慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「夏姫」「小少将」「男衾三郎絵詞」「おかめ」

2024年02月11日 | 歴史
🌸戦国時代の英雄と剛毅な妻たち
 
『要旨』
 ☆日本の戦国時代にも夏姫のような美魔女が存在した
 *彼女の名前は小少将(こしょうしょう)
 *徳島県の有力武家で西条東城城主の日本牧西の娘
 ☆四国の権力者と次々と結婚した「小少将」
 *そこに関連する相手はことごとく亡くなっていく
 *まさに、春秋時代の夏姫さながらだと言える
 ☆平安時代後期の日本における美人
 *『男衾三郎絵詞』にみる、日本での美人の定義
 *「おかめ」が美人『平家物語絵巻』や『源氏物語絵巻』でも同様







「夏姫」「小少将」「男衾三郎絵詞」「おかめ」
(ネットより画像引用)

四国に日本版「夏姫(かき)」「小少将(こしょうしょう)」
 ☆歴史上、美しい女性は何かと騒動の種になりがち
 ☆春秋時代に中国に存在した女性・夏姫などの女性がいる
 *彼女が最後の色恋沙汰に巻き込まれたときは、50代を超えている
 *ものすごくモテる女性だったとしか考えられない
 *究極の美魔女といえる夏姫
 ☆日本の戦国時代にも夏姫のような美魔女が存在した
 *彼女の名前は小少将(こしょうしょう)
 *徳島県の有力武家で西条東城城主の日本牧西の娘
 *この女性こそが、まさに戦国時代の「夏姫」ともいえる人物だた
 ☆小少将は、阿波の国の守護大名細川持隆の妻になる
 *持隆との間に、真之という息子を産み実体に殺害され未亡人となる
 *その後、彼女は持隆を殺害した実体の妻になる
 *2人の間には三好長治と十河存保などの二人の男児が生まれた
 *結婚して九年ほど経て、実体も戦死する

四国の権力者と次々と結婚した「小少将」
 ☆頭を丸めて尼にでもなるのかと思われた小少将
 ☆小少将は、三好実体の家臣であり、阿波木津城主篠原自遁と結婚した
 ☆父は違うが母は同じで、自分の息子2人が殺し合いを始めた
 *自分が細川持隆との間に産んだ細川真之と
 *三好実体との間に産んだ三好長治という2人の息子
 *阿波国を巡って殺し合いを始め、長治は25歳で戦死する
 ☆小少将は54歳
 *彼女は長宗我部元親の側室になって
 *長宗我部右近太夫という息子を産んだ
 *小少将の子右近太夫、長宗我部元親の五男で、関ケ原では西軍につき
 *小少将が生んだ右近太夫も兄と一緒に腹を切らされた
 ☆小少将は、四国の権力者と次々に関係を持ち
 *そこに関連する相手はことごとく亡くなっていく
 *まさに、春秋時代の夏姫さながらだと言える

『男衾三郎絵詞(おぶすま)』にみる、日本における美人の定義
 ☆明治の頃に撮影された美人で誉れ高い芸者や遊女の写真を見ると
 *私たちの感覚から見てみても、確かに美人が多い
 *現代に残る絵巻物や浮世絵は、デフォルメしたものに過ぎず
 *本当は現代にも通じる美人だった
 ☆美人の定義として面白いのが鎌倉時代『男衾三郎絵詞』
 *この物語は、継子いじめの物語
 *男衾三郎は、兄の忘れ形見である少女を養う
 *その少女が、なんと絶世の美少女
 *叔父に引き取られた彼女は、さまざまないじめに遭う
 *結局若い公達、すなわち王子様に見初められて幸せになるというお話
 ☆絶世の美少女の絵を見てみると
 *引き目・かぎ鼻に加えて、小さなおちょぼ口、しもぶくれの顔
 *長い黒のストレートヘア、すなわち「おかめ」でした
 *「おかめ」が美人『平家物語絵巻』や『源氏物語絵巻』でも同様
 ☆不美人の描かれ方
 *髪の毛は、まるでパーマをあてたようなウェーブするくせっ毛
 *目はぱっちり、鼻も高い
 ☆人間の美的な感覚は時代と共に移り変わるのがよくわかる
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『愛憎の日本史』
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大腸憩室症

