簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

城南宮と鳥羽離宮(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-30 | Weblog


 名神高速道の高架橋を潜り、その先で鴨川に架かる小枝橋を渡り、すぐ
に右折、堤防道に出ると道は、大きく左にカーブしながら下って行く。

 この道が城南宮道で、真っ直ぐに進めば突当りに「城南宮」が有る。
右に折れ、街道をそのまま行けば、左手が「鳥羽離宮の跡」の鳥羽離宮跡
公園である。



 鴨川の堤防を下りた最初の交差点の角に「城南離宮 右 よど やわた」
と書かれた古い石柱と、その横に「鳥羽伏見戦跡」の真新しい石碑が、白い
ガードレールに隠れるように立っている。

 幕末の慶応四年、薩摩を中心とする新政府軍と、幕府軍との間で繰り広
げられた鳥羽伏見の戦いの火蓋がここで切られた。



 丁度この辺りには旧小枝橋が架かっていて、あたりは戦場となり、橋をめ
ぐって両軍が激しく衝突した。
しかし、敗戦を重ねた幕府軍はこの橋を渡り入洛することが出来ず、大阪
道への退却を余儀なくされたのである。



 「城南宮」は鳥羽作り道が開かれた折、都の南の鎮守として創建された
古社だ。
旧街道を逸れ城南宮道を進むと、道の両側に常夜灯が立ち、その先国道
1号線の向こうに大きな石の鳥居が見えて来る。



 一方「鳥羽離宮」は、平安時代白河上皇が造営した離宮で、淀川に繋が
る池泉を配した庭園の岸辺に数々の御殿を回らし、同時代に創建された
城南宮を組み込んだ離宮は壮大な敷地を有していて、ここは歌会や曲水
の宴など数々の宴、船遊びに競い馬など華麗な王朝文化の舞台となった。

 また白河上皇に始まり、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇などと、135年に渡る
院政が行われた場所でもある。(続)





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恋塚淨禅寺(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-28 | Weblog


 街道を左に曲がると、すぐに右に折れる変則的な交差点の角に「恋塚淨
禅寺」が建っている。
入り口脇にある案内板によると、開基は文覚上人とある。
文覚と言えば、平安時代末期の北面の武士・遠藤盛遠その人である。



 『・・ぜひもありませぬ。十四日の夜の戌刻、良人の寝屋へ、さきに忍んで
ください。その宵、良人にふろをすすめ、髪のよごれも洗わせて、酒などあ
げて寝ませておきます。・・・どう仰っしやっても、良人が生きているうちでは、
あなたのお心に従えもいたしません。
わたくしは、遠い部屋で、あなたが、ことをすませるのを、眼をつぶって待っ
ておりましょう。』
(新・平家物語(一)ちげくさの巻 鬼影 吉川英治著 講談社・昭和42年)



 やはり物語のこの一節が思い出される。
盛遠は、同僚である渡辺渡(わたる)の妻・袈裟御前に恋し、渡るとの縁を
切ることを迫ったところ、袈裟がそれに応える下りである。



 夫を殺してくれと盛遠に持ちかけ、その実己の操を守るため、自分が夫の
身代わりとなり盛遠の手に掛り殺されてしまう。
それは執拗を極め一徹で、脇見を知らぬ男の横恋慕の挙句の事であった。



 恋する人を手にかけ、首を手にした盛遠の驚愕は如何ばかりであったの
か・・・。慙愧の余り痛涙に咽びながら逐電した盛遠の姿を、その後都で見
た人はいなかったと言う。



 盛遠は悔恨の念から出家し、文覚と名乗りその後伊豆の頼朝の蜂起を
導く重要な役割を担うのであるが、この儚無くも壮絶な悲恋が、そののちの
歴史を大きく動かしたのである。(続)




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上鳥羽あたり(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-25 | Weblog
 十条通りを越えたあたりで、一本東の筋に公園を見つけ、休憩がてら立ち
寄ってみる。



 一面に芝生の敷かれた、町中にしては随分と広々とした開放的な公園で、
周りは大きな木立が木蔭を作っている。
何かの旧跡かとも思ったが、良く解らない。
その脇にツツジが満開になった遊歩道が整備されていて、単調な千本通り
歩きに、ひと時の変化を求め少し歩いてみる。



 ものの本によると旧鳥羽街道は、平安京の造営に伴い、羅城門から真っ
直ぐ南に造られた道で、古くは「鳥羽作り道」と呼ばれていたそうだ。
大坂・難波からの外国人使節の入洛路であり、物資の輸送路であり、天皇
の鳥羽離宮への行幸路で有ったと考えられている。



