簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

夢二のふるさと(赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-29 | Weblog


 赤穂線の列車は、豊かに実る備前平野の中を進む。
途中の邑久は、大正浪漫を代表する画家・竹久夢二ゆかりの地だ。
「夢二式美人」と呼ばれ独特の風情ある美人画が人気を博した夢二は、
駅から3キロほど離れた本庄村で、酒の取り次ぎ販売を営む兼業農家の
次男として生まれている。



 生家の周辺は公園として整備されていて、駐車場の前には夢二が自ら
デザインを手がけ、東京・世田谷に建てた洋風建築のアトリエ「少年山
荘」が雑木林の中に復元されている。
館内には夢二の関わる写真やパイプ、絵の具などが展示されている。
ここは彼の作品「黒船屋」のモデルと言われる女性・お葉と同棲した居
でもある。



 売店や藤棚のある園内を通り抜けると、用水路のような小さな川に
「茂次郎橋」と言う木橋が架かっている。
「花のお江戸ぢゃ 夢二と呼ばれ 郷土(くに)へかへれば へのへ
の茂次郎」茂次郎は彼の本名である。



 その先に彼が16歳まで過ごした茅葺屋根の生家が有り、入口には画家・
有島生馬の筆による「竹久夢二ここに生る」の石柱が建てられている。
生家は、ごく最近リニューアルされ蘇った姿で公開されているようだ。
内部は記念館となっていて、夢二の部屋や作品などが展示され、その建
物や外観なども生前当時そのままに残されている。



 又岡山市内の旭川を挟んだ後楽園の対岸には、夢二の生誕100年を記
念して建てられた「夢二郷土美術館」(本館)もあり、この別館と共に、
夢二の遺した作品に身近に触れることが出来る。(続)





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桜の名所・餘慶寺(赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-27 | Weblog
 赤穂線の列車が西大寺の駅を出て市街地を抜け、吉井川の橋梁を渡る
ころ、前方の標高60mほどの小高い山を見ると、その頂の木立の間にお
寺の塔と伽藍の大屋根が見え隠れしている。



 ここは「上寺山・餘慶寺」と言い、地元では「うえてら」と呼び親し
まれ、県内でも有数な桜の名所として知られるところだ。
開基は古く天平勝宝元年と言い、当時は備前四十八ケ寺の一つとして繁
栄を極めた1200年余りの歴史を誇る古刹である。



 ここには、「一山一寺多院制」の形が残されている。
一時は源平戦乱の兵火を受け衰退したが、その後は次第に復興が進み、
江戸時代には池田藩の庇護により栄え、最盛時には7院13坊を数えた。



 山全体を一つの寺として、境内には本堂(国指定の重要文化財)をはじ
め、薬師堂、三重塔(県指定文化財)、地蔵堂などが建ち並び、合わせて
僧侶たちの住まいである「院」が6院も残されていて、それらは県下でも
屈指の大伽藍を構成していると言われている。
また隣接地には豊原北島神社をはじめ、愛宕社、日吉社などの社もあり、
神仏習合の姿が今に留められている。



 寺に向かう参道や、広い境内にはサクラが植えられ、花の咲く3月下
旬から4月上旬にはさくらまつりが行われる。
この頃になると、桜の木の下のヤマブキも黄色い花をつけ、薄桃色と黄
色の競演を楽しむことが出来る。



 境内からは西大寺の町と、吉井川の流れが一望で是も見どころである。
このほかにもミツバツツジやアジサイなども多く、ここは「山陽花の寺 
16番札所」としても知られている。
また近年本堂周辺には、ハスやスイレンの鉢植えが並べられ、夏の頃に
はそれらの花も楽しめるようになった。(続)





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昭和ノスタルジーの町 (赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-25 | Weblog


 西大寺の町中を、岡山県三大河川の一つ、吉井川が悠然と流れている。
古くから海運が栄えた川で、上流の津山あたりの物資は高瀬舟により、
この地の川湊に集められここから瀬戸内海を通り各地に運ばれたと言う。