2024年02月11日 | 医療
🌸大腸憩室症

 ☆大腸壁に5~10mmの袋状のへこみ(憩室)ができた状態
 *通常は無症状
 ☆憩室部の血管が破れて出血する大腸憩室出血
 ☆憩室内に細菌が感染して起こる大腸憩室炎
 ☆急性疾患の合併につながることがある
 ☆近年、左側結腸に憩室ができる割合が増加している
 *高齢者では両側に形成されるケースが増加している

大腸憩室症(症状)
 ☆無症状で、大腸内視鏡検査時などに偶然発見されるのがほとんど
 ☆大腸憩室出血を合併する場合
 *痛みを伴わない血便、大腸憩室炎を合併する場合は腹痛が生じる
 *圧痛、発熱、吐き気、嘔吐、筋性防御、腫瘤形成などの症状が現れる
 ☆穿孔して腹膜炎を起こすと
 *敗血症やショックのおそれがあるため、緊急処置を要する

大腸憩室症の原因
 ☆憩室は、先天性、後天性の原因で腸管内圧が上昇で形成される
 ☆後天性の主な原因、食物繊維の摂取量の不足
 ☆合併症である大腸憩室出血
 *憩室内の血管が脆くなり破綻することで起こる

大腸憩室症の検査
 ☆合併症を伴わない憩室
 *合併症を伴わない憩室は腹部CT検査等で確認できる
 ☆大腸憩室出血
 *血便が主な症状の患者さんでは、問診や身体所見などより
 *緊急の処置が必要かどうか判断される
 *出血部位を調べるために、腹部CT検査や大腸内視鏡検査が行われる

⛳大腸憩室炎
 ☆急性腹痛・発熱を伴う患者さん、炎症の強さを問診や血液検査で調べる
 ☆緊急処置が必要かどうかを調べるために
 *腹部超音波検査や腹部CT検査等で膿瘍・穿孔の有無などを調べる
 *炎症が治まった後、大腸内視鏡検査が行われる
 ☆血液検査で、憩室炎である場合、炎症反応が認められる

大腸憩室の治療
 ☆合併症を伴わない憩室、特に治療は行わない
 *高食物繊維食を摂取で便秘の解消を心がける
 ☆大腸憩室出血
 *保存的治療によって自然に止血するのを待つ
 *出血量が多かったり、出血が持続したりする場合
 *内視鏡的止血術が試みられる
 ☆保存的治療、絶食を行い、腸管安静により、自然に止血するのを待つ
 *NSAIDsおよびアスピリンの服用
 *大腸憩室出血および止血後の再出血のリスクになる
 ☆内視鏡的止血術:動脈塞栓術
 ☆大腸切除術:開腹して出血源の憩室がある大腸を切除する
 ☆➁大腸憩室炎
 *発熱や腹膜炎症状を伴わない憩室炎
 *抗菌薬の服用や流動食による保存的治療が行われる
 *抗菌薬投与で改善しない場合、経皮的ドレナージが行わる
 *保存的治療として、急性期には、絶食、補液、抗菌薬の経口を行う
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典「お腹の健康ドットコム」


大腸憩室症
(「お腹の健康ドットコム」記事より画像引用)
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「徳川綱吉」「天和の治」「生類憐みの令」

2024年02月11日 | 歴史
🌸徳川綱吉(江戸中期)人間よりお犬様が大事

『要旨』
 ☆綱吉は暴君で、犬の為に人間を死罪にする
 *「生類憐みの令」で極端な動物愛護法として広まった
 ☆うるさい老中たちを遠ざけるた綱吉の側用人利用した政治
 *就任後前半の綱吉の「天和の治」の改革
 *大老、堀田正俊斬殺事件の黒幕は綱吉自身だったとの噂さえある
 *生類憐みの令はそんななかで発布されている
 ☆綱吉は、かなりのマザコン
 *綱吉の母親である桂昌院が帰依していた僧が綱吉に説いた
 *綱古に子供に恵まれないのは前世で生類を殺傷した報いであると
 ☆綱吉は、犬小屋の年間200億円の費用を住民に負担させた
 ☆綱吉の時代インフレや災害に襲われる
 *綱吉の悪政で、幕府の財政はひっ迫してしまった




