簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

大師駅とゴロゴロ大師 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-29 | Weblog
 住宅地に遮られる度に、複雑な道を何度も曲がりながら迂回して、祇園
用水を越える。
この近くの用水越えにも橋台の一部が残されているらしかったが、残念な
がら見付けることが出来ず、関地区までやって来た。
ここからは北東方向に向けた真っ直ぐな道路が延びていて、どうやらこれが
廃線跡らしい。



 二本松の次駅、関駅は開業から2年後に幡多駅と改称された。
その駅が大師駅に再改称されるのは、大正4(1915)年の事だ。
虚無蔵大師(ゴロゴロ大師)への信仰から、参拝客が急増したための改
称である。

 近年地元の方々により、駅が有ったと思われる跡地近くに、真新しい
駅名標が建てられている。



 この「ゴロゴロ大師堂」は、岡山市の東部に連なる操山山系の烏坂山
(とっさかやま)にある。
操山は、市民等が気軽にハイキングを楽しめる山として知られていて、
その東部に聳える笠井山の丁度西隣りに当る場所だ。



 当時の参拝ルートは定かには解らないが、今日の道で言えば、駅から
ほぼ南に向かい百間川を越え、操山山系に向かう。
今でも車一台がやっと、と言うぐらい狭い道を緩やかに上っていくが、
直線距離でも2㎞程はある。
そこは竹林に囲まれた標高が40m近いところで、住宅が点在する静かな
里山の一画に小さなお堂が佇んでいる。



 「昔この近くに住む石取を生業とする石屋の嫁の具合が悪くなった。
大師に相談したところ、石をお祀りしろと言われたので、祠をつくりお
祀りしたら嫁の具合が良くなった」との言い伝えが有る。

 病気平癒の御利益があったので有ろう。
鉄道の駅からは結構な距離が有り、しかもダラダラとした上り道である。
こんな場所をも厭わず参拝に訪れていたと言うから、当時の人々は、誰も
が健脚であったようだ。(続)





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橋桁の遺構 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-27 | Weblog
 県道219号線の藤原交差点を横切ると、左側は病院の敷地で、白い大
きな建物が建っている。
線路跡はどうやらその敷地の中を貫いていたらしい。

 その病院の玄関前には用水路の中に石組みの構造物の跡らしきものが、
建物の基礎に埋まりながらも僅かに見える。
これは祇園用水を渡る橋を支えた橋台の跡らしい。
顔をのぞかせてはいるが、うっかりしていれば見過ごしてしまいそうな
ほど小さな遺構だ。







 この橋は、桁橋(ガーター)と言って、橋の中では最も単純簡単で、
一般的なものと言う。
川の両側に橋脚を造り、車輌の重量を支えられる鉄板を渡す、或は強度
をより増すためには鉄板を箱形に組んでそれを渡す構造だ。
前者をプレート・ガーダー橋、後者をボックス・ガーダー橋と言う。
 川幅の狭い橋ならこれで充分らしく、開業に際し潤沢な資金が有った
訳でも無く、多くは単純構造のこのような橋が採用されていたようだ。







 これから先は、殆どが住宅地等に変わり、線路跡は解りにくくなる。
地図で見ると、百間川堤防を降りたタクシー会社の車庫の辺りから、
先の乙多見公会堂までは、途切れながらも北東方向に直線的に特徴のあ
る空間がライン状に延びているのが解る。
有るところでは宅地に代わっているが、道路部分も有るので、それらを
つなぎ合わせ、辿って行けばその形状は一目で線路跡と想像が出来る。

 しかし、それを歩いて辿るとなると、何度も住宅地などに分断され、
迂回を余儀なくされるので中々に大変で骨が折れる。
住宅地の中で、ウロウロや、キョロキョロでは、不審者扱されかねず、
あくまでも単なる通行人を演じなければ成らない。(続)




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旧藤原駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-24 | Weblog
 百間川の堤防を200m程遡り右折して、原尾島橋を渡り迂回する。
左岸に渡り、先程の線路が途切れた辺りまで堤防を戻ってみるが、その先
の線路跡は住宅地に取り込まれ判然とはしない。
地図で確認すると宅地の中に、建物の建っていない細長い形状の空き地が、
この先の藤原交差点に向けて延びているのが解る。
恐らくこれが廃線跡であろうが、住宅地の中には入り込むことは出来ない。





 やむなく橋からそのまま延びる、余り広くはない市道に迂回する。
この道は旧国道の延長線上に有り、近くの国道250号線の混雑を避ける
車が流れて来るので、普段から車がやたら多い。

