慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「心理的暴力」「”さん”の呼称」「敬して遠ざける」

2024年02月28日 | 社会

🌸ポリコレと言葉づかい2

 

⛳身体的暴力から心理的暴力へ

 ☆ポリコレとは、わたしたちが試行錯誤しながらつくりあげている

 *グローバル空間のルール・規範

 ☆誰かがルールを設定すれば、それは別の誰かの

 *「俺たちのルール」を踏みにじったり、既得権を侵している

 *結果「正しさ」を巡る政治闘争が勃発することになった

 ☆最初にアメリカでポリコレが生まれたのは

 *多様な人種・民族が混在する「人工国家」であり

 *グローバル世界の縮図だったからだ
 ☆アメリカでつくられたポリコレのルール

 *グローバルスタンダードになることを

 *「陰謀」のようにいうのは正しくない

 ☆アメリカでは、人種問題で抗議運動が繰り返されるように
 *アメリカは差別にきわめて敏感な社会である

 *そこで決まった約束事が世界中で共有されている
 ☆ルールが定まれば、それに反する言動は不道徳・不適切とされ

 *場合によつては処罰の対象になる
 ☆生存への最大の脅威は、いうまでもなく暴力だ

 *暴力・性暴力は忌むべきものとされている

 ☆学校や家庭内での暴力(体罰やしつけ)

 *夫婦や恋人間での性暴力などは、ある程度黙認されていた
 *それが犯罪であるとの認識が広がったのは近年のことだ
 ☆近代国家がひとびとから支持された理由

 *暴力の脅威に効果的に対処したからだ

 *軍隊や警察によって暴力を独占し

 *私闘を禁じて、紛争は法によって解決することを強制した

 *法治国家、市民は司法で理不尽な暴力から保護されている
 ☆第二次世界大戦が起されば人類は絶減する理由で

 *先進諸国は長い平和と経済成長を謳歌した

 *殺人や強盗などの重犯罪も一貫して減少しており

 *わたしたちは人類史上、もっとも安全な社会で暮らしている

 ☆近代国家の前身は身分制社会

 *身分の低い者や女性、黒人などのマイノリティには

 *完全な人権や市民権はなかった

 ☆リベラリル(自由主義)の原則

 *国家は国民を無差別(平等)に扱わなければならず

 *特定の集団を支配層として、別の集団を従属させることは許されない
 ☆現在でも、中国(新彊)やミャンマー(ロヒンギャ族)などで

 *国家による人権抑圧が行なわれているものの

 *欧米や日本のような先進国では法制度をめぐる対立は

 *より微妙なものに移行している
 ☆日本では刑法の性犯罪規定の見直しが議論になっている

 *同意のない性行為の犯罪化を目指す被害者団体と

 *客観的な証拠なしに「同意していない」との主張だけで
 *処罰されるのでは冤罪の温床になると懸念する人権派弁護士の

 *「リベラル」同士の対立が起きている
 ☆アメリカで、過去男子選手だったトランスジェンダーの水泳選手

 *大学選手権で優勝し、社会を二分する議論を引き起こしている

 *同様の事態は他の競技でも起きている

 ☆法制度による差別が解消していくにつれて

 *それでは、救済できない差別が強く意識されるようになる
 ☆社会的な存在であるヒト

 *他者に傷つけられることにものすごく敏感だ

 *「制度的な暴力」解決すれば、社会的・文化的に構築された

 *「心理的な暴力」が前景にせり出してくる

 

