簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

百六里庭・眺関亭(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-31 | Weblog

 関宿の町並の中程に、「百六里庭(眺関亭)」という小公園・休憩施
設がある。街道に面して建つ建物が、「眺関亭」で、それに付属して建
物の奥に設けられたのが「百六里庭」という小公園である。



 公園の名前は、関宿が江戸から106里の位置にある事に由来して名付
けられた。また「眺関亭」は、関宿の町屋の屋根が犇めく街道筋を一望
に望むことが出来る事から名付けられた。



 「眺関亭」の建物の二階は展望台になっている。
瓦屋根越しの正面には観音山や関富士といった近隣の山々の緑が、東は
軒の並ぶ関宿の町並が、西は瓦屋根の間に通る東海道とその突き当りに
ある地蔵院本堂の大屋根を望む。
展望台からの眺めは、関宿の最も特徴的な景観と言われている。



 その先右側にあるのが天台宗の福蔵寺で、織田信長の三男・信孝の菩
提寺である。境内には18歳の折亀山城下で巡り会った父の敵を見事討ち
取った小萬の墓所があり、亀山市指定史跡に指定されている。



 中町の外れ、通りの南にある関地蔵院は、天平年間の開創が伝わる古
刹である。昔から近郷の人々のみならず、東海道を旅する人々の信仰を
篤く集めてきたと言い、一休禅師とのゆかりも深いらしい。
境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されている。



 その門前の会津屋(旧山田屋)は、宿を代表する旅籠の一つとして知
られている。江戸後期に建てられた旅籠の建物で、今日ではうどんそば
の食事処を営んでいる。
 旧旅籠山田屋の女将は、行倒れた身重の仇持ちを手厚く看病し、そこ
で生まれた赤ん坊が「関の小萬」でここは育った所として知られている。(続)





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宿場の町並歩き(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-28 | Weblog

 宿場の町並歩きは、「木崎」から始まり、中町、新所へと続いていく。
まず目にするのが「ご馳走場」と書かれた石柱である。
聞き慣れない言葉だが、ここは、宿場を行き交う大名を送迎した場所で、
宿内には四カ所あったらしい。



 ここは関神社の参道入口で、奥に宿場の守り神が鎮座している。
御祭神は、天照大御神・伊邪那美命等で、この神社の7月の夏祭りが、
「関の山」で知られる祇園祭の山車曳きで、神輿渡御等が行なわれる。



 その前の建物が芸妓置屋の「開運楼(雲林院)」と「松鶴楼(遊快亭)」、
宿場の入口に位置し大層な賑わいを見たらしい。
その先に関の山車会館が有り、更に続く百五銀行も町屋をイメージした意
匠で作られている。


 
 やがて街道は、「中町」に入ると丁度この辺りが宿場の中心で、川北
本陣、伊藤本陣、西尾脇本陣(鶴屋)、萩野脇本陣、問屋場などがあっ
たが、何れも石碑で知るのみである。
 橋爪家は、江戸に店を出すほどの豪商で、両替商を営んでいた。平入
りの町並にあって珍しい妻入りの店舗を構えている。



 郵便局の有る辺りは、徳川直轄地の頃陣屋があった所で、藩の番所が
置かれていた。
ここには、高札場があり、八枚の高札が掲げられていたという。
今見るものは、平成に入り、復元されたものだ。



 街道は中町から「新所」の町並へと入る。
流石に中町ほどの賑わいは無いが、宿場町らしい軒の低い町並は途切れ
ることも無く西に延びていて、古に浸るなら、むしろこの通りの方が静
で趣きがある。
やがて宿場町が尽きると、そこは西の追分けである。(続)





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「関の山」の語源(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-26 | Weblog


 関宿の町並は、昭和59(1984)年には、国の伝統的建造物群保存地
区に指定された。
木崎、中町、新所と続く凡そ2㎞の街道筋には、400余りの建屋が軒を
連ね、その内の約200棟が保存対象となっている。
各建物には「伝統的建造物」を示す登録票が軒下に貼られている。



 残された町屋で最も古いのは18世紀中頃のものというが、それ以外で
も半数以上は明治中期以前に建築されたものらしい。
 白壁を塗り込めた土蔵造りの家、平入りの平屋、中二階の家、旅籠造
りの二階家等があり、多くは虫籠窓を設けている。
それらがランダムに入り交り、この見事な町並を形作っている。



 ここ関では毎年7月下旬に、関神社の夏祭り、所謂関祇園祭が行なわ
れている。町内の「木崎」「北浦」等から豪華絢爛な山車(だし)が出
され、宿場の旧街道を練り歩く。
昔は16台もの山車があり、大層な賑わいであったらしい。



