簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

山科の追分け(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-31 | Weblog
 名神高速道路の高架の下を潜ると、東海道は旧追分け村、現大津市追
分町に入っていく。
旧街道らしい、静かな通りで、途中には長松山・佛立寺が有った。
この宗派の存在を初めて知ったが、「本門佛立宗」の寺である。



 ホームページを見ると、「当山は佛立開導日扇聖人のご自建立にして、
佛立宗に於ける最初道場であり安政六年(一八五八年)八月、中大谷に
おける大津本門佛立講開講がそのはじまりです。」と書かれていた。

 門前に掲示板が有り、月替わりの言葉のおくりもの、「努力は自分を
裏切らない 努力を裏切るのはいつも自分自身だ」が掲示されていた。



 そこから300m程行くと「山科の追分け」、大阪への分れ道である。
民家を挟んで道が二股に分かれ、角に道標や道路標識が立っている。
右のやや下りの坂道が京都方面、左の平坦道が宇治方面で、ここは東海
道と伏見街道(奈良街道)の分岐点である。



 寛政九年版の『伊勢参宮名所図会』や、文化二年版の『木曾路名所図
会』にも見られるという。
 道標と追分けは古くから「柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれな
い)」の、札の辻の標石として知られていた。



 正面に「みきハ京ミち」左側面には「ひたりハふしミみち」 右側面に
「柳緑花紅」と太く刻まれているが、これは昭和廿九年三月再建のレプリ
カで、本物は琵琶湖文化会館にあるらしい。



 「柳緑花紅」は禅語で、「りゅうりょく かこう」と読むそうだ。
禅宗では、悟りを開いたことをさして使われるらしく、美しい春の眺め
の形容であり、又本来の自然のままで手を加えていない事、ありのまま
の姿等を意味すると言う。(続)





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大津のお仕置き場(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-29 | Weblog

 
 右手には名神高速道路、京阪電鉄京津線、国道1号線が併走している。
ここは山に挟まれた狭隘の地で、これらが僅かばかりの平地を仲良く分
け合って、行儀良く並んで一直線に抜けている。

 この北の逢坂山下にはJR線が、南の音羽山の下には新幹線も、各々
がトンネルを穿ち抜けている。交通の要衝らしく、逢坂から大谷には東
西を結ぶ動脈・幹線が幾筋も通されている。



 国道には、狭いながらも歩道が設けられているのが有り難い。
行き交う車は多く、快適な峠道を、可成りのスピードで行き交っている。
 京阪線の電車は、急カーブと山岳トンネルを抜け、安堵したのか一気
に加速しながら、国道の車を追い越して行く。
 高速を行く車の喧噪は防音壁に阻まれてはいるが、それでも走行音は
絶えず響いて来る。



 月心寺を過ぎ、右にカーブを取り離れていく京阪線と国道とは別れ、
直進して高速の高架を潜り、少し上りながら左の旧道に入る。
 昔はこの辺りを「ひうちがはな」と言ったらしいが、今日では近く
に「竹鼻火打谷」の地名だけが残されている。



 左側に「大津のお仕置き場」があったと伝えられているが、「はり付
け場」の痕跡は何所にも残されていない。
恐らく高速道路の工事か何かで消滅したのであろう。

 東海道の江戸の入口には「鈴ヶ森の刑場」が有ったし、京の入口三条大
橋に近い三条川原は、処刑された罪人の晒し場であったという。



 昔は徹底した厳罰主義で、罪を犯せば容赦なく罰せられた。
こうした刑場や晒し場を、敢えて通行の多い場所に設け、「悪いことを
すればこうなる」との見せしめとしていたようだ。(続)





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走井茶屋と月心寺(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-26 | Weblog


 逢坂の国道を京に向かうと、途中の山裾にへばりつくように臨済宗系
の「月心寺」が有る。「走り井餅」の発祥で知られる寺だ。

 広重の東海道五十三次「大津 走井茶店」には、溢れ出る走井(はし
りい)の水のそばの茶店で旅人が休息している姿が描かれているが、こ
の茶店が現在の月心寺といわれている。



 「石を畳みて一小の円池とす。其の水甚だ清涼にして、冷気凛々たり。
今は茶店の庭とし、旅人憩いの便とす。」走井は、日本の名水として多
くの詩歌や文学作品に登場し、古くから知られていた。

 今でも門を入るとすぐの所に井戸があるらしい。
旅人は、走井の甘露で喉を潤すと同時に、この水を使い搗いた餅で旅の
疲れを癒したという。



 走井茶屋は明治初期以降衰退した。
国道の拡張工事で町が廃れてしまい、持ち主の茶店も京都の八幡へ移り、
跡地は住む人もなく荒廃していたが、大正4(1915)年、日本画家の橋
本関雪が別荘として購入した。
関雪没後、現在の寺となるのは、昭和29(1954)年の事である。



