簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

北緯34度13分の謎(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-30 | Weblog


 高野山には、年間140万人もの観光客が訪れる。
特に今年は開創されて以来1200年を迎える節目の年で、様々なイベントも
催され、外国人の姿も多く、参拝と観光の人々が入り交り、大いに賑わって
いる。



 804(延暦23)年、4層の船団は遣唐使として唐を目指していた。
その第一船には空海が、第二船には当時の最大のライバルであった最澄
が乗り込んでいる。
ところが渡海中嵐に会い、第三船は肥前の国に漂着、第四船は行方不明
になってしまうが、二艘だけが無事唐に着くことが出来たという。



 長安に入った空海は、密教の奥義を学ぶため青龍寺に入った。
一年間の勉学ののちさらに土木や薬学も学び、多くの経典などを収集し、
二年余りで帰国し、滞在したのが大宰府だと言われている。



 その後時の天皇に高野山の下賜を請い、勅許を賜りこの地に伽藍を建立
し自然の中での求道生活を続ける一方で、東寺も賜ったことで俗世間の中
での布教活動を始めるのである。

 『空海の心は東寺と高野山の間で引き裂かれて、つねに揺れ動いていた
のではないか。その両方を振り子のように往復しながら、六十二年の生涯
を終えた人。』それが空海だと言う。
(「百寺巡礼」巻六 五木寛之 2004年9月 講談社)



 空海は香川県の善通寺で生まれたとされている。
唐にわたり修行したのが青龍寺、帰国後修行の地としたのが高野山である。

 偶然のなせる業なのか、はたまた計算されてのことなのかは定かではない
が、これらの三か所はすべて同じ緯度上に位置しているという不思議なこと
が知られている。それが「北緯34度13分の謎」である。(続)



ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女人堂(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-28 | Weblog
 高野山にはここをめぐる山々に結界が引かれ、女性は誰一人立ち入ること
のできない女人禁制の山であった。
そのため各入り口には参拝に訪れる女性のための女人堂が建てられていた。
現在唯一残るのが、ここ不動坂口の「女人堂」である。



 『平安時代には長谷寺や石山寺といった霊場が女性の参詣者を集めてい
た。当然、高野山にも登りたいという者も出てきただろう。
そうした要望と女人禁制との一種の折衷案が女人堂であり、女人道であっ
た。』(「高野山と空海」 渋谷甲博 2015年1月 洋泉社)



 高野山の女人禁制は、寺院が立ち並ぶ山上の盆地が、僧たちの修行の
妨げになるから禁止されていたが、大師さんの膝元の「奥の院」に参詣す
ることは出来たようだ。
したがってここから遥拝するためだけに「女人堂」が作られていたわけでは
ないらしい。



 当時は、「外八葉」の尾根や峠を上り下りしながら、七口に建っていた「女
人堂」と「奥の院」を結ぶ「女人道」と言う参詣道が整備されていた。
 「女人堂」で飽き足らない女性たちは、息を切らしながら「女人道」を巡り、
時折木立の隙間から垣間見る伽藍に向かい、首を延ばし、手を合わせてい
たと言う。



 この日訪れた「女人堂」には、すでに夕闇が迫っていた。
うっそうと茂る木立を背後にして建つ堂宇は、もっと小さなものかと思ってい
たが、以外に大きな建物である。
それもそのはず、ここは女性たちが宿泊もできた参籠所であったのだ。



 線香の煙が燻る中、あたたかな法灯に照らされた大日如来が、凛とした
佇まいで今でも参詣の者を分け隔てなく出迎えている。(続)




ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八葉の蓮華(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-25 | Weblog
 一般的に高野山と言うが、その名の山は存在しない。
転軸山、弁天岳、摩尼山など1000m級の8つの山に囲まれていることから、
これらの峰々を蓮の花の八枚の花弁に例え「八葉蓮華」と称し、一般的に
は「外八葉」と呼んでいる。



 それらに囲まれた盆地は、東西6キロ南北3キロで、その神聖な地形の地
に空海は真言密教の聖地を開いた。
そこに築かれた大塔を中心とした伽藍が立ち並ぶさまも蓮の八枚の蓮華の
形に例えられ、「内八葉」と呼んだ。これが山上の宗教都市・高野山である。



