慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「毛利季光」「宝治合戦」「三浦家」「木曽義高」

2024年02月09日 | 歴史
🌸源頼朝が政子を大切にした理由(3)

『要旨』
 ☆毛利季光、妻の実家に義理立てし戦いに敗れ亡くなった
 *妻を介した家と家が結びつく力は強い時代(妻の権力強い)
 ☆武士が戦に出たら、命をかけ、相手を殺すまで戦う
 *武士の命奪っても、関連する女性・子どもに手を出さなかった時代
 ☆頼朝の娘を嘆き悲しませた木曽義高(子ども)の殺害






                                                                              (木曽義高)
「毛利季光」「宝治合戦」「三浦家」「木曽義高」
(ネットより画像引用)

毛利季光、妻の実家に義理立てし亡くなった
 ☆当時の女性の存在感の高さを表す出来事
 ☆毛利季光
 *神奈川県にある毛利台に所領を持っていた人物
 *彼は鎌倉幕府を支えた大江広元(文官)の息子
 *彼は武芸に励んで、立派な武士になり結婚した
 *関東の御家人で有名な家である三浦氏から妻を娶る
 *父大江広元は幕府で文官としてはナンバーワンの地位
 *有力武士の三浦氏とは家の格も釣り合いは取れている
 ☆季光の義理の実家である三浦家
 *北条と戦う「宝治合戦」をする状態になった
 ☆季光も「北条が勝つな」と先を読み、北条に味方しようと馬を走らせた
 *道中、彼は妻の実家を助けないのは道理が通らないと考え
 *季光は、途中で道を変え、三浦の陣営に味方することを決めた
 ☆北条に楯突いた三浦は負け減びる
 *季光も、敗者側の有力な武士として自害を迫られた
 *毛利の家は相模国の本領を失う
 ☆一族の中には広島県・新潟県の領地へと向かう人もいた
 *広島に行った毛利家の中から生まれたのが
 *戦国武将として名を馳せる毛利元就という人物

⛳妻を介した家と家が結びつく力は強い
 ☆家同士の結びつきと同様、妻が持つ力が非常に強かった
 *季光は三浦に味方をしなければならなかった程、妻の権力が強かった
 *季光は自分の予測のもとに北条家に味方していたはず
 ☆武家社会で妻の地位が重視され
 *存在をないがしろにすることは不名誉な事であった

女性は合戦の埒外に位置する
 ☆武士が戦に出たら、命をかけ、相手を殺すまで戦う
 *武士の命奪っても、武士に関連する女性・子どもに手を出さなかった
 ☆北条家のトップだった北条高時以下、880余名
 *鎌倉の東勝寺跡で揃って腹を切るという事件があった
 *このときも、女性や子どもの命は助けるという原則は生きている
 ☆鎌倉時代位まで、女性たちは命を助けられた
 *戦国時代には、女性であっても命を絶たれることが増えていく
 ☆例外もある
 *大坂夏の陣で豊臣家が減びたとき
 *豊臣秀頼に嫁いでいた千姫は殺害されることもなく
 :*江戸幕府に帰ってきています

頼朝の娘を嘆き悲しませた木曽義高(子ども)の殺害
 ☆子どもも命だけは助けられることが多かった
 *男の子は殺されてしまうこともあったが
 *若いときは生き延びられ、元服していれば殺される
 ☆木曽義仲が源頼朝と対立したとき、義仲は争いを回避するため
 *自分の子どもである義高を頼朝の元へ人質として送った
 *頼朝の長女の大姫という少女と婚約させた
 ☆木曽義仲と源頼朝の対立関係がより明確になると
 *頼朝の命令で、兵を動かした弟・義経に木曽義仲が討たれた
 ☆武士のルールからすれば、父が敵として討たれてしまった以上
 *頼朝は「義高も殺す」という、非情な決断を下し殺す
 ☆大姫は自分の将来の夫が殺されないように、色々と手を打ったが
 *義高が、殺されてしまったことに、大きなショックを受ける
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
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⛳出典、『愛憎の日本史』
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「小早川秀秋」「裏切り者」