 江戸は慶長年間に当地を訪れた角倉了以は、この川を運行する高瀬舟
の賑わいを見て大いに驚いて、「百川皆舟を通すべし」として全国の川
浚えを始めたとの逸話も残されている。
(「赤磐郡誌」岡山県赤磐郡教育委員会編 昭和15年)



 その川岸にある「金陵山西大寺観音院」の境内から少し北に向かった
先にあるのが、古くからの「五福通り」である。
「五福」とは人生に於ける五つの幸福のことで、西大寺の裸祭は、五福
をもたらすと言われる「宝木(しんぎ)」を奪いあう祭で、通りもこの
ように呼ばれるようになったらしい。



 今は人通りも少なく、すっかり寂れてしまっているが、吉井川水運の
問屋町として栄えた歴史ある町で、観音院の門前町と共に商都としての
西大寺を支えてきた。
通りには日本家屋の前面を洋風にした看板建築が立ち並び、古き良き昭
和の時代の面影を残す風情が色濃く残っている。
近年の調査では、江戸時代に建てられた家屋も何軒か確認されている。



 昔ながらの町並では、「ALWAYS三丁目の夕日’64」「魔女の宅急便」
(実写版)、NHKのドラマ「とんび」など、映画やTVドラマなどの舞台
として撮影に使われている。
最近では古い建物を生かした店も増え、数年前から昭和レトロをテーマ
とした「レトロ・マルシェ」などのイベントが開催され、新たな町おこ
しが動き始めている。(続)






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金陵山西大寺観音院 (赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-22 | Weblog


 西大寺の中心に鎮座する「高野山真言宗別格本山 金陵山西大寺観
音院」の開基は、今から1200年昔に遡る。
御本尊は秘仏の千手観世音菩薩である。



 旧西大寺鉄道の終点「観音駅」を出て、門前町の通りを700m程行く
と仁王門である。門を潜ると境内で、左手に客殿、右手には経蔵、やや
小ぶりな三重塔が建ち、竜宮城を思わす石門が異彩を放っている
そんな境内には、何故か階段状になった観覧席も設けられている。



 中央には黒瓦葺き総欅造り、五間の本堂を構えている。
階段を上ると本堂で、その正面と両横側が板張りの舞台と成っていて、
これを「大床」と言う。
その正面大床の天井付近には「御福窓」と言われる窓が設けられている。



 ここは日本三大奇祭の一つと言われる「会陽(えよう)裸祭り(国重
要無形民俗文化財)」で知られた所だ。厳寒の二月の深夜、万余とも言
われる褌一丁の裸の群れが激しくぶつかり合い、「宝木(しんぎ)」を
奪い合う豪快なお祭りである。
それを見る場所が観覧席で、宝木を裸群に投下するのがこの「御福窓」だ。



 当日裸の群れはワッショイ!のかけ声も勇ましく、一塊と成って竜宮城
を思わせる石門を潜り、垢離取場で旧年の厄を洗い落とし、ご本尊にご利
益を、牛玉所大権現に御守護を願う。

 その後祭の晴れ舞台であるこの「大床」の上に参集する。
ある者は徒党を組み、ある者はたった一人で、渦巻く裸郡に飛び込み激し
く揉み合いながら宝木の投下を待つ。
そこには一升枡に一人と形容される、数千人もの裸が群れると言う。



 西大寺の会陽・裸祭りは、「備前平野に春を呼ぶ」と言われている。
この祭りが済むと余韻を残した境内には、植木や陶器の市、様々な屋台
が百軒以上も建ち並ぶ後祭りが賑やかに行われ、春を待ち望む人々で賑
わいを見せる。(続)

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旧西大寺鉄道(赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-20 | Weblog


