2015年12月9日
皇居乾通り一般公開~2015年
昨年に続き2度目
▲巽櫓
▲宮内庁庁舎
富士見櫓
▲ とびっきり色付きのみごとな「いろはかえで」
富士見多聞
西桔橋(にしはねばし)より
乾門へは行かず、西桔橋から天守台へ向かう
▲ 天守台
▲ 石室
▲松之大廊下跡 Really?・・・・
▲ 富士見櫓
百人番所
▲ 同心番所
▼ 大手門
巽櫓
cosmophantom
2015年12月9日
皇居乾通り一般公開~2015年
昨年に続き2度目
▲巽櫓
▲宮内庁庁舎
富士見櫓
▲ とびっきり色付きのみごとな「いろはかえで」
富士見多聞
西桔橋(にしはねばし)より
乾門へは行かず、西桔橋から天守台へ向かう
▲ 天守台
▲ 石室
▲松之大廊下跡 Really?・・・・
▲ 富士見櫓
百人番所
▲ 同心番所
▼ 大手門
巽櫓
cosmophantom
2015年12月6日 東京都大田区
一瞬の輝き・・・富士山
この日の早朝 タバコを買いに外に出ると富士山が白く輝いていましたので、急いで自宅に戻りカメラを持ち出したが、時既に遅し!いつもの富士に戻っていました。残念・・・・
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
旧室伏学校校舎(牧丘郷土文化館)
山梨県山梨市牧丘町室伏
明治8年(1875年)に建てられた木造方形の擬洋風建築物。藤村紫朗(1845~1908)が県令(のちの知事)時代に建設されたことから、山梨県内では「藤村式建築」と呼ばれています。学校、官公庁、住宅など100以上建てられましたが、現存する建物はほとんどなく、校舎は5つのみが残ります。 室伏学校は初め小学だけで「室伏学校」といい、のちに室伏尋常小学校となり、後に諏訪高等小学校を併設しました。昭和8年、諏訪尋常高等小学校(現在の牧丘第一小学校)が建設された後は、室伏区に払い下げられ、地域住民の公会堂として活用されました。 終戦後は、定時制高校分校の校舎として使用された歴史もあります。 地域では、「インキ壺」の名称で親しまれ、同地区に建設された「花かげの郷 道の駅まきおか」敷地内に、平成15年に移築され、現在は、「牧丘郷土文化館」として、活用されています。山梨市ホームページより
2015-12-09 05:42:40
☆cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
東光寺 重要文化財
山梨県甲府市東光寺
武田信玄公が定めた5つの寺院「甲府五山」の一つ本尊は薬師如来でその周囲を取り囲む十二神将とともに県指定有形文化財。諏訪頼重、武田義信の墓があり、仏殿は国指定重要文化財。 富士のくにやまなし
▼ 東光寺仏殿
東光寺仏殿は、唐様(からよう)と呼ばれる中国の建築様式を模して建てられた一辺8mほどの正方形をした入母屋(いりもや)造りの建物です。二重屋根の裳階(もこし)が特徴で、ヒノキの皮を重ね合わせた桧皮葺(ひわだぶき)が用いられ、流れるような曲線で仕上げられています。同じような建造物には、鎌倉市の円覚寺舎利殿、県内では山梨市の清白寺仏殿などがあり、ともに国宝に指定されています。仏殿の内部には、鎌倉時代の作品である「木造薬師如来坐像(ざぞう)」・「木造薬師十二神将像」(ともに県指定文化財)が安置されていますが、仏殿はこれらより新しい室町時代後期の建造物と考えられています。仏殿は、天正10(1582)年の織田信長の兵火、昭和20(1945)年の戦災を免れて、室町時代の禅宗の建築様式を今に伝える貴重な文化財です。
▼ 東光寺庭園
東光寺庭園は、中世の庭園様式と手法を踏まえ、中国の水墨山水画的な風景を凝縮させた、禅の精神世界の造形美が演出された名園で、蘭渓道隆による作庭との伝承があります。甲府市ホームページより
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
甲府市(山梨県)の町並み
甲府という名称は、1519年(永正16年)に武田信虎が居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まる。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。 Wikipedia
▲ 甲府駅
▲ 武田通り
▼ 躑躅ヶ崎館跡(武田神社)
▲武田氏館跡大手門周辺
▲旧睦沢学校校舎
▲ 甲州夢小路
▲ 山手御門
▲ 甲府城跡
▲ 山梨近代人物館
▲ 善光寺
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
甲州善光寺 重要文化財
山梨県甲府市善光寺
川中島の合戦で兵火が信濃善光寺におよぶのをおそれ、信玄公が仏像や教典をこの地に移して建立。本堂は、東日本有数の木造建造物で国重文に指定されている。じゃらん
▼ 山門 重要文化財
江戸時代に再建されたものですが、棟札の記述から本堂より早く再建されたことがわかります。なお、山門の両脇に仁王像が安置されていますが、なぜか未完成のままと考えられています。甲府市ホームページ