日本は「さん」づけでアメリカは呼び捨て

 ☆小学生の娘が学校での出来事を話すのを聞き

 *筆者の知人は強い違和感を抱いたという

 ☆ジェンダーフリーが徹底された最近の公立学校

 「男も女も「さん」づけなんですよ」と知人はぼやいた

 ☆会社でも、かっては上司が部下を、先輩が後輩を呼び捨でにし

 *上司を役職で呼ぶのが当たり前だった

 *いまでは役職や年齢、入社年次にかかわらず

 *「さん」づけで統一するところが増えている

 *社長が平社員を呼び捨てにするとパワハラだと思われそうだ

 ☆欧米では、役職にかかゎらず、社員同士

 *フアーストネームを呼び捨てにするのが常識になっている

 *日本の会社で、新入社員が社長に「一郎」などと呼びかけたら

 *その場が凍りつくだけではすまないだろう
 ☆日本とアメリカの呼称の変化には共通するものがある

 *それは、「全員を平等に扱う」ことだ、誰かを呼び捨てにして

 *別の誰かに「さん」や「ミスター」をつけること

 *現在の価値観では不適切だと見なされる

 ☆なぜ全員の呼称を統一しなければならない理由

 *相手との「距離」を同じにするためだ
 ☆リベラル化する社会、パブリックな場で呼称の使い分け

 *恣意的に距離を操作することは許されなくなってきた

 

敬語を使うと失礼になる場合もある
 ☆敬語や敬称は、相手への尊敬を示す言葉だとされいるが
 *マジョリティとは異なる扱いをマイノリティが受けるとき

 *それが敬語・敬称であっても「差別」になり得る
 ☆わたしたちは言葉づかいを微妙に変えることで

 *つねに相手との距離を調整している

 ☆敬語や敬称には、相手との距離を遠くする効果がある

 *これが「近づきがたい」という印象を生じさせる

 ☆「敬して遠ざける」といわれるように

 *敬語には相手を疎外・排除する効果もあ

 *白人社員たちから自分だけが敬称で呼びかけられたら

 *黒人社員は強い疎外感を覚えるにちがいない

 ☆「さん」や「ミスター」などの呼称は相手との距離を広げ

 *愛称や呼び捨ては距離を縮める

 ☆日本では、目上の者に親称を使うのはインポライト(失礼)

 *親しい問柄で敬称を使うこともインポライトだ

 ☆敬語・敬称の遠隔化効果によって相手と距離をとることは

 *「ネガティブ・ポライトネス」と呼ばれる

 ☆「ポジティブ・ポライトネス」は

 *タメ語や親称の近接化効果によって相手との距離を詰めることだ

 *相手との距離が適切であれば「ポライト」になる

 ☆現代の言語学では、わたしたちは言葉づかいを微妙に変え

 *つねに相手との距離を調整している

 ☆ポリコレのコードでは

 *役職や(男女のような)属性にかかわらず

 *社内全員の言語的な距離を同じにしなければならない

 ☆日本では、ネガティブ・ポライトネスによって

 *社長から平社員まですべての社員を「さん」づけするようになった

 ☆アメリカでは、同じことをポジティブ・ポライトネスで行なっている

 *いまは、黒入社員は「ジム」「ジミー」などと呼ばれている

                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『世界はなぜ地獄になるのか』
 
 
 
 
 
 
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「持明院統と大覚寺統」「長子相続」「腹は借り腹」(最終回)

2024年02月28日 | 社会
🌸「三英傑」の知られざる女性観(最終回)

 

 ☆愛と憎しみの強い感情、どんな身分や立場の人をも動かす強い原動力
 ☆結果、人々の抱く愛憎の感情が、日本の歴史を左右してきたのだ

 

儒教の影響も強かった「長子相続」という文化

 ☆家康が、日本の文化に大きく影響を与えた「長子相続」
 *長子相続は、世界中で見られる傾向だ

 *世界でも、長子、長男が跡を継ぐのは普通のことだった
 ☆鎌倉時代までは母親の地位の高さが、後継者決定に関連していた

 *鎌倉幕府を開いた頼朝の場合

 *母親が非常に格の高い家の出身で三番目の男の子

 *跡取り息子に指名されていた
 ☆天皇家の相続「長子」の条件以外にも複雑な要素が絡むことがある
 *持明院統と大覚寺統の両統が行われ、天皇家が真っ二つに割れた

 *二つの皇統が交互に帝位につくという両統迭立が始まる
 *日本では跡継ぎルール、長男と母親の家柄が重視されていた

 *その都度でどのルールが優先されるかは変わるものだった
 ☆家康以降、「長子相続」がルールとして固定化される
 *家康は、自分が将軍職を退き、後継者には三男の秀忠を選んだ