 ところが宿場町の道幅は大層狭く、狭いところをギリギリで山車が通
る様子等から、「関では山(山車)が出ると、道が溢れそうになる」と
言われ、このことから「一生懸命やって、やっと出来る」或は「多く見
積もってもそこまでだろう」、「精一杯」等の事を「関の山」と言う様
になった。元々は誉め言葉であるが、今では「限界」を表す貶し言葉と
して使われる事が多い。



 街道筋を歩いていると、山車を納める縦長の倉庫を幾つか目にするこ
とがある。
町中にも山車収蔵展示棟を含む4棟からなる「関の山車会館」がる。
山車4基の内2基が常設で並べられ、祭りの付属品や歴史資料が展示され、
関宿の夏の風物詩「曳山まつり」が体感できる。(続)





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関宿 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-24 | Weblog

 東の入口、伊勢別街道の追分けから先の旧道の両側は、電柱も地中化
され、電線の無いすっきりと見通せる空の下に、古の面影を色濃く残し
た見事で見応えの有る町並の景観が延びている。
これまでお江戸日本橋から街道を歩き、数々の宿場町や間の宿の名残を
見てきたが、この町並はその中でも最たるものだ。



 とは言え多分に新しく統一感を持たせて、造り込まれた感は否めない。
テーマパーク的な通り、或は映画のオープンセットの様な趣ではあるが、
それでも見どころも多く、ここでは素直に江戸時代にタイムスリップし、
往時に還ったつもりで、時間をかけてゆっくりと町並を楽しみたい。



 東海道47番目の宿場・関の人口は二千人程で、家数は632軒、本陣と
脇本陣が各2軒、旅籠が42軒あった。
それらが東西2㎞に渡って連なり、東海道でも屈指の賑やかな町並が形
成されていた。



 宿場では、苦竹を削り打ち潰して火縄にしたものが、土産として売ら
れていたという。時代による違いはあるが宿賃は概ね200文(凡890円)、
人足一人56文(凡200円)、飯盛り女は500文(凡2200円)が相場であっ
たらしい。



 宿は大きく分けて四つの町並から構成されている。
東の入口に当たるのが「木崎」で、比較的平入り平屋の低い家並みが続
いている。それに続くのが、宿場の中心とも言える「中町」で、ここに
は大規模な町屋が多い。
西に続くのが「新所」で、大半が小規模な町屋が連なっている。



 町の広がりは、街道筋の北側にも及んでいる。
「北裏」と呼ばれる地域で、ここには延命寺、瑞光寺、浄安寺、福蔵寺
等、1社10ケ寺が甍を構え、寺町を構成している。(続)





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東の追分け・参宮道入口(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-21 | Weblog


 少し上りながら街道を300m程進むと、関宿の東の入口で、伊勢別街
道への東の追分けがある。左手に木製の伊勢神宮一の鳥居が立ち、ここ
には何本もの道標や、常夜灯(享保十七年の銘入り)が残り、鳥居の横
手には一里塚跡の碑などが集められている。



 鳥居は、元々は伊勢神宮内宮の宇治橋の南詰に建てられていたものだ。
20年に一度行なわれる式年遷宮祭では、鳥居も新調されるため、式が終
わるとこれまで建てられていた鳥居は解体され、それを移築しここに建
て替えると言う。



 お伊勢参りの旅人は、関東からなら四日市宿を出て、日永の追分けか
ら伊勢路に入る。
関西からの参拝はここから伊勢に向かい、伊勢山田・外宮まで十五里の
参宮道(伊勢別街道)を歩く事になる。
また東海道を行き交う人々は、ここから神宮を遙拝した。
当時庶民の伊勢参りは特別の存在で、憧れ以外の何ものでも無かった。



 因みに伊勢参宮道は関を出ると次の宿場・楠原へは一里(3.9㎞)で、
その先椋本までも一里、窪田まで二里(7.9㎞)、そこから一里十八丁
(5.9㎞)で津に到る。津からは二里(7.9㎞)で雲出、そこから二里で
ようやく松阪に到り、四里八丁(16.5㎞)の長丁場を経て小俣へ、更に
一里半(5.9㎞)でようやく門前町の山田に到着する。
昔の旅人なら三泊四日程度の行程である。



 ここからは、坂下宿を経て、鈴鹿峠に到る街道沿いに造られた、関宿
の古い町並が、凡そ1.8㎞に渡って続いている。
多くは江戸から明治にかけて造られた建物で、重要建造物保存地区に指
定された町並を見ながら西進する。(続)





