簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

保土ヶ谷宿(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-30 | Weblog



 相鉄の天王町駅から、天王町商店街を抜けると、ここらあたりが保土ヶ谷宿の始
まりである。
保土ヶ谷税務署の近くに助郷会所跡、問屋場跡、高札場跡の標柱が立っている。



 問屋場とは公儀御用の書状や荷物、人足や馬の手配、大名の宿泊の世話などを
担う、宿場の中では最も重要な施設のことで、主にその町の有力者がその任に当た
ったと言う。



 また宿場で用意された人馬が足りない場合の、所謂応援動員が助郷と言われる
もので、それには周辺の村が指定されていた。
その対応を担うのが助郷会所で、江戸の中頃にはこれらは制度化されていた。



 保土ヶ谷宿は日本橋から8里9丁(凡そ32キロ)の距離にあり、ここまで歩き続けて
来たこと、この先には難所と言われる権太坂が控えている事などから、当時の旅人
が少し早いが投宿したところとして賑わった。
ここには本陣1軒、脇本陣3軒、旅篭67軒が軒を連ねていたと言う。



 税務署の先で交差する道が「かなざわかまくら道」で、通称「金沢横丁」と言われ、
金沢・浦賀往還への出入り口にあたるところだ。
これらの道が、円海山、杉田、富岡などに至る枝道が有るため、その参拝や観光の
ためここに古い道標が四基立てられたているのだとか。



 右から二番目が立てられた年代が1600年代と最も古く、そこには「かなさわ かま
くら 道」の文字が、また左端のものが一番新しく1800年代の建立で「富岡山芋大明
神の道」と刻まれている。
中には句が刻まれていて、これは極めて珍しいものだそうだ。(続)



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洪福寺松原商店街(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-28 | Weblog


 西口ランプのところで首都高速を越え、「有るもンだナァ・・・」と、ここ南軽井沢で
その地名に感心しながらその町中を抜ける。
公園では「軽井沢」の住人であろうか、お年寄りたちが何かゲームを楽しんでいる。





 途中右手に「浅間神社」の鳥居が立っていた。
その足元に「この上に浅間保育園有り」と書かれた看板が建てられている。
見れば小高い丘に向かい石段の参道が伸びている。
こりゃ・・・大変だ。毎日の送り迎えで足腰が鍛えられるだろうなどと、無責任な想像
をしながら先に進む。



 やがて通りをカラフルに、賑やかに飾り付けた商店街が見えて来た。
通りの上をピンクのフラッグが幾筋も交差し、その飾り付けが妙になまめかしく、
妙に目立っている。洪福寺松原商店街である。



 ハマのアメ横、また横浜の三大商店街の一つと言われるだけあり、多彩で雑多な
お店が犇めくように商品を広げている。
客を呼び込む店員の声が飛び交い、それに値踏み交渉の客の声が重なり、随分
な活気が感じられる。店によっては黒山の人だかり状態だ。
さしずめ下町の庶民のための商店街と言った雰囲気で、そこは平日のせいか比較
的年配の客が中心のようだった。



 その入口付近に追分が有った。東海道を分かれ町田から八王子へと続く道で、
かつては「絹の道」とも呼ばれていたそうだ。

 商店街を抜け、帷子川を渡る。
この街道に掛かっていた旧橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、
保土ヶ谷の代表的な景観であったと言う。
今その橋の模型が天王町駅前の小公園に残されている。(続)



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神奈川宿・台町(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-26 | Weblog



 神奈川宿の台町の坂道には茶店が建ち並び、その向こうには一里塚であろうか、
大きな木も描かれている。
塚に植えられた榎の木陰で休息をとる旅人の姿が目に浮かぶようだ。
そこからは青い神奈川の海を見下ろせる景勝の地であったようで、広重の「東海道
五十三次 神奈川台之景」にもそれがはっきりと描かれている。



 かつてこの宿場には1300軒もの料亭が有ったと言われているが、現存するのは
広重の絵にも描かれた「さくらや」を今日に引き継いだ「田中屋」だけである。



 『金川の台に来る。爰(ここ)は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄
干付きの廊下梯などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし』
『お休みなさいやアせ。奥がひろふございやす』と店先で客を呼び込む娘を、喜多八
が茶化す。『おくがひろいはづだ。安房上総までつゝいている』
(日本古典文学全集49 「東海道中膝栗毛」 昭和50年12月 小学館)