 嘗て茶屋というだけに、一見するだけでは寺には見えない。
瓦屋根葺きの角石を積み上げた塀に囲まれ、入口は風流な竹を嵌めた戸
が建ててあるが、この日は固く閉ざされていた。
 廃寺かと思ったが、そうではなく、見学は予約制で志納金を納めると
出来るようだ。



 内部は苔生した石組の庭が別世界のように広がり、滝のある美しい庭
は室町時代、相阿弥作とも伝わるもので、今もこんこんと水が湧いてい
るという。
 寺では、この美しい庭園を見ながら精進料理やそばが頂けるらしいが、
本家本元大谷の名物であった「走井餅」はここには無い。(続)





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逢坂の名物(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-24 | Weblog


 「逢坂」とは、「人が坂に出会う」と言う意味らしい。
「四百軒ばかりの長き町筋をなす」この峠の要衝は、難所であるにも拘
わらず多くの人が行き交い、多くの店が建ち並び「大津絵、算盤、縫い
針」等が名物として知られていた。



 貝原益軒は、「逢坂山 この辺の町に針を売る所多し、とらやを良し
とす」と書いているそうだ。この大谷の虎屋針は、慶長11(1606)年
の創業で、良質の針として知られていた。ほかには大谷みすや針、中国
から伝来の舶来針を売り始めた追分池川針の大黒屋などの名が知られて
いたという。



 逢坂関址の碑から旧道を200m程歩いて、京阪電鉄京津線の大谷駅
前に出て、その先の横断歩道橋で国道1号線を渡り、歩道に下りて西
進する
 交通の要衝らしく、京阪線と併走する片側一車線の国道には、トラ
ックや乗用車が切れ目無く、引っ切り無しに行き交っている。
国道のキロポストは、487㎞を示していた。



 暫く行くと、「大津算盤の始祖 片岡庄兵衛」という碑も立っている。
庄兵衛は、長崎奉行に随行して長崎に行き、同地で明人から算盤の見本
と使い方を習い、帰京後に日本人に適した形に改良して、慶長17(1612)
年に算盤の製造を始めたという。
昭和の初めまで同家の子孫がここに住んでいたと書かれている。



 今日「大津そろばん」は消滅したが、現在の産地は「播州そろばん」
で知られる兵庫県小野市が凡80%のシェアを占め、残りが島根県出雲横
田の「雲州そろばん」らしい。
 電卓やコンピュータの出現で、算盤の出番は極めて少なくなった。
今日では教育の一環として算盤練習を取り入れている所もあるらしい。(続)





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京の玄関口・大谷 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-22 | Weblog
 逢坂の関を越えれば京の玄関口・大谷である。
北に逢坂山(325m)、南に音羽山(593.2m)が聳え、江戸時代には両
脇に山が迫る、正に大きな谷を街道が抜けていた。
今は切り開かれ均された地を国道1号線が抜けていて、車で通過すれば
あっという間であるが、当時は街道でも名うての難所・要衝でもあった。



 瀬田を中心とした琵琶湖の港には物資が集積され、しきりに京に向け
運び込まれていた。そのため通行する人も物も多く、それを当て込んで
街道沿いには「四百軒ばかりの長き町筋をなす」有様で、茶店や土産物
を売る店が立ち並び、東海道でも屈指の賑わいを見せていたという。



 旧道を行くとこれで何社目であろうか、又々蝉丸神社が有った。
横に「大津絵販売之地」と刻まれた石柱が立っている。浜大津の印鑑店
「ハン六」の二代目・松室六兵衛が、明治時代にこの地で大津絵を刷っ
て売り捌いていたらしい。



 大津絵は江戸時代の初期頃から、当初は信仰の一環として描かれた仏
画である。後に民画となり、東海道の旅人にお土産や護符として販売さ
れるようになる。
当時は「東の浮世絵」「西の大津絵」と言われるほどに人気も高かった。



 旧街道には、嘗ての茶店の名残を思わすような、八百坪の庭園が自慢
の明治5年創業の「かねよ」や、三代続く「大谷茶屋」等の鰻専門店が
店を構えている。さながら往時の賑わいを再現しているかのようだ。



 何れも地元の有名店で、食事時ともなると店先に行列が出来るらしい。
立ち寄りたいところだが、高級そうな店構えに足が竦んで入れない。
評判通り。まだ昼前だというのに、既に店先には客が待っている。

 並ぶのは嫌いだから、ともっともらしい理由付けに納得し、匂いだけ
でお腹を満たし、ここは我慢で先を急ぐ。(続)





