簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

瀬戸大橋架橋記念館 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-29 | Weblog

 昭和60(1988)3月20日、瀬戸大橋完成を記念して、児島駅前を中
心に「瀬戸大橋架橋記念博覧会・岡山博‘88」が華々しく行われた。
本四備讃線の茶屋町と児島間の先行開業は、これ目当ての客を輸送する
ものであった。対岸の香川県・番の州会場と、同時開催である。



 しかし海辺で大橋の袂にあって、会場内の瀬戸大橋タワーから瀬戸大
橋の景観を望める香川会場に比べると、内陸の岡山会場からは橋の雄姿
は見えず、この差なのか、入場者数は目標数には届かず、最終的には赤
字を出して終わった。
当時、両会場に足を運んだが、岡山会場の見劣り感は否めなかった。



 そんな博覧会の中心的な施設が、「瀬戸大橋架橋記念館」で、駅から
900mほど離れた場所に建てられた。
館内では巨大な天井画や、世界各国の橋の写真や模型が展示され、コン
ピューターを使った子供向けのクイズやゲームなどは人気を集めていた。



 巨大な太鼓橋をイメージしたユニークな外観は、未来に架ける夢の橋
をイメージしたとして評判を呼び、児島地区のランドマーク、新たな名
所として期待もされていた。
外壁に階段が設けられていて、当初この太鼓橋は渡れたように記憶して
いるが、今ではフェンスで仕切られている。



 全国的にも珍しい橋の総合的博物館との触れ込みで、華々しくオープ
ンしたものの、博覧会が終わると一気に熱も冷め、この記念館の入場者
も減少を始める。
結果市の財政負担が増え、記念館としての営業は終焉を迎える事になる。



 その後、館は改修され再開発が施され、現在は市民交流センターとし
て生まれ変わった。
目の前の芝生広場には、大橋のケーブル模型等が展示されていて、隣接
した親水公園・橋の公園と共に市民の憩いの場になっている。(続)





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ジーンズ一色の町 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-27 | Weblog

 「味野商店街」の空き店舗に、地場のジーンズメーカー等の販売店を
誘致し集積させ、観光客を呼び込もうとする「児島ジーンズストリート
構想」は、着実に成果を出し始めている。

 商店街の400mほどの通りとその周辺には、ジーンズメーカーの直売
場や工房・ギャラリーなど新しい店舗などが軒を連ねる様になった。



 そんな中、ジーンズ目的で集まる客を目当てにしたおしゃれなカフェ
や食事処等も増え始めた。
こうしてシャッター通りは、今までとは一味違った店舗が混在する、賑
やかな通りへと生まれ変わり始め、今ではその数も30軒を超えると言う。



 このエリアに近づくと、ビルの壁面に飾られた巨大なジーンズの看板
にまず驚かされる。
通りには商店街名物のアーチ・アーケイドに代りに、ジーンズが吊るさ
れていて、まるで洗濯をしたジーンズを干しているように見える。



 自販機もたばこの吸い殻入れもお土産の包装紙も、ソフトクリームま
でもがみんなデニム色に染まり一色だ。
通の中央付近には小さな公園があり、そこにはワークショップで造られ
たデニムの切れ端が花のように咲いたデニムの木が植えられている。



 通にはカラフルに彩られたおしゃれな店が軒を連ねていて、様々な商
品がその店先を賑合わせている。
ジーンズのことは良く知らないが、有名処が揃っているという。
高価なビンテージ物、オーダーメードから安価な品まで、商品のライン
アップは多彩で、愛好者にはたまらないらしい。



 デニム生地を使った小物類やアクセサリーなども、豊富に品揃えがさ
れているようだ。
シャッター商店が少なくなった今では、ウインドーを見て、店先を冷や
かしながら歩くだけでも楽しい通りに生まれかわっている。(続)





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児島のジーンズ (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-25 | Weblog


 レトロな昭和の香りのする「味野商店街」を、何とか以前の活気ある
町にしょうとの取り組みが始まった。
地場のジーンズメーカー等の販売店を、通りの空き店舗に誘致し、集積
させようとの試みである。

 国産ジーンズ発祥の地の認知とPRに務め、合わせて商店街の活性化
を図ろうとする「児島ジーンズストリート構想」で、2009年頃の事だ。



 構想から十数年を経た今、ゆっくりながらまだ進化を続けている。
通りには、未だに空き店舗やシャッターを閉めたままのところもあるが、
一時はさびれてしまった商店街の通りも、近頃では観光客も多く、ジー
ンズで見事に蘇り、構想は着実に成果が見え始めている。



 児島のジーンズは、繊維の町・児島の伝統的な産業の流れとは違い、
戦後新しく持ち込まれたものだ。
 それはアメリカの中古ジーンズをモデルに、国産化を図ったもので、
今から50年ほど前から量産が始まった。
これが日本におけるジーンズ生産の幕開けである。