 十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」でもこのようにえがかれている通り、この宿場
では海を見下ろす高台に茶店が建ち並び、休憩や宿泊を呼びかける娘らの声が飛
び交っていた。茶店の欄干からは、釣り糸を垂らし魚釣りに興じた客もいたそうだ。



 そんな古の面影を何も残さない坂を上り切ると上台橋の陸橋で、下を見れば車が
激しく行き交う幹線道路が通っていて、南に目をやれば横浜駅西口の高層ビル群だ。
さしずめ今なら喧噪の海に車の大洪水、夜になれば多くのネオンや灯火が煌く海、
そんな街道の風景である。(続)





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最初の試練(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-23 | Weblog

 ここまでの旧東海道は、かつての海岸線近くを行く高低差の少ない比較的楽な
道のりであった。ここ神奈川宿に入り宿町の中ほどで道がカギ状に折れ曲がると、
そのあたりからは台町と言われる急な上り坂が始まる。



 上り始めた坂の両側は、今では新しいビルや高層マンションばかりである。
その途中には、門前に日本橋から数えて七つ目にあたる旧一里塚が置かれていた
と言う大綱金刀比羅神社が有るが、今その痕跡はどこにも見当たらない。



 日本橋を七つ立ちし、七里近くを歩き続けて来た先の神奈川宿である。
足腰の弱い女や老人などにはそろそろ疲れも見え始めるころで、ここに旅の第一夜
の宿をとる旅人も決して少なくは無かった。
また、この先に宿を予定するものにとっては、最初の試練ともいえる坂である。
しかしこの台地の下には碧い海が広がり、素晴らしい眺望が開けていたこともあっ
て旅人はここで足を止め、しばしの休息をとって行ったと言う。





 「旧道らしいものが何も残っていないから・・・」
「ただその先には古い料亭が一つだけ残っていますよ」
マンションの玄関先で道を教えてくれた件の女性が、少し先の左側を指さした。



 その割烹店は、広重の「東海道五十三次」に旅篭「さくらや」として描かれた老舗だ。
明治維新には勝海舟の紹介で坂本龍馬亡き後、妻の「おりょう」が働いていたと言う。
当時としては珍しく外国語が話せることや、まっすぐな性格から客の評判も良く、重宝
されたらしい。(続)



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神奈川宿(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-21 | Weblog

 結局「生麦事件の碑」を見つけられないままキリン横浜ビアビレッジの前で、第一
京浜国道に出て、神奈川宿を目指す。日差しがきつくなり気温も上がってきた。
国道歩きは暑くておまけに車の騒音で騒がしいし、横切る道路も信号も多く、車や
自転車にも気が抜けなくて少しも楽しくない。





 京急の神奈川新町駅を過ぎ、神奈川公園のところで国道を右に外れ、宮前商店
街の通に入ってきた。どうやらここらあたりからが神奈川宿らしい。
ここは幕末から維新にかけて、国際政治の舞台としても脚光を浴びたところだ。
宿場に隣接した神奈川湊が開港し、周辺の社寺が各国の領事館や公館・宿舎とし
て使われ、外国の侵攻に対し備えるための関門、台場も設けられた。





 青木橋で京急線、JR線や国道1号線を越え、アメリカ領事館跡の本覚寺を高台に
見て、台町に入ってきた。
ところがここに来て目印にしてきた東急東横線の踏切が見当たらない。
マンションを清掃中の管理人に聞くと「勤め始めて間がないので分からない」と言う。
たまたま出て来た住民の若い女性が「どうかされましたか?」と聞いてくれたものだ
から、「旧東海道を歩いているのだが」と言うと「この道で間違いないですよ」と言う。





 「目印の線路が見当たらないが・・・」
「目印、無くなっちゃいましたね、地下になったンです、ほらあそこ」と指をさした先を
見れば、先ほど通って来た「東横フラワー緑道」である。
平成16年の「みなとみらい線」の開通に伴い線路を地下化し、その上を緑道として
整備したのだと言う。(続)

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鶴見魚河岸通り(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-19 | Weblog



 再び旧道に戻り下野谷町で第一京浜国道を横切り、その先でJR鶴見線の高架
を潜る。右手が国道駅だ。高架下のこの雑然とした雰囲気は昔と変わっていない。
ここはいつ見ても懐かし昭和の香りがプンプンとしている。





