簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

橋の多い県(JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-30 | Weblog

 全国に橋梁は、凡そ70万橋も有るらしい。
そんな中で岡山は、日本一橋の数が多いらしく、自治体が管理する橋の数は、
何と約3万橋も有ると言う。
市町村別にみても岡山市のそれは、約9,600橋で全国第一位、岡山県下第二位
の都市、倉敷市が約5,900橋で全国第三位につけている。

 昔から大阪は、水の都で八百八橋(実数は良く知らないが)などとよく言
われるが、とてもその比では無い。
ただ、大阪の町を歩いてみると、何となく橋が多いような気はするが、岡山
市内を歩いても決してそんなに橋が多いと言う実感は不思議と沸いてこない。







 駅に近い中心部には西川が流れ、岸辺は緑道公園として市民に親しまれて
いて、ここには数多くの橋が架けられてはいるが・・それでもこれで日本一
はとても実感できない。

 そんな秘密を解くカギは、県南部の地理的な特徴にある。
岡山県下には、吉井川、旭川、高梁川と言う県下三大河川が、それぞれ中国
山地に源を発し、滔々と瀬戸内海に向かい流れ下っている。
そのため昔から県南部にはその沖積平野が広がり、そこは江戸時代以降の大
規模な干拓事業により、さらに沖に押し広げられ、これまでに広大な岡山平
野を形成してきた。







 干拓地には網の目のように水路が張り巡らされ、やがてそこは農地化され、
さらには宅地開発が進み、生活道路などが付けられた。
そのためそんな水路を跨ぐ、小さな橋が沢山架けられた結果、岡山市には橋
の数が多いのだそうだ。(続)

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干拓の歴史(JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-28 | Weblog

 現在岡山市内には当時の海岸線や島を彷彿させる地名がたくさん残っている。
それは南部の岡山平野が、その昔は「吉備の穴海」と呼ばれるように、瀬戸内
海が入り込む遠浅の美しい海であったからだ。



 その瀬戸内海に向け、県下三大河川と言われる吉井川、旭川、高梁川など
が流れ込み、河口一帯はそれによって運ばれた土や砂がたまり、広大な湿地
や干潟を形成していた。



 そのため当地では、安土桃山時代から江戸時代、さらに近代にかけ、大規
模な干拓による新田の開発が盛んに行われてきた。古くは宇喜多秀家による
早島近辺の開墾を始め、江戸時代に入ると藩営の事業として大規模に行われ
るようになる。



 岡山藩主・池田光正に重陽された陽明学者・熊沢蕃山こそ「新田の障りに
なる」と消極的であったのに対し、岡山藩郡代・津田永忠の時代になると積
極的な干拓が行われている。
それらの結果江戸・寛永年間から慶応年間までの約240年で児島湾沿岸には
約6,800ヘクタールもの広大な新田が造成されたそうだ。



 明治になるとその事業は大阪の豪商・藤田伝三郎に引き継がれ、第二次世
界大戦の前まで続けられた。偉業は今日までその地名として残されている。
更に戦後になると農林省の国営事業として引き継がれ、その造成は4,239ヘク
タールにも及んでいる。



 それらの新田での営農に必要な水を確保するために、児島湾を締切り淡水
化し、最大水深9m、平均水深1.9mの児島湖が昭和32年に誕生した。
(出典:「児島湖ハンドブック」平成25年3月岡山県より)(続)



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錦莞莚(きんかんえん) (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-25 | Weblog



 茶屋町の駅を背に、通行量の多い駅前の通りを300mほど歩くと、右側に
「倉敷市立磯崎眠亀(いそざきみんき)記念館」がある。(入場無料)
この施設は、この茶屋町で生まれ、精巧な花筵「錦莞莚」の製造を可能にし
た磯崎眠亀の旧宅を保存修理したもので、昭和63年4月に開館した彼の記念
館である。



 い草栽培は、岡山で盛んに行われていたがその後衰退し、熊本の八代周辺
にその栽培地が移った。しかし近年では韓国や台湾、中国などの安い外国産
に押され、その熊本地方の生産量も減産に歯止めが掛からないと言う。



 岡山では江戸時代から急速に発展したい草産業も、明治維新を境に衰退を
はじめ、景気の後退が始まった。そんな状態を何とか打開しようとしたのが、
家業が小倉織を生業としていた磯崎眠亀であった。