 その昔この西大寺の町中には鉄道が来ていなかった。
明治24(1891年)に、山陽本線の前身、山陽鉄道が岡山と三石の間で初
めて営業を始めた折も、西大寺はそのルートからは完全に外れカヤの外
で有った。



 そんな町に鉄道を・・・と計画されたのが「西大寺鉄道」である。
旧西大寺市(現岡山市東区西大寺)から、岡山市の後楽園までの間11.4
kmを10駅で結んでいた。国内でも珍しい軌道敷の幅が914mmと言う、
いわゆる軽便鉄道で地元では「けえべん」と呼び親しまれていたと言う。



 主に九州北部の軌道に用いられたものと同じタイプであるが、遅さや
輸送力の少なさから、それらはあらかた戦前に姿を消したが、ここ西大
寺鉄道は昭和37年まで生き残っていた。
沿線に競合する鉄道や、バスの路線が無かったため、比較的長く生きな
がらえたが、さすがに赤穂線が開通すると、太刀打ちも出来ず、撤退す
ることに成る。



 起点の旧西大寺市駅は、開業当初は「観音駅」と言われていたらしい。
それは天下の三大奇祭で知られる、「西大寺観音院」に由来する駅名で、
この町がいかに観音院と共に生きて来たかが窺われる。



 現在駅の跡地はバスセンターになり、周囲にはスーパーなども立地す
る町の中心地では有るが、そのスーパーも近年中の撤退が決まっている。
周辺にも大型スーパーが増え、中心部の衰退が進んでいるからだ。



 ここには当時活躍した気動車「キハ7」が保存展示されている。
車内に入ってみると中は余りにも狭くまるで遊園地のトロッコのようだ。
しかし、裸祭りの行われる日には、大勢の乗客が押し寄せ、乗り溢れた
客がこの車両の屋根にしがみ付いて運ばれていたと言う。(続)

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西大寺 (赤穂線・乗潰しの旅)

2020-05-18 | Weblog
 赤穂線は旭川に続いて百間川を橋梁で越え、再び山陽新幹線の高架に
近接する。その高架脇にあるのが山陽本線の高島駅で、ここには赤穂線
と山陽本線の列車が停車する。
2面2線の駅で、開業は比較的新しく、昭和60(1985)年の事である。
周辺が住宅地で、大きな団地もある事などから地元の要望も強く、当時
は岡山と東岡山の間の新駅として開業した。





 その先で同線の起点駅となる東岡山に到着する。
山陽本線の前身の、山陽鉄道の開通と同時に開業を始めた駅で、当初の
駅名は「長岡」と言った。
今この駅名は近くのバス停にのみ残されている。
その後は「西大寺」を名乗り、現駅名になるのは、昭和36(1961)年の
事である。



 駅を出てようやく本線や新幹線の高架と別れ赤穂線に入り、最初に停
車するのが大多羅だ。
背後に控える「備前富士」の異名を持つ芥子山(233m)の、麓に位置し
少し高台に駅が有り、ホームまでは緩やかで長いスロープが通じている。





 沿線の田畑が途切れ、車窓に家並みが増え始めると西大寺だ。
「西大寺市」は、周辺11市町村を合併し昭和28(1953)年に誕生した。
その後昭和44(1969)年に隣接する岡山市に編入合併し、更に同市の
政令都市移行により行政区が置かれると当地域は岡山市東区として管
轄されるようになる。



 西大寺はその中心的な駅である。
駅を出て、まっすぐ伸びる広い道を1キロほど行くと、突き当りに岡山
三大河川の一つ吉井川が悠然と流れ、その右岸にはこの地の地名の由来
である「高野山真言宗別格本山 金陵山西大寺観音院」が鎮座している。
ここ西大寺は、嘗て吉井川の川湊として、また西大寺の門前町として栄
えた町でもある。(続)

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百間川(JR乗潰し・赤穂線)