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関の小萬のもたれ松(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-19 | Weblog


 「♪♪ 関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足
関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく
馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら
昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする ♪♪」(鈴鹿馬子唄)



 鈴鹿川の支流、小野川に導かれるように大岡寺縄手を外れ、右にカー
ブして関西本線の踏切を越える。隣接する国道1号線に出でそれも越え
左折して、暫く国道の歩道を歩く。

 嘗て丸太欄干の付いた14間ばかりの板橋が掛けられていた、小さな
小野川橋を渡ると右にそれる旧道が見えてくる。



 旧街道を入ると直ぐに「東海道五十三次 関宿」の看板が建ち、右側
には車で訪れる観光者向けの駐車場と小公園が設けられていた。

 前方の山並みに因んだ解説板には、「羽黒山のふもとにある、国史跡
正法寺~(中略)~関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿颪を受けて
立つ」などと書かれている。正法寺は亀山城主が創建した寺で、近年発
掘調査で山荘の存在が明らかになったそうだ。



 「江戸の中頃、九州は久留米藩士の妻女が、良人の仇を討とうと志し、
旅を続ける途中関宿のとある旅籠に止宿し、ここで一女小萬を生んだが、
その後の肥立ちが悪く病没する。 その後小萬は母の遺言に従い仇討ち
を志し、三年程亀山城下で武術を修行し、天明3(1783)年、見事に仇
敵軍大夫を討ち果たした。」



 ポケットパークの反対側に「関の小萬のもたれ松」の説明板が立てら
れていた。この場所は、亀山通いの小萬が、若者の戯れを避けるために
姿を隠しもたれたと伝わる松が有った場所とされ、「小萬のもたれ松」
と呼ばれるようになった。
今その松は無く、何代目かの若い松が植えられている。(続)





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大岡寺縄手 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-17 | Weblog


 旧東海道は、鈴鹿川の土手に出てきた。
ここは右側を流れる国道1号線が、国道25号線と交差する地点で、すぐ
近くに東名阪自動車道の亀山ICが造られている。
旧道はその巨大な構造物の下を潜って進む。



 交通の要衝らしく、トラックステーションが立地し、周りには大きな
ビジネスホテルが点在し幾つも建っているのが見える。
左には鈴鹿川の河川敷が広がり、中央をゆったりとした流れが、キラキ
ラト燦めきながら下っている。両側の視界も気持ちよく開け、遙か先に
見えていた鈴鹿山脈も、川の向こうに有り、かなり近くに迫っている。



 ここは「大岡寺(たいこうじ)縄手 土手の間十八丁 左脇関川流。
右山陰に大岡寺有」と言われる地で、関川はこの鈴鹿川の別名だ。

 縄手とは畷とも書き、真っ直ぐな長い道の事で、ここは昔から知られ
た東海道・鈴鹿川の土手道だ。
当時は右に「六門山四王院太岡寺」が見えたと云うが、いまは国道高架
の防音壁に隠され、向こう側を臨むことが出来ない。



 国道を行き交う車の喧噪は、その壁に遮られ微かに聞こえるのみだ。
この土手道には家屋の連なりも無く、人の姿を見ることもまれで、時折
通り過ぎる車を見送るだけだ。
約2キロに渡って続く土手道は眺望も良く、静かで、安全で、気持ちの
良い快適な散歩道と言った趣だ。



 ただ残念なのはアスファルト道で、木陰などの日陰が無い事だ。
この時期としては、思いのほか気温が上がりすっかり汗ばんでしまった。
それでもほてった身体に時折感じる、この川面を渡る涼やかな風は、何と
も心地良く頬をなぜてくれ、贅沢な贈り物であった。(続)





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野村の一里塚(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-14 | Weblog
 

 嘗て京口御門が構えていた京口坂には大正時代に橋が架けられ、今で
はなだらかに西に向かう下り坂となり次の宿場関を目指して延びている。
その京口坂橋を渡り、数多くの寺院や「森家」、「池内家」の住宅など
を見て800m程進むと、町並の向こう屋根越しの大きな木が見えてくる。



 日本橋から106里12町、三条大橋から17里32町の距離にある「野村の
一里塚」である。南北両側にあった塚は、大正時代に南側が取り潰され、
北側だけが残されている。
 三重県下には12カ所の一里塚が設置されていたが、今に残るのはこの
一カ所だけで、国の史跡に指定されている。



 地面を鷲掴みするかのように、巨大で力強い根を張って聳え立つ巨木
は、ムクの木である。塚の多くには榎が植えられるだけに、ムクは全国
でもここだけという珍しいものだ。
幹周り6m、高さ20m、樹齢は400年と言う堂々とした大木である。