 生麦魚河岸通りに入ってきた。
魚など魚介類を扱う店が犇めく通りで、すし屋や料理屋などプロが通う店が多いと
されるが、一般の小売りもしてくれるので、単身赴任していたころは酒の肴を求めに
何度も足を運んだ通りである。

 店は当時と変わらない雰囲気だが、閉めている店が多いようにも感じられる。
そんな店先を覗きながら歩を進め、中ほどにある稲荷社で休憩をしていると、近所
の同年配と思われる男性が近づいてきて、色々話しかけてきた。



 「この石が一番古い」と言って石仏の建つ台石を指さして、「まだ生麦村だから」と。
そこに記された名前を読みながら、「ここらあたりは同じ苗字ばかりだから、うっかり
悪口も言えん」とこぼす。見れば確かに同じ姓が並んでいる。



 「昔はすぐそこまで海で松並木も続いていて、漁師が多く魚を獲っていた」と言う
ので、「江戸前の魚で景気が良かったのでは」と水を向けると、「いや、貝ばっか・・・、
だから佃煮屋が多かった。それ目当ての醤油やしょうがの店もあった」とか。
「それじゃあの魚屋は・・・」と聞くと、「元々はヤミ市だ」と言う。



 「旧道は雨が降るとぬかるんで、歩けたものではなく、そんな時大名が通ると植え
てある麦を刈り取ってぬかるむ道に敷いた」のだそうだ。
それが生麦の地名の起こりとも教えてくれた。

 暫く話し込んで礼を言い、先に進めばキリンビールの横浜工場が見えてくるが、
すっかり様子が変わっている。横浜環状北線の工事で、延々と塀が続き、この近く
にあったはずの「生麦事件の記念碑」が見つけられない。(続)

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鶴見・よねまんじゅう(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-16 | Weblog
 

 市場の一里塚を見てその先で、鶴見川を渡り、懐かしい町に入ってきた。
40代前半の頃、単身赴任で3年余を過ごした町・鶴見である。
当時住んでいたJR駅西口近くのマンションは?西友だったか京急だったか、よく
夕食を調達したストアはまだ残っているのだろうか。
時々立ち寄った居酒屋は、食堂は、あの和菓子屋は・・・。





 寄り道をしたいところではあるが、残念ながらルートからは外れている。
しかし和菓子屋だけは少し足を延ばせば行けそうで、休憩がてら寄ってみる。
京急の駅前近くに店を構える創業90年の「お菓子司・清月」で、よく帰省の折、お土
産を買い求めた店である。



 ここの名物は「よねまんじゅう」である。
民謡『お江戸日本橋』の2番の歌詞で、「鶴と亀とのよねまんじゅう」とうたわれてい
るほど知られていて、江戸初期には浅草門前の名物お菓子であったそうだ。



 江戸中期にはここ鶴見でも、軒を並べて何軒もの店で売られるようになった。
これが人気を博し「初旅のまず鶴見から喰いはじめ」と言われるなど、東海道での
名物第一号とされ、現在は神奈川県の名産百選にも選ばれているそうだ。

 ごく薄い口溶けの良い羽二重餅で餡を包み、小さな俵型に丸め片栗粉を塗した
和菓子で、一口二口で簡単に頂くことが出来る。
甘すぎず風味の良い、白あん、こしあん、うめあんの三種類が揃っている。(続)



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川崎宿(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-14 | Weblog



 川崎は人口147万人余り、全国第七位を誇る大都市で、県庁所在地ではない市
町での人口は、全国最大だ。多摩川を挟んで東京と、また神奈川の県庁所在地横
浜に隣接し、そのベッドタウン的な性格を持つ町だと言う。



 六郷大橋からも、幾つも天に向って延びる高層マンションを目にして来たので、
そのことはなるほどと実感することが出来る。



 旧東海道は六郷川を渡ると橋のたもとで右折し、町中を道なりに突き抜けていく。
通には飲食店や居酒屋、商店や事務所が並び、その隙間を埋めるようにマンション
が幾つも建ち、人や車の行き来が多い。



 通りの所々に「旧東海道」と書かれた石柱や、本陣跡や問屋場跡を示す案内板
が立てられているだけで、それを見落としてしまえばこれを旧道と知るすべはない
ほど古いものは何も残されていない。
これだけ繁華な町に発展しているのだから当然と言えば当然である。