2020-05-15 | Weblog


 「西川原・就実」を出た列車は、続いて百間川の橋梁を渡る。
江戸時代の大洪水を契機に岡山城を守るため、藩お抱えの儒学者・熊沢
蕃山が考案した「川除けの法」を基に、藩郡代の津田永忠が設計・施行
したとされる旭川の放水路・人工の川で、貞享4(1687)年に概ね出来
上がっている。



 「川除けの法」とは、旭川の川筋に大荒手を設け、洪水時に城下に水が
入り込みそうなときは荒手堤を超して、田畑に水を誘導し、城下の洪水に
備えるという考えだ。すなわち荒手は旭川が増水したときに、分流してき
た水を受け止め、水の勢いを削ぎ、同時に土砂の流出をコントロールする
機能を持たせたものとなる。



 当初これにより城下は洪水から守られたものの、大雨の度に下流の村落
の田畑では甚大な被害が出ていた。しかし城下への水が入る事への利害得
失を考えると、この事には目をつぶらざるを得なかったようで、その為被
害のあった村落には水損に応じた「加損」という助成米を与えていたと言う。



 その後洪水時の流路をそのまま川とし「二の荒手」「三の荒手」を更に
築き、土砂の運ばれるのを防ぐと同時に、堤防の整備も進めた。
これによりいざという時は巨大な放水路となり、平時でも上流では放水路、
下流では干拓地の維持という仕組みが出来上がった。



 近年行われた発掘調査では、江戸時代に築かれた「二の荒手」が見つ
かり、300年余りの歴史が明らかになった。これは幅20m、長さ180m、
石の数2万5千個にも及ぶ見事な石張り遺構で、長さの百間がこの川の
名の由来となっている。(続)



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新駅の誕生(JR乗潰し・赤穂線)

2020-05-13 | Weblog
 岡山駅を出た赤穂線の列車は暫く山陽本線を進み、大きき右にカーブ
しながら津山線や山陽新幹線の高架と分かれまもなく旭川を橋梁で渡る。
高架になった車窓からは岡山市街地の中に、円筒形をした岡山シンフォ
ニービルや、金烏城の異名を持つ岡山城と、後楽園の森を遙かに望むこ
とが出来る。



 最初の駅は赤穂線の列車も停車する、山陽本線の「西川原・就実」駅
である。2面2線の高架駅で、平成20年3月に開業した岡山県内では最
も新しい駅で、正式な駅名は「西川原」と言う。



 この地には昔から就実学園が立地している。
また市の中心部に近いことから閑静な住宅街や、マンションやアパート
等も建ち、通勤や通学、買い物客などからは新駅の誕生を強く要望され
ていた。



 地元や学園、JRとの協議では、駅の建設費は全額を学園が、駅周辺
の開発整備は岡山市が行い費用も負担する事でようやく開業にこぎ着け
た経緯がある。そんなことから、学園側としては、新駅名は「就実学園
前駅」を強く要望したが、地名である「西川原」を駅名としたいJR側
とで協議はかなり難航した。



 駅建設で身銭を切らないJRが(とは言え、システム改修や駅名標、
時刻表などの改変では経費を掛けているが)なぜ頑なに「就実学園前
駅」を拒み、地名を主張したのかは良く解らないし理解に苦しむとこ
ろでもある。



 固有名詞の駅名は他にいくらでもあるのに、何故地名で無いといけな
かったのか。結局駅舎や駅名標の表示、車内放送では「西川原・就実」と
し、時刻表や運賃表、路線図では「西川原」とすることで、折り合いが付
いた曰く付きの新駅誕生であった。(続)



【注】赤穂線は保守作業のため、5月12日~14日、備前片上と播州赤穂の
   間で、日中の一部の列車が運休し、バス代行輸送となります。
   詳しくはJR西日本岡山支社にお問い合わせください。


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赤穂線(JR乗潰し・赤穂線)

2020-05-11 | Weblog
 岡山から東へ二つ先の駅、東岡山と途中兵庫県の播州赤穂を経由して
相生に至る57.4㎞を20駅で結ぶ路線が赤穂線である。
全線が単線電化のローカル線だ。