 旧東海道は野村の一里塚の先、公民館のある三叉路を右に取り、布気
の「皇舘(こうたち)大神社」を左に見て進む。
鬱蒼とした森に鎮座する当社は、布気神社としても知られている。


 
 この辺りを野尻村と言い、門前町であり上り下り立場が有った場所で、
ここには能古(のんこ)という茶店が有ったと伝えられているが、今は
人家も乏しく、神社の森だけの寂しい場所である。
その先で昼寝観音のある観音坂の急坂を下る。



 街道は旧国道1号線布気の交差点に出て、右手に亀山バイパスと東名
阪への取り付け道路が近づいてくる。
隣接して併走する関西本線を陸橋で越え畑の中を暫く行くと、左手から
鈴鹿川が寄り添い、ここから暫くは気持ちの良い土手道を歩く事になる。(続)




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京口の急坂(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-12 | Weblog

 「城門を出づれば、坂を下ること急なり」
門を潜るとその先の街道は、左右に屈曲した京口坂を下って行く。
かなりの急坂で、坂の下には野村の集落が広がり、坂の上には亀山の過
ぎたるものの一つと言われた豪華壮麗な京口御門が聳え立っていた。



 そこは広重の描く東海道五十三次の「亀山 雪晴」として描かれた場
所で、広重は南東側からやや俯瞰して描いている。
古松の植わる積雪の急斜面を、雪もおさまった朝焼けの中、前泊は関宿
であろうか、早立ちの大名行列が上っている。



 坂には大正3(1914)年に京口坂橋が架けられ、かつての急坂の道筋
は解消された。亀山宿の終わりを告げる急坂は、今では緩く下りながら
真っ直ぐに西に向かう。
次の関宿までは、凡そ一里半(凡そ5.9㎞)と近い。



 京口御門を抜けると街道には、西の要衝を守るように照光寺、心光寺、
永信寺、慈恩寺、光明院などの寺院群が寺町を構成している。
これが見られるのは何所の城下町でも馴染みの光景で、一朝有事への備
えである。



 途中で目にする「森家住宅」の主屋は、国有形文化財指定を受けた建
物である。切妻桟瓦葺で、妻を漆喰で塗り込め、正面上屋は黒漆喰真壁、
下屋に格子を嵌め、堂々とした平入りの建物で、その姿は典型的な町屋
建築の表構えという。



 又、「内池家」主屋は、明治天皇お召し替え所と伝わる屋敷だ。
三重県御行幸の折り、伊勢神宮内・外宮参拝後当地に立寄り、陸軍の大
坂鎮台を二日間に渡り視察された。
その折り当家でお休みになり、下賜金三円を賜わったと言う。(続)





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京口門(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-10 | Weblog


 亀山市は江戸と京・大坂を結ぶ旧東海道筋を、情緒あるふるさと街道
「江戸の道」として整備している。東の井田川町から亀山の町中を通り
小野町に到る、凡そ11㎞の道だ。
要所に史跡案内板を立て、休憩所や歴史広場を整備している。



 旧街道は、城下町らしく町中を何度も折れ曲がりながら抜けて行く。
ケンペルは、オランダ商館長に随行する江戸参府の折、亀山宿を通過し
たときの印象を旅日誌に「約2,000戸の家があり、右側には掘りや土塁
や石垣をめぐらした城がある」と書き残していたらしい。



 江戸時代には、東海道の要衝の地として、徳川譜代大名の六万石の城
下町となり、池の側(外堀)を見て進む東海道は、かつてはそのまま繋
がっていたようだ。
 今では、JR亀山駅からお城へは広い道が通じて、途中で旧道を横切
っていて、街道は分断されている。



 その交差する場所近くに「お城見庭園」が造られている。
街道整備の一環として、又、災害時の避難場所も兼ねて造られたらしい。
花植栽が敷地を彩り、東屋が設けられ、休憩が出来るようになっていて、
街道歩きのオアシスでもある。
ここからは亀山城の多聞櫓や近くの池などが眺望できる。



 西町から西丸町を抜けると市ヶ坂町で、亀山藩主石川家の菩提寺の一
つ「梅厳寺」の門前に至る。そこは宿場の西端にあたる場所で、竜川の
左岸の崖上に京口の御門が威聳え立っていた。



 説明板によると寛文12(1672)年当時の藩主板倉重常により築かれた。
石垣を築き、冠木門を構え、傍らには白壁の番所も建ち、通行人を厳しく
監視していたという。東町の江戸口門と共に、亀山城総構えの城門として
位置づけられた門である。(続)



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