「徳川綱吉」「天和の治」「生類憐みの令」
 (『愛憎の日本史』記事、ネットより画像引用)

綱吉は暴君で、犬の為に人間を死罪にする
 ☆綱吉といえば悪政を行ったことで有名な将軍だ
 *「生類憐みの令」で
極端な動物愛護法として広まった
 *綱吉が戌年生まれだったため、犬を寵愛した
 *「○○町の男が大を斬り殺した」と密告した娘に金子50両を与え
 *密告された男を死罪にしているほどだった
 ☆当時の人々にそんな悪法を強いたことから
 *綱吉は徳川きっての暴君だったと後ろ指を指されている
 ☆遅咲きの将軍はその暴君ぶりを就任後すぐに発揮している
 *綱吉は自分が将軍になるのを反対していた大老の酒井忠清をクビにした
 *自分を将軍に推薦してくれた堀田正俊を後任にすえた

うるさい老中たちを遠ざけるた綱吉の側用人利用した政治
 ☆将軍の権力を盾に、綱古は政治改革を断行した
 ☆就任後前半の綱吉の「天和の治」の改革
 *泰平の世で堕落してしまった大名や旗本の身分を取り上げて
 *所領や屋敷を没収したり、不正を犯す代官らを多数処罰している
 *これによって役人たちは、仕事を忠実にこなすようになった
 ☆堀田正俊が城内で斬殺されたのを機に、風向きは変わる
 *安全面を理由に綱吉は老中らの部屋と自分の部屋を離し
 *その間の連絡係として側用人を置くようになった
 *まるで待ちていたかのように綱吉は好き勝手を始める
 ☆大老を任命せず自分の意のままになるような家臣ばかりをそばに置き
 *うるさいことを言う者は遠ざけたのである
 ☆堀田正俊斬殺事件の黒幕は綱吉自身だったとの噂さえある
 *生類憐みの令はそんななかで発布されている

綱吉は、かなりのマザコン
 ☆生類憐みの令が生まれた背景
 *綱吉が子供に恵まれなかったことがある
 ☆綱吉の母親である桂昌院が帰依していた僧が綱吉に説いた
 *綱古に子供に恵まれないのは前世で生類を殺傷した報いであると
 *現世で生類を大切にすれば前世の罪を償うことができると説いた
 ☆マザコンだったという綱吉は疑うことなくそれを信じた
 *人々にあらゆる生き物を愛護することを命じたのだ
 *綱吉はこの法を「私の死後も百年は続けるように」と言ったという

綱吉は、犬小屋の年間200億円の費用を住民に負担させた
 ☆綱吉は、29万坪ともいわれる敷地にたくさんの大小屋を建てた
 *ピーク時には10万匹もの大を世話させた
 *年間10万両あまりの巨額の経費を投じた
 (現在ならば200億円にもなる金額)
 ☆その費用を庶民に負担させたので、綱吉の悪評が立った

綱吉の時代インフレや災害に襲われる
 ☆綱吉の悪政で、幕府の財政はひっ迫してしまった

 *綱吉は、金貨や銀貨を金や銀の合有量の少ないものに造り直させた
 *粗悪な貨幣が出回ったことで貨幣の価値は下落
 *物価は高騰してインフレを招いた
 ☆晩年の綱吉は違からも見放されたように次々と天災に見舞われた
 *最愛の母、桂昌院が死んだ頃には富士山で宝永の大噴火が起き
 *江戸は大火や洪水に襲われ、翌年にははしかも大流行した
 *人々は天変地異さえもすべて悪政のせいだと綱吉を責めた
 ☆綱吉だが、結局、跡継ぎには恵まれずじまいだった
 *最後まで庶民から憎まれた将軍だったようだ
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の黒幕』
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