 充分に広さが無い道だけに、相も変わらず行き違いに苦労するほど込
み合っている。
そんな歩道も無い道では、屡々歩を止め、車をやり過ごさねば成らず、
危ないことこの上ない。





 しばらく行くと右手にタクシー会社の車庫が見えてくる。
実はこの敷地が線路跡で、この車庫の辺りに「藤原」駅が有ったと言う。
明治45(1912)年、長岡から森下間が延伸開業した時設けられた駅で、
当初は二本松と言った。

 しかしその2年後には、鉄道院(後の国鉄)との連帯運輸をするため、
紛らわしい駅名を改称するよう命じられ、藤原と変更した。
この時九駅の内、六駅の名称が変えられている。





 構内に屋根の有る車庫があり、その前の通路がこの道路とは鋭角的に
接している。
形状から察すると、これはそのまま目の前のコンビニの駐車場を抜け、
県道を斜めに横切って行く風に見える。
その先には病院の白い建物があるが、線路はそこも貫いていたらしい。(続)




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百間川の遺跡 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-22 | Weblog


 今日、百間川の河川敷内では見かけ無いが、昔から一帯には田畑が広
がっていて、その歴史は弥生時代まで遡り、当時から当地では稲作が行
われていたらしい。

 流域一帯は、埋蔵文化財包蔵地に認定されていて、百間川遺跡と総称
される遺跡群では、過去には大規模な発掘調査も行われ、水田跡からは
稲株跡も見つかっている。



 その昔、岡山の城が築城されるにあたり、近くを流れる旭川を、城を
巻くように蛇行させた。
その為それ以後は、城下で度度洪水の被害を受けるようになった。

 江戸時代に入りその治水対策として、熊沢蕃山の「川除の法」を基に、
藩主の池田光政の命により、津田永忠が放水路を築造する事になった。
それが、旭川が増水した時に放流する為の川の掘削である。
その川幅が凡百間有った事から、川は「百間川」と名付けられた。



 旭川に大荒手(越流堤)を設け、増水時はここから越流させるもので、
そこが百間川の源流となる。

 更にその下流には、貯留効果と流れ込む土砂の沈殿を防ぐため、二つ
の荒手を設けた。この三段方式の放水路のお陰で、本流の約半分を分流
させることが出来るようになったと言われている。



 とは言え、当時の技術では強固な堤防は築けなかった。
高さもなく、その後増えた道路や鉄道の陸閘(切り通し)部分等も有り、
近年に入っても流域地帯の水害は絶える事が無かった。
本格的な堤防の改修が行われるのは、明治以降のことである。



 近年になると国交省により、凡半世紀もかけて堤防等の嵩上げ増強・
修復工事が行われている。
堤防は高く強固となり、切り通しは全て廃止され橋が架けられた結果、
鉄道の陸閘遺構は残念ながら全て消滅してしまった。

 折角の施設なので、一カ所ぐらい遺構として残れば良かったのに、
と思いはするが、一方で、これらの荒手は補修・改修が行われ、300年
以上岡山城下を洪水から守った勇姿が見事に甦っている。(続)





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百間川  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-20 | Weblog


 原尾島競馬場が三播に移転した翌年、駅は一旦廃止された。
暫くすると、この跡地には、県営住宅が建てられる事に成り、昭和31
(1956)年には、原尾島駅が復活している。
その県営住宅は近頃近代的なビルに建て替えられ、昔と変わらない場
所に立っている。



 原尾島駅が有ったと思われる辺りから、更に東に進むと百間川の堤防
に行き当たり、廃線跡と思われる道路もそこで途切れている。
堤防に登り、河原を見渡しても、そこに鉄橋を架けた痕跡を認めること
は出来ない。



 実は鉄道はここに架橋するのではなく、堤防の切り通し・陸閘(りつ
こう)で、そこから河川敷を横切って渡っていたのだ。
元々百間川は、非常時の放水路で、通常は川の水量は殆ど無く、堤防も
低く、多くの道路も同様であった。
当時はそんな河川敷には、畑なども多かったという。



 従って雨が降り水量が増えれば、切り通し部分に板を落とし、土嚢で
固め堤防を復活していた。当然列車も運休し、道路も通行止めである。
堤防の修築工事が始まる昭和40年代頃まで、百間川にはこのような陸閘
は至る所にあったらしいが、堤防も高くなり橋に置き換えられている。



 ここから廃線跡を辿るには、200m程上流の原尾島橋に迂回すること
になる。
下流の国道250号線に架かる百間川橋でも問題はないが、再び廃線跡に
出るには、倍の距離をを歩く事になるので上流に向かう方が近い。