 当初は、縫い糸やファスナーボタンなど何もなく、殆どがアメリカ製
だったそうだ。そんななかオリジナル企画による国産ジーンズが初めて
発売されたのは昭和35年のことと言い、世界で初めてのウオッシュ加工
技術の発明は昭和43年の事だ。何れもこの地に本社を持つ企業で、日本
初の女性用ジーンズを手掛けた会社もこの地にある。



 こうしたジーンズの一大生産地として発展を見た背景には、生地の裁
断から仕上げ、ストーンウオッシュなどの洗い加工、脱色、ビンテージ
やダメージ加工など、あらゆる技術がこの地に集積していることに有る
と言う。(続)





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繊維の町・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-22 | Weblog

 瀬戸内海に面した児島は、明治時代から繊維の町として栄え、岡山県
下ではアパレル製品の産地として知られたところである。
今でも関連する企業が多く立地している。



 元々ここは海に浮かぶ小島で、江戸時代から行われた干拓により地続
きに成り、新田が造成され広げられた地であった。
しかし塩分の多い土はコメ造りには適さないことから、変って塩気に強
い綿花の栽培がおこなわれる様になったという。



 当時からこの近辺には人口が多く、労働力が豊富にあったため、綿花
を栽培し、糸を紡ぎ、機を織った。
それが今日の主要な産業に成長した歴史を秘めている。
 
 大正時代に入り県外から大手の企業が進出するようになると、いち早く
生活様式変化に目を付け、足袋や学生服・作業服への製造に舵を切った。



 学校や企業のユニフォーム、作業着、スポーツウエア、介護ウエア、
子供服など、多岐にわたるユニフォーム類の生産実績は、たちまち日本
トップクラスに成長した。
その中心がここ児島地区で、中でも昭和初期の学生服は、その9割が当
地で生産されていた。



 大正2(1913)年には、味野町(後の児島)と茶屋町との間に下津井
軽便鉄道が開通し、国鉄宇野線との接続が可能になった。
同鉄道はその後、児島の市街地を抜け瀬戸内に面した湊町、下津井まで
延伸され港からは四国への舟便連絡も便利になった。



 こうして交通の利便性も高まった町は、活気に溢れていた。
そんな街の「味野商店街」は、購買意欲も盛んな多くの人口に支えられ、
かつてはこの近辺では最も栄えた商店街だった言う。

 しかし何時しか、通りからは人の姿が見られなくなる。
やがて店舗もそれにつれ減少、空きが目立つようになり、気が付けばネ
コが闊歩するシャッター通りに変わり果てていたそうだ。(続)





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ジーンズステーション・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-20 | Weblog

 
  瀬戸大橋線を行く「快速マリンライナー」は、茶屋町を出ると高架に
なった複線を高速で走行し、次の児島に停まる。
ここは本州と四国を結ぶ同線の本州側の起点駅で、寝台特急の「サンラ
イズ瀬戸」、四国連絡特急の「しおかぜ」「南風」「うずしお」を始め、
「快速」等全ての列車が停車する。



 島式ホーム2面に4線を有する高架駅で、JR西日本が管轄する有人
駅でもある。又、JR西日本とJR四国の会社境界駅で、ここで旅客列
車の乗務員は交代する。
 この先の瀬戸大橋を渡るのは、特急と快速のみで、普通列車の設定は
無く、岡山方面からの普通列車は全てこの駅で折り返す。



 駅の開業は新しく瀬戸大橋の共用開始を見越した昭和60(1988)3月
20日のことだ。宇野線の茶屋町から分岐する本四備讃線が、当駅までの
間で先行開業した折りである。
そして同年の4月10日、待ちに待った島々を結ぶ大幹線動脈・瀬戸大橋
が開通し、鉄道も営業運転を始めることとなる。
総延長32.4㎞の同線は、新幹線の併設が可能な仕様で造られた。



 玄関駅が、国産ジーンズ発祥の町を応援しょうと、生まれ変わった。
駅舎に向かうアプローチの屋根の下には、数え切れないほどのジーンズ
が吊るされている。
遠くから一見すると、洗濯物を干しているようにも、またまるで蝙蝠が
ぶら下がっているようにも見える。



 駅舎に入れば、券売機や改札窓口や壁などいたるところにジーンズが
ラッピングされている。
極めつけは、改札を入りホームに向かう階段で、そこには巨大なジーン
ズが一面に広がっている。
何れも実物を撮影し、印刷したフィルムを張り付けたものだ。
駅には「ジーンズステーション」の愛称が付けられた。(続)





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トンネル区間(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-18 | Weblog

