2015年5月16日 三重県
伊賀上野城 100名城
三重県伊賀市上野丸之内
上野城は、白い三層の美しい城郭が鳳凰が翼を休める姿に見立てられ『白鳳城』とも呼ばれています。築城の名手『藤堂高虎』が1608年に伊勢国津藩(三十二万石)の藩主に着任し、五層の天守閣を建設しますが、慶長17年(1612)当地を襲った大暴風で倒壊。現存する天守閣は昭和10年に復元されたものですが、石垣と内堀は高虎が築城した当時のままです。 いがぶら より
▼ 高石垣 ▲ 水面からの高さは30m!日本一、二を争うもの
慶長十三年(一六〇八)八月、藤堂高虎は伊賀の国十万石、伊勢の国の内で十万石、伊予の国の内で二万石に移封となった。
(のち三十二万三千九百五十四石余となる)移封は、徳川家康の信任が厚かったのと、紀伊や大和の反勢力の押さえと築城の名手でもあり、目前にせまる豊臣家討伐に備えたもので、慶長十六年(一六一一)正月、上野城の本丸を西に拡張、高さ約三十メートルという高石垣をめぐらした。建設中の五層の天守閣は、慶長十七年(一六一二)九月二日、当地を襲った大暴風で倒壊、その後、慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣、元和元年(一六一五)の夏の陣と徳川方の勝利に終わり、幕府は諸大名の城普請を厳しく禁止したので上野城の天守閣は再建されなかったが、伊賀の国の城として明治まで城代家老を置いて存続した。現在の天守閣は、当地出身の政治家川崎克氏が、熊野の山林家奥川吉四郎等の協力を受け、また自らが愛蔵する古美術品を売却して復興資金を調達、昭和十年(一九三五)十月十八日に落成、伊賀の産業陳列館として「伊賀文化産業城」と名付けられたが、優雅な姿から白鳳城(はくほうじょう)と呼ばれて親しまれている。
▲ 瓦には藤堂家の家紋「藤堂蔦」が施されている
▲ 欄間?に槍を使用している
▲ こちらは矢
▲ 中央のきのこのような建物は芭蕉にちなんだ「俳聖殿」。伊賀上野は芭蕉の生誕地
▲藤堂蔦
▲太閤秀吉から高虎が賜ったとされている兜 「唐冠形兜(とうかんなりかぶと」
▲中央が高虎・・・
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