 余談になるが、原尾島の読みは、正式には「はらおしま」である。
しかし地元では嘗ての呼び名の「はらおじま」が今でも使われている。
更に岡山県人は、岡山訛りで「はろおじま」と言う。(続)




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原尾島競馬場  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-17 | Weblog

 
 県道402号を越えると、線路跡は、現在市道に転用されているらしく、
痕跡をどこにも見いだすことは出来ない。
緩く曲がる道筋が、僅かに線路のカーブを思わす程度だ。

 付近には原尾島駅が有ったらしいが、その跡地は住宅地になっている。
そこには当時の駅の遺構らしい石積みが、民家塀の基礎に転用されて少
しだけ残されている。



 かつてこの右手付近には、原尾島競馬場が有った。
岡山県下では、最初の競馬場が西大寺の吉井川右岸、現在向州公園の有
る辺りにつくられた。

 元々県畜産共進会の余興として競馬が不定期で開催されていたもので、
コースも短かったために廃止され、移転が決まった。
その移転先がここで、昭和8(1933)年原尾島競馬場として開場した。



 『原尾島駅ではあるが、地元の人はこの駅を競馬場前と言っていた。
だが駅舎は無かった。
当時競馬開催日には、大変賑わったものの、普段は乗降客も無く寂しい
駅であったそうな』(歴史 幡多学区電子町内会より)



 ところがこの辺りは、元々直ぐ横を流れる百間川放水路の低湿地で、
脆弱な堤防しか無かった。
両岸の堤防が強固な物に修築されるのはもう少し後のことだ。

 その為昭和9(1934)年と20(1945)年には、二回に渡る水害で大
きな被害を蒙ることに成る。加えてスタンドの一部が崩落するなど施設
の老朽化が進み、昭和27(1952)年には廃止された。



 翌年には三播(岡山市中区)に新たな競馬場がつくられた。
しかし岡山県内では期待した以上に競馬熱は高まらず、僅か6年で閉鎖
と成り、以後今日まで、県内に競馬場はつくられてはいない。(続)





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原尾島の世界初 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-15 | Weblog


 廃線跡と交差する原尾島3丁目の交差点から、県道402号線を西方に
400m程行くと、国道250号線原尾島の変則的な交差点に出る。
実は、この交差点は、「日本初・世界初」のある物が実用化された記念
すべき場所でもある。それは、今では町中の道路や駅のホーム、建物の
床面等で当たり前のように目にするものだ。



 時は1960年台の半ば頃、岡山市のある実業家がある日とある交差点で、
白い杖を持った目の不自由な人が道路を横断しようとする姿に遭遇した。

 通りには車が激しく行き交い、中々渡れない様子を見て以来、視覚障
害者が安全に、単独歩行が可能な世の中の実現が何とか出来ないものか、
と考えるようになったのだそうだ。



 それから2年の歳月と多額の私財を投入し、苦心の末考案したものが、
日本でも世界でも初めてこの交差点に敷設された。
しかし、当初は理解が乏しく、普及は遅々として進まなかったと言うが、
次第にその有効性が認められ徐々に広がり、今や全国に、更に世界中に
普及して行った。



 それは「コンクリート製・点字ブロック」である。
近くの盲学校生の協力を得て、昭和42(1967)年3月18日に、この交差
点に、日本でも世界でも初めての点字ブロックが230枚敷設された。



 当時のものは、四角いブロックの表面に、半円の突起物を1列に7個
7列並べたものだ。
そう言えばこの形の物を、嘗て町中で見たような気がする。

 今日では改良が進み若干形が違うが、兎にも角にも世界初がこの場所
で実用化された。
百間川橋西詰めの原尾島交差点付近には、当時のブロックを埋め込んだ
モニュメントが立てられている。(続)



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県道・原尾島-番町線 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-13 | Weblog
 駅跡を出て、店舗や住宅、事務所等が混在する、猥雑な町並を抜ける。
線路跡の道は国富地区から原尾島地区に到り、県道402号「原尾島・番
町線」を横断する。
この道は、国道2号線(現250号線)の原尾島交差点と、国道53号線の
番町交差点の間、2.3㎞を結ぶ全線片側2車線の都市計画道路である。





 県道を辿ると中区役所が有り、大型パチンコ店や飲食店、ショッピ
ングモール、自動車販売店、銀行の支店、警察署などが立ち並ぶ広々
として賑やかな町並を目にすることが出来る。