 眠亀は苦労して開発したその技術を盗まれないように、研究室を自宅の二階
に造った。その階段には、物を運びやすいように、全てスロープで登れるよう
に工夫し、その途中には荷物を上げるための滑車を設けている。



 そんな研究と苦労を重ね、努力の結果手織りの花筵、名付けて「錦莞莚」
の製造を可能にした。経糸を従来の3倍の120本に増やし、赤や緑、黄などの
鮮やかな色に染め上げたい草を、その緯糸として通し、精巧な模様を織り込
んだもので、この花ござは忽ち高級な輸出品として、欧米で持て囃される様
になった。 



 館内は自由に見て回ることが出来るが、話好きな管理人の説明を聞くことも
出来る。この記念館では、余知られていないそんな眠亀の偉業を知り、開発の
苦労を随所で偲ぶことが出来る。(続)


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岡山のい草 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-23 | Weblog

 大正7年徳冨蘆花は宇野線を旅し、こう日記に書いている。
「妹尾などを過ぎる。田には藺(い)が有る。濃緑に染めた藺を曝したりし
てある。下津井線と岐かれてから、海が見えてくる。泥の海に・・・」
今日、こんな光景を目にすることは、出来なくなってしまった。



 「藺(い)」はい草のことである。
岡山は古くから、い草の一大生産地であった。
江戸時代にかけて南部の干潟が干拓され、新田開発などで広大の農地が開発さ
れると、瀬戸内の恵まれた環境の元、早島や倉敷・岡山などの県南部ではい草
の生産が行われ、それは質・量ともに日本一と言われるものであった。



 い草の生産は、真冬に田圃の氷を割って苗を植え付け、五月頃穂の頭を刈り
込み、真夏に収穫すると言うもので、刈入れ時には九州方面からの出稼ぎの応
援を得るほどの作業であったが、これらの栽培はことのほか重労働でもあった。



 そんない草産業は江戸時代に急成長するものの、維新と共に景気が悪化した。
然しこのころ磯崎眠亀により精巧な花筵「錦莞莚」が開発されると、近隣には
数多くの花ござ工場が設立され、貴重な輸出品としてアメリカやヨーロッパに
輸出されるようになり、昭和40年代には最盛期を迎えることに成る。



 しかし、近年になって水島の工業地帯が操業を始める頃、農家の生活形態に
も変化が現れ、結果兼業が多くなり、加えてい草製品は安価な海外ものが流入
するようになった。更に追い打ちをかけるように、栽培中のい草の穂先が赤く
なる現象が出始め、商品価値が下がってしまった。



 この事は、工業地帯の排気ガスの影響が噂されたが真相は解明されないまま
で、こんない草の栽培より収入が良いサラリーマンの方が楽だと言う事で、転
職が相次ぎ、やがてはこの地方のい草産業は衰退してしまった。(続)



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下津井電鉄線 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-21 | Weblog



  かつて宇野線の茶屋町駅は、瀬戸内海に面した港町・下津井とを結んでいた
下津井電鉄の乗換駅であった。当時下津井港は、丸亀など四国連絡の主要な海上
交通の拠点として賑わいを見せていた。

 1910年に国鉄の鉄路が宇野まで敷設され宇野線が開通し、同時に対岸の高松と
の間に宇高連絡線が運行されると、新路線に乗客を奪われ港町の状況は一変した。



 そこで四国連絡の旅客を取り戻そうと計画されたのが、下津井と国鉄の駅とを
結ぶ鉄道路線の建設であった。地元有力者の支援を受け、茶屋町から味野町(後
の児島駅)の間で先行営業が始まるのは、宇野線の開通から3年後のことである。
そして翌年には味野町と下津井の間が開通し総延長21㎞の下津井電鉄が全通した。





 しかし思惑とは裏腹に、利用客を取り戻すことは叶わなかった。
国鉄が宇野まで直行できるのに比べれば、茶屋町での乗り換えが有るのでは何と
も分が悪い。そこで山陽本線の倉敷駅まで路線の延伸や、本線へ乗り入れ運転を
可能にするため、現行の軌道を改める事などがしきりに検討されたが、何れも資
金難や、難行が想定される工事の負担増などから計画は頓挫した。



 1988年に瀬戸大橋が開通し、それ目当ての観光客による観光路線としての期待
も膨らんだが、効果は限定的で思ったほどの伸び無かったようだ。
その3年後には努力の甲斐もなく、77年に渡る歴史は使命を終え、鉄道は全線が
廃止された。(続)