 通りの中ほどに「かわさき宿交流館」と言う看板を掲げた場所が有ったが、あいに
くと休館日とかでガラス戸が閉じられていた。



 東海道二番目の宿・川崎は、本陣2軒、旅篭72軒、当時の人口2500人ほどの規
模で、久根崎、新宿、砂子、小土呂の四町で構成されていたそうだ。
江戸に下る旅人には六郷川の渡しを控え、江戸を七つ立ちし京に上る旅人にはお
よそ4里の道のりを歩いた休憩の場所として大いに賑わったと言う。



 そんな地名の残る交差点を越え進むと、京急の八丁畷駅の手前に芭蕉の句碑が
立っている。

『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』

元禄七年五月に江戸を発ち、古里伊賀へ帰途の途中に詠んだ句で、芭蕉はその年
の十月に51歳の生涯を閉じている。(続)



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六郷大橋(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-12 | Weblog



 第一京浜国道を進み、そのまま六郷大橋を渡る。
ここで多摩川を越えれば東京とはお別れで、神奈川県の川崎市に入って行く。



 東海道が整備された折り、この川には徳川家康により大橋が架けられた。
これは両国と千住に架けられた橋と共に、江戸の三大大橋と言われるほどの橋で
あったが、大洪水で流失してしまい、その後は橋を架けられることもなく、200年もの
長きにわたって六郷の渡しと呼ばれる渡し舟の時代が続いたそうだ。
新たな橋が架けられたのは明治になってからである。





 広重の描く「川崎 六郷渡舟」には、遥かに富士山が描かれている。
全長443.7mの今橋の中ほどから振り返ってみたが、雲の多い日でもあり、ビルや
マンションが見えるばかりで、どこにもその姿を見つけることが出来なかった。
そもそも現在でもこのあたりから富士が望めるのか・・・そこのところは良く解らない。



 橋の袂には、「明治天皇渡御碑」が立っている。
維新を迎え初めての江戸入りとなったがこの時にはまだ橋がなく、沢山の小舟を並
べその上に板を渡した浮き橋を作ってお渡りいただいたそうだ。
それより前、将軍・吉宗に献上される象が長崎から来た折は、舟に乗せて渡したとも、
同様浮き橋で渡したなどと諸説あるようだ。
当時の渡し舟は、人なら30人ほど運べる舟が主流で、ほかにも牛馬を運ぶ船も用意
されていたが、これで象が運べたのか興味深いところではある。



 渡舟の渡しは当初江戸の町人が請け負っていた。
その後は何らかの事情で川崎が担当するようになり、その渡し賃が宿場の財政の
支えになっていたと言う。その川崎宿は川を渡ればすぐそこだ。(続)



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第一京浜国道(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-09 | Weblog

 鈴ヶ森の刑場跡を見て、京急線の大森海岸駅の手前で国道15号線、所謂第一
京浜国道に出てきた。さすがに東京と横浜を結ぶ幹線道路である。
この国道は、旧東海道の神奈川宿辺りまでのルートがほぼ重なるため、しばしば
こうして車の喧騒を聞きながら歩くことになる。





 大森の海水浴場は、明治24年八幡海岸に開設されたのが最初と言う。
当時の海岸線はこの国道近辺まで来ていたそうだから、明治34年に出来た京急の
大森海岸駅(当時の駅名は違っていたが)は文字通り海岸に面した駅であった。
平和島の埋め立てが始まり、海岸線が後退した今ではこのあたりから海を見ること
は出来なくなってしまった。





 旧東海道を拡張し京浜国道を建設する工事は、大正七年に始まった。
当時人家や商店が密集していた旧街道筋は拡張が困難で、新道はその西側に造
られた。
平和島口でその新道を離れ、旧態のまま残された三原の通りに入ってきた。



 旧字名の南原、中原、北原を総称し三原と言われる通りを、美称して美原と呼ぶ
ようになった、ここは往時の街道の幅員が良く残された通りだと説明板に書かれて
いる。戦前には映画館、芝居小屋、寄席などが建ち並ぶ活気あふれる繁華街であ
ったようだ。
今はそんな建物を通りで見かけることは無いが、代わりに江戸前の海苔を商うの
であろうか、看板を掲げる店が目立つ。



 京急大森町駅の手前で再び京浜国道に出て、この先はしばらく楽しみの少ない
国道を歩き、蒲田を抜け、多摩川に架かる六郷橋を目指すことになる。(続)



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