 瀬戸大橋線の歴史は新しい。
嘗ての本州と四国を連絡する基幹ルートは、岡山と宇野を結ぶ宇野線と、
そこから瀬戸内海を横断して高松に連絡船で渡る宇高航路であった。
瀬戸大橋線はそれに変る大動脈として期待を持って開通が待たれていた。



 長年の地元の悲願である瀬戸大橋の開通を見据え、昭和63(1988)年
3月に、同線の茶屋町から分岐して児島までの間、12.9㎞の本四備讃線が
先行開業する。
そして着工から9年半余を経て、大橋の共用が開始されると同年の4月、
宇多津迄の全線31.0㎞が営業を開始する。



 宇野線は岡山を出ると左カーブしながら築堤を登り、市街地を高架で
通り抜け、次の大元を過ぎる辺りで地上に降り、暫くは住宅と農地の混
在する長閑な岡山市南部を駆け抜ける。
再び高架に上がるのは、茶屋町の手前からである。



 茶屋町を出ると最初の駅が植松で、分岐した宇野線の彦崎とは目と鼻
の先だ。宇野線開通の明治43(1910)年に開業した彦崎とは、直線距離
なら700m程しか離れていない。
地元からは新線にも駅を、と強い要望が有り設けられたが、どちらの駅
も乗降客が多いわけではない。



 植松を過ぎると稲荷山(153.6m)と蟻峰山(231.8m)の下を蟻峰山
トンネル(2155m)で抜ける。
出ると木見だが、直ぐに福南山トンネル(3652m)に入る。
抜けると上の町で、その先はまたまた下村トンネルで住宅密集地の下に
潜り込む。



 宇野線と分岐してからはその距離の凡そ半分がトンネル区間で、その
間に駅が有るような様で、町中を走る鉄道としては珍しい存在だ。
ようやく抜けると児島に到着で、その先で瀬戸大橋を渡り、渡り終える
と四国の宇多津である。この間の海峡部に駅はない。(続)





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修験道本庁・五流尊龍院(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-15 | Weblog
 奈良時代この地には「十二社権現・熊野神社」と修験道の寺院が一体
となった神仏習合の「新熊野権現」があり広く信仰されていた。
修験道・役小角の五人の弟子は、それぞれ尊龍院、大法院。建徳院。報
恩院、伝法院という五流の寺院を創建し尊龍院を中心に繁栄していたが、
平安時代以降は急速に衰退した。
その後も相次いだ戦乱の戦禍が追い打ちをかけ、多くの寺院の伽藍は焼
失した。





 そして明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道
が禁止され、分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となった。
更に先の大戦後には、天台宗から独立し「日本修験道本庁」となり、修
験道が再興され今日に到っている。

 周辺は、樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入口を入ると、
左が茅葺屋根の御庵室(庫裏)である。
その前には良く手入れされた庭園が広がり、特に紅葉の頃は古色の建物と
相まって美しい姿を見せてくれる。





 石段を上ると、その横奥にブロンズ像「役行者尊像」が有る。
その前が当院の中核的な施設である護摩壇で、正面には不動明王が、
左手には護摩堂がある。
修験道最大の行事である「お日待大祭」には、全国の山伏や信者が
ここに集まるという。
 
 その奥には鉄筋コンクリート造りの本堂があり、修験道の総本山ら
しく信徒の宿泊所「五流会館」等もある。
さらに進むと「五流稲荷大明神」、「庚申さま」を経て裏門に至る。





 裏門を出ると「熊野神社」の境内に通じていて、この間は300m程だ。
境内の東側に「五流尊龍院の塔」(県指定重要文化財)が建っている。
 これらの「熊野神社」を合せた一帯の宗教施設群は、神社と寺院が一
体となった、嘗ての神仏習合の形態を良く留めていると言われている。(続)




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熊野神社 十二社権現(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-13 | Weblog


 植松駅から南に2㎞ほどのところに、「日本第一 熊野神社 十二社
権現」が鎮座している。
「熊野神社」は、修験道の始祖・役小角(エンノオズヌ)とその弟子た
ちがこの地(倉敷市林)に開いた神社である。
紀州熊野の十二社権現のご祭神の勧請を受け、熊野三山の熊野本宮大社
から日本一の認証を受けている。



 役小角は役行者とも呼ばれた伝説的な人物で、奈良大和の葛城山を中
心に修験道を開くものの、世間を惑わすとして弾圧され、罪に問われ伊
豆に流罪となっている。
その折同罪を恐れた弟子達は、淡路など瀬戸内海に逃れ、当地の児島に
辿り着いたものの飲み水にも困る有様であった。



 一同はこの窮状を天に祈願したところ、海水は真水に変ったという。
これが上陸した地、水島の地名の由来と言われている。(諸説あり)
その後白髪の翁に誘われ、倉敷市林の辺りに導かれ、そこに築いたのが
この「熊野神社」である。