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茶屋町の駅と鬼 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-18 | Weblog

 宇野線の途中駅・茶屋町は、四国に向かう本四備讃線との接続駅である。
と言うよりも今ではその主役の座を瀬戸大橋線(愛称)に奪われているので、
ここは支線の宇野に向かう乗換駅と言った方が正しいのかも知れない。



 かつてここは瀬戸内海に面した港町、下津井に向かう下津井電鉄線の乗換駅
でもあったが、昭和47年にはここから児島の間が廃線になっている。



 沿線にあっては比較的規模の大きな駅で、高架になったホームは、島式2面
3線である。
快速のマリンライナーは停まるが四国連絡の特急は残念ながら全て通過する。
ここには駅員も常駐し、構内には売店も備わっている。



 遥か昔はこの辺りは瀬戸内の海で、千石船の通う航路であったが、江戸時代
の中頃より行われた大規模な干拓により内陸となった。
やがては農地となり、人々が住み始め町となった歴史がある。
今では岡山のベットタウン的な町として、朝晩は通勤通学の乗客で混雑する。



 駅を出るとその前の広場に、親子の鬼の像が建っている。
ここ茶屋町では250年も前から、秋祭りに氏神様をお守りする鬼がいて、その
舞などが奉納されていたらしいが、昭和の中頃に何時しかその姿が見えなくな
り衰退してしまった。



 その鬼は昭和50年代に入り、地元の有志などによって保存会を作り復活された。
鬼のお面をかぶり、派手な衣装を身にまとい、杖やこん棒を持ち、高下駄を響か
せながら町を練り歩く姿は、今ではすっかり町民の人気者で、近隣の祭りでは欠
かせない存在になっている。(続)



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畳表の早島 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-16 | Weblog

 早島駅の裏、道路脇の広々とした田圃の中に「畳表の早島」と書かれた
大きな看板が立っている。
ここ早島は、かつてはい草の産地、畳表の生産地として知られて処である。





 駅を降りると右手正面に「早島町観光センター」が有る。
町内に有った古い蔵を解体した廃材を再利用し建てられた施設で、内部には
観光案内所を始め、い草製品の展示即売所、パン作り工房、喫茶店などが併
設されている。

 その昔この地は、吉備の穴海と呼ばれる、入り込んだ瀬戸内海に浮かぶ島で
あったが、近くを流れる岡山県三大河川の一つ・高梁川の運ぶ土砂で、次第に
埋め立てられ、やがては陸続きになったところだ。



 その後戦国大名宇喜多秀家による大規模な干拓で、広大な大地が生まれた。
当時汐止めとして築かれた堤は、「宇喜多堤」と言われ、その後の干拓事業の
先駆けとなった。その起点が町内の龍神社あたりだと言われている。



 江戸時代になると人々はい草を植え、やがてそれは「早島表」と呼ばれる畳
表に加工され、町の主要な産業として発展を遂げてきた。
そんな当時の、繁栄の様子は「いかしの舎」で偲ぶことが出来る。
ここは畳表・経糸の問屋であった旧寺山家の明治期に建てられた町屋を改修し
た施設で、内部が公開されている。



 町の発展と共に、ここは金比羅参詣の街道筋としてもにぎわった歴史が有り、
町中には「不老のみち」として遥かな時を偲ぶ散策路も整備されている。
かつては、い草の香に包まれた町だ。町を歩けばどこからか、織機の響きが聞
こえてくるかもしれない。(続)



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宗忠神社 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-14 | Weblog



 宇野線の列車は岡山駅を出ると、山陽本線と別れ南に進路を変え、市街地を
見下ろしながら高架を行き、しばらくして大元に停車する。
ここらあたりはまだ中心市街地に近く、駅の周辺には広い道路が通り、工場・
オフィスや商業施設、高層マンションや住宅が入り混じる喧噪を残した所だ。



 江戸時代末期に、「幕末の三大新宗教」と言われる新教が誕生した。
奈良では天理教が、岡山では大谷村(現浅口市)で金光教が、御野郡(現岡山
市)では黒住教が立教し活動をはじめている。



 黒住宗忠は当時結核を患い死を覚悟し失意の日々を送っていたある冬至の日、
昇る朝日に祈りを捧げていたとき、どうしたことか太陽がわが身に迫ってきた。
彼は思わずその陽光を飲み込んだところ、天照大御神と同魂同体になる体験を
なしたと言う。
そんなことが有って新教の一つ黒住教を立教し教祖となった彼は、以後「日の
出を拝み、感謝と感動の心で誠を尽くす」ことを説き、人々からは生き神様と
称えられた。



