉄道」と言われているが、近年その当時の貴重な様
子を撮影した16ミリフィルムが見つかり話題になった。





 これらの鉄道は残念なことに何れも昭和19年、吉備線の国有化(国鉄)と同時に
廃線になっている。それは太平洋戦争が厳しさを増した時期で、鉄の供出と言う
国策によるものであったと伝えられている。(続)






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