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逢坂の関(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-19 | Weblog
 「逢坂山 弘法大師堂」を右に見て、逢坂を越える。
道路沿いには、側面に寛政六年の銘が刻まれた、230年ほど前の逢坂常
夜灯も立っている。見るべき物も多いが、交通量の多い幹線を容易に横
断できないのがもどかしい。



 名神高速道路の高架橋の下を潜ると、東海道は大きく曲り西に進路を
向ける。併走する京阪線の半径45mの急カーブ、逢坂山トンネルが有る
のはこの辺りである。



 逢坂越えの登りも最早ここまでで、この先左カーブする国道とは別れ、
東海道は右の旧道へと入り込むと、「逢坂山関址」と彫った大きな石碑
と常夜灯が立っていた。



 「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 「これから旅立つ人も、帰る人も、知っている人も、知らない人も、
別れてはまた逢うという、これが世に聞こえた逢坂の関ですよ」
 この蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられ広く親しま
れていて、この関址にも石碑が置かれている。



 古歌に名高い逢坂の関跡である。
説明によると「逢坂山に設けられた関所・逢坂の関は平安時代、伊勢の
鈴鹿の関、美濃の不破の関とともに三関と称され弘仁元(810)年以降、
重要な役割を果たしてきた。」



 しかしその位置については、いまだ明らかにはなっていないという。
場所的には、京の玄関口として設けられ関所で、通行が厳しく見張られ
ていたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ったという。



 とは言え、物資が集まる交通の要衝、逢坂越え道の整備には力が入れ
られていた。当時の運搬手段は牛車が中心である。
 これらが立ち往生しないように、道路に「車石」と呼ばれる石が敷き
詰められたのがこの道筋で、この辺りには今でもこうした石が彼方此方
に残されている。(続)



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逢坂越え(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-17 | Weblog
 旧東海道が国道1号線と合流する辺りに、「安養寺」がある。
浄土真宗の寺院で、本尊は行基作の阿弥陀如来座像、古くは関寺とも呼
ばれていた。門前に「円満院宮/三井寺南別所蓮如上人舊跡」と書かれ
た碑が立っている。



 大津宿も安養寺の有る辺りまでで、今日の道沿いの家並みもここから
は乏しくなる。上り坂が続き、本格的な逢坂越えの峠道である。
その道中には「関蝉丸神社上社」に続き、「逢坂山弘法大師堂(弘法大
師御舊蹟)」等がある。



 最初の「関蝉丸神社」は、逢坂山トンネル東口近くにあった。
蝉丸神社は市内に三社あり、この先逢坂(おうさか)一丁目の国道1号沿
いに在るのが上社(かみしゃ)だ。
又、国道沿いに在るのが下社(しもしゃ)で、大谷町には分社が鎮座し、
三社合わせて「蝉丸神社」と言うらしい。



 祭神は猿田彦命と琵琶の名手の蝉丸霊を合祀していて、音曲芸道の祖
神として信仰を集めている。
 蝉丸は、平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、
目が不自由でにもかかわらず、音曲の神として崇められていた。



 逢坂越えは京の都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つ
の主要道路が集中する東海道の重要な要衝である。
物資が集散する瀬田から大津宿一帯、更には逢坂にかけては、人と物が
集中し、街道一の繁栄を極めたと言われている。



 今は山間の切り通し地に、国道1号線と京阪京津線が併走している。
往時に比べれば峠道は切り下げられ、可成り低く均されたと思われるが、
それでも鉄道に取っては沿線最大の難所と言われている。
半径45mの急カーブに続いて、高低差のある逢坂山トンネル(250m)も
あり、さながらここでは山岳鉄道の様相だ。(続)





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 旧逢坂山ずい道東口(東海道歩き旅・近江の国

2024-07-15 | Weblog
 大正時代の初め京都と大津間の最初の鉄道路線は、京都を出て南下し、
稲荷、勧修寺、大谷を経て大津に至る経路で計画されていた。
 しかしこのルートは25‰の急勾配が連続し、輸送上のネックとなって
いた。そこで新ルートが検討され、東山トンネル(1865m)や新逢坂山
トンネル(2325m)等を通る現ルートが決定された。



 元々この辺りは地質が良くなく、強度を維持するためトンネルの断面
を小さくする必要があった。新ルートは後に複線化、更に複々線化され
るが、その都度逢坂山の下にも新たなトンネルが穿たれた。
こうしてここには単線のトンネルが並列して掘削されることになる。



 東海道は既に上り坂で、途中に「逢坂」の石碑があった。
その地名は、「日本書記」よれば神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのう
ちすくね)が、この地で忍熊王(おしくまおう)とばったりとであった
という故事に由来すると言う。