 起点と終点の駅でそれぞれ山陽本線と接続していて、丁度バイパスの
ような路線でもある。
山陽本線がやや内陸部を行くのに対し、赤穂線は瀬戸内海の沿岸に沿っ
て走るが、その割に海を望むことは極めて少なく、車窓の景色では残念
な路線でもある。





 営業の歴史は比較的新しく、昭和26(1951)年に相生と播州赤穂の間
で営業が始まり、同年末には姫路駅まで直通運転されている。
赤穂から西の路線は、その後断続的に延伸され、東岡山までの全線が開
通するのは昭和37(1962)年のことだ。

 多くの列車は岡山を始発着駅とするか、山陽本線の倉敷方面から岡山
を経て、暫く山陽本線を走り東岡山から同線に入る。
これらの列車は、西大寺か長船で折り返すか、その先なら播州赤穂での
折り返し運行が殆どで、運転系統はこの駅が区切りに成っていて、この
先相生まで直通する列車は皆無だ。





 播州赤穂から相生・姫路に向けては、土曜休日は姫路までの短区間の
運行が多い。
しかし平日には、「大阪近郊区間」として快速や新快速電車(赤穂線内
から姫路駅までの間は各駅停車)が、途中相生から山陽本線に入り姫路
を経由して関西圏(野洲や米原行きなど)に直通する列車の運行がある。





 岡山と播州赤穂の間では土日休日と平日のダイヤはほぼ変わりないが、
関西圏に向けては、運行形態が大きく変わるのも特徴で、播州赤穂駅を
境に通勤・通学や商圏への利用形態が全く異なるのも面白い路線である。(続)

【注】赤穂線は保守作業のため、5月12日~14日、備前片上と播州赤穂の
   間で、日中の一部の列車が運休し、バス代行輸送となります。
   詳しくはJR西日本岡山支社にお問い合わせください。


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大井川橋 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-05-08 | Weblog
 東の箱根や西の鈴鹿が山の難所なら、海上を舟で行く七里の渡し
(宮から桑名)は海の難所であり、この街道一の大河・大井川の川
越えは川の難所である。
これらは街道でも難儀を強いられる指折りの所といって良いだろう。

 特にここ大井川では、記録によると一ヶ月以上にも渡る川留めも珍
しいことではないらしく、何日もこの地に足止めをされる事になり、
旅籠の費えも馬鹿にならなかったようだ。





 そんな難儀を極めた「越すに越されぬ大井川」の歴史は、江戸幕府
が終焉を迎え、明治維新となると、事情は一変した。
橋を架けることを厳しく制限していた江戸幕府による川越制度が廃止
になり、通船が許されるのは明治3年のことで、その翌年には早くも
渡し船の運行が始まっている。
その後仮橋ながら木橋が架かるのはそれから数年待つことになるが、
そんな橋も度重なる水害で流されることが度々あったという。





 「♪~♪ 春咲く花の藤枝も 過ぎて島田の大井川 
昔は人を肩に乗せ 渡りし話も夢のあと ♪~♪」(鉄道唱歌)

 それでも旧東海道筋の川に橋が架かり、鉄道が開通し、明治22年に
島田に鉄道の駅が開業し、人々の利便性は格段に向上することになる。
当時流行った鉄道唱歌は、大井川や島田の情景をこう歌っていた。

 昭和3年には、5年の歳月をかけ、当時の技術力を結集して橋が架け
られた。橋台2基、橋脚16基により支えられる、旧国道1号線に架かる
永代橋(トラスト橋)・大井川橋で、その長さは1026.4mである。





 完成により川越人足の手を煩わせることも無く、今では安全にしか
も無料で渡ることができる。昔を思えばなんともありがたいものだ。
今尚当時の姿を残す橋は、土木学会の土木遺産の認定を受けている。
(東海道歩き旅・遠江の国 完)

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