 その黒住宗忠を祀る神社が駅から1キロ程西に行った先のクスノキの茂る小
さな森の中にある。生家のあった場所に鎮座している立教200年を迎えた黒住
教の「大元宗忠神社」で、この地方ではなじみの神社だ。



 4月には御神幸が行われ、お旅所のある後楽園に向けて絢爛豪華な時代絵巻が
市内を練り歩く行列はすつかり春の風物詩となっている。
また元旦祭の行われる正月の初詣や、「鬼は内、福は内」と福豆入りの餅投げ
が行われる節分祭などでは大勢の参拝客を集めている。(続)



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宇野線 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-11 | Weblog

 宇野線は岡山と宇野の間32.8Kmを15駅で結ぶ路線で明治43年に開業し
ている。
嘗ては首都圏、京阪神や山陰からも、準急の「わしう」(大阪-宇野)、
「砂丘」(宇野-鳥取)等、長距離の夜行、寝台などの列車が何本も
運行されこの線の終着駅を目指していた。





 当時長距離列車の始発駅では座席確保のために早くから駅のコンコースな
どに行列をしたものである。やっとの思いで確保した座席で、列車の揺れに
身を委ね、或は夜汽車の浅い眠りから覚めれば、ここ終点の宇野からは宇高
連絡船に引き継ぎ高松への船旅が待っていて、宇野線は距離こそ短いが本四
連絡の使命を帯びた重要な路線で有った。





 そんな花形路線も、昭和63年に瀬戸大橋が開通するとその役目を終えるこ
とになる。路線は途中の茶屋町から分岐し、瀬戸内海を渡り香川県の宇多津
に到る本四備讃線がメインルートとなると、そこから終点の宇野までの間の
17.9Km(8駅)は完全に取り残され、今では各駅停車しか走らない、ローカ
ル線に成り下がっている。全てが各駅停車で、朝晩こそ岡山発の直通列車が
有るものの、多くは途中茶屋町での乗換を余儀なくさせられる。





 路線の駅々には、今でも長い行き違い線がそのまま残されている。
かつては長大な編成の優等列車や貨物列車などが行き交った路線であるが、
単線で有ったために、駅々には列車交換のための線路が設けられている。
短編成の普通列車しか走らない、そんなローカル線には似つかない、異常
なまでに長い行き違い線は、過去の栄光の歴史を寂しげに静かに物語って
いるように見える。(続)

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長距離列車 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-09 | Weblog


 列車に乗って旅をしている時、ふと思うことがある。
かつての国鉄はその全盛時、普通列車のみならず、優等列車として準急、急行、
特急など多彩な運行を行っていて、そんな列車の中には、長い時間を掛けて長
距離を行くものが幾つもあった。



 複数の路線を経由して、どこかの駅で分割・併合を繰り返しながら、更に
先の路線へ向かうなど、複雑なルートを辿る列車も有ったようだ。
今で言うなら企画物のミステリーツアーのような運行であるが、近頃では殆
ど見かけない。



 昭和30年代には、紀勢東線と紀勢西線が結ばれ紀勢本線が誕生すると、名古
屋と天王寺間を、同線を使って紀伊半島の海岸線を辿り運行する準急「くまの」
が運行している。



 また同時代には、名古屋~米原~福井~金沢~富山~高山結ぶ列車も運行さ
れていたようだ。北陸の主要な都市を連絡するかのような運行だが、当時はそ
れなりの需要も有っての事であろうが、高山や富山へ向かうなら名古屋から岐
阜を経由して直接向かった方が断然早い。



 今日大都市圏の路線では、鉄道会社間での相互乗り入れや、幾つかの路線に
乗り入れるなど、馴染みのない者には何とも解り難い運行も有るようだが、多
くは通勤通学者の利便を図った比較的中・短距離が殆どだ。



 都市間を連絡する特急などでは、幾つかの町を繋ぎ路線を跨ぐ列車は今も走っ
ている。しかし普通列車ともなるとせいぜい中距離で、その路線の始点から終点
を結ぶような列車や、昔のような複数の路線を、長時間を行くような列車はどん
どん姿を消している。(写真:文とは無関係 大井川鐵道)(続)

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