 然し現在では、旧街道とは言え余り変哲のない、ごく普通の生活道路で、
思い出したようにポツポツと車などの通行は有るものの、町中なのに人の
姿を見ることは少ない。
住宅の多い家並みは低く、落ち着いた雰囲気が感じられる通りである。

 ところどころには、一階に千本格子・犬矢来を構え、二階に格子窓の有る
旧家が佇み、旧街道の雰囲気を少しだけ醸し出している。



 そんな旧家は、石の階段を数段上がったところに築かれていたりする。
これはこの地がすぐ西を流れる西高瀬川と、東を流れる鴨川に挟まれた低
湿地で、洪水を避けての措置だと窺い知れる。



 再び旧街道に戻り、その先で上鳥羽に入って来た。
そんな町中の、交番の横に「アレフ(元オウム真理教)「対策協議会本部」と
書かれた看板が建てられていた。
今でもオウムはこの地で活動を続けているのであろうか。(続)






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千本通り(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-23 | Weblog
 平安京の中心を貫く朱雀大路から羅城門を潜ると、その前を西国街道が
通っていた。
その東寺口の分岐点から南に向け、下鳥羽を経て鴨川の堤防を伝い、淀
の津のある納所まで延びるのが「鳥羽街道」である。



 空海雨乞い伝説の残る矢取地蔵寺と言う小さな堂宇の前で、国道171号
線を渡ると、その街道の入り口だ。ここは現在の千本通りに重なっている。



 千本通りは現在でも京都の町を南北に貫く主要な通りの一つで、北は鷹
が峯から南は淀の納所まで伸びていて、その内の二条から南が平安京の
朱雀大路に相当し、九条通りから南がかつての鳥羽街道と言うことに成る。



 色々な説が有るらしいが、有力なのがその昔送葬の地であった船岡山西
麓に向け、千本の卒塔婆を立て、送り人を供養したのがその名の由来らし
いから、この道は送葬の道でもあったと言う事だろうか。



 現在の通りは、そんな古を感じさせない明るい通りで、道幅は余り広くはな
く、狭いながらも歩道も整備されているので歩きやすい道である。



 十条通りの交差点の角に、古い常夜灯と石碑が立っていた。
見れば石碑には、正徳六年の銘が入り、梅鉢の紋様が掘られている。
調べてみるとこれは1716年に当る。



 ここから800mほど西にある、菅原道真公ご誕生の旧地として知られる「吉
祥院天満宮」の常夜灯と道標らしい。
 菅公と言えば学問の神様として知られているが、脇に立つ看板には、「雷
除祭 ゴルフ・登山 安全桑の葉のお守」と書かれていて、どうやらここは雷
除けにもご利益があるようだ。(続)





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羅城門(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-21 | Weblog


 東大寺の南大門を出て、九条通りを西に500mほど行くと、右手の住宅街
に埋るように小さな公園が有り、そこに「羅城門遺跡」と書かれた石柱が建
っている。うっかりしていると、通り過ぎてしまいそうなほど目立たない奥まっ
た地である。大した遊具も無い小さな公園で、園内に遊ぶ子供の姿はなく、
代わりに老婆が一人、木陰でたばこをふかしていた。



 この羅城門と言うのは、平安京の中心を貫く朱雀大路の南の端に設けら
れた大門のことで、都の表玄関に当る場所になり、この門の西と東に官営
寺院である西寺と東寺が建っていた。
丁度この線が京の都の内外、いわゆる洛中・洛外を分けていたことに成る。



 平安京に200年近くその威容を誇っていた羅城門は、暴風雨により倒壊す
ると、その後は再建されることも無く、礎石などは他の寺院などの建立で持
ち出されたらしく、近年の発掘調査でもその遺構は何ら見つかってはいない
と言う。



 余談にはなるが、芥川龍之介の小説「羅生門」なども有り、昔は「羅生門
(らしょうもん)」と習った記憶が有るが、今は「羅城門(らじょうもん)」と表記
も読みも統一されているらしい。



 この羅城門から真っ直ぐに南下し下鳥羽から鴨川の堤防沿いに、淀の納
所まで結ぶ街道が「鳥羽街道」である。

 江戸時代においては、京都や大阪に向かう主街道であることから「京・大
阪道」とも呼ばれていた。
そしてこの道は納所の先で木津川を渡り、石清水八幡宮のある八幡の地で
「東高野街道」へと結ぶ信仰の道でもあった。(続)