 そんな通りを一歩中に入ると、表の喧噪とは別世界で、戸建ての住
宅に混じり、比較的大規模なマンションや共同住宅等が犇めき、市中
心部に至近のベッドタウン的な様相を見せている。





 この県道は、戦後の市街地復興策の一環で、高度経済成長期に爆発的
に増え続ける自動車に対応する為の道造りと位置づけられ計画された。
途中の出石地区と浜地区の間を流れる旭川には、新しく「新鶴見橋」を
架ける事も計画された。

 出石地区には、路面電車・番町線の路線もあったが、この都市計画道
路に道を譲り廃線となっている。
県道は、昭和46(1971)年、「新鶴見橋」の完成を待って開通した。





 線路跡の道は、そんな県道を越えて進む。
ここら辺りでは道路に転用されたのでは・・と思えるような道もあるが、
多くは住宅マンションが立ち並び、これが線路跡だと中々特定できない。
当時駅も有ったらしいが、場所も変わり一時廃止されたりしているらし
く、駅跡や線路跡を示すサインも何も無い。(続)

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森下駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-10 | Weblog
 およそ800m南下し、国道250号線に接する県道を横切ると旧山陽道
に行き当たる。ここで線路跡は大きくU字カーブし旧道上を北上する。
暫く行くと右手にバスの車庫が見えてくるが、ここが「森下」駅の跡地
である。

 ここは先行開業した長岡から、更に延伸した当時の終着駅だ。
当初の計画では、このまま旧山陽道に沿って南下し、市内の門田屋敷に
向かい市内電車や、翌年開通が予定されていた三蟠軽便鉄道(桜橋~三
蟠)などとの接続を目指していた。





 用地の買収や資金繰りなどの問題も多く、現行ルートの後楽園終点に
落ち着いたようだ。
この不自然な大きなU字カーブが、その延伸計画の挫折を物語っている。

 ところでこの旧山陽道だが、岡山を開府した宇喜多直家時代より以前
には、今の中心市街地を大きく外れた北の方を通り抜けていた。
直家はそれを南下させ、城の近くを通すルートに変更し、更に後を継い
だ秀家は、旭川に橋を架け、城を迂回するようなルートに改めている。 





 結果旅人は、城を見ながら城下を一回りすることになり、この事で城
下町に人が集まり繁栄をもたらした一因と、今日では評価されている。
とは言え江戸中期に、はや100万人の人口を要していた江戸の町に比べ
れば、ここ岡山の城下町は武家が約23,000人、町人が約30,000人程度の
規模で有ったと言う。 





 旧西大寺鉄道は、岡山市街地に乗り入れるに当り、ルートをこの旧山
陽道の道筋に目を付けた。
すでに踏み固められた街道筋を使うことで、新たに堤を築く等、経費の
削減を目論んでいたのであろうがそれでも資金が足りなかったようだ。(続)

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廃線跡を歩く (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-08 | Weblog


 廃止になった西大寺鉄道の廃線跡を、歩いて辿ってみる。
ここ「夢二郷土美術館・本館」と「カフェ」が建ち並ぶ前の道は、何か
曰く有りそうに僅かに緩い曲線を描いている。
実はこれが昭和37(1962)年廃止となった鉄道の「後楽園」駅であっ
たことを窺い知る唯一の手掛かりである。

 道に沿って奥に進むと駅跡は来客用の駐車場に成っている。
更にその先を見れば民家や事務所の建物が行く手を塞いでいる。



 いきなりの迂回である。
この辺り市中心部の廃線跡は殆どが民有地として転売されているらしく、
線路の痕跡は殆ど残されてはいない。それどころか線路跡を特定するの
さえ難しいと聞いていたが、全くその通りだ。



 大方の見当を付け、先ほどの駐車場の裏側と思える辺りにやって来た。
ここには数少ない痕跡が僅かに残されていると言うから捜してみる。
やっと見つけたものは民家の庭先、ゴミステーションの裏側だからよく
よく注意して探さないと見逃してしまうほど小さなものであった。



 そのままブロック塀の基礎として転用されていた。
階段状のコンクリート遺構の上面に、レールを支えていたのか、或いは
祇園用水に架かるごく小さな橋梁のベースであろうか、間隔をあけて二
本ずつセットになった鉄筋(恐らくボルトで有ろう)が頭を出している。



 ここから反対側を見通せば、そこは大きなホテルの敷地で駐車場にな
っている。線路跡を思わすものは何もなく、その先にも民家やアパート、
マンションが続き痕跡は欠片も見つけられない。
ここら辺りの旧線を古い路線地図で確認すると、300mほど東進し今は
郵便局の建つあたりで南に進路を変えている。(続)



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