 明治40年に建立されたという巨大な備前焼の狛犬を見て玉垣に入ると、
その正面に檜皮葺の屋根を横一列に並べて建つ社殿が現れる。
 左から第三殿(入母屋造り・1647年)、
第一殿(春日造り・1647年)、
第二殿(春日造り・1492年)、
第四殿(四間社流造り・1647年)、
第五殿(四間社流造り・1647年)、
第六殿(一間社流造り・1647年)と古色の社殿が建ち並んでいる。



 正に八百万の神々が祀られた壮麗な社殿は、造りもまちまちで、並び
順も何故この並びなのかはよく解ってはいないらしい。
 全国に四千近くある熊野神社の中でも、本宮の昔の姿を今に残す貴重
な本殿と言われている。
濃緑の山を背に、屋根に乗る青銅色の千木が映える姿も厳かだ。(続)





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先陣庵(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-11 | Weblog


 「先陣庵」に向かう道すがら、集落の近くで石碑を見付けた。
道路脇に建つ大きな自然石の正面に、「源平藤戸合戦沖ケ市激戦地の碑」
と刻まれている。
この石碑、倉敷観光コンベンションビューローや藤戸史跡保存会が出す
「藤戸周辺の史跡めぐり」の地図では紹介されていない。



 どうやら地元の郷土史家が、歴史を後世に伝えんと平成に入り建てた
ものらしく、沖ケ市と言うのが、この辺りの旧地名のようだ。
佐々木盛綱の上陸地で、ここで源平両軍が正面衝突し、激しい戦いが夕
暮れまで続いたが源氏方の勝利に終わり、平家は這々の体で屋島へと逃
げ落ちた。



 そこから北に200mほど坂を上ると、西明院という真言宗善通寺派の
寺があり、その登り切った正面の高台に、「先陣庵」がある。
その右の山を少し上ったところには、「金毘羅大権現」も祀られている。
寺は広い境内の正面に本堂を構え、児島八十八ケ所霊場の第43番札所と
成っている。その境内に有る「先陣庵」が、次の44番札所だ。



 源平藤戸合戦先陣の功で、盛綱は恩賞として備前国・児島を領有した。
地頭として一族と共に当地に入国すると、嘗て上陸した地に「天暦山先
陣寺」を建立した。
両軍の将兵や、殺された漁師の霊を慰め、先陣を記念するためだ。
嘗ては広大な敷地を要し、壮大な寺院であったらしいが、何時しか廃れ
今日ではこの一宇の小庵となって残るのみだ。



 ここは種松山の東北の山裾、町を見下ろす南部の小高い丘の上だ。
「金毘羅大権現」の祀られている高台に上ってみると藤戸の町が一望で、
当時島であった事が良く解る。
 後世になってこの地では、工事などで地中を深く掘ると、錆びた武具
や人骨が沢山出土したと伝えられている。(続)





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藤戸の史跡巡り(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-08 | Weblog

 藤戸の「乗出岩」は、盛綱が騎馬で海に乗り出したとされる場所だ。
昔はこの辺りまで、海が入り込んでいたのだ。

 途中少し高くなった浅瀬「鞭木」の辺りで一旦人馬を休ませ、持って
いた鞭を水底にさすと、やがてその木は大木に成長した。
それがこの地名の謂れだと言われている。





 再び対岸を目指し、現在の種松山のふもと「先陣庵」辺りに上陸した。
当時は、騎馬で海を渡るなど不可能と考えられていた時代である。
自信に満ちた盛綱の後ろ姿に、源氏方3万の兵も続々と続く事になる。
これにより、布陣する平家軍との間で激しい争いが繰り広げられた。

 後にこの行為を、源氏方の総大将・源頼朝は先例無き事と激賞した。
恩賞として備前の国・児島の領有を許し、地頭とする恩賞を与えている。
知行地を得た一族郎党は当地に移り住み、以後権勢を奮ったという。





 藤戸寺から倉敷川を渡った対岸に小さな山が見える。
嘗ては海に浮かぶ小島で、今では「経ケ島」と呼ばれている。

 藤戸寺で兵士や漁夫の追善供養をした盛綱は、写経した経を寺の飛び境
内であるこの島に埋めた。
その頂上に古びた石灰岩で作られた宝篋印塔と六角形の石塔が立っている。
盛綱に口封じで殺された、漁夫「浦の男」を追福する塔と伝えられている。





 この他にも藤戸の町には、良く知られた史跡がある。
藤戸寺から500mほど離れた田圃の中に有る、「浮き州岩跡」である。
嘗ては海面上に浮き出て姿を見せていた岩礁の跡だ。

 織田信長により二条御所に持ち出され、その後秀吉により醍醐寺三宝
院の庭園の主人石として移された藤戸石は、この浮洲の岩であったと伝
えられている。(続)



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