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弘法市(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-18 | Weblog
 東寺を下賜された空海は、都における布教拠点として、真言宗の僧50人
余りを住まわせるとともに、他宗の僧の居住を禁じ、教義の純粋さを保ち、
真言密教の根本道場としての整備に着手した。



 その後「大師(空海)信仰」の高まりから東寺は、「お大師さんの寺」として
広く信仰を集めるようになり、空海が高野山奥の院に入寂になると、その日
が新暦の21日と言う事で、月命日のこの日には御影堂で御影供(みえいく)
と言う法要が行われるようになる。



 江戸時代になるとその日に合わせ、境内では「市」が開かれるようになり、
人々はそれを「弘法市」「弘法さん」と呼び親しむようになった。
当時は、参拝客の喉を潤すお茶屋さんが中心であったと言う。



 初めて東寺の弘法市を訪ねたのは、もう半世紀近くも前になる。
境内を埋め尽くす出店の数と、売られるものの種類の多さ、それを取り巻く
人の数に大いに驚かされたものだ。



 当時の印象は、衣料品や古着・骨董品、市松人形・雛人形などを並べる
店が多かったように記憶していて、さすが京都らしいと思ったものである。
骨董屋の店先では、店主とのやり取りを愉しみ、時代劇に出てきそうな酒
徳利や湯呑を買い求めたことを覚えている。



 この日夜明け前に降った雨も上がり、綺麗に晴れ上がり暑いほどの陽気
となり、「弘法さん」は大勢の人々で賑わっていた。

 海外でも紹介されているのか、外国人がことのほか多く感じられる。
古着を並べる店は、随分と少なくなったような気がする。
小道具や骨董品は相変わらずのようだが、市松人形や雛人形を扱う店が
目につかない。



 代わりに各地の名産・特産品、食品類を扱う店が増えているようだ。
挽きたてコーヒーを飲ます店まである。元々お茶屋が原点ではあるのだが、
時代とともに、出店の中身も変わって行くのであろう。
二度目の「弘法市」は、半世紀と言う時の流れを感じさせるのである。(続)




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東寺(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-16 | Weblog


 久しぶりに京都駅の八条口に降り立った。
京都を列車に乗ったまま通過することは有っても、中々降りる機会も無く、
まして裏口である八条口に降り立つなぞ何年ぶりのことであろうか、俄か
に思い出すことも出来ないぐらい遠い昔のことである。



 しかし、記憶に残る駅の裏口(八条口)は一新されていた。
もう裏口(八条口)とは言えない。時代遅れのイメージが恥ずかしくなる。
まさにここは、国際観光都市・京都の玄関、明るい駅が眩しいほどだ。

 制服に身を包んだ修学旅行の学生や、大きな旅行カバンを下げた日本
人旅行者に限らず、外国人の家族連れ、カップル・グループなど大勢の観
光客がコンコースを行き来し、国際色も豊かに活気に満ち溢れている。



 駅を出て、大きなホテルやオフィスビルの建つ八条通りを西に向かい、
油小路通りで左折、伏見稲荷の御旅所を右に見て九条通りを右折する。
暫く行き、近鉄京都線の東寺駅横の高架を抜け直進すると、その前方に
東寺が見えて来た。



 新幹線の車窓から見る五重塔が、今目の前に一際威容を誇っている。
平安京の都市計画の一環として、羅城門を挟んで西と東に官営寺院が置か
れ、都の霊的な守りとすることになったのだが、これは平安遷都に際し、
平城京の寺院が平安京内に移転し、寺院による政治的な介入を嫌った桓武
天皇の意向が働いてのことであった。



 東寺は羅城門の東に位置していたからこのように呼ばれているが、教王
護国寺が正式な寺名で、西暦800年代、嵯峨天皇より空海に下賜された寺
である。
讃岐の満濃池の修築や、古寺の復興などで見られた空海の経営手腕が
注目されてのことであったと言う。(続)






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京のランドマーク(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-14 | Weblog
 列車が京都に近づき、乗換案内などの車内放送が始まると、東海道本線や東海
道新幹線の車窓左右には、駅前のビル群に聳えたつロウソクのような近代的な塔
と、黒い家並みの中に重厚な歴史を感じる五重の塔が見えて来る。



 駅の北側に見える塔は、ロウソクでは無く、京の町を明るく燈す灯台をイメージし
たものらしく、土台となっているビルの高さを含めると131m有り、京都市内では最
も高い建物の「京都タワー」である。