 その「外八葉」にそれぞれ設けられたのが、高野七口と言われる入り口で
ある。嘗ては慈尊院から、町石道を経て大門口に出るのが表参道であった
が、その後橋本から、学文路を経て不動坂を上る不動坂口が整備されると、
距離の短い事から人々が押し寄せ、特にこのルートは女性に人気があった
と伝えられている。



 現在の高野山は明治の初めに女人禁制が解かれ、その中頃には女性も
居住が認められ、以後、役場や警察、学校や病院などの施設も整備され一
つの町として今日の姿に発展した。 
多くの塔頭が甍を連ねる中、飲食店や土産物屋はもちろんのこと、居酒屋
やバーまである。



 また、山上には所謂観光旅館やホテルは無く、寺の一般向け施設、「宿
坊」と言われるところに泊まることになる。
食事はもちろん精進料理であるが作法は堅苦しいものでもなく、求めれば
酒やビールも飲むことも出来るのでありがたい。

 当然お寺であるから朝の勤行は各宿坊で行われるが、参加はあくまでも
自由である。俗人にとっての宗教都市・高野山は、何とも摩訶不思議な体
験のできる世界でもある。(続)



ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画竜点睛を欠く(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-23 | Weblog


 ここまで来て些か画竜点睛を欠く思いはあるが、致し方ない。
やっとの思いで一泊だけ確保できた宿坊に、日が暮れるまでには入りたい。
そのまま歩き続ければ、日が暮れてから慣れない山道を登ることになり、そ
んな無謀は犯すわけにはいかず、電車を利用する。



 南海電鉄高野線の高野下駅から極楽橋の間は、駅間の標高では400m
以上も登る山岳区間である。
50パーミルと言う急勾配と、曲線半径R=100と言う急カーブが連続で、幾つ
ものトンネルを重ねながら、ゆっくりゆっくりと登っていく。

 車窓からは人家は途絶え、深い谷と豊かな森、その稜線と広がる青い空
だけを見ながら、まるでトロッコ列車のように車輪の音を軋ませながら進む。



 極楽橋で電車を降り改札を出ず構内で右折して、右手に極楽橋の赤い欄
干を見ながら、不動谷川に架かる連絡橋を渡ればケーブルの駅だ。
接続時間が僅かしかなく、ゆっくり周りを見、写真を撮っているいとまもない。
ケーブルの発車の合図が慌ただしく電車の客を呼んでいた。



 珍しい2両連結の車両は、随分と大型である。
これは電車から乗り継ぐ乗客を一回で捌くためのものらしい。
高野山駅まではその距離800m、高低差330m、最大斜度670パーミルと言
う急こう配を、あえぐこともなく、いとも簡単に5分ほどで登り切る。



 高野山駅前で待つ山内バスは、バス専用道路を7分ほど走り、最初の停
留所であるここ不動坂口の「女人堂」前に停車する。

 四国の八十八か所を歩き、1番に戻りその後京都の東寺から鳥羽街道・東
高野街道さらに高野街道を歩き詰めた遍路の締めが、あっけないほど簡単に
終わってしまった。(続)



ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野街道六地蔵(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-21 | Weblog
 橋本の町を抜け、紀ノ川に架かる橋本橋を渡り、すぐに右折して旧高野
街道の狭い通りに入ってきた。
しばらく行くと道端の「三軒茶屋大常夜灯籠」が目についた。



 高野山への参詣道は、古くは慈尊院から町石道を登るのが一般的であっ
たと言う。しかし室町時代後期頃からは、御幸辻から南下し、橋本の地で紀
ノ川を渡り、学文路から登る不動坂道が距離も短いことからこちらが主に用
いられることとなり、天正年間にこの場所に地名の由来になった長さ130m
の木橋が架けられた。



 しかしその橋は3年後の増水であえなく流失、その後は舟による「無銭横
渡」が行われたといい、ここがその南岸の渡場跡らしい。



 この灯籠には「高野山興山寺領」との銘が刻まれていることから、この川
を超えると当時は高野山領に足を踏み入れたことになる。
京・大阪・堺などから高野山参詣に向け、歩き続けて来た昔の旅人は、よう
やくここに来て感慨深いものを感じたのであろう。