 *長男は死亡、次男は他家の養子に入っていたとの事情もある

 ☆家康の孫の代、三代将軍を選ぶ時代

 *家康は「先に生まれた男の子を跡継ぎにしろ」と伝え

 *以降の江戸幕府でもこのルールが踏襲されていく

 ☆日本では「長男が跡継ぎ」が定着した
 *江戸時代になって儒教が国教になった影響が強い

 *儒教では先に生まれた人を敬う考えが強いため

 *生まれた順番を非常に大切にした

 

⛳奇行で名高い家光が、徳川家を継いだ

 ☆歴代でも変わった将軍として有名なのが、3代将軍の徳川家光
 *家光という人は、かなり問題のある将軍でした

 *現存する彼が描いた絵を見ると、幼稚園児が描いたように稚拙
 *絵以外の史料を見ても

 *家光から深い知性を感じたことは、筆者には一度もない
 ☆家光の父母である秀忠夫婦は、その事実を見抜いていた

 *問題の多い家光よりも賢い弟を将軍に据えようとしたものの

 *家康お家騒動を引き起こさないことのほうが肝心と考え

 *長男だった家光を将軍に指名した
 ☆その後「跡継ぎを作り」が一番の使命の江戸時代の将軍非常に不健康でした

 *江戸城に囲われて、ほとんど外にも出ないし、政治も家臣に任せっぱなし

 *最大の使命は子どもを産むことだった

 ☆徳川11代将軍の徳川家斉、50人の女性に50人の子どもを産ませている

 *家斉の子どもたちもみんな江戸城で大事に育てられている

 *不健康になるのか、大半が若いうちに亡くなっている
 ☆結婚できる年齢まで生きていた数少ない生き残りが溶姫
 *溶姫は加賀藩主の前田斉泰の正室として嫁に行く

 *そのときに作られたのが東京大学の赤門

 *当時、赤という色は勝手に塗ってはいけない色

 *幕府や将軍なりが認可しないと使えませんでした

 *嫁入りの門出を祝うために赤く塗った門をくぐって

 *溶姫が前田へとお嫁入りをしたと言われている

「長子相続」の考え方が生んだ「腹は借り腹」の思想

 ☆長子相続の感覚が根付くと、損なわれたのが母親の権利の尊重
 *江戸時代に生まれたのが「腹は借り物」という考え方

 *女性の人権をまったく無視したひどい考え方

 *家康の言わんとすることはこれに非常に近いです
 ☆母親は父親に腹を貸すだけなのだから、
 *長男を産むのなら誰でもよい、と思われた
 ☆象徴的なエピソード
 ①3代将軍・家光の長子は女の子で、血筋は石田三成に連なる