 その先に、「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の案内看板が立って
いたので、街道を外れ立ち寄って見る。
日本人技術者が主体と成り、設計・施工を行い初めて造った山岳トンネ
ルで東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあった。



 完成したのは、明治13(1880)年6月の事である。
一年八ヶ月を掛けて穿たれた全長664.8mのトンネルは、機械に頼らず
生野銀山の労働者が、ノミやツルハシを使い手掘りしたものという。



 大正10(1921)年7月、線路変更で廃線となるまで、東海道下り線と
して使用されていた。 東海道筋からは、ほんの少しだけ離れた山の中な
のに、忘れ去られたかのように寂しく取り残されている。



 再び街道に戻り坂を上るとその先で、国道1号線と合流するが、その辺
りは山を切り開いた切り通しの道で、沿線に民家は乏しくなる。(続)



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逢坂山トンネル(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-12 | Weblog


 東海道は大津宿の中心的な場所を出ると札の辻で、そこを直角に曲り
南に進路を取り、京阪電車の走る通りを緩やかに上っていく。
 京町郵便局の辺りで、右の民家の中に入り込む鉄道線と分かれ、街道
はそのまま直進、上栄町で、左手奥にJR大津駅を見て、右の小町の湯
を過ぎると東海道本線を高架橋で越える。



 右下に線路とトンネルの入口が見えるが、これは並走する京阪電鉄京
津線の蝉丸跨線橋(煉瓦橋)である。 
同線の上栄町駅と大谷駅の間は京津最大の難所と言われている。
 勾配は最大61‰(パーミル)、同社の鉄軌道線では唯一の山岳区間で、
急カーブや、東西の高低差が約10mもある急勾配トンネルを抜けていく。



 静岡県を走る大井川鐵道の井川線には、アプト式電車が採用されてい
る90‰区間があり、これが日本一で、第二位は箱根登山鉄道の80‰で、
それに続くのが京津線のこの区間である。
 都市を結ぶ路線としては珍しいほどの急勾配を上る電車は、カーブも
大きい事から、車輪を軋ませながら、ゆっくり、ゆっくりと上っていく。



 新幹線や在来線で東海道を東に向けて乗車していると、何れも京都駅
を出ると直ぐにトンネルに突入するが、それがこの逢坂山(おうさかや
ま)トンネルである。逢坂山は、大津市の西部に位置する標高325m程
の山で、トンネルはその頂上付近の下に穿たれている。 



 東海道は緩い坂を上りながら、JR東海道線を跨線橋で越える。
眼下には逢坂山トンネルに向かう複々線化された線路が見えるが、ここ
からは、手前の京阪京津線の跨線橋に隠されて、残念ながら歴史を秘め
た風情のあるその入口は望めない。(続)





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銭湯「小町の湯」(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-10 | Weblog


 通りの中央に京阪電鉄京津線の軌道敷が敷かれ、ここでは電車もゆっ
くりと路面電車並の速度で行き来している。
右方向に「びわ湖浜大津駅」があり、同線では主要なターミナルだ。
京阪の京津線は、御陵から京都地下鉄東西線に連絡し、太秦天神川まで
乗り入れている。



 この駅では石山坂本線が分岐し、南に向かえば終点は石山寺駅だ。
紫式部所縁の石山寺の門前までは、歩いて15分ほどである。
 反対の北に向かえば途中に三井寺駅が有り、途中近江神宮前を経て、
比叡山の麓の「坂本比叡山口駅」まで運行されている。
ここでケーブルに接続され、登れば比叡山延暦寺の東側の入口である。



 京町の郵便局辺りで京阪線は右の人家の中に入り込むが、東海道はそ
のまま直進する。広々とした通りは、幾らか上り勾配になっているが、
この辺りを逢坂町と言う。

 道中に「ゆ」と書かれた大きな看板を掲げる銭湯がり、営業案内が張
られている。現役の正真正銘の銭湯らしく、屋号は小野小町が使った関
の清水に由来するという。



 歴史の感じられる切妻瓦葺平入り二階屋、入口屋根は銅板葺唐破風で、
これが建物を一際引き立てている。正面は越高まで小さなタイル張りで、
上にアルミサッシ窓が嵌めてある。銭湯は明治期から続いているらしい。

 大津市HPによると市内には現在も営業を続ける銭湯(一般公衆浴場)
が8軒あると言う。



 当地は、第二次世界大戦で二回に渡りアメリカ軍のB29による爆撃を
受けたらしい。大津陸軍少年飛行兵学校や、滋賀海軍航空隊基地があり、
ここが狙われ被害を受けたようだ。



 それでも、市内には戦火を逃れた地も有ったらしく、町中の趣のある
古い町屋も数多く残されてきた。激しい空襲を受けただけに、その数が
意外に多いことが驚きである。(続)



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