 その先の清水地区は、高野山領最初の宿場町として賑わいを見せたとこ
ろで、今でも街道に沿った狭い通りには、軒の低い重厚な瓦屋根の家屋が
その面影を今に残している。



 その宿場の東端に「西行庵」と並んで「地蔵堂」が建っている。
これは「高野街道の六地蔵」と言い、参詣の旅人の安全を祈念して街道筋
六か所に置かれたものの一つで、この地が第一の地蔵と呼ばれている。



 第二の地蔵は、旧道が国道370号に合流するあたりに立ち、そこを過ぎれ
ば学文路はすぐそこだ。(続)

ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和歌山国体(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-18 | Weblog
 外八葉であろうか、行く手を塞ぐように立ちはだかる山並みが随分と近
づいていた。「あの辺りが高野山・・・」と、泊まった「ゆの里・お水の宿 こ
のの」で教えられた山頂付近に目を凝らせば、気のせいか何やら建造物
らしき姿が望まれた。





 「ようやくここまで来たのか・・・」と、深い感慨を持ちながら前回は、ここか
ら帰途についたものだった。



 あれから五か月、あの山はどれだったのかと、取り巻く山々を望みながら、
前回歩き旅を終えた橋本の町に、9月も下旬の或日午後二時過ぎに戻って
きた。高野山に向けた最後の歩きの始まりである。



 ここから先、学文路までは緩やかに上る5キロ余りの道程で、そこから不
動坂道を行くなら山上の「女人堂」までがおよそ15キロ、町石道を登るなら
九度山を経て「大門」まで23キロほどの、いずれも上り下りを繰り返す登山
道である。



 何れを行くにせよ、この時間から一気に山上に行けるだけの健脚は持ち
合わせていず、当初の計画では九度山まで行きそこで一泊、早朝からゆっ
くり時間をかけ「不動坂道」か「町石道」を登り宿坊で一泊、翌日「奥の院」を
巡り、違うルートを下る考えで宿探しを始めたがこれが殊の外難航した。



 九度山周辺から範囲を広め、南海の沿線を調べてみるのだが、9月の下
旬頃から10月にかけては、ことごとく予約カレンダーに「×」印がつけられて
いる。これは既に満室か予約を受けてはいないという事で、電話で問い合
わせても「満室です」と言うばかりである。

 「1200年祭」で込み合うとは思っていたが、丁度この期間が「和歌山国体」
と重なっていることを知らなかったのだ。(続)

ホームページ 表紙写真更新しました。


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本へ(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-16 | Weblog


 烏帽子形山の坂を下り、南海高野線の三日市町の駅前を過ぎ、天見川
に沿って国道371号線を進む。
道は高野山に向けて、いよいよ緩やかながら登り道になってきた。
この国道、結構通行車両が多い。途中では歩道が無くなったりするところ
もあり、歩くには危なっかしい。
脇道が有ったようだが、それを見つけられず、そのまま国道を来てしまった
ことが悔やまれる。



 美加の台を過ぎ千早口を過ぎ、天見を過ぎる辺りはもはや山の中である。
そんな山の中の難所、紀見峠を越えると周囲の風景は一変する。
林間田園都市と言う南海電車の駅名が示す通り、新しく開発された街並み
を望みながらの下り坂である。道は何時しか橋本市に入って来た。



 国道371号の旧道を小原田の交差点で左に逸れ、国道24号線の高架を
潜り、橋本川に沿って橋本の市街地を目指す。
道は緩やかに右カーブで下り、その先で南海高野線に続いて、JR和歌山
線の高架を潜る。
ここには大きく高野街道と表示が有り、その先が大和街道との交差点だ。



 そのまま山に向かえば高野街道、かつて橋本川を渡る渡し場の有ったと
ころだ。
今はそこは橋で越えることができる。左に向かえばJRの橋本駅だ。(続)



 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧三日市宿へ(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-14 | Weblog
 酒蔵通りを抜け西条橋を渡り別久坂(べっくざか)と呼ばれる急坂を上る。
標高182メートルの烏帽子形山東麓に沿って進む高野街道への登り道だ。



 かつてこの山の頂上には「烏帽子形城」が有ったと言う。
楠正成が築いた城の一つとも言われ、高低差のある堀や土塁を、幾重に
も廻らした堅牢な構えの城跡が今に残されている。
 安土桃山時代には、キリシタンの城主が、およそ300人のキリシタン領民
を治めていたと言う歴史を秘めている。
当時は南河内におけるキリシタン文化の拠点となっていたらしい。