 *仮に彼女が男の子として生まれていたならば

 *石田三成の血を引く子どもが、」徳川家の四代将軍になっていた
 ➁4代将軍になった家綱の場合、母親の父、死刑になった人物

 *母方の祖父は立ち入り禁止の場で、禁猟の鶴を捕り死刑になった

 ☆徳川幕府「腹は借りもの」と考えていたのは、儒教の影響

 *「母親は誰でもいい」という感覚が、より一層強くなった
 ☆江戸時代は、日本で一番女性の人権が抑圧されていた時代だった
 *儒教の影響を受けた長子相続がなければ

 *江戸時代の女性に対する考え方は、違うものになっていた

権力のために、恋愛感情を放棄せざるを得なかった女性たち

 ☆過去の日本においては、女性が自ら権力を持ちたいと思った際

 *恋愛を犠牲にしなければならないことが多い
 ☆愛情と権力。女性たちがどちらを欲するのかは

 *権力欲が強い女性もおり、愛情を欲する女性もいたとしても

 *良いと筆者自身は思っています

 ☆平安時代であれば、女性が権力を得ようとするのであれば

 *天皇の妻になり、寵愛を受け、子どもをなすことが一番の道でした
 ☆江戸時代、向上心のある女性が、大奥に入ることもありました

 *大奥に入って将軍の寵愛を受ければ

 *頑張り方次第で出世することもできた

 ☆男性は、権力を持てば持つほどに女性関係が派手になる

 *出世を望んだ多くの女性たちは、誰か権力者の妻や妾になり

 *自分の恋愛感情を犠牲にしなければならぬケースが多かった

 ☆多くの女性は、権力を得るために、自分よりも遥か年上の男性や

 *何かしら難のある男性と一緒になることを強いられた

 ☆明治時代の初頭は、女性の権利が潰されていく

 *平塚らいてうが「原始女性は太陽だつた」と言い

 *女性の権利を解放するべく、女性たちの覚醒を促した

 ☆興味深いのが、女性解放運動に関わる人々は

 *何かと不倫や男女の痴情のもつれ等のスキャンダルを多く抱えていた

 ☆「男に負けないぞ」と女性が思ったとき

 *一番手っ取り早い手段が恋愛だったからと思う
 ☆そう考えると、恋愛というものが

 *男女が一番しっかり相手と向き合える場であったし

 *女性たちにとって人生の突破口になることもあったはず

 ☆愛と憎しみという強い感情

 *どんな身分や立場の人をも動かす強い原動力になる
 *だからこそ、人々の抱く愛憎の感情が

 *こんなにも日本の歴史を左右してきたのだと筆者は感じる

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「王政復古」「慶喜の戦略」「錦の御旗」

2024年02月28日 | 歴史

🌸味方をおいて1人逃げた徳川慶喜

 

最後の将軍のしたたかな面

 ☆政奉還で朝廷に政権を返上した、最後の将軍は第15代の徳川慶喜

 *「王政復古の大号令」が発せられ徳川幕府は崩壊した

 ☆彼には、軟弱で無策な将軍のイメージが付きまとうが

 *実際の慶喜は非常にしたたかな策士だった
 *朝廷に従ったのも作戦のひとつ

 *弱腰に見える彼の言動の裏には

 *保身のために立ち回るもうひとつの顔が隠されていた

 

⛳慶喜、権力を保持するための計画が失敗した

 ☆大政奉還は、討幕派と朝廷を煙に巻く一発逆転の裏技だった
 *朝廷に屈服して政権を返してしまえば

 *倒幕派は幕府を倒す理由がなくなる
 *長年政治から離れていた朝廷に政権を担う力などなく
 *政権運営は、自分を頼ってくると見越していた
 *慶喜には政権を手放すつもりなど初めからなかった
 ☆討幕派が巻き返しを図った王政復占のクーデターに対し

 *慶喜は次々と反撃の手を繰り出す

 *諸外国の公使には「主権は我にあり」と宣言

 *討幕派に加担しないよう根回しをした
 ☆慶喜の目的は、新政府で主要な地位を獲得することだった
 *朝廷に従うふりをしつつも、その裏では

 *権力を維持できる新政府づくりの中心人物となる活動していた
 ☆実現の一歩手前までこぎつけていた計画

 ☆鳥羽・伏見の戦いをきっかけにもろくも崩れ去ってしまう
 *幕府軍、慶喜の新政府入りを快く思わない薩長の挑発に乗せられてしまう

 *幕府は朝敵となってしまった

 

慶喜、味方をおいて単独で逃げる

 ☆薩長が掲げた、官軍の印である「錦の御旗」を前にした慶喜

 *驚くほどの早さで転身する

 *それまでの野望をかなぐり捨て、保身ヘと突っ走る
 ☆鳥羽・伏見の戦いでは、大坂城を抜け出し

 *味方を置き去りにしたまま江戸へ逃げ帰った
 *江戸城もすんなりと明け渡してしまう
 ☆大政奉還を盾にして、自分の命を優先する道へと乗り換えた

 *その後は、新政府に不満を持つ士族の動きには静観を決め込み

 *政治にはまったく関心がない態度を貫き通した
 *慶喜、晩年には名誉が回復されて公爵の地位まで得た
 ☆多くの幕臣が命を落としたなか

 *慶喜は76歳まで生き延びて天寿をまっとうした
 ☆写真に残されている慶喜の顔は鋭いまなざしが印象的

 *この表情にこそ策士の本質が表れているといえる

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