2024年02月09日 | 歴史
🌸小早川秀秋(安土桃山時代)19歳で天下を左右した

『要旨』
 ☆小早川秀秋、日本一の裏切り者
 ☆秀秋、秀吉との養子縁組を白紙にされて豊臣家から追い出される
 ☆小早川秀秋は、大きな戦いを前にしても煮え切らない態度
 *小早川秀秋、天下分け目の戦いを決する位置松尾山に立っている
 *小早川秀秋、日本一の裏切り者と言われる行動を取る
 ☆小早川秀秋、21歳でこの世を去る
 ☆秀秋が死に跡継ぎがいなかった小早川家改易


「小早川秀秋」「裏切り者」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)

日本一の裏切り者
 ☆小早川秀秋の肖像画、困惑した顔の武将の顔が描かれている
 ☆天下分け目の戦い関ヶ原の戦い
 *小早川秀秋の行動が勝利の行方を左右した
 *”日本一の裏切り者″といわれたのが小早川秀秋

秀秋、秀吉との養子縁組を白紙にされて追い出される
 ☆現在の滋賀県長浜市に生まれた小早川秀秋は、豊臣秀吉の養子だった
 ☆秀吉、正室北政所との間に子供ができなかった
 *秀吉は、有力な家臣の子供を何人も養子に迎えていた
 *小早川秀秋の父親は北政所の兄だった
 *秀秋は秀吉の後継者として期待されていた
 ☆秀吉と側室の淀君との間に秀頼が生まれ秀秋の株は急落した
 *捨てられるように小早川家に養子に出された
 *養父の小早川隆景に鍛えられた秀秋
 *朝鮮出兵では秀古軍の総大将を任せられるまでになった
 ☆秀秋は家康に大きな借りを作っている(朝鮮出兵問題での救済)
 *秀秋は、味方の三成に対して疑心暗鬼だった
 ☆関ヶ原への伏線は次々と張られていった

⛳小早川秀秋は、大きな戦いを前にしても煮え切らない
 ☆石田三成は天下獲りへの野心をあらわにした徳川家康
 *討つことを決意して、豊臣系の武将たちに向けて檄文を送る
 ☆家康率いる東軍と三成率いる西軍との間で全面戦争が始まった
 *10代だった秀秋は西軍に身を置いたものの
 *豊臣家や三成との確執で、態度は煮え切らない
 *小早川秀秋は、寝返するのではと味方から疑われていた
 ☆肖像画に描かれた秀秋の思案顔
 *彼の胸の内を表しているのかもしれない

小早川秀秋、天下分け目の戦いを決する位置に立つ
 ☆関ヶ原一帯を見下ろす松尾山に姿を現した秀秋
 *松尾山には、西軍の使者、東軍からも使者が訪れた
 ☆一進一退の戦況のなか、動こうとしなかった秀秋の決断
 ☆小早川秀秋の決断を促した家康
 *松尾山に威嚇射撃を行った
 *秀秋はついに腹を決めると、三成率いる西軍に攻め込む
 ☆秀秋の裏切りをきっかけに西軍の武将
 *相次いで敵軍へと寝返っていった
 *最後の関ヶ原で小早川秀秋は大谷吉継軍と激突した
 *最終的に勝利は得たが、秀秋は吉継の怨霊の妄想に悩まされた
 ☆最後まで煮え切らない態度をとっていた秀秋
 *奇しくも天下分け目の人一番でキーマンなった

小早川秀秋、21歳でこの世を去る
 ☆東軍の一員として勝利を収めた小早川秀秋
 *関ヶ原の戦いから2年後、21歳の若さでその生涯を閉じている
 *裏切り者として後ろ指を指され、酒におぼれて死亡した

 *小早川秀秋によって自害した、武将の呪い殺されたという話
 *自分の人生を振り返ってノイローゼイになって自害したという話
 ☆秀秋が死に、跡継ぎがいなかった小早川家改易
                       (敬称略)
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⛳出典、『日本史の黒幕』
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