明和4年(1767年)の上棟(Wikipedia)
▼ 本堂 重要文化財
本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興されてきました。現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。間口約24メートル、奥行き約54メートル、高さ約26メートルという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです。善光寺ホームページより
▲ 天井に描かれた2匹の竜:目を凝らしてみましたが、何が描かれているかよく解らず!日本一の鳴龍とのこと
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
山梨近代人物館
山梨県甲府市丸の内
山梨近代人物館は、昭和5年の創建時の姿によみがえった県庁舎別館内の一部に開館しました。当時の雰囲気を感じていただけるよう旧知事室や正庁を復元し、また展示室では、概ね明治時代から戦前までの間、山梨県の発展に貢献した人物や、山梨県ゆかりの国内外で活躍した人物を紹介しています。富士の国やまなし
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
甲府城跡2015 100名城
山梨県甲府市 丸の内
甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。 以上甲府市ホームページより
▲ 稲荷櫓
▲ 鍛冶曲輪
▲ 稲荷櫓
▲ 本丸櫓跡
▼ 天守台
▼ 天守台より
▼ 鉄門:2013年1月10日に本丸を守る城門・鉄門(くろがねもん)が140年ぶりに復元されました。
▼ 中の門跡
▼ 鍛冶曲輪門
内松陰門
▲銅門跡
基礎石
☆ お堀 2011年12月23日撮影
2015-12-04 06:18:41
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
山手御門
山梨県甲府市北口
山手御門は、甲府城に三つあった出入口の一つです。土橋によって堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門と櫓門
から構成される山手御門を通って、ここから南の城内(現・舞鶴城公園)に出入りできました。しかし、明治期に破却され、今では中央線の線路で分断されています。 富士の国やまなし
山手御門とは、山手門(やまのてもん)と山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)の総称で、甲府城にあった3つの出入口の1つです。山手門は城門として、山手渡櫓門は武器庫としての役割を果たしていたといわれています。 甲府市ホームページ
▲ 山手渡櫓門
▲ 山手門
cosmophantom
2015年10月8日 山梨県
旧睦沢学校校舎(藤村記念館) 重要文化財
山梨県甲府市北口
藤村記念館は、明治8(1875)年、巨摩郡睦沢村(現:甲斐市)に建築された校舎です。昭和41(1966)年には武田氏館跡(武田神社)西曲輪に移築、山梨県第5代県令・藤村紫朗にちなみ藤村記念館と命名され、歴史や民俗の教育資料館として一般公開されてきました。甲府駅周辺拠点形成事業に伴い、歴史景観の再生と市民や観光客の交流ガイダンス施設とすることを目的に、平成22年8月、甲府駅北口に移築・復元されました。この建物の様式は、当時の県令・藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて建てられた建築物)で、明治前期には市内の多くの官公舎、学校、商家などがこの様式で建てられ、藤村式建築とも呼ばれています。明治10(1877)年に甲府を訪れた英国公使のアーネスト・サトウは、街中に西洋式建築が建ち並ぶ様子に驚き、その数はまちの規模からして日本一だと日記に書き残しています。建物は、正面中央の玄関車寄せ、2階のベランダ、正面吹き放ち円柱、出入口や窓の黒塗りアーチ形の枠、両開きのガラス戸と鎧(よろい)戸の二重扉などに洋風の意匠を見ることができます。外壁は漆喰(しっくい)塗りの日本壁で、隅は黒漆喰で石の形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葺(かわらぶき)で、中央に太鼓楼と呼ばれる塔屋をのせています。 甲府市ホームページより
cosmophantom ☆
2015年10月8日 山梨県
躑躅ヶ崎館跡(武田神社) 100名城
山梨県甲府市古府中町
甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。 Wikipediaより
▲ 武田水琴窟
▲姫の井のお水
▲ 空堀
武田氏館跡大手門周辺(たぶん武田神社本殿の東側)は発掘調査が行われ、石塁、土塁、 堀、土橋、虎口石階段などが復元されている。
▲ 武田通り
cosmophantom