 一方、反対の南側に見えるのはその高さが約55mで、木造の建築物としては日
本一の高さを誇っている五重塔で、「東寺(教王護国寺)」のものだ。



 これが確認できると、いつものことながら京都に着いたことを実感する。
これらは何れも京都のランドマーク的な存在になっていて、新旧二つの高層建築が、
何時も旅人を迎えていると言う風景が如何にも京都らしい。



 旅人と言えば、昔の人々も平安京に向け、ランドマークを目指しながら歩いていた
のであろうか。当時の塔と言えば、都の正面に建つ羅城門と、その向こうに聳え立っ
ていたであろう東寺と西寺の塔だ。



 現在、西寺の塔跡を位置づける礎石などは確認されてはいないらしいが、おそら
く同じような塔が聳えていたのであろう。
一方、東寺の五重塔は9世紀末が創建と言われ、その後何度も戦火などで焼失し
たらしいが、その都度再建されてきた。



 爾来、この塔は道行く旅人のランドマークとなり、昔の旅人も長い歩き旅の先に、
これらの塔を見つけ、都に着いたことを実感したに違いない。(続)




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鳥羽街道(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-11 | Weblog
 それは、「鳥羽街道」である。
この街道は京の都の南、東寺の西に位置する羅城門から、途中鳥羽を抜け淀へ
と至る道で、ここからは大阪街道(京街道)が大阪まで通じていて、「京・大阪街道」
と総称されていた。



 このことからこの道は、伏見街道や竹田街道とともに、京・大阪を往来する主要
な街道であり、その途中に淀の宿場町が置かれていたことになる。



 元々大阪と淀を結ぶ間は、淀川を利用した舟運が発達していたことから、淀には
港も開けていた。この淀を結節点として、その対岸の八幡(石清水八幡宮)から東
高野街道が延びていても不思議ではない。
こんなことから、京都から淀を経て高野山に到る道を「高野街道・京大阪道」と呼ん
でいたようだ。



 東寺から「鳥羽街道(旧千本通り)」を通り、淀を経て、宇治川と木津川を渡り対岸
の石清水八幡宮まで、その距離は20キロメートルほどである。
ここから「東高野街道」と呼ばれる河内長野までは、56キロメートル、ここで「西高野
街道」と合流し、「高野街道」と呼ばれる道となり高野山下の九度山までが25キロメ
ートルほどの道程である。



 ここから高野山に上るルートは幾つも有り、その代表的な道が世界遺産にもなっ
た「町石道」で有り、江戸時代の主要な登山道であった「不動坂道」である。



 何れも高低差数百メートル、距離凡そ20数キロメートルの登山道である。
 今回の歩き旅は、その昔京の都人がたどった「高野街道・京大阪道」を、京都の
東寺から歩いてみることにする。


(写真:四国遍路道・鴇田峠超え)(続)





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淀の津(四国遍路の旅・高野山編)

2015-09-09 | Weblog
 しかし、調べを進めるうちにここで一つの疑問がわいてくる。
東高野街道の起点が、なぜ京都南部の石清水八幡宮なのだろうか。
同じ京都とは言え、この地は当時の都の中心から見れば数里も離れた地である。



 都人にとって、起点の石清水八幡宮まではどのようなルートを辿ったのか、色々
調べては見るのだが、これが今一つ釈然としない。



 資料によっては、高野街道は「京都の東寺を起点として・・・」と書かれているもの
もあるし、後日実際に東高野街道を歩いてみると、その道中の案内板にも同様な
ことが書かれていた。しかし、石清水八幡宮から先は色々紹介したものがあるのだ
が、その東寺から具体的に高野街道と呼んだルートを示すものには中々お目に
かかれないのだ。



 昔から京都には東に鴨川、西に桂川が流れ、それはやがて宇治川や木津川と
合流し、最後は淀川となって瀬戸内海に注いでいるが、その合流地点が淀であり、
丁度その対岸が石清水八幡宮のある地であることが地図を見るとよく解る。



 昔から淀には「津(今で言う港)」が有ったことが知られているので、当時は舟便が
発達していて、これから迎えるであろう過酷な道中に備え体力を温存するためにも
都からここまでは舟で往来したのでは・・などと愚考してみたりもする。



 しかし、それにしては数里もの舟旅とは、余りにも距離が長すぎる。
貴人や通信使なら兎も角、お参りの庶民の交通の足としては考えにくく、やはり陸
路を歩いていたと考えるのが自然である。
そうなると思い当たるのはあの街道しかない。


(写真:四国遍路道・歯長峠越え)(続)





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