 丁度その麓に鎮座するのが、烏帽子形八幡神社だ。
神域として伐採の禁じられた鬱蒼とした森に向け、石段が延びていて、そん
な緑に守られるように建つ本殿は、重要文化財に指定されている。



 しばらく行くと増福寺があり、その境内に真新し高札が建てられている。
この宿場に隣接する上田には、河内鋳物を生業とする技術者集団が住ん
でいたとされるから、合流地からここら辺りの街道筋には、賑やかな町並
みが展開し、この高札場に続いていたのであろうか。



 丁度この辺りが、旧三日市宿の北側入り口に当ると言う。
当時の宿場には20件余りの旅籠が有り、問屋場や本陣代わりの屋敷など
が軒を連ねていたらしい。



 河内長野からこの三日市宿の間は、ハイキングコースにもなっていて、
案内板もよく整備されている。
そんなせいか、これまで街道を歩いてきてほとんど人に出会うことも無かっ
たのに、ここに来て何人かの観光風の人々を見かけることがあった。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河内長野・酒蔵通り(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-11 | Weblog
 アーケードの商店街を背に、車の往来の多い賑やかな交差点を渡ると、
道はすぐに閑静な古街道らしい雰囲気のいい通りへと様変わりする。
駅からは5分ほどの所だ。



 入口に立つ道標は弥生時代の「銅鐸」と寺院の「梵鐘」よりイメージして作
られたもの。
その奥の古民家が吉年邸、江戸時代の豪商で河内鋳物師(かわちいもじ)
の流れをくむ屋敷だ。「袖蔵」の建つ塀から聳え立つのが、大楠の木だ。
樹齢は500年を超すと言われる大木で、市の天然記念物に指定されている。



 ここら辺りから町並み再生プランにより再開発された高野街道が、200メー
トル程続いている。「高野街道 酒蔵通り」だ。



 この通りにあって一際目を引くのが「西条合資会社旧店舗主屋」である。
間口が11間と言う二階建て瓦葺の堂々たる建物で、表には荒格子がはめ
られている。
低い造りの二階には、白壁に虫籠窓が設けられていて、幕末から明治初
め頃の建物らしく、国の登録文化財に指定されている。
その向かいには現在の酒蔵と事務所があり、その店先では、珍しい甘酒
サイダーや酒粕アイスクリームなどが頂ける。




 古い家屋の残る通りから電柱をなくし、石畳やカラーで舗装する。
家々の門前には燈籠風の道標が置かれ、軒から吊るされた酒林などが風
情を誘う良い街道だ。



 どこも統一感を持たせた造りに、地元の人々の苦労の後が忍ばれる街道
である。この燈籠、夜には淡いオレンジ色の火が燈され、路面に埋められた
照明と共に街道を幻想的な雰囲気に誘うと言う。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西の結節点・河内長野(四国遍路の旅・高野山編)

2015-12-09 | Weblog


 錦織一里塚を過ぎ、近鉄線や国道170号線にほぼ沿った道を歩くこと2キ
ロ余り、右から南海高野線も近づいてくる。
菊水町の交差点で右折し、その南海線を超え暫く進むと、銀行やオフイス、
飲食店が取り巻く賑やかな駅前の広場に入って来た。
河内長野の駅前で有る。
長い間並走してきた近鉄長野線は終点で、ここからは高野山に向かう南海
高野線への乗換駅と言うことになる。



 駅前ロータリーの一角に、高野街道合流の石碑が立ち、それには「この
付近、東と西の高野街道合流地点 高野山女人堂へ 南約35km」と書か
れていた。





 京都府の石清水八幡宮から56kmほどの「東高野街道」と、堺市の大小路
から20Kmほどの「西高野街道」はこの地点で合流し、ここからは「高野街道」
として一本の道となり、高野山不動坂口を目指すことになる。
そこには現在唯一女人堂が残されている。



 奥河内と言われるここ長野は、昔から東・西高野街道や「岩湧街道」(ここ
から九重峠を越え、高野口に至る街道)、「大沢街道」(和泉から大和五条
の間、河内長野を東西に貫く街道)が走り大そう賑わったと言うから、この
付近に宿場町が